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2012・8・23の各紙朝刊、別名「『運動』もしくは『問題』について」(その六)

 最後は「毎日」となった。もはや何を意味する日付か忘れかけているが、備忘として記しておくと、8月22日に行われた、原発に反対する人々と首相との会談に関して各紙において報じられた、その日付である

 
 1面、飼手勇介記者の署名記事では、「命基準で政策を作ってほしい」とのコメントが引かれる。写真の上には「命基準で政策を」とのキャッチと、「安全性確認した」とのキャッチを対比させる。


 ああ、ここがたいせつなのだなあ、と思うのと同時に、「では電力を必要としている『弱者』はどうなる」との声が、僕の耳にははっきりと聞きとることができる。一方で、「病気や障碍をもった人間をダシにするな」という「当事者」――それがどの程度の比重を占めるのか僕は知らない――の声も聞こえる。勿論、原発現場やその周囲で生きる糧を得ている皆さんや、ごく一部の幹部を除く東電の一般社員の皆さんはどう思うだろうとも考える。東電前での抗議を避けるようにしていた、東電のスタッフと思しき女性の姿をまざまざと思い起こす


 連想は広がる。いつかどこかで、デモだったか官邸前だったか経産省前だったかは覚えていない、その時に聞こえた声が蘇る。「原発に反対するのは命が大切だから。私の命も、あなたの命も守りたい」と、そう呼びかけた声は、確かに説得力があった。


 色んな困難が今もあるし、これからもある。漫画版ナウシカのラストシーンがこのようなセリフで結ばれていたことが思い出される。


 さあ みんな、

 出発しましょう。どんなに苦しくても、

 生きねば……………………


 こうした思いをまったくもって無にするかのような意見を、同紙は見事に伝えている。笈田直樹記者、小山由宇記者、宮島寛記者による3面の記事は、いわゆる財界の認識をよく伝える。「原発ゼロ」に懸念を示す様々なコメントを紹介した上で、記事はこう続ける。

 
 しかし経済界の危機意識は政権には届いていない。枝野幸男経産相は7日、「経済界を特別扱いするつもりはない」と発言。日商がやく一カ月前から要請していた岡村会頭の首相面会も、反原発派の市民団体との面会後まで待たされた。「雇用を守り多額の税金を納めているのは我々企業。市民団体と同じ扱いだとは笑止千万」(運輸会社首脳)との批判が渦巻く。


 この「運輸会社首脳」がどこのだれだかは知らない。知っていれば、出来る限り利用しないようにしてやろうとは思うが、ここでの本題は、よくぞここまでの報道をしてくれたということにある。


 「命基準」と、この運輸会社首脳の認識の、なんとかけ離れていることか! 心の底からの怒り。もちろん、正社員である僕は「会社」の論理、「決算書」の理屈に流されがちな自分をよく自覚している。だからこそ、こうした言葉にふれることが大事なのだ。生身の人間をそのままにして扱うことのできない理屈を、その醜悪さを、自らの内にもあるのだとえぐりながら、何度でも、何度でも、思い起こそう。

 
 「礼賛」と某週刊誌が揶揄したベ平連、その中心であった小田実さんの言葉が蘇る。前にも引いたことがあるが、好きな箇所なので再び引こう。『世直しの倫理と論理 上』だ。


 ごく普通の生活をしている人間にとっては、カラー・テレビにさけるカネは二万円しかない(当時)、ならば企業に対して二万円でカラー・テレビを作れ、と要求していくのはどうか、そんな風に小田さんは言う。そこに続く個所。


 「それはムチャや、と企業――全企業が言うでしょう。言うにきまっている。そんな勝手な値段をつけて。その悲鳴には、次のように答えてやればよろしい。何がムチャや。おまえのほうかて、これまで(ボクらに何の相談もしないで)勝手に十万円という値段をつけて来たやないか。(中略)おたくの都合は企業の都合や。ボクらのは、『人間の都合』や」(p.151 下線部は本文では傍点)


 この「おたくの都合は企業の都合や。ボクらのは、『人間の都合』や」という言葉が、たまらなく好きだし、好きだからこそ、毎日毎日多くの時間を過ごしている職場で、働きながらどれだけこの言葉を思い起こすことができるかがカギだと思われる。


 運動が、職場と無関係にあるのではいけない。かといって、職場でやたらと運動をするのが正しいとも思わない。このあたりが難しく、しかし、他ならぬ僕自身が向き合わなければならん課題でもある。


 最後のつけたしのようで申し訳ないが、この3面の記事にも会談趣旨が掲載されている。この団体側発言冒頭に「いつかもっと大規模に国民の声を直接聴いて頂きたいが、①(以下略)」と記されている。細かいことのようだが、こういう言葉を拾うのは素晴らしい。「東京」が「通過点」と強調したのと同じことを、別の面から、さりげなくふれたのだろう。


 真摯なまなざしが、ある。「見ている」と、思う。そうして記された言葉を、自分もまた読む。その向こうにあるもの、いや、向こうにあると思えるものを手がかりに自分自身に読みを折り返す、そのように読み、書き、考えていこう。

by todoroki-tetsu | 2012-09-05 21:14 | 運動系

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