湯浅誠「社会運動の立ち位置」(「世界」3月号)読了

 結局、2週間弱もかかってしまった。湯浅誠さんの「社会運動の立ち位置」(「世界」3月号)のtwitter読書( #tati_iti)である。


 もちろん、通読するのにさほど時間は要しない。2段組みとはいえ10頁ほどの雑誌論文だから、読もうと思えばさっと読める。が、一文一文の内容がおそろしく濃い――タイプは全く違えど、吉本隆明さんの『最後の親鸞』を読んだ時に覚えた感覚と少し似ている。コンパクトにおさまりきらんぞこれは、という感覚――ことと、あらかじめ自分の立ち位置を記したごとく、様々なことが自分のわずかな体験からも連想され、歩みはおのずとゆっくりなものとなった。

 
 それなりに話題にもなっている論文のようだが、批判もあるようだと聞いている。それはそうだろう。そうでなくちゃいけない。けれど、どこで誰がどのようなことを言われているのか、僕は知らない。知りたくもないというわけではない。ただ読んだ僕自身がどう考え、何をこれからすべきと考えるのか、そのことのほうが重要に思えるというだけのことだ。


 読みながら考えたことを、twitterで記したこととの重複をいとわず記してみる。


1.社会運動の「区分」

 湯浅さんは社会運動を、「さしあたり」ふたつにわけた。「(アイロニカルな政治主義による)社会運動」と「(主体的市民による)社会運動」(P.50)である。この「区分」が重要なのは、「分断」のための「区分」なのではなく、あるべき姿を目指しての「区分」であるということだ。 


 控えめに、気を使いながら、でもきっぱりと湯浅さんは「調整の次元に親和的な領域」に移行していくべきだ、と指摘する。反論はあろう。あっていい。運動の中での様々な対立や意見の違いはどんどんあぶりだされるべきだ。抑え込んではならないし、自粛する必要もない。かといって、むやみやたらに違いばかりを強調すべきでもない。違うところは違う、同じところは同じ、それでいい。「社会運動」にまつわるイメージやレッテル――それはそれで恣意的なイメージだが、確かにそれはある――を突き崩すのは、「そうじゃない」という否定よりも、「そういうこともあるけど、そうでないこともある」「いやな奴もいるが、いい奴もいるよ」という多様性がどんどん明らかにされていくことだろう。

 
 政治家が「民度」をはかる指標であるのと同じ意味で、社会運動もまた「民度」をはかる指標である。社会運動そのものの是非ではなく、多種多様にある社会運動の中で、どのようなやり方や立ち位置があり得るか、という状況のほうが建設的である。そしてそれを担うのは「市民」なのであって、その「市民」には僕自身も客観的には入るのだろうと思っている。



2.言葉の生まれる地平

 例えば政府(といっても一枚岩ではない)が何かを進めようとしているとする。それは、あまりよくないことだと考えたとして、何らかの反対の意思表示をする。いろいろなことをやる。結果、政府が当初の何かを修正して進めることもあれば、修正なしでゴリ押しすることもあるし、撤回することもあるだろう。


 撤回の場合はまあいいとして、修正して進めるとか、修正なしでゴリ押しするとかいう場合、その責任は誰にあるのだろう、という問題。ここでしばしば起こるのは、何かを止められなかった反対派に(も)責任がある、という言い方。半分あっているが、半分間違っていると思う。極めて抽象的な話で、一応は選挙によって選ばれる議会制民主主義での話に限定しておいたほうがいいかもしれないが、モデル的なイメージとして記す。


 半分あっているというのは、そもそも選挙権は有権者にあるのであって、反対するのであればそうした意見を持つ代表者を送り込めばよい。それが出来なかったのであれば確かに、反対派の力の問題として結果責任はある。程度の差はあれ、有権者にはそれなりの責任がある。そしてもちろん、意思表示は何も選挙に限った必要は全くないので、あらゆる社会運動は常にあってよいし、またあるべきだ。それによって力関係を変えることが出来ればよし、出来なければそれはそれである程度の結果責任はある(この点は後にまた述べる)。


 半分間違っているというのは、第一に、「止められなかった反対派に(も)責任がある」という言い回しが、時として、そもそもの力関係を低く見積もっている可能性があるということ。相手が政府の場合、それに拮抗する権力を反対派が持ち得るまでには相当程度の時間と人を要するだろう。第二に、運動の継続性を、これまた低く見積もっている可能性があるということ。次にまた頑張ればいいではないか、という発想が弱いように思える。


 しかし、事態をより複雑にするのは、運動の主体自身が、調整の結果として出てきた結論に、時として疲弊してしまうということだ。

 
 反対していた何かが、例えば何らかの修正を経て、それでも推進された場合を考えてみる。

 
 「自分はあくまで反対していた。やるだけのことはやった」という思いと、「止められなかった」という思い。このふたつのあいだで感情が揺れ動くことがあるだろう。前者が強くなった時、「自分は反対した」という思いがよくも悪くも肥大し、それは政治的シニシズムに転化する可能性となっていくだろう。ここをつくという意味では「止められなかった反対派に(も)責任がある」という言い回しは意味を持つ。


 一方で、「止められなかった」という思いがあまりに強くなった場合にも、政治的シニシズムに転化する可能性がある。これは自責の念にかられ過ぎるあまりに尖鋭化してしまうことをも含む。反対派の中で「敵」を見つける場合もあれば、自分自身を責める場合もある。こうした場合には「止められなかった反対派に(も)責任がある」という言い回しは、その人を余計に追いつめてしまうかもしれない。僕はこのことをもっとも恐れる。


 湯浅さんが言葉を繰り出すのは、こういう地平からのことだろう、と僕は想像する。読む者としての僕が、書き手の言葉をそれとして読むだけでなく、どうしてこうした言葉が生まれたのかとあらん限りに考えて想像するのは、こういう地平だ。間違っているかもしれないが、むちゃくちゃに的外れでもないだろうとは思っている。


 ここまで考えてみると、湯浅さんが「調整コスト」という言葉を用いている重要性が見えてくる。運動の「その時点」での到達点なり課題なりを明確に認識することの重要性。敵ではない人を決して撃たないように、十二分に配慮していると思う。僕が抽象的に挙げた例、「反対していた何かが、例えば何らかの修正を経て、それでも推進された場合」に引きつければ、修正をもってその時点での到達とし、さらに次によりよくするにはどうすればよいか考えて実践していこう、そう湯浅さんなら提起されるだろうと思う。


 たぶん湯浅さんの眼には違った次元でものが見えている……そんな風に思う所以である。

 

3.読む者の「立ち位置」

 では、読んでいるお前はどうなんだ、ということになるのだが、「市民」という言葉がおそらく一つの理想形ではあるのだろうなとは思うが、さて、どうしたら市民になれるのだろうと考えるとちょっとよく判らないので具体的に考えてみる。


 社会運動、ということでいえば、運動の「主体」にはおそらくなれないし、なれない。これは自分の個人的な体験によるものなので、いつか変わる時があるかもしれないけれども、少なくとも今のところはどうしようもない。物理的に身体が動かなくなる瞬間が、今でもやはりないわけではない。その意味で、まずもって例えばデモを含む色んなことを積極的にやっておられる方々が、何より自分を責めすぎることがないように、と願っている。そう願う資格がないのは判っているのだが、しかし。


 僕の当面の結論ははっきりしている。第一は、「一人でもそれはやれることなのか? と問うてみて、是と答えられることをまずはやろう」ということ。これは昨年7月の脱原発デモに参加して以来、基本的には変わらない。以来この考え方に進展はない。

 
 第二に、「尖鋭化してもいけない。一歩引いて考えよ。尖鋭化させてもいけない。一歩進んで考えよ。孤立してはならない。孤立させてはならない。そして、そのように日常を生きようと努めること」。昨年9月にふと思いついてtwitterで記したのだが、これもまた基本的には変わらない。あくまで自分の都合の付く範囲で、いろんなところに顔を出す。思わず笑みがこぼれてしまうようなこともあれば、キツい言葉の応酬にいたたまれなくなる時もある。どっちがよくてどっちがいいというわけではない。ただ、その場に足を運ぶ。決して主体的であるとは思わない。けれど、その場で考える、ということには何かしらの意味があると思っている。


 第三に、これは僕の職業ある書店員としての仕事とも関わるのだけれども、言葉の生まれる現場・地平に、出来る限り近づいてみようということ。僕が扱う「言葉のパッケージ」であるところの本は、そのパッケージ化の過程で様々な人の手を経て形となる。本とはある種の工業製品であり、値段がついているという点ではたのあらゆる商品となんら変わりはない。物量も少なくない。そのため、言葉の生まれる現場・地平を日々の仕事の中で想像することは困難になっている。形として、パッケージ化された結果として受け止めることは出来るし、しなければならない。これは「消費」のレベル。もちろん、商品である以上「消費」のレベルを断じて無視してはならない。けれど、そこに含まれている「言葉」には、時として「消費」だけでは片づけられない何かがある。

 
 それは書店員である自分を見つめ直すと同時に、読者としての自分を問い直す作業となるだろう。


追記

 とにかく足を運んでみよう、そう思った先月の旅において、ヤマニ書房さんで「世界」を購入したのがそもそもの湯浅論文との出会いであった。その翌朝郡山で杉田俊介さんのtwitterを拝読し、帰ってから浅尾大輔さんが久々にブログを更新されているのに気づいた。単なる偶然ではあるが、僕にとっては様々なことが符丁のごとく重なるように思えた。その意味するところを、まだ解き明かしきれてはないけれども。


 浅尾さんのエントリは「ウォール街占拠2011 / Occupy Wall Street 2011」というもので、更新は2/10。確証はないが、僕には湯浅論文への浅尾さんなりの応答のように思える。ブログ更新を原則としてはおやめになった浅尾さんが、思わずパソコンに向かって記さざるを得なかったほどの力が、現在の状況と湯浅論文にはあると考えても差しつかえはない。もちろん、確証はない。

 
 浅尾さんの以前のエントリも好きではあったが、その醍醐味はやはり作品にあるという他ない。だからこそいわば封印をされたのでもあったろう。出会いがしらのようなこうしたエントリも実に興味深いのだが、だからこそ次なる作品はいかなるものかという期待も高まるのではある。じっくりと待つ覚悟はとうに決めているが、その間に「読者」として、「書店員」として、どこまで自分の力量を蓄えておけるか。ただ呆然と「消費」財としての言葉を待つのとはわけが違う。湯浅さんと同時代を生きていることの意味を考える、というのと同じく、浅尾さんという文学者を同時代にもつことの意味を考えたい。


 こういう考え方や仕事の仕方が、「市民」としての営みへと繋がっていけばよいのだが。
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by todoroki-tetsu | 2012-03-04 21:20 | Comments(0)

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