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開沼博『「フクシマ」論』を読んで――その二

 『「フクシマ」論』の感想を続ける。


2.「忘却」の問題
 
 これ(原発事故)がもっと早く収束していたら、福島よりも東京から遠いところで起こっていたらここまで騒ぎにはなっていなかった。どうせ時間が立ち(ママ)、火の粉が気にならなくなればニワカは一気に引いていく。(P.11)


 まえがきにあたる「『フクシマ』を語る前に」の言葉。また、補章においても「『忘却』への抗い」という節を設けておられる。

 さて、ではいかにして忘却から逃れられるか。これは自分自身にとっての課題である。「現場」を歩いてみること、自分にとって身近な問題――特に職場/労働――に連関させながら考えてみること、以外に今のところ思いつかないでいる。

 自分は忘れないと思っていても忘れる人間である。ここから出発しなければとだけは思っている。


3.「消費」の問題
 「忘却」の問題ともかかわることとして、言説の「消費」の問題をあげておきたい。これは書店員として、本を売ることでメシを食っている自分自身の生活基盤にかかわることでもある。

 問題はもはや「新規性のない議論」自体にはない。その新規性のない議論をあたかもそれさえ解決すれば全てがうまくいくかの如く熱狂し、そしてその熱狂を消費していく社会のあり様にこそ問題がある。(P.374)


 その「消費」の中で、僕はメシを食っている。自分の衣食住には勿論開沼さんの本を売った利益の一部も当然入りこんでいるわけだ。

 売るためには差別化が必要で、飽きられたと思ったらすぐさま次のネタに飛びつかねばならない。そのネタは必ずしも新しいもの、新刊である必要はないわけだが、この間の原発本・放射線本の「洪水」を見ると「いいよ、もう」となってしまうのもまた事実。かくして即席でなんとか用意したスペースは有象無象の本で埋まり、ごちゃごちゃになって売上を互いに喰い尽くして末期症状となる。名のある人の本ですら、もう勢いはない。こうなると営業する側も売れる/売れないではなく、モロにイデオロギーの話になってくる場合があって、そんなことはもうすでに「蟹工船」だの「資本論」だののブームの時に経験済みである。

 僕はボードリヤールが好きではない。が、こうなってくるとまあ、それなりに正しいんだろうなとも思えてくる。何よりも「差異」を求めているのが自分であることに気づく。

 もちろん、こうした混乱の中からロングセラーとなり得るものを見つけ出す作業を怠るつもりはないし、今の議論を別の議論や過去の議論に結びつける努力も、しんどいけれど楽しいことであるし、少しずつではあるがやってもいる。けれど、それでも「消費」過程の小手先の一部分でしかないだろうとも思うのだ。

 さらに言えば。自分は「著者」を食いつぶしているのではないかという思いもある。最終的に財布を開くのはお客さんなんであって……という言い方は出来るし、それは相当に正しいのだけれども、「著者」を自分勝手にある時は持ち上げ、ある時はこきおろし、そうすることで「差異」を演出しているのではないか。それがイヤだということもあって、ある「若手批評家」が持ち上げられた時には見向きもしなかったのだが。やたらとその著者を持ち上げる同僚に、「10年後その著者の書いた本を自分はどう売るつもりか考えているのか」とそれとなく聞いてみたことがある。質問の意味は、ついに理解されなかった。

 もとから著者さんとの接触は極力避ける人間だ。出来ることなら社交辞令もご免こうむりたい。商いの切っ先が鈍ることもあるし、何よりこちらは売れるか売れないかが勝負である以上、もしその著者が売れなくなってしまったらそれでおしまいなのだ。こちらは内容ではなく、実売数だけが頭に入っているのである。そのかわりといっては何だが、多少なりとも機会のあった著者さんについては極力執着して追う覚悟はしている。すべてにおいて無意味に多く部数を仕入れるという意味ではなく、どうすればより売れるか、そのために自分自身に出来ることは何かを志向し続ける覚悟。そしてさらに場合によっては著者さんへの苦言を呈することも辞さぬ覚悟。実際にそうするかどうかは別であって、あくまで覚悟の問題。

 今は『「フクシマ」論』には多少なりとも力点を置いて売っているつもりではあるし、少なくとも数年程度は定番書として売れていくだろう。では、次に開沼さんが何かをお書きになった時、自分はどうするだろう。僕はまだその覚悟を決められないでいる。

 ここには「言葉の商品化」とその流通過程にある「書店(員)」の問題がある。それはまだ、僕にはうすぼんやりとした問題にしか映っていない。それをいかにクリアにしていくか。

 著者には著者の覚悟がある。書店員には書店員の覚悟がなければならない。読みながら考えていたことの一方は、そういうことであった。

by todoroki-tetsu | 2011-08-19 11:58 | 業界

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