秋葉原の事件に寄せるでもなく――その六

 肉体労働でヘタっている。が、部下(!)の契約スタッフのみんなが今日もよくやってくれた。ありがたい……こんな言葉はマネジャーとしてはさほど間違ってはいないセリフだが、しかし、そもそもの椅子取りゲームで椅子をとった側だという不均衡が、変わることはない。8:00から21:00まで、働いた。ひざが微妙に痛い。


 昨日は何か予定を入れていたようだが、忘れた。今日の選挙、どうでもいいとは言わないが、速報を見る気はしない。選挙というのは自分で何か積極的に動くのとそうでないのとで見方が変わる。昔は選挙活動めいたこともしたことがあったのだが……。期日前投票をやるクセだけが、残った。



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1.
 「問い」と「応答」について。自分自身への問い、特定他者への問い、誰でもよい第三者への問い……そんな風に分けられるのかは知らない。が、問う側/問われる側のどちらから考えるかでも変わってくるし、どのように問う/問われるか、によっても変わってくるということは言えそうだ。マトリックスが描けるのかもしれないが、例によってあまりそこまで考える気力はない。


2.
 秋葉原の事件は、被害者も加害者もまったく僕には関係がない。いろいろとたどっていくとニアミスがあるかもしれないけれども、今のところそこまでは分からない。無関係な他者どうしの間に起こったこと、といえばそうでもある。「世代は違えど同じ時代に起きた事件、ということであれば、責任とまではいえないにせよ、何らかのかかわりはあるようにも思える」と記した。同じ社会にいる、という意味で無関係ではない、という言い方も出来るだろう。


3.
 この「同じ時代」とか「同じ社会」とかいう言葉には、それなりの正しさはあるし、媒介としてもそれなりに意味を持つ。けれども、そこに行くまでに、あるいはそこに行った後にもう一度、無関係な他者を特定の他者として考えようとする困難と可能性について考えてもよさそうな気がする。時代や社会を持ちだしただけでは何も言ったことにはならない。


4.
 自分の発した問いが平和的な手段で相手にそれなりに理解されるのは幸福なことであり、理想である。これが成り立つのは、問われる側に応じるだけの条件がある場合である。相互批判もこの条件がなければ始まらない。では逆に、自分が問いを受け止める側であった場合を考えてみよう。他者の問いに応じるなんてことが、普段の生活や仕事の中でどこまで出来るだろうか? 僕は、出来ない。自分が発した問いには応じてほしいが、他者からの問いには応じきれる範囲でだけ応じよう――多分これが本音である。


5.
 自分なりに段取りも付け、部下にも無理を呑んでもらい、一緒にバタバタとやっている最中に限って、あれこれ頼まれたりする。「やってられっかよ!」と思う。対応も粗くなる。イライラする。僕は人一倍テンパりやすい性格で感情の起伏も激しい。だが、一応それは自覚してはいて、だからこそそれなりに自分なりに仕事を組みたてようとしているのだが、それはほとんどの場合崩される。うまくいかない。仕事なんて、いや、人生なんてそんなものだ、とも思う。ビジネス書的に「技術」で何とかしたいとも思う。でも、そんなことでは、きっとないのだ。


6.
 「悪いのは全部自分だ」なんて言ったところで反省したことにはならない。「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」(宮澤賢治)の何と難しいこと! 現に、最近は秋葉原の事件だって、別段気にしていたわけではないのだ。


7.
 絶望は希望の不在を意味しない、そう考えてみる。希望の未達成こそが絶望だと考えてみる。過程として捉えてみる。これはなかなかに魅力のある考え方だ。今は「ヨクミキキ」も出来ず、「ワカリ」もせず、「ワスレ」るけれども、いつかは……と。しかし困難は、ともするとこういう考え方によって現状肯定の免罪符を得たように思いこんでしまうことだ。こうなると、課題の後回しを過程と言い換えたに過ぎなくなる。


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 結局のところ、自分はどうしたいのだろう? どうなれば満足なんだろう? そんな思いが言葉をだらだら連ねる中で強まってきた。なにか、ものの見方というか、立ち位置というか、そんなものの「型」なり「基礎」なりを、つかまえてみたいのかもしれない。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-11 23:48 | Comments(0)

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