秋葉原の事件に寄せるでもなく――その三


 だるい。精神的にも肉体的にも疲れている。たぶん、忙しいせいだろう。断続的ないらつきと集中力の短さ。「意味分かんねぇよ」「てめぇでやれよ」「サクサク動けよ」などとぶつぶつほざきながら仕事をしている。別段こうやってキーボードを叩いていることがストレス発散にもなりはしない。だるい。面倒くさい。だるさの中で記す言葉にも意味があるかもしれないが、それを考える気力は今はない。


________________


1.
 自分や自分の身の回りのことについて掘り下げることで、何らかの原理なり構造なりに気づくという方法がある。他者について想像力を巡らすことで何らかの原理なり構造なりに気づくという方法がある。方法とは別に、差異を強調しようとする志向と、共通点を強調しようとする志向が考えられる。マトリックス? 四つに切り分けきれはしないだろうけれど、そんな図面の上で時間をかけてせめぎ合うのだろう。


2.
 「殺される側/殺す側、があるとして。殺す側の自分を想像する場合のほうが多い気がどうもする」。そう書いた。「多い気がする」ということは、そうでないこともあるということだ。八王子の書店で殺人事件が起きた時、僕は犯人に対して怒りを覚えた。秋葉原の事件ではどうだったろうか。僕は秋葉原には今まで数えるほどしか足を運んだことがない。10回もないだろう。会社は違えど書店は自分の業界である。こうしたことは、自分の感じ方に影響している気がする。


3.
 要するに、自分の感じ方、想像力は非常に貧弱だということだ。身近な人なり感情移入しやすい人が不幸な被害にあってしまった場合には被害者の側に寄っていくだろうし、そうでなければ何となく「社会のせい」みたいなイメージで、加害者にも何か事情があったのではないかと口にしてみたりする。こういう自分のような輩が一番タチが悪いのではないか? 「自覚的な日和見主義者」と自分で書いていた。その通りだ。


4.
 この想像力の貧弱さを確認すること。いや、常に確認しなおし続けること。「求道すでに道である」(宮澤賢治)と高らかに宣するのは威勢がいいが、気恥ずかしい。よせやい、とも思う。ボチボチと進めるしかない。ただ、自分の想像力の貧弱なることを自覚させるような言葉を――意識的にか無意識的にか知らないが――欲してはいるようだ。

5.
 秋葉原の事件について、なるほどと思わせられる言葉はいくつかあった。いちいちをあげるのはやめにする。「文学と政治」という問いのたて方、あるいは言葉を届けるということについて――こんなことが、自分なりに事件を巡る言葉から得られ、またそれなりに継続して考えてもいる問題であろうか。事件の自分自身にとっての影響といえば、そんなところだろう。

________________


 おおよそのことは吐きだした気もするし、もう少し何かがありそうな気がする。今日の気力は、尽きた。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2010-07-09 00:31 | Comments(0)

<< 秋葉原の事件に寄せるでもなく―... 秋葉原の事件に寄せるでもなく―... >>