2013年 07月 26日
若松英輔連続講演(7/28追記)
昨春から代官山蔦屋さんで開かれていた若松英輔さんの連続講演が、ひとまず終了した。8/5にはextraとして『想像ラジオ』を読む機会があるようだが、ひとまずは昨日7/25の講演で区切りということのようだ。
いままでにもしばしばここに、あるいはtwitterで書いたりもしたのだが、矛盾するかもしれないし重複するかもしれない。構うもんかと思う。兎に角いま、書く。
慶応義塾大学出版会さんのサイトから、演目を抜き出してみる。
■前半全7回 井筒俊彦 「存在はコトバである」
●「詩と哲学」
第一回 私の原点―井筒俊彦と小林秀雄(1)
第二回 井筒俊彦と小林秀雄(2)
●「コトバの神秘哲学」
第三回 井筒俊彦と白川静
第四回 井筒俊彦と空海
●「宗教と叡知」
第五回 井筒俊彦と柳宗悦
第六回 井筒俊彦と鈴木大拙/西田幾多郎
第七回 聖夜の詩学―ディケンズ・内村鑑三・太宰治(併せて前半のまとめ)
■後半(全6回)
地下水脈としての近代日本精神史
第1回:正統と異端 2月28日(木)
第2回:精神と霊性 3月28 日(木)
第3回:美と実在 4月25日(木)
第4回:詩と哲学 5月23日(木)
第5回:啓示と預言 6月27日(木)
第6回:時と時間 7月25日(木)
以上全13回のうち、第三回と第四回の二回欠席。あとは無遅刻ですべてを伺った。なので、自分自身の変化、若松さんと会場との関係の変化といったものは、おおよそ体感していると思う。
最初の二回は、今思い返しても実に沈痛な気持ちで伺い、そして考えていた。自分の抱えている問題が、ひょっとするとここで何か打開できるのではないかという思いと、いや、そもそも自分の問いのたて方が――ということは僕自身の根底がということでもある――根本的に間違っていたのではないかという不安。そんなものがどうしようもなく、ないまぜになっていたのであった。
そもそも、若松さんとの出会い方において、僕は極めて不真面目である。最初のうちは、「あ、こういう人が出てきたんだな」というほどの受け止めであって、池田晶子さんが苦手な僕は――今読みなおすと違うかもしれないとは思っているけれど――、なんとなく敬遠していたのであった。しかし、本屋という商売柄、何かあるぞこの人は、という感覚は当然あるのであって、しばらくのあいだ若松さんは僕にとって、「自分で読もうとは思わないが、読者をつかむ何かは持っている方だ」という存在であった。
その認識の変更は、上原專祿に若松さんが言及されてからであった。
その割に大して読み切れてはいないが、僕にとって上原專祿と高島善哉の存在は揺るがし難い巨人として常に僕の脳裏を離れない。このふたりに出会えたことに僕の学生時代の全ての意味があったし、どうにかこうにか今僕が生き延びていられるのは、このふたりのやってきたこと、やろうとしてきたこと、そのおかげであるといっても言い過ぎではない。
高島善哉には弟子がいた。上原專祿は「私には弟子は一人もいない。仏教と世界史の両方が出来なければね」といった趣旨のことを呟いたという。だが、上原の言葉は、弟子であると否とに関わらず、着実に、たとえほんのわずかな人数であっても、後世を生きる者の魂を揺さぶり続けてきたのだ。僕もまた、そうしたひとりである。学生にとっては決して安価ではない著作集を、少しずつ揃えていく。古本屋で単行本を買う。そんなことを少しずつ続けてきた。上原の本だけは、どうしても寝ころんで読むことが出来ないのだ。
閑話休題。だからこそ、忘却の彼方にある上原に言及した本や著者というのは僕にとってかけがえなく大切な存在だ。若松さんの文章をちゃんと読もう、と思ったのは『魂にふれる』からだ。そうした意味で、僕はたいへんに独善的な読者である。だから、講演に最初に参加した時にも、上原に言及してくれたという僕の一方的かつ不遜な感謝はありつつも、「代官山でどんなイベントをやっているのかな」「若松さんはどんな風にお話をされるのかな」という、半ば野次馬根性なのであった。
それが、第一回で一変した。細かいところは、多分当時のノートを引っ張り出せば再現できるかもしれない。走り書きとはいえ相当な量をメモしたから。しかし、そんなことは問題じゃない。「ここにはなにかある」という衝撃と、その衝撃を受け止めきれていない自分と、その両方に引き裂かれそうになったのだ。
「誰誰がこう言っている。別の誰誰はこう言っている。そんな比較にどれほどの意味がありますか?」
そんな主旨のことを、何度も若松さんは繰り返し語る。その意味が、体で判ってきたと思えるのには数カ月を要した。お話を聞き、なるほどと思う。帰る道中考え込みながら代官山駅まで、あるいは渋谷駅まで歩く。ああでもない、こうでもない。そんな自問自答を繰り返すことなく、ただ言葉を味わい、自分の中に沁み入って来るのを待つようになったのはコートを着るような季節になってからだった。
僕は悪筆だが、速記的にメモし、それをテープ起こしのように再現することにかけては少し自信がある。だから、どんな講演でも、比較的よくノートを取る。だが、ここしばらくの若松さんの講演では、せいぜい1頁程度しかノートを取らなかった。若松さんが紹介される言葉、つまり、若松さんを通じてその場に現象する「叡智」そのものと、触れることが大事なのだし、またそれでじゅうぶんなのだ、ということに身体の感覚として気づいていったからだ。「感じる」ことの大切さを若松さんは繰り返し説く。僕にとってそれは、こういうこととして具現化されたのである。
ある時期、若松さんの講演を聞いた帰りにはずいぶんと謙虚な心持になっているのに、なぜ次の日仕事に戻ると謙虚さを忘れてしまうのだろう、と少し悩んだ時もあった。メンターとしてではなく――僕は若松さんの「信者」ではないし、誰ひとりとしてそうあってはなるまい、と思う――、一般的な意味で「他者」なくして自己認識はない、というほどの意味に解していたのであったが、もっと大きな「叡智」に日常的に触れる/触れ得る自分に気づくことの方が大切だ、と実感を込めて思えるようになってきたのが、先月の講演の帰り道なのだった。
僕にとってこの連続講演のあった1年少々の時間は、連なることに大きな意味があった。一回きりであって一回きりではない。壊して一から創るものと、連続するもの。それらを成り立たせる、大きな何ものか。ポーの世界?
みなさん自身が書くということが大事なんです、若松さんはそうおっしゃった。日々何かにふれている自分に気づく、その体験を書く。それがどんなものになるのか、想像できない。けれど、「筆と爆裂弾とは紙一重」(二葉亭四迷)というのは、そういうことかもしれない。
どんな言葉を、僕は刻みつけていけるだろうか。
追記
上原專祿著作集版の『死者・生者』、出版社在庫を代官山蔦屋さんは全て仕入れたという。目の前で何冊も売れていったのを目の当たりにして、覚えず目頭が熱くなった。こんな日が来るとは。こんな光景を見ることが出来るとは。
今も残っているかどうかしらない。しかし、古本屋でもしばらく見かけぬように思う。入手の機会はそうあるまい。ちょっとでも興味を持たれた方はぜひ、蔦屋さんに問い合わせてみて頂きたいと思う。断じて損はしない。
いままでにもしばしばここに、あるいはtwitterで書いたりもしたのだが、矛盾するかもしれないし重複するかもしれない。構うもんかと思う。兎に角いま、書く。
慶応義塾大学出版会さんのサイトから、演目を抜き出してみる。
■前半全7回 井筒俊彦 「存在はコトバである」
●「詩と哲学」
第一回 私の原点―井筒俊彦と小林秀雄(1)
第二回 井筒俊彦と小林秀雄(2)
●「コトバの神秘哲学」
第三回 井筒俊彦と白川静
第四回 井筒俊彦と空海
●「宗教と叡知」
第五回 井筒俊彦と柳宗悦
第六回 井筒俊彦と鈴木大拙/西田幾多郎
第七回 聖夜の詩学―ディケンズ・内村鑑三・太宰治(併せて前半のまとめ)
■後半(全6回)
地下水脈としての近代日本精神史
第1回:正統と異端 2月28日(木)
第2回:精神と霊性 3月28 日(木)
第3回:美と実在 4月25日(木)
第4回:詩と哲学 5月23日(木)
第5回:啓示と預言 6月27日(木)
第6回:時と時間 7月25日(木)
以上全13回のうち、第三回と第四回の二回欠席。あとは無遅刻ですべてを伺った。なので、自分自身の変化、若松さんと会場との関係の変化といったものは、おおよそ体感していると思う。
最初の二回は、今思い返しても実に沈痛な気持ちで伺い、そして考えていた。自分の抱えている問題が、ひょっとするとここで何か打開できるのではないかという思いと、いや、そもそも自分の問いのたて方が――ということは僕自身の根底がということでもある――根本的に間違っていたのではないかという不安。そんなものがどうしようもなく、ないまぜになっていたのであった。
そもそも、若松さんとの出会い方において、僕は極めて不真面目である。最初のうちは、「あ、こういう人が出てきたんだな」というほどの受け止めであって、池田晶子さんが苦手な僕は――今読みなおすと違うかもしれないとは思っているけれど――、なんとなく敬遠していたのであった。しかし、本屋という商売柄、何かあるぞこの人は、という感覚は当然あるのであって、しばらくのあいだ若松さんは僕にとって、「自分で読もうとは思わないが、読者をつかむ何かは持っている方だ」という存在であった。
その認識の変更は、上原專祿に若松さんが言及されてからであった。
その割に大して読み切れてはいないが、僕にとって上原專祿と高島善哉の存在は揺るがし難い巨人として常に僕の脳裏を離れない。このふたりに出会えたことに僕の学生時代の全ての意味があったし、どうにかこうにか今僕が生き延びていられるのは、このふたりのやってきたこと、やろうとしてきたこと、そのおかげであるといっても言い過ぎではない。
高島善哉には弟子がいた。上原專祿は「私には弟子は一人もいない。仏教と世界史の両方が出来なければね」といった趣旨のことを呟いたという。だが、上原の言葉は、弟子であると否とに関わらず、着実に、たとえほんのわずかな人数であっても、後世を生きる者の魂を揺さぶり続けてきたのだ。僕もまた、そうしたひとりである。学生にとっては決して安価ではない著作集を、少しずつ揃えていく。古本屋で単行本を買う。そんなことを少しずつ続けてきた。上原の本だけは、どうしても寝ころんで読むことが出来ないのだ。
閑話休題。だからこそ、忘却の彼方にある上原に言及した本や著者というのは僕にとってかけがえなく大切な存在だ。若松さんの文章をちゃんと読もう、と思ったのは『魂にふれる』からだ。そうした意味で、僕はたいへんに独善的な読者である。だから、講演に最初に参加した時にも、上原に言及してくれたという僕の一方的かつ不遜な感謝はありつつも、「代官山でどんなイベントをやっているのかな」「若松さんはどんな風にお話をされるのかな」という、半ば野次馬根性なのであった。
それが、第一回で一変した。細かいところは、多分当時のノートを引っ張り出せば再現できるかもしれない。走り書きとはいえ相当な量をメモしたから。しかし、そんなことは問題じゃない。「ここにはなにかある」という衝撃と、その衝撃を受け止めきれていない自分と、その両方に引き裂かれそうになったのだ。
「誰誰がこう言っている。別の誰誰はこう言っている。そんな比較にどれほどの意味がありますか?」
そんな主旨のことを、何度も若松さんは繰り返し語る。その意味が、体で判ってきたと思えるのには数カ月を要した。お話を聞き、なるほどと思う。帰る道中考え込みながら代官山駅まで、あるいは渋谷駅まで歩く。ああでもない、こうでもない。そんな自問自答を繰り返すことなく、ただ言葉を味わい、自分の中に沁み入って来るのを待つようになったのはコートを着るような季節になってからだった。
僕は悪筆だが、速記的にメモし、それをテープ起こしのように再現することにかけては少し自信がある。だから、どんな講演でも、比較的よくノートを取る。だが、ここしばらくの若松さんの講演では、せいぜい1頁程度しかノートを取らなかった。若松さんが紹介される言葉、つまり、若松さんを通じてその場に現象する「叡智」そのものと、触れることが大事なのだし、またそれでじゅうぶんなのだ、ということに身体の感覚として気づいていったからだ。「感じる」ことの大切さを若松さんは繰り返し説く。僕にとってそれは、こういうこととして具現化されたのである。
ある時期、若松さんの講演を聞いた帰りにはずいぶんと謙虚な心持になっているのに、なぜ次の日仕事に戻ると謙虚さを忘れてしまうのだろう、と少し悩んだ時もあった。メンターとしてではなく――僕は若松さんの「信者」ではないし、誰ひとりとしてそうあってはなるまい、と思う――、一般的な意味で「他者」なくして自己認識はない、というほどの意味に解していたのであったが、もっと大きな「叡智」に日常的に触れる/触れ得る自分に気づくことの方が大切だ、と実感を込めて思えるようになってきたのが、先月の講演の帰り道なのだった。
僕にとってこの連続講演のあった1年少々の時間は、連なることに大きな意味があった。一回きりであって一回きりではない。壊して一から創るものと、連続するもの。それらを成り立たせる、大きな何ものか。ポーの世界?
みなさん自身が書くということが大事なんです、若松さんはそうおっしゃった。日々何かにふれている自分に気づく、その体験を書く。それがどんなものになるのか、想像できない。けれど、「筆と爆裂弾とは紙一重」(二葉亭四迷)というのは、そういうことかもしれない。
どんな言葉を、僕は刻みつけていけるだろうか。
追記
上原專祿著作集版の『死者・生者』、出版社在庫を代官山蔦屋さんは全て仕入れたという。目の前で何冊も売れていったのを目の当たりにして、覚えず目頭が熱くなった。こんな日が来るとは。こんな光景を見ることが出来るとは。
今も残っているかどうかしらない。しかし、古本屋でもしばらく見かけぬように思う。入手の機会はそうあるまい。ちょっとでも興味を持たれた方はぜひ、蔦屋さんに問い合わせてみて頂きたいと思う。断じて損はしない。
by todoroki-tetsu | 2013-07-26 22:05 | 批評系