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渡辺一夫「ある教祖の話(a)――ジャン・カルヴァンの場合」

 ひきつづき、ちくま日本文学全集の『渡辺一夫』。この小論は単行本『フランス・ルネッサンスの人々』に収録されていたもの。宗教改革期の様々な人物を評伝風に描きながら、ユマニスムのありようにふれた名文集である。

 
 「カトリシスムでも最も因習的」なモンタギュ学寮で学んだことを、Quid haec ad Christum?(それはキリストと何の関係があるのか?)とカルヴァンは自問し得たのではないか、そんな風に渡辺は考えている(p.140-142)。それこそが渡辺がユマニスムと呼ぶものである。


 しかし、狂信と迫害が荒れ狂う中で「寛容」を求めようとしていたカルヴァンは、その志のゆえに「不寛容」を変化させていってしまう。渡辺はいう(p.159-160)。


 私としては、この変化は、カルヴァンの悲劇であるのみか、人間そのものの悲劇だと思っています。(中略) 人間悪・社会悪の是正は、打ち棄てられてよいはずはありませんが、その是正は、見聞きする悲惨さや憎悪に対して、一時的なものであるにせよ手を打ちつつ、こうした悲惨や憎悪を生ぜしめたものに対して、一人でも多くの人間が反省を抱き疑問を感ずるようにするために、欺かれても、笑われても、怒られても、繰り返し繰り返し、語り続け通すことによって行われるよりほかにいたし方ないような気がします。カルヴァンの善意は疑うべくもありませんし、彼のように純粋で、信念の堅い人もまれでしょう。しかし、人間を救い、人間悪・社会悪を是正して人間を救うためには、こうした美質を持っただけですむものかどうか疑問です。もっと深い忍苦と、もっと痛ましいほどの反省と、もっと強い懐疑とが必要なのではないかと思います。



 他にも印象的な記述はいくつもあるが、先を急ぐ。カルヴァンの生涯を概括したのち、締めくくりに近いところで述べられている部分(P.202-3)。


 ユマニスムは、思想ではないようです。人間が人間の作った一切のもののために、ゆがめられていることを指摘し批判し通す心にほかなりません。従って、あらゆる思想のかたわらには、ユマニスムは、後見者として常についていなければならぬはずです。なぜならば、あらゆる人間世界のものとおなじく、人間のためにあるべき思想が、思想のためにあるの人間という畸型児を産むことがあるからです。(中略)後見者は、行動できませんから無力に見えます。しかし、人間の思想が好ましい実を結び、人間の制度が立派に機能を発揮して人々に恩沢を与え、しかも己れの不備を改めてゆくようにするためには、この後見者は常に控えていなければなりますまい。



 「にんげんをかえせ」を重ねあわせるのは不当だろうか?


 

by todoroki-tetsu | 2011-04-17 21:41 | 文学系

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