2011年 05月 21日
中島岳志『秋葉原事件』を読んで(その一)
中島岳志さんの『秋葉原事件』(朝日新聞出版)を僕が入手したのは、3/19だった(改めて調べ直してみた)。比較的早い段階で通読したと思うのだが、どんな気持ちで読んでいたのか、もはや覚えていない。たかが2か月前のことなのだが。
これではいかん、と思ったかどうかは自分でも判らないのだが、twitterにて再度の通読を試みた(ハッシュタグ #AK_jiken)。この本については既に批評の言葉も提示されており(「すばる」6月号における杉田俊介さんの書評、「週刊金曜日」4/1号における中島さんと大澤信亮さんとの対談など)、今更素人が感想を書き散らしてどうなるものでもない気がする。が、読んでみて自分なりに思うところもやはりある。順不同で記してみる。
1.彼は何を、どのように食っていたか?
気にかかった、「食」に関わる部分をいくつか引いた。メイド喫茶のオムライスは食事を楽しむというよりは、ある種のイベントの楽しみだろうと思う。ここを除けば、あまり誰かと何かを楽しく美味く食ったという姿がイメージできないのだ。実際にそうであったのかどうかは判らないが。
ここで『俺俺』の表紙に使われた石田徹也さんの絵を連想するのはさほど突飛ではあるまい。牛丼店というつながりということだけではなくて、重要な楽しみとなり得る日々の食事が「燃料補給」でしかなかったとすれば、それは肉体にも精神にも影響してくるだろう。
そしてさらに。「食うこと」を突き詰めて考えていくことで、何か違った可能性を見出すことは出来ないだろうかと夢想する。例えば杉田さんの「自立と倫理」(『無能力批評』、大月書店)と、あるいは大澤信亮さんの「批評と殺生」(『神的批評』、新潮社)と重ね合わせて読む可能性。それらの言葉を懐手で眺めるのではなく、自分が日々やっている「食うこと」とつなげてみるということ。
2.「職場」という視座
読み進める中で、何度か「彼と同じ職場にもし自分がいたら」と想像してみた。その一部を再掲する。
昨夏、まだ傍聴に出かけたことのない時に事件について書き散らした時にも、職場について少しこだわってみたことがあった。この時の感覚は中島さんの本を読んでみてより一層強まっている。端的に言って、「自分を問うこと」(大澤信亮)というのは、今の僕にとっては「職場」に引きつけて考えてみることなのだと思うのだ。
中島さんは「あとがき」でこう記しておられる。
書き手のこうした思いに共感するのであれば、読み手としても何らかの方法で「共に体感」するように努めたい。そう思う。僕にとっての「体感」の方法は、「職場」を媒介にして考えることだ。
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少し「方法論」(?)みたいなことに、ひょっとするとなっているかもしれない。もう少し別の観点からの感想を、エントリを改めて記してみます。
これではいかん、と思ったかどうかは自分でも判らないのだが、twitterにて再度の通読を試みた(ハッシュタグ #AK_jiken)。この本については既に批評の言葉も提示されており(「すばる」6月号における杉田俊介さんの書評、「週刊金曜日」4/1号における中島さんと大澤信亮さんとの対談など)、今更素人が感想を書き散らしてどうなるものでもない気がする。が、読んでみて自分なりに思うところもやはりある。順不同で記してみる。
1.彼は何を、どのように食っていたか?
……彼の部屋には大手ナショナルチェーン牛丼店の空き容器がいくつもあった。この牛丼店は、彼の自宅とJR裾野駅の間にあった。彼は、この店をよく訪れたが、店で食事を取らず、家に持って帰ることが多かった。
(p.138)
加藤は、秋葉原の裏路地まで熟知していた。また、慣れた様子でメイド喫茶に入っていき、「これだけは食べてほしいんだ」と言って、メイドがケチャップでイラストを描いてくれるオムライスを注文した。
(p.140)
気にかかった、「食」に関わる部分をいくつか引いた。メイド喫茶のオムライスは食事を楽しむというよりは、ある種のイベントの楽しみだろうと思う。ここを除けば、あまり誰かと何かを楽しく美味く食ったという姿がイメージできないのだ。実際にそうであったのかどうかは判らないが。
ここで『俺俺』の表紙に使われた石田徹也さんの絵を連想するのはさほど突飛ではあるまい。牛丼店というつながりということだけではなくて、重要な楽しみとなり得る日々の食事が「燃料補給」でしかなかったとすれば、それは肉体にも精神にも影響してくるだろう。
そしてさらに。「食うこと」を突き詰めて考えていくことで、何か違った可能性を見出すことは出来ないだろうかと夢想する。例えば杉田さんの「自立と倫理」(『無能力批評』、大月書店)と、あるいは大澤信亮さんの「批評と殺生」(『神的批評』、新潮社)と重ね合わせて読む可能性。それらの言葉を懐手で眺めるのではなく、自分が日々やっている「食うこと」とつなげてみるということ。
2.「職場」という視座
読み進める中で、何度か「彼と同じ職場にもし自分がいたら」と想像してみた。その一部を再掲する。
職場を飛び出した彼のところには「ツナギがあった」というメールが届く。「やっぱり悪いのは俺だけなんだよね。……死ねば助かるのに」と彼は書き込む(p.194)。彼と職場を共にしていたらどうだろう。面倒くさい厄介者だと僕なら思う。アパートに先回りなんてしない。
つまり、この部分に限って言えば、僕の目には「勝手に騒いで勝手に帰った厄介者」としか映らないのだ。職場の関係性から排除してしまえば、僕の目に入らなければ、それでいいや、と思う。ましてアパートにまで行ってやったのだったら後は知らん。「自己責任」がこれで出来上がる。
所謂「自己責任」論は否定的なつもりではあるが、「彼と職場が一緒だったら」と具体的な状況を想像をしてみると、「自己責任」的な物言いが顕在化してくることが自覚され、何とも自分自身にもやりきれなさを感じている。
昨夏、まだ傍聴に出かけたことのない時に事件について書き散らした時にも、職場について少しこだわってみたことがあった。この時の感覚は中島さんの本を読んでみてより一層強まっている。端的に言って、「自分を問うこと」(大澤信亮)というのは、今の僕にとっては「職場」に引きつけて考えてみることなのだと思うのだ。
中島さんは「あとがき」でこう記しておられる。
事件の動機を『ズバッ』と単一のものに限定しないことにフラストレーションがたまったかもしれない。
しかし、加藤の切実さを理解するには、この長さが必要だった。彼の体をすり抜けた時間を共に体感する必要があった
(p.238)
書き手のこうした思いに共感するのであれば、読み手としても何らかの方法で「共に体感」するように努めたい。そう思う。僕にとっての「体感」の方法は、「職場」を媒介にして考えることだ。
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少し「方法論」(?)みたいなことに、ひょっとするとなっているかもしれない。もう少し別の観点からの感想を、エントリを改めて記してみます。
by todoroki-tetsu | 2011-05-21 20:42