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中野重治「五勺の酒」について(その八)

 もう一言一句が何ともいえず腹に響いて来るのだけれども、それらをまっとうに読み切れる自信がないのか、それとも思うところがだいたい定まってきたのかどうか。「どこに、おれは神でないと宣言せねばならぬほど蹂躙された個があっただろう」という一文、そこに至るまでの描写にも逐一感じいる。


 大事件であるらしい。あちこちで感想を聞いた記者が最後に駅で水兵を二人つかまえた(問題には無関係だが僕は錯覚におちているかも知れぬ。僕は新聞を僕が駅のベンチで読んだと覚えている。しかし記者が水兵を駅でつかまえたことも同様よく覚えているのだ。)


 「問題には無関係」。たしかにその通りだ。この括弧の中の三つの文章がなくともりっぱに意味は通ずるし、作品の価値はいささかも損なわれることがないだろう。なぜこんなことを書いたのだろう。さっぱり判らない。判らないけれども、「そうしたことはあるよなあ」と思う。こうした描写が、今の僕にはなぜだか堪らなく愛おしい。

 
 「駅」は自分がいたところなのか、水兵がつかまえたところなのか。違うけれども同じなのか。実のところは同じなのか。錯覚といって納得すれば出来ただろう。でも、それでは納得出来ない何ものかを感じていたに違いない。「錯覚におちているかも知れぬ」は「錯覚ではないかも知れぬ」を言い換えただけだ。


 これもやはり眼と、見ることと、無関係ではない。「坐りだこ」を、「向こう脛を親ゆびの腹で押してみてほっとひと息つく娘たち」を、「スケッチにすぎなかったが描かれた精神」を、それは見る。駅でつかまえられた水兵の語ったことを報じた記事。それを読む眼は水兵を射抜くだけでなく、自分自身に還って来たのだ。表層的な同一化ではない。もっと何か、深いところで同じものに触れた/触れられた、つかんだ/つかまれた、そうした手ごたえはなかったか。「錯覚」というはたやすいし、そう考えた方が理にかなっている。そのように納得させようとしている校長にも、しかしそうした結着のさせ方にどこか釈然としない思いを抱いている校長にも、どちらに対しても「ああ、そういうことはあるんだよなあ」と思う。


 どちらも判るということ。そこにさびしさがありはしないか。そんなことを以前に記した。そもそもそのさびしさは新人会にやんわりと拒絶されたことが起源であった。「とぜねがら(さびしけれや)酒飲め」。どちらも判る。だからこそ苦しくて、さびしいのだ。そう思うと、もう中盤に差し掛かったこの掌編の、密度がぐいぐいと上がってくるように感じるこのあたりからの描写が、一層自然に、かつ深く、感じられてくる。


 

by todoroki-tetsu | 2012-10-18 22:21 | 批評系

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