筆名≒ハンドルネームとリアル

 『秋葉原事件』(朝日新聞出版)の直接の感想というにはあまりに私事に引き付けすぎている(の割にはさんざ書き散らしているが)気がしたので別立てにする。彼はハンドルネームを職場の仲間には絶対に話さなかったという(p.138)。そのことにかかわっての連想。


 僕はこのブログやtwitterでは筆名であれこれ記している。大昔に一度雑誌投稿論文に使った筆名をそのまま用いている。リアルの僕は自分の筆名を自ら口にしたことがあるのは極めて少数である。多分、いって3人までだろう。本当には、ごく近しい関係の人しか知らないはずだ(と信じている)。その意味ではウェブとリアルを切り離しているつもりでもある。まあ、こざかしいことなんだろうが。
 

 状況証拠からある程度の見当はつけられるのだろう。あるいはうっかりとウェブ上の操作ミスで、あるいはIPアドレスまでどっかでオープンになっていて(?)、リアルの僕に面と向かって筆名であれこれ記したことについて言われたりすることもある。目くじらを立てて否定するのもどうかと思うが、積極的に肯定する気にはなれない。自分が身元を明らかにした相手からであれば勿論別だが、だいたいにおいてそうではない。「ギョッとする」(『寄生獣』)のだ。

 
 そんな時はあいまいにしてなるだけ早くその場を逃げることにしている。今のところそうやって逃げてきて何とかなっているが、どうにもままならないことが起きたらどうしようかとも思ったりする。シラを切り続けるか、どっかで開き直るか……。そう考えると不思議なもので、たかが筆名と思っていても、それなりに続けていると容易に捨てられもしないもんだなとも思う。


 特定されることは大事だが、リアルな自分とは結び付けられたくはない。一応自分でも切り分けているつもりではある。しかしそれ両者が不意に、結び付けられてしまった時の何ともいえない感覚。


 これは「なりすまし」でも「あらし」でもなんでもない。どっちも自分だから。彼の経験とはまったく違う次元であるかもしれない。けど、この感覚を手がかりに自分なりに何かを考えられそうな気がする。


 今は昔ほどひがみっぽくは(相対的に)なくなってきたが、そう大した面識もない人からあたかも「お前の正体は知っているぞ」と言わんばかりの態度、僕が口にしていないにもかかわらずさもそれが当然のように話が進められていく時の奇妙な感覚は、ちょっとした被害妄想をこじらせるきっかけには十分になる。
  

 しかし、そう悪いことだけでもなくて、本当に心配をしてくれる人がいたりもするから有り難くもあり(これは皮肉な意味ではまったくない。本当に助けられたことがある)、また申し訳なくも思ったりする。


 何とも不思議なものだ。複数の人格を使い分けているように見えても、結局はひとつの肉体に全て跳ね返ってくるのだ。


 もう一遍『俺俺』を読み返そうか、いや、「ゲンセンカン主人」か……。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-05-22 20:59 | Comments(0)

<< 秋葉原事件:傍聴について 中島岳志『秋葉原事件』を読んで... >>