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穂村弘『短歌の友人』、読了

 文学というものが相変わらずよくわからず、その上批評と評論の違いは何だろう? などと考えて余計わからなくなり、文学好きのスタッフにあれこれ質問をする。

 そんな中で紹介されたのが穂村弘さんの『短歌の友人』であった。

 穂村さんの名前は知ってはいたけれども、作品も何も読んだことはない。こんなきっかけがなかったらまず手にしなかったかもしれない。

 一気読みした。短歌ってこんな風に読む/読めるんだ、という新鮮な驚きがある。この歌はどんな時代状況の中で何を読もうとしているのか、そんな文脈を開示し、また「読みどころ」を手ほどきしてくれる。

 たとえば、「酸欠世界」と題する小評論では、今の世界は昔と比べて愛や優しさや思いやりの心が失われたのか? いや、そうではない、と説く。

 現在の酸欠世界においては、愛や優しさや思いやりの心が、迷子になったり、変形したりして、そこここに虚しく溢れかえっている(p.106)


 と宣言し、「迷子」になった、あるいは「変形」したりした「心」を具体例をあげながら探っていく。

 他にも「『今』を生き延びるための武装解除」(p.65、「棒立ちの歌」より)、「生の一回性の現実」(P.94、「『ダ』と『ガ』の間」より)をめぐる考察、など、味わい深く、かつじっくり考えたい言葉がいっぱい詰まっている。

 が、まずもって考えてみたいのは、「〈リアル〉であるために」と題する評論における下記の一文である。

 
すべての人間にインプットされている「生き延びる」という目的とそれに向かう意識(等々力注:人間の生存を支える合目的的な意識)こそが、我々を詩のリアリティから遠ざけているのではないだろうか。 
 ……我々の言葉が〈リアル〉であるための第一義的な条件としては、「生き延びる」ことを忘れて「生きる」、という絶対的な矛盾を引き受けることが要求されるはずである。詩を為すことは必ず死への接近を伴うという、しばしば語られるテーゼの本質がこれであろう(P.91)
  

 さて、吉本隆明さんは、浅尾さんとの対談(「論座」9月号)で、こんな風に語っている。

 僕は文学も芸術分野も、終わるということはあり得ないと思っています。つまり、高村光太郎流に言えば無価値を追求することを、人間がやめることはあり得ないと。


 何か、似たような地平にあるのではないだろうか? もっと考えてみたいと今、吉本さんの『詩とは何か』を手に取ったところである。

by todoroki-tetsu | 2008-08-02 00:45 | 文学系

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