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「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十

 5:「かつて、ぶどう園で起きたこと」に、そろそろ区切りをつけることにしよう。ああ、ほんとうはもう少しスムーズに進むつもりでいたのだが、ずいぶんと紆余曲折を経てしまっている。別にそれは構わないのだが、対象としている評論は、浅尾大輔さんが「モンキービジネス」10号に発表された、「かつて、ぶどう園で起きたこと――等価交換としての文学(ファンタジー)」である。なんべんかに一ぺんはちゃんと記しておかないと途中から見られた方はよく判らないかもしれない、と変な気遣いごころが起きてしまった。

 
 さて、このセクションの前半はたいへんに大きな難関であった。どうにかこうにか読み進んできたのだが、その先に見えてきたのは、どうしようもない救いのなさであった。いや、救われるのかもしれない。最後の最後には。しかし、それは「世界の滅びる際のルール」であったのだ。資本の暴力と、新しい等価交換の世界はあらかじめぶどう園に存在していたとはいえ、そこは殺人の現場でもあったのだった。


 この救い難さから、一気に転換を図るのがこのセクションの後半である。書き手が実践する「けむりづめ」を、ここに見出す。


 しかし私たち読者が、心の底から求めているのは、ニッポンの「ロスジェネ文学」が、その臨界において昇華させた「恐慌のリアリズム」であっただろうか。



 この一言をきっかけに、この評論の第二幕があく。これまでではなく、これからのことが語られていく。しかし、焦ってはいけない。この特異点から、さらに周到な助走が準備される。

 
 「道草」に象徴される「諦念」。それに対置される、「日はまた昇る」のラストシーン。この部分を引いた後の浅尾さんの言葉を聞こう。


 ここにあるのは、恐慌でも放置でもない。楽観的ではあるが諦念でもない。「自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)」と呼ばれた二十七歳のヘミングウェイが書き込んだ若い男女の――戦争でペニスだけを負傷して性行為を禁じられた男と、戦争で最愛の男を失った女の短い言葉の応酬は、私にとって分厚い希望のように読めるものである。現代ニッポンへと伸びてくるそれは、おそらく歓喜――実際には起きなかった/持続することがなかったその「生」の喜怒哀楽を、いま存在する世界と人間の同時進行的な「生」と「性」のなかで、あれこれと想像すること、その歓喜に他ならない。


  
 絶望に彩られた前半から、うってかわって歓喜の景色が広がってくる。しかしそれは、絶望の中で笑うしかない、といったようなたぐいのものではない。周到な助走が用意されている意味。論理の力もあるかもしれないが、それよりも、何としても人を生かしたい、いや、のみならず自分も生きたいのだ、という倫理が伝わってくる。「生まれたからには生きてやる」(ザ・ブルーハーツ)と、シャウトするでなく、ひょっとすると誰に言うでもなく、つぶやいている。そんな感じがする。

 
 「社会的ひきこもり」にここで唐突に触れられるのも、そうした倫理に基づくものだろう。これについてはまたあとで述べることになる。







 

by todoroki-tetsu | 2012-08-07 22:09 | 批評系

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