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2012・8・23の各紙朝刊、別名「『運動』もしくは『問題』について」

 原発に反対する側の人々と首相が会見をした、その翌日に様々な新聞を買い求めた。普段購読しているものとあわせ、8/23付の「毎日」「産経」「読売」「日経」「朝日」「東京」朝刊を手元にそろえる。


 前日に久々にアルコールを入れたせいか、えらく体調が悪い。とにもかくにも新聞は買ったものの、仕事も仕事でそれなりにあるものだから、ようやく新聞を少し落ち着いて眺められたのは夕方、遅い時間の一服とも取り損ねた休憩ともいえないような時であった。


 どの新聞がどれだけ報道しているか、どんな論調で記しているかをもって何かを言おうとする気はない。色んな人や立場の、その一端を知る。自分とあっているかどうかが問題ではない。記された言葉や写真に、自分は何を思うのか。それが問題である。


 順不同に新聞をひろげる。「日経」3面では、パブリックコメントの報道と重ねあわせ、「意識調査出そろう」と見出しをつける。材料はそろった、ということなのだろう。35面社会面では、「団体側」が不信の声を募らせた、とする。


 「産経」3面では、比較的大きな、横長の写真を見る。前首相が現首相と並んでいるように見える。この配置が何を意味するのかは判らない。斜め後ろから「反原発連合」の面々の後頭部が映る。名前が判るのは学者さんだけだ。この方も含め、官邸前では何度かお見かけしたことがある。何かが繋がったという感覚がある。外と内が、ほんの一瞬かもしれないが、繋がったという感覚。


 同紙の「主張」は明快、「ブレずに再稼働を進めよ」とある。「首相が安易な脱原発に与する姿勢を見せなかったのは当然」であり、「『原発ゼロ』を選んだ人たちは現実を直視しているのだろうか」と問う。もちろん、「不安や不信を払拭する安全対策を強めていく必要がある」との文言は忘れられていない。

 
 僕はこの意見に与するものではない。けれど、原発にさして反対とは思っていないならば、そう違和感なく受け取ることが出来るだろうと思われる。反対する意見からは様々なことが言えるだろう。その逆もまた然り。


 さて、ではなぜ僕は「この意見に与するものではない」と思っているのか。そこをもう少し考えてみる。


 僕は恥ずかしい話だが、シーベルトもベクレルも判らない。線量をはかったことはないし、はかろうとも積極的には思わない。食べ物も、自分が食べる分には気にしない。自分なりの節電はやっているが、それがどれほど影響のあることなのかも判らない。要するに、知識はないと言っていい。


 原爆―核実験からくる、様々なイメージは多少持ち合わせている。それと同じようなものが日本の各地にあるではないか、と言い放ったアーティストは、僕が心から尊敬する人のひとりである。その影響は、僕にとっては馬鹿にならないほどの大きさがある。


 しかし、現実に即そう。多くの人が口にする、原子力発電所が爆発したという映像を、僕は目にしていない。自分が具体的に逃げるか逃げないかという問題はさておき、比較的早くから――記憶ほど信用できないものはないが、しかしそれが確かならば、遅くとも2011年3月21日までにはそうしたことを僕は職場でしゃべっている――「原発さえなけりゃあここまでのおおごとにはならなかったろうに……」とは思っていた。


 これは裏を返せば、もし万が一原子力発電所が、あの地震と津波でも持ちこたえていたならば、漠然とした「ヤバいな」「出来ることならなくしたほうがよいのだが……」という程度の感想であったということだ。これを弱さというなら認めるし、継続している弱さである。


 しかし、一方で、「事故ったらこんなに取り返しのつかないことになるんだ」という怖さは、確実に刻まれている。それは、子どもの姿の見えない町の様子であり、閉じられて久しいと思しきスーパーであり、錆びついたレールの映像として僕の中にある。とんでもないことが起きたのだし、それは継続しているのだということ。


 怖さと同時に、疑問がある。なぜ再稼働をしなければならないのか。上述したような弱さを持つ僕は、百歩譲って、あの原子力発電所の事故を、せいぜい数日で完全に収束しえた組織や人がいたのであれば、再稼働を言い、実行する資格があるとも思う。賛成するかは別として、資格はあるだろう。


 そんな資格を有する人が、誰かいるだろうか。いないだろう。いないなら、やっちゃいけない。根本的な不信が、ここにある。どうにも信用ならんぞ、と思う。たためもせん風呂敷を拡げるな、と思う。うさんくさいと思う。


 そうした不信に近い疑問と同時に、僕のところにまで着実に忍び寄ってくる問題がある。放射性物質だけではない。労働の問題である。原発労働について、既に為されていた仕事が掘り起こされ、更新されていることから僕が知り得たことのひとつは、何重もの下請け構造があるということ。もうひとつは、原子力発電所が、生身の人間の被ばく労働で成り立っているということ。


 同じ労働者として連帯を……などときれいごとは言わないし、言えない。けれど、何かがおかしいと感じる。そのおかしさを、つかめそうでいてつかめない。だから、「原発でメシを食っている労働者や町の旅館はどうなる」と言われてしまうと言葉に詰まる。それがあたかも当事者を代弁するかのようにいう奴なら何とでも言い返してやるが、当事者自身に言われたら、何も言えやしない。そうした人にとっては、官邸前に行く僕のような人間は、遠いところで勝手に騒いで食いぶちを奪おうとしている奴だと思われるかもしれない。

 
 そうではないのだ、といいたい。けれど、それを言うだけの根拠も自信もない。低級な「嘘」はいくらでも吐くことが出来るだろう。そうしたくなければ、黙るしかない。「でも……」と言おうとしても、あとが続かない。


 そんなことを考えていくと、ある思いにぶち当たる。あなたと僕は、そもそも争わなければならないものどうしであるだろうか。あなたは僕の敵ではないし、あなたの敵は僕であってほしくない。敵の敵は味方、などといいたいのではない。あなたと僕に越え難い溝があるのなら、その溝について考えよう。その溝はいつ、どのように、誰がつくったのか。あなたも僕も、その溝をつくるのに少しばかり加担しているのかもしれない。それならそれも受け入れた上で考えよう。

 
 もしあなたと僕が、争う必要もないことで争っているのなら、そんな馬鹿らしいことはないじゃないか。


 「人間なら判るはずだ」なんていうような言い方はしない。人間でないような真似をするもの、それこそが人間であるからだ。ほんとうに偶然に、震災直後に手に取り、祈るようにして読んだ渡辺一夫の言葉は、今もなお僕にとって大きな指針であるのだった。

 
 そこから、さらに思考は進む。あなたと僕のあいだには、ただ何らかによって出来あがった溝があるだけだとしたら。あなたと僕を隔てるものは、強固に見えて、実はひょっとすると取っ払えるものかもしれないとしたら。

 
 あなたの問題と僕の問題は、固有でありつつも共通していると言える、そういう瞬間が訪れるのではないか。いや、実は既にそのようなものとしてあるものが、ただ僕たちの目にはそう映っていないというだけではないのか。この手触りを確かめることが、改めて「運動」なり「問題」なりを再考する目的となる。

by todoroki-tetsu | 2012-08-26 02:19 | 運動系

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