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7・23脱原発デモ@渋谷・原宿

 「まとも」にデモの隊列に加わったのは相当久しぶり。しかも途中参加、しかも手ぶら。やる気あんのか? と問われると、「ううん……」とつまってしまいそうだ。

 
 今日は複数の脱(反?)原発デモが行われる日らしい。この間にも色々なデモがあったのだが、行けなかったり行かなかったりした。今日は、体調と精神の双方がわりあいに落ち着いていたのだろう。

 
 渋谷のスクランブル交差点から最後尾あたりにもぐりこんだ。いろんなものを持っている人もいたし、僕のように手ぶらの人もいた。

 
 ハナからおとなしく参加しよう、と思っていた。一人じゃ出来ないことをみんなでやる、というのはすごく大事なことだが、一人でもそれはやれることなのか? と問うてみて、是と答えられることをまずはやろうと思ったのだった。歩くだけなら、一人でも、出来る。

 
 しかし、それはそれで面倒なもので、隊列に加わってしばらく……国連大学のあたりくらいまでは、何となく落ち着かないというか、引け目というか、そんなものを感じたりもした。デモが初めてというわけではないのだから自分でも不思議ではあるのだが、沿道からの視線(の有無)と隊列からの視線(の有無)の差異に戸惑ったのだろう。


 子どもの手を引いている人もいた。その母親に対し、「子どもにはマスクさせないと」とたしなめている人もいた。言われた母親の表情は、判らなかった。言った人も言われた人も、歩き続けた。


 だんだん感覚が慣れてきた頃、僕は沿道のほうをなるべく見るようにしていた。見たからといってどういうわけではない。学生時代にこうしたデモに参加した時にはビラまき部隊もいたものだが、外在的な要因で出来ないのか、内在的な要因で出来ないのか。運営の皆さんも少数で奮闘されているようだった(本当にお疲れ様です)。


 ふと気付くと、沿道の建物の窓からのぞいている人などにさかんに手を振っている女性がいた。二人組だったろうか。常に外側に視線を向けているように見受けられる。ひょっとすると著名な方ではないかとも思ったが、判らない。沿道を歩く意味が、そこにはあるように思えた。

  
 隊列は随分と警察からせかされた。極めて威圧的な警官も見える範囲で一人だけ見かけたが、おおむね粛々と仕事をしているように見えた(あくまで僕の目線に入った限りである)。こうした「交通整理」はもちろん必要なことであるだろう。同時に、警察が抑えられない規模となったらどうだろう、と想像してもいた。それだけ数が膨らんで、なおかつ規律正しく一人ひとりが動いたとしたら?


 「数は力」という言葉が頭をよぎる。もちろん、数が増えただけではしょうがないし、数を一人ひとりの顔を思い浮かべずに単なる「頭数」として数えるような発想では力になるような数にもならないだろうが。しかし、「数」として自分が役にたつようなことがあるのかもしれない、と思ってもいた。


 シュプレヒコールは「原発いらない」「原発反対」「いのちを守れ」「子どもを守れ」といったシンプルなものだった。だが、デモ後半、単なる言い間違いかもしれないのだけれど、「いのちを守ろう」「子どもを守ろう」に変ったことがあった。最後の最後ではまた元に戻ったようだ。これは失礼な表現かもしれないが、面白いことだと思う。命令・要求が根幹にあって然るべきだが(これは「力関係」からかなりの程度正当化されると考える)、同時に、自分たち自身の行動目標にも言及したようで、よいことだと思った。

 
 デモの参加は、僕にとっては非日常である。非日常であれば、ある程度ハメを外してもよいのかもしれない。が、「一人でもそれはやれることなのか? と問うてみて、是と答えられること」にもう少しこだわってみたい。


 上原專祿を頼りに述べるとすれば、職場の自分とデモの自分がまったくの別人格であるというようなことは、出来る限りない方がよい。職場にも、自分が関わるべき問題や僕には見えていない問題があるのだから、こうしたデモに参加して見たこと感じたことを職場の自分に持ち帰らなければ駄目だと思う。それは何も職場で脱・反原発の署名活動をやるとか、そういうことでは必ずしも、ないだろう。

  
 同じ道でも、歩く場所によって見えるものが違うということ。その溝を、例えば手を振ることで乗り越えようとするような、そんな努力ややり方が存在しているのだということ。今日目の当たりにしたことの中でも、このふたつのことは、職場における自分のありようの見直しにつなげられるような気がしている。


 明日からまた、仕事だ。




 

by todoroki-tetsu | 2011-07-23 18:00

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