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相対化と笑い

 この数日の会社の行き帰り、ブツブツと「相対的」「絶対的」だのとつぶやきながら歩いている。かなり、あやしい。


 「笑い」にもいろんな笑いがある。けなすための笑いとかせせら笑いとか、「ばっかでぇ」(「バカデー」でも可)というようなものもある。


 落語方面にいってしまうとキリがなくなるし、井上ひさしさんの言っていたことを手がかりにするのも悪くはないが……、と思いながら、ようやくさっき本棚から引っ張り出してきたのが「文學界」の2008年3月号。よかった、まだちゃんと残していた。ここには赤木智弘さんが「がんばらない人間」と題する見開きの短いエセーを寄せておられるのだ(P.200-201)。


 書かれているのは、伊集院光さんについて。僕はこの文章は非常に好きだ。僕も伊集院さんのリスナーだから、というのはもちろん大きな理由だが、伊集院さんのトーク――「深夜のバカ力」と限定したほうがよさそうだけれど――がなぜ面白いのかを、実に端的に評している。

 
 「客観的に見れば、伊集院は勝ち組である」というまっとうな指摘を、赤木さんはもちろん外さない。しかし同時に、「ダメで情けない自身の姿を、リスナーの前にさらし続けてきた」と強調する。リスナーなら共感するところ大であろうこの二つの指摘を、わずかな紙幅で同時にやり遂げているところにこのエセーの大きな魅力がある。


 ほうっておくと伊集院さんの話ばかりになってしまうのでちょっと禁欲して、当面の僕の関心の手がかりになるような一文が、先の「ダメで情けない自身の……」の個所の少し前にあるので引いておきたい。


 お笑いの『毒』というものは、エリートを庶民の力で笑い飛ばすものであり、世の中を相対化する言説として必要とされていた。


 
 ここでいう「相対化」とは何だろう。「オツにすましちゃいるが、手前だって一皮むきゃあこっちと同じ人間じゃねぇか」というようなシーンをイメージする。


 赤木さんもエセーの中でこの類のエピソードを引いておられるのをきっかけに、思い出した尾籠な例を。

 
 伊集院さんのかつて使った表現には、「お前だって体調悪い時にはパンツにクソがべったりついてる時だってあんだろ!」というのがある。最近はあまり話題になっていないような気がするけれど、「年に1回はクソをもらす」話は一定のリスナー歴のある人ならご記憶の方も多いだろう。伊集院さんは「自分はもらさない」という立場ではなくて、「自分はもらす」という立場である。要するに、自分もダメだが、お高くすましたあんただってダメでしょう? という構図なのだ。この「自分もダメ」な部分が明らかでないとそもそも笑いにならないか、たとえ笑えたとしても質はずいぶんと違うだろうと思う。


 赤木さんが「お笑いの『毒』」と表現しておられるのは、笑う自分も笑いの対象とする相手も、ともにダメさ加減というダメージを引き受けることを意味していると思う。自分が毒とは無縁のところにいてはただの悪口に過ぎないが、自分自身もダメさ加減をさらけ出すという毒を浴びることよって相手にも毒を利かせることができ、そこに笑いが生じる。
 

 自分も相対化するが相手も相対化する。笑いをそのようなものとして考えてみる(ひょっとすると枝雀師の「緊張と緩和」の理論が参考になるのかもしれないのだけれど、ここで深追いするのはやめておく)。逆に、相手を相対化しようと思えば自分も相対化しなければならない、という命題は成り立つだろうか。そんな関係性とはどんなものだろうか。


 

by todoroki-tetsu | 2010-09-10 22:13 | 批評系

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