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年表の迫力。『戦後日本スタディーズ③』

 今どき講座ものでもあるまいし、という感が率直なところないでもない。全三巻だという。まあ、確かに資料的価値はあるのだろうな、と思いつつ、しかし編者が多すぎてちょっと不安。こうしたことは編者が少ない方がスムーズにいくのではないかな、などといらぬ心配をしてしまう。『戦後日本スタディーズ』である。

 「80・90年代」の第三巻から「70・60年代」「50・40年代」へとさかのぼっていくのだそうだ。こうした戦後史の試みそのものは嫌いではない。『「豊かな社会」日本の構造』を学生時代に紐解いたはしくれとして、やはり戦後日本というものがいったい何なのか、という問いかけなしには現在が見えてこないという認識は、ある。どんな風にさかのぼっていくのか、大変に興味深い。

 「80・90年代」に収められた論考の中で面白かったのは辻井喬さんへのインタビューである(上野千鶴子さんと小森陽一さんによる)。吉本隆明さんもしばしば辻井さんに言及しておられたけれども、やはりこの人は面白い。

 だが、なんといってもすごいのは年表である。巻末にこの20年の年表が収められているのだが、38ページにもわたる大部なもの。「政治・経済」「社会運動」「生活・思想・文化」の三分野に分かれているのだが、この充実ぶりは何物にも代えがたい。これだけで¥2,520円のモトは取れる。

 試みに、自分にもなじみの深い1995年を見てみる。「政治・経済」の欄を眺め、新食糧法施行もこの年であったか、といったことに気付かされるのと同時に、「社会運動」の欄ではただ単に「女性ユニオン東京結成」だけでなく、その前に「全労協系」とちゃんと記している。よほどの目配りがないとこの記述は抜けるだろう。さらにこの欄には「民社党を支援する労組会議、解散宣言」という項目もある。これだけではさあ大したことのない事件のように思われるけれども、前後の政治の文脈を考えれば大変に象徴的な出来事であったろう。考え抜かれている。

 「生活・思想・文化」の欄がこれまたすごい。『賢治の学校』の創刊や蓮實重彦・山内昌之編『文明の衝突か、共存か』に触れ、さらに「imago」臨時増刊、中沢新一責任編集「オウム真理教の深層」まで取り上げる。もちろん加藤典洋『敗戦後論』(初出は95年1月の「群像」)や高橋哲哉『記憶のエチカ』はいわずもがな。実にイメージが膨らむ年表。

 年表作成者をみて納得した。道場親信さんである。「職人技」というと失礼になるだろうか? 「余技」でも「付録」でもない、「プロ」の仕事を見せつけられて実に心地がよい。続刊の年表が待ち遠しい。
 
 
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by todoroki-tetsu | 2009-02-01 22:01 | 業界 | Comments(0)

トークセッション:道場親信×渋谷望『希望の同時代史のために―軍事化とネオリベラリズムに抗する思想―』

 以前読後感を少し記した道場親信さんと、渋谷望さんとのトークセッション@ジュンク堂池袋さん。仕事の都合がギリギリでなんとかついて参加できた。

 渋谷さんが現在の格差社会論批判、ネオリベ批判において、その前史たる冷戦や、高度成長期がどうであったのか、という議論が抜け落ちていないか? と提起した上で道場さんの仕事を位置づけていった点、なるほどとしょっぱなから唸る。

 このあたり、7/30の毎日新聞夕刊の「雑誌を読む」で、武田徹さんが佐藤優さんと雨宮処凛さんの「対談 秋葉原事件を生んだ時代」を取り上げつつ、雨宮さんはなぜ鎌田慧さんを参照しなかったのか、と問うておられるのが想起された。

 雨宮さんがどういう事情で鎌田さんにふれなかったのかは、当然知る由もない。が、僕も、実は「地下大学東京」において、鎌田さんのお話を聞いているにもかかわらず、まったく意識から抜け落ちていたのだ。ほんのついこの間のことだというのに。もっと考えなくては。

 また、「冷戦崩壊後のわずかな間、日米安保も軍隊もいらない、というような議論があったではないか。それが湾岸戦争からカンボジアPKOに至る中でかき消されていったのを覚えている人もいるのではないか?」と道場さんが問われたのにもハッとさせられた。自分の中学から高校の時代(1988-1994)の記憶がまざまざと蘇る。さらに道場さんはたたみかけた、「今二十代の人には想像もつかないでしょう」。

 そうか、世代の、いや記憶の、といったほうがいいのか、そうした断絶は、自らの忘却も含めてすごく身近なところにあるんだな、と思い知る。

 質疑の中で興味深かったのは、「権力」と「対抗」を名詞同士でぶつけても意味がない、とおっしゃったいたこと。こうしたことはあくまで個別具体的に考えるしかない、と。「例えば、岩国での基地反対が成功したとして、それは権力の奪取ではないでしょう。今までの生活が続く、というだけです」。

 社会運動史の研究を積み重ねてこられた重みを感じた。ますます道場ファンになってしまった。



 
 
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by todoroki-tetsu | 2008-08-02 22:33 | 業界 | Comments(0)

道場親信『抵抗の同時代史』読了

 道場親信さんの新刊、『抵抗の同時代史』が入ってきた。あちゃー、なんで事前の情報を見落としていたんだろう。初回入荷がこんな数じゃやばい! あわてて追加した。恥ずかしいったらありゃしない。

 「週刊文春」以外定期的に雑誌を読む習慣がないため、というわけではないが、道場さんはずっと気になっていて、気づいた雑誌は買い求めてはいたけれど、当然見落としているもののほうが多く、こうしてまとまるのはありがたい。

 まず、表紙の写真が素晴らしい。田村順玄さん撮影の「国の仕打ちに怒りの1万人集会in錦帯橋」(2007/12/1)とある。砂川の時代でも安保の時代でも三里塚の時代でもない。まだ1年も経っていない、日本での光景であるということに大きな衝撃を受ける。

 「ポピュリズムの中の『市民』」を、特に興味深く読んだ。この論文の冒頭で道場さんは、「社会運動しに関わる認識の問題点」として、二つを挙げておられる。
 
第一に、近年の社会運動研究においては、奇妙な「段階論」的歴史記述がじわじわ拡がり始めている。ここでいう「段階論」的歴史記述とは、「○○から△△へ」といった語り方で、同時並列的に存在する現実を歴史的発展段階に位置づけ、そうすることで特定の人間の活動を「時代遅れ」のものとして価値剥奪したり、反対に特権化するものをいう(P.204)

  こうした「段階論」がしばしば「想像力の決定的な切り縮めへとつながってしまう」と指摘した上で、
 (問題点の)第二は、運動史や社会史の流れをとらえる歴史意識が陥没してしまっていることである。 先述の「段階論」的記述により、「古い運動」「新しい運動」というカテゴリーが作り出され、具体的な運動を価値づけ、選別するということが起こる。「古い運動」なるものはネガテイブに価値づけられ、具体的経験もそこでなされた議論も一緒くたに捨てられてしまう。かくして、抵抗の経験と記憶はあっさりと「新しい運動」の自己意識のイケニエとなってしまう(P.205)


 まったく時代背景もスタンスも異なるものの、『戦後革命論争史』における上田耕一郎氏を髣髴とさせる問題意識の鋭さと幅広い目配り。

 上田さんは実践家であるからとりあえずおいておくとして、同時代で道場さんのような指摘を受け止めることは重要だと思う。社会諸科学における歴史研究の意義がこうしたところにあるのであって、うまく他の議論とつなげていけないか、と「仕掛け心」(?)がくすぐられる。

 書き下ろしの終章「希望の同時代史のために」の中にこんな一節がある。

 弱く卑怯な人間たちが、どうやって恐怖や管理によることなく連帯性を育てていくことができるか、そのことを「歴史」とりわけ人々の経験の中から汲み出していくこと。人々の「つながり」の力に対するリテラシーを高めていくことが大切であると思う(p.285)


 「弱く卑怯な人間たち」と言い切るところに思わずグッときた。圧巻である。
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by todoroki-tetsu | 2008-07-11 13:27 | 業界 | Comments(0)