2011年8月12日「毎日」朝刊

 3月12日から後、しばらく新聞をほとんど読まない日々が続いていた。手に取りはするし、見出し程度はざっと見るのだが、恐ろしいものを見るような気がした。全く読まないというわけではなかったけれども、それには多少なりとも覚悟を要した。甘っちょろい話だと我ながら思う。ちなみに職場の大先輩は普段と変わらず複数の新聞を丹念に読み込み、何が話題になっているのか、それはどんな本に結びつくのか、と目を光らせていた。この大先輩を仰ぎ見る時、僕は中島敦の「名人伝」をつねに想起する。

 
 さて、何とか以前のように新聞を読めるようになったのは6月を過ぎてからで、7月に入ってからはそれ以前よりも少し丁寧に読むようになっている。『官僚に学仕事術』などではあんまり新聞を読むことはビジネススキル上推奨されていないのだが、まあ、自分にあったやり方というのがあるものだ。


 今朝の「毎日」には読み応えのある記事が複数あった。そのうち、三つだけを備忘録として記したい。偶然にも原発・津波、そして東京で働く自分自身を考えさせられる記事が並んでいたのだった。


 ひとつめ。「南相馬 避難の保育園児が卒園式」(27面)。市立原町さくらい保育園、とある。グーグルマップで場所を確認し、自分がその脇を歩いていたことを知る。そのとなりの中学校には気づいていたのだが……。


 子どもの姿を見かけない、と歩いてみて感じたことは数字でも裏付けられる。記事にはこうある、「市内では今春、26保育園・幼稚園に2350人が通う予定だったが、現在は7園に400人が通うのみ」。


 ふたつめ。「瞬時の判断 救った命」(15・16面)。見開きの大きな特集。釜石東中学校の皆さんとその地域の方々の様子。地図と時間と証言が見事に構成され、いかに「瞬時の判断」がなされたか、が伝わってくる。「おれ、生まれてからここの山崩れるのを見たことなかった」という年配の女性の言葉、それからもさらに高台へと続く避難と助け合い、そして「津波の風」。


 釜石にはまだ行ったことがないので、他の津波被害にあった場所に足を運んで見た光景から類推するほかない。が、「海の方をみてがくぜんとしました。町がないんです」という生徒さんの言葉が、重い。

 
 みっつめ。「帰宅困難 対策が急務」(3面)。「どこまで対応すればいいか判断に迷った」というビル管理会社の副部長さんのコメントに、うなずく。僕はビル管理には責任がないけれども、3月11日当日は、「あれでよかったのか……」とその後になって思ったし、今も時折考える。

 
 あの時はとにかく、一斉退去、がお題目だった。明らかに帰ることが出来ない数人と責任者クラスだけが、店に残った。16:00ごろのことだったろうか。表にでて『帰宅支援マップ』などを販売しようか、いやコピーか何かを無料で配布してはどうか、などなどと「やれること」が何かないかと口々に言い合ったりもしたが、結局何もしなかった。そうこうしているうちに、まったく帰る見込みのないスタッフが少しずつ戻ってきた。


 そんな中、僕はごく普通に事務仕事をこなし、21:00ごろに歩いて帰宅することにした。一応携帯ラジオは持っていたのでそれを聞きながらぞろぞろと明治通りを歩いていた時、「休憩できますよ」「トイレお貸しします」などと張り紙のしてある何かのオフィスや商店を見かけた。ラジオでも、今夜中無料でカレーをふるまうことに決めたというどこかの飲食店の情報が流れたりしていた。「何か自分にも、会社組織を使って出来ることがあったんじゃないか」と思ったのはようやくこの時だった。


 何が出来たか、実際に何が出来るのかは、今もって判らないでいる。ただ、時折思い出したように考えるだけだ。

 
 現場に足を運ぶことはもちろん大事だが、その聞こえのよさを警戒しよう。自分の足元をちゃんと固めてから、とは思わないけれども、最後にはそこに結実しなきゃあやはり、だめだ。


 
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by todoroki-tetsu | 2011-08-12 21:53 | Comments(0)

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