よい意味でなんだかぞわぞわする。そういう経験は本厄を迎えてだいぶ減ってきた気がする。よくない。摩滅しているか惰性なのか鈍麻なのか。精神のはつらつさがどうもなくなっている。「自分の感受性くらい」、が頭の奥底で低く鳴る。
そうしっかりと様々な言葉を追っているわけではないけれども、中島岳志さんの言葉に接するとき、「ぞわぞわ」した感触が自分の中に沸き起こってくるのがわかる。どういうことなのか、感想を書き連ねていけば何かわかるかもしれないとノープランでパソコンに向かってみる。
記事前書きで「保守」と「リベラル」、「憲法を書き換えろ」と「絶対に変えるな」が対比される。「保守」と「革新」、「改憲」と「護憲」という対比なら僕はしっくりくるのだが、これはいささか古典的な理解だろうか。「リベラル」というのはもうちょっと別の視点から考えられはしないだろうかとも思うけれども、今回のテーマは「保守」なのでひとまず深入りしない。こんなことを記さなくてもよいだろうし、文句をつける意味ではなく、ただ、僕の持っている「構図」(良し悪しは問わない)を記しておかないと、どうにも誤解しているぞ、食い違っているぞということになりかねないなと思うのでひとまず。つまり、いささか図式主義的な理解しかない人間だということの断りである。
さて、「立憲主義は保守的な考え方に立った思想」と中島さんは語り始める。何度かお話を講演会などで伺う機会のあった僕には、この点はある程度既知である。「設計主義批判」とでもいうべきお立場だろうと思う。人間自身にある種の謙虚さ・内省を促す考え方、という風に最初伺ったときに感じて、なるほどこれは大事な考え方だと感じた。本稿でもその感想は変わらない。
「人間の理性には限界があり、必ず間違いを犯す、権力者も時に暴走してしまうという保守的な人間観」が立憲主義だ、と。ここに加えて重要なのは、「死者の立憲主義」という言葉だろう。「国民の中に『過去の国民』を含むのだ」と。「死者論」の地平は広大と再認識する。
では、憲法を変えてはいけないか。そうではない、と中島さんは言う。それは「ある特定の時代の人間(憲法制定に関わった人たち)を特権化することにつなが」るからだ、と。「ただ、一気に変えようとしてはいけない。抜本的な書き直しをすると、革命のようなことになってしまう」。ここで「革命」がやや否定的にとらえられているが、渡辺一夫さんが加藤周一さんたち若者の前で軍歌のレコードをかけた精神と通ずるものと僕は思う。
設計主義に立っている、という点では安倍首相も『護憲派』も同じだ、本来の保守は「憲法を保守するために『死者との対話を通じた微調整』を永遠に続けていくことだ」と中島さんは述べておられる。その微調整の対象として、9条が挙げられる。「国際秩序を維持する上で、一定の軍事力が必要であるなら、自衛隊を憲法で規定して、歯止めをかけるべき」と。僕は9条堅持派で異論はあるが、その点はあとで述べることにしよう。「戦後の日本は、9条と日米安保の微妙な綱引きを、絶妙のバランスでやってきました」「そのやり方には英知があった」という指摘には全面的に同意する。
論稿後半は「寛容」に焦点があてられる。保守、リベラル、左派、いずれも寛容には見えないという記者(尾沢智史さんとある)の切り出しに対する中島さんの言葉は極めてしっくりくる。どちらも『アンチの論理』でやってきたためだ、と。お互いがお互いを少数派だと思っており、「どちらも自分たちの言葉が取り上げられないというルサンチマン(怨恨)があるから、攻撃し合う」。「重要なのは、護憲か改憲かではなく、平和を守っていくためには憲法をどう考えるべきかということですが、アンチの論理のためにまともな議論が成立しない」。
中島さんの考える保守についての一文でこの論は締めくくられる。福田恆存さんへの無上の敬意を感じさせる。
以上が感想のような要約のようなもの。ぞわぞわするのは、なるほどと大きくうなずく部分と、いや、ここはどうも自分は違うと思う、でもそれは自分の考えが浅はかだからかもしれないぞ、など、いろんな考えが頭をめぐるからであるようだ。
共感する部分については記したから、そうでない部分を自分なりに整理してみたい。
第一。「憲法を変えてはならないというのは、ある特定の時代の人間を特権化することにつながります」、という点。確かにその通りかもしれない。しかし、一方で「憲法を生かす」という表現がある。あまりに紋切り型過ぎて何の力も今は持ちえない言葉なのかもしれない。しかし、乾ききった言葉の奥底から、その精神を掘り起こしてみたとしたらどうだろう。日本国憲法の条文をフル活用しながら、日々起きる新たな課題に向き合ってきた試みは、今までになかったであろうか。そこにも「死者との対話」がありはしなかったか。日本国憲法を媒介として、もっと言うなら「依り代」としての、死者との不断の対話(上原專祿の「回向」)。変えないこと、むしろそこにとどまることで深まる対話というのもありはしないだろうか。もちろん、中島さんは「微調整」とおっしゃっておられるから、熟慮熟議を重ねての改憲という意味合いを込めておられるのだろうと思う。異論というほどの異論ではないような気がするのだが、変えないという前提でぎりぎりまで対話をしていく、そうしたことにより重点を置いてみたい、と考えている。
第二、9条について。現実とのかい離がこの間で著しくなってしまった、ということはよくわかる。せめて「英知」のあったかつてのやり方に戻したい、というのが切なる願いである。ほんのわずかな海外生活経験から、「よその国には手を出しません」と宣言していることの安心感は多大なものがある、と実感しているから。しかし、ここまで事態がグダグダになってしまった以上、「歯止め」が必要というのも確かにその通りだと思う。政権のほうを何とかしたら何とかならんだろうか、というのは書生論だろうか。「9条」→「解釈改憲」→歯止めのための「憲法改正(もちろん、微調整)」と、「9条」→「解釈改憲」→「9条によせて解釈改憲を修正する」。しかし、いずれにせよ、「死者との対話」という謙虚さを持ち合わせていなければならないことには間違いない。
第三、「アンチの論理」について。順序逆になるが、このひとまとまりの中島さんの語りの結論は「重要なのは、護憲か改憲かではなく、平和を守っていくためには憲法をどう考えるべきかということ」という点にある。これに対し、この間様々な取り組みが進んでいるといわれる市民主導の「共闘」を対置することは、政治演説としては容易である。情勢論としてもそう間違ってはいないだろうが、それでは行論とかみ合わない気がする。「アンチの論理」がなぜ根強いか、と考えてみたい。書店員としても切実なのだ。
お互いを少数派だと思っている、というのは同時代人としても書店員としてもよくわかる。どのように「本」という商品になるか、ということで体感する。たぶん、編集者・営業担当であれば「読者」という市場を想定しているだろうから、また別の視点があるだろう。
少し脱線する。ひとつの方法として、あるキーワードの含まれている本がどれくらい出ているか、その立場がどのようなものか、と調べてみるというのがある。古い話だが、例えば「規制緩和」。今はどうかわからんが、「規制緩和」と銘打った本の多くがその批判であった。もちろん、キーワードがストレートに本の中身を反映させているわけではないから注意は必要だが、書店員的な感覚としてはこれでひとまずはよい。
これは「少数派だからしっかりと言上げせねば」という意図が感じられる例、といえる。少数派というのがしっくりこなければ、(ためにする意味ではない)「批判」といってもよい。また、そうした言葉が一定の市場を形成しえていた、ともいえる。
また別の例。「韓国」や「中国」というキーワードでどんな本が出ているか、調べてみる。出版年月順にしてみようか。いつのころからか、潮目が変わったことがわかるだろう。「海外事情」の棚は、その国のことを知ろうという本、その国の人が書いた本が多くを占めたものだった。そうした並びで置くのにしっくりこないものは、様々な主張をまとめた棚(例:「オピニオン」などの棚名称)に置く。そうしたものが増えた。これはそうしたことを言うのが「少数派」だと思っているということもあるのかもしれないし、市場という観点から言えば、半年以上売れ続けるロングセラーはほぼないが、3か月に限ればある程度実売数が読める、ということもあるだろう。
96年をピークとする出版業界において、右肩下がりを続けている市場の中、確実に数が読めるというのは重要である。どの程度数が読めるか、ということを僕自身版元さんには機会あれば言ってきた側の人間である。それはそれで間違ったことばかりとはいえないが、いつの間にやら数が読める本=シンパ・信者しか買わないであろう本が増えてきたような気がする。よかれと思ってやったことが結局自分の首を絞める。どうもそんな気もしてくる。目先の日銭を稼がなきゃいかん状況において、それはそれで商売としては大事な部分でもあるのだが、市場そのものをどう拡大するかというのは常に課題である。
話を戻そう。「アンチの論理」でも社会がそれなりに成立していたのだとしたら、それはどういうことだろうか。みんながみんなどっちかに属して「アンチ」であったか、さもなくば、一定の中間層が存在していたからではないかと考えられる。「一般大衆」なる言葉もあったな、となると後者だろう。中間層が何らかで極小化し、「アンチの論理」が際立ってきた、というところだろうか。
中間層、という言葉で僕が今イメージするのは、月に1冊か2冊くらいは本でも読んでみよう、と考える人。それくらいの時間とカネはある、ということ。景気良くなるか消費税下げるかすればそれに近い状況が創出されるだろう、とも思うが、それはそれですぐにいく話ではない。ならば、自分の考えを深めよう、そのためには異論も手に取ってみよう、と感じてもらえる工夫を、書店員の仕事を通じてやっていくほかはない。
長々書いて結局のところ自分の仕事に行きついてしまったが、中島さんが熱心に語っておられることを自分なりに引き付けて考えるとするならば、このような方法以外僕には見当たらなかった。