磐越東線に揺られながら『福島からあなたへ』について考える

 ほんとうなら、実際にその場所にいってみるべきなのだ。しかし、調べたところバスの本数は限りなく少ない。免許は一応持っているが、一度も運転したことがない。誰かと連れだって行こうという気力とスキルはない。だから、せめて近くを通りたいと思ったのだ。

 
 いわきから郡山へ向かう直通の、2両編成の最終電車。若い人もいれば年配の人もいる。ゆったり坐れるくらいの乗客数。進行方向に向かって左側の窓を見つめ。外が真っ暗なのでただ車内の反対側の座席の人の姿を映すだけになっている。手で視界を覆うようにしてガラスに顔を近づける。ちらほらと灯りが目に入るが、すぐさま吐く息で曇ってしまう。ガラスをぬぐっては顔を近づけ、曇ってはまたぬぐい、それに疲れたらぼんやりと車内を眺める。そしてまたガラスに顔を近づける。そんなことばかりを繰り返しているうちに、いよいよ山深くなってきたなと感じる。森の雰囲気。よくは見えない。ただ、感じるだけ。

 
 『福島からあなたへ』という名で単行本となった武藤類子さんの言葉を、発売以来何度か読み返している。確かに、感動する。思わず目が潤む時もある。ある種のカタルシスを覚えることもある。しかし。いいお話を伺いました、感激しました……それだけで済ませてはならない何かがあるように感じる。だけどそれが何なのか、まったく判らない。


 ならば、その言葉はどのような場所から発せられたのかを想像してみようと考えた。他ならぬ生身の人間であるところの武藤さんをして語らしめたその言葉は、おそらく武藤さんの言葉でありながら、しかし彼女ひとりだけのものではないだろう。生活の場で、生身の人間どうし、あるいは自然との関わりの蓄積があって、生まれた言葉であるだろう。ほんとうなら、実際にその場所にいってみるべきなのだ、と冒頭に記したのはそんなわけだ。


 この本の後半には、武藤さんの人となりや、里山喫茶「燦(きらら)」をめぐる生活風景の描写がある。広い意味ではある種の活動家であるのだろう。山を切り開いて生活するというのも、それを可能にする条件がたまたまあったからに過ぎないのかもしれない。その意味で、東京で勤め人をしている僕のような立場からすれば、ずいぶんとかけ離れたところにいる人ではある。

 
 なるべく電気やガスに頼らず、自然にあるものやリサイクルしたものなどで生活をなりたたせていく。それはある種の理想なのかもしれない。けれど、そうした考え方や実践に触れるたびに、「そんな風には生きていけないなあ」と思う。「便利さ」に慣れた勝手な思いからちょっとした反発心が芽生える(これは僕がいわゆるエコなるもの全般にどことなく感じる偏見でもある)。そんなことが出来るだけある意味「贅沢」なのではないのか、と。


 だが、武藤さんの文章は、比較的そうした反発心――「しゃらくせぇや」という思いをあまり感じなかったのだ。いや、ちょっぴりは感じたのだが、繰り返し読むにつれて、実に自然に、しかし毅然と、でもつつましく、「何ものにも操作されない自分の生き方」(同書p.52)を実践されていることが、どうやらだんだんと僕の中で了解されてきたように思われる。

 
 ところで、この言葉の直前にはこんなくだりがある。


 
 私たちが何気なく使う電気。それがつくられていく過程は、さまざまな差別とたくさんの命の犠牲の上に成り立っていることに気づいたときに、できるだけその対極にいたいと思いました。



 この「できるだけその対極にいたい」という表現が、とても武藤さんらしいと思える。声高な反対でもなく、自分のやっていることをことさらにアピールするのでもなく。そして、ドングリを拾ったり、薪を集めたり、食べたり、歌ったりしている武藤さんとその周りの皆さんの姿を、曇りがちのガラスの先に広がっているであろうまっくらな森の向こうに、僕は勝手に想像したのだった。


 反・脱原発を口にすると、「じゃあ、電気がなくてもいいんですね」というような反論が為される場合がしばしばある。いや、そういうことじゃないんだけどなあ、と思う。そのあとに続く理由はあれこれあるだろう。とにかく原子力=核はヤバい、とか、そもそも電気はこんなに要らない、とか。


 武藤さんはスピーチでこうおっしゃっている(同書P.26)。


 私たちは、なにげなく差し込むコンセントのむこう側の世界を想像しなければなりません。 

 便利さや発展が、差別と犠牲の上に成り立っていることに思いをはせなければなりません。

 原発はそのむこうにあるのです。



 想像しよう。思いをはせよう。武藤さんはそう呼びかけている。それだけでは足りないのかもしれないが、しかしあらゆることの礎が、「コンセントのむこう側の世界を想像する」という言葉には含まれているように思える。電気が要るとか要らないとか、そういう地平からの話ではないのだ。生身の人間から始まる話。


 しかし、そこまで考えたところで、また自分の中の何かがぶり返したようにつぶやいてくる。「では、お前はどうするのだ?」。


 ……気づけば、船引の駅を過ぎている。もうじき郡山だ。



 
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by todoroki-tetsu | 2012-02-14 22:31 | Comments(0)

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