「ジョジョ」を読む

 仕事が忙しいんだか忙しくないんだか、よく分からない。読み進めなければ、と思っている石田忠さんの『反原爆』(未來社)とか、トリートさんの『グラウンド・ゼロを書く―日本文学と原爆』とか、杉田さんの「ロスジェネ芸術論」を(1)から読み返そうとか、あれこれ考えてはいるが、どうも気が乗らないでいる。


 原爆のことや戦争のこと、あれこれ報道はあった。が、その報道に接する読者としての自分自身の準備に何か足りないものがある気がして。さりとて腰を据えようという気になりきれていないのは暑さのせいにとりあえずしておいて。


 この10日ばかり、ずっと『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいた。文庫版全50巻のほう。少し前に全部読み終えた。「part6 ストーンオーシャン」までということになる。世代としてはモロなのだが、あまりちゃんと読んでいなかったし、なにせ高校生の終わりごろに大島弓子先生の作品に衝撃を受けてこのかた、「線の多い」絵柄の漫画はなんとなく敬遠していたのであった。

 
 文庫版の2巻目くらいからようやく絵柄に慣れてきて、読むスピードは加速していく。いわゆる少年漫画の王道というのだろうか、やっぱり面白いな、と思った。あらためて、この膨大なストーリーの中で「マックイイーン」に着目した「無能ノート」(『無能力批評』)の慧眼を思う。
 

 読みながら、「杜王町」を舞台とした「part4 ダイヤモンドは砕けない」あたりからだろうか、「『世界』を創ること」について頭の片隅で考えていた。僕は文学というものが(いや、「も」というのが正しい)分からない。「(F+f)」(夏目漱石)なんて目にしたところで「はぁ?」というだけである。が、自分の観察や想像力を、絵や言葉で、ひとつの「世界」として表現したい/出来る、というのはとてつもなくすごいことだな、と思ったのだ。

 
 世界観やストーリー、またキャラクターの姿やせりふによって、読者が現実の中で励まされることはあると思う。そのメッセージを受け取る力が読み手にも必要なのは言うまでもないことだが。「ジョジョ」には「成長」とか「正義」とか「希望」とかがド正面から描かれている。爽快かつ明確なメッセージだ。いわば「大きな世界」である。

 
 ここで妄想する。では、ここまで明確なメッセージがないような描写でも何らかの力をもつ場合があるのはどうしてだろう? 

 
 自分のさして豊富ではない読書体験を翻ってみるに、明確なメッセージに引き付けられる(例:漫画版『ナウシカ』)ことがほとんどであるにも関わらず、そうでない部分も確かにあるのだ。不思議なことである。


 たとえば。宮沢賢治「猫の事務所」で描かれる「かま猫」の悲劇。べんとう箱をとってやろうとして誤解される。こういうことはあるよな、と思う。誤解される側としてもする側としても。たとえ獅子の登場という明確なメッセージがなくても、あるいは「かま猫に同情します」といってくれる「ぼく」がいなくても、この描写は印象深く残るだろう。


 あるいは「銀河鉄道の夜」の、「(ああほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだらうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろさうに談してゐるし僕はほんたうにつらいなあ。)」。さそりと神の問答を経て「どこまでもどこまでも一緒に行かう」という言葉によって打ち消されたとしても、ジョバンニの感じたような「つらさ」は、やはり印象深く残るのだ。

 
 これらは「ジョジョ」ほどの壮大さがある「世界」ではない。「銀河鉄道の夜」は別の意味で壮大だが、僕が今引いた部分はけっして大きなものではない。これらはいわば「小さな世界」である。


 自分の感情や思いがあって、それは何か身近な他者とは共有できないものであったとしよう。でも、作品の、たとえ何気ない描写――小さな世界であっても、そこに自分の感情に触れるものがあるとすれば、少なくともその感情は自分一人だけが持っているのではない、ということが分かる。実際に描写した作者がいるのだから。そこに「孤独」から逃れる、少なくともそのきっかけは見つけ出せるはずなのだ。ほんのささいな描写であっても、いや、大小に関わらず「世界」が成り立っていれば、結果として人を救うことが出来るかもしれない。ひょっとすると、文学というのはそういう力のことを指すのだろうか。


 もちろん、これは作者だけの問題ではない、読者の問題でもある。次の言葉を、ふと思い出す。
 

 文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います
                               吉本隆明、『真贋』、P65-66



 読者の立場になってこの言葉を考える。「こういうことは俺だけにしかわからない」と「思えたら」、「第一級」とまではいわずともそれなりの「読者」になっているとはいえないだろうか? 自分自身の経験や感情――ライフヒストリーといってもいいかもしれない――、それらを背負った上で自分自身をたたきこむように、自分の「世界」を全力でさらけだしながら作品の「世界」にぶつけることが出来れば、少なくとも「消費」だけしている次元にはいない。そんな風に考えてみることが出来ないか。


 もうひとつ、手がかりになりそうな言葉をあげておく。


 重要なのは何回読んだか、どれくらい読み込んだかという問いではない。「読む」ときわれわれは実際には何をやっているのかという問いである
 山城むつみ、「小林批評のクリティカル・ポイント」、『文学のプログラム』所収、P.49



 あらら。ジョジョの話からずいぶん遠くなってしまった(笑)。なんでこうなったんだろう? まあ、いいや。自分への宿題みたいなものとしておこう。


 宿題ついでに、ちゃんと読みたいと今考えているものを、冒頭にあげたもののほかに2点メモしておこう。


・伊東祐吏さんの『戦後論

 恥ずかしながらノーチェックだった。今日の「毎日」で取り上げられているので初めて知った。「自分たちが戦争をした事実をごまかしているから、議論を生産的に積み重ねられず、右派は正当化ばかり、左派は批判ばかり。戦争経験を引き継ぐといっても、受け手の心に届かない議論になっています」というコメントが実に気にかかる。


・陣野俊史さんの『「その後」の戦争小説論』

 「すばる」に連載中。こま切れにしか読んでいないが、先日連載第一回を図書館で読んだ。なんでもっと早くにちゃんと読んでおかなかったんだろう、という後悔はさておき、これはじっくりしっかり読みたい。


 
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by todoroki-tetsu | 2010-08-20 00:03 | Comments(0)

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