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雨宮処凛×中西新太郎「生きづらさと1995年」

 『1995年』から、雨宮さんと中西さんの対談について。

 当時フリーターだった雨宮さんの体験談は生々しく、「時代の証言」的な要素が強い。相手が中西さんであることで、個別具体的な経験がより広い文脈が位置づけなおされているように読めた。

 後半に、中島岳志さんと栗田隆子さんが少しだけ参加されている。このあたりはさらにエンジンがフル回転していて面白い。『終わりなき日常を生きろ』について述べている箇所(P.69-74)は、唸る。

 結論的に言ってしまうと、この『1995年』全体が、ひとつの宮台真司さん批判として読めると思う。未着手だが、時期をほぼ同じくして上梓された鈴木謙介さんの『サブカル・ニッポンの新自由主義』とあわせて考えてみたい。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-17 14:21 | 業界 | Comments(0)

中西新太郎「1995年から始まる」(『1995年』)

 『1995年』の序論、中西新太郎さんの「1995年から始まる」について。

 中西さんの論考はいろんな要素をぎっちりと圧縮したような印象を受けるのだが、この序論も解凍するととてつもなく大きく――通時的にも共時的にも――なりそうなものである。

 もちろん年長であることも大いに影響はしているのかもしれないが、「1995年」に至る流れを簡潔に整理した上で、では、何が問題なのか? を指し示す。この序論がその後に続くどの対談にも基調となっており、個別具体的な話題ともシンクロして絶妙な読後感を生み出す。

 
「95年を捉える各論者の視角は、それぞれの違いが当然あるとはいえ、文化的個体化作用を、ともすれば、単純に解放的契機とみなしてきた前時代のエートスとはいずれも無縁のように思える。『ロスト・ジェネレーション』の旗手と言ってよい語り手たちのそうした姿勢には、新自由主義政治と消費社会の抑圧作用とが結びついたポスト95年の歴史状況が正確に映されている。『ロスト・ジェネレーション』が効果的就労対策を怠った政策による一過性の犠牲者ではないように、ポスト95年の歴史状況もそれ以前の歴史軌道からの一時的逸脱ではない。『自分さがし』の時代から『生きづらさ』の時代への転換こそが本質的であり、転換への着目ぬきに両者を無自覚につないだまま『生きづらさ』をあげつらうと誤読に陥る。ロスト・ジェネレーションが尖端に位置してぶつかっている困難と問題群とは、歴史の隘路に迷い込んだ結果遭遇するそれではなく、新たな歴史ステージの『正面』に立ち塞がる問題である」(P.29)


 「ロスト・ジェネレーション」といってもいろいろいるわけで、そうひとくくりにすることは出来ないのは当然なのだが――しかし、それは例えば杉田俊介さんの「自立と倫理」(『無能力批評』)、大澤信亮さんの「柄谷行人論」(「新潮」2008年11月号)といった試み、すなわち、「他者」と向き合うことについての極めて根源的な思考を通じて、ひょっとすると乗り越えられるかもしれない(もちろん、道は恐ろしく険しいに違いない)、と思わせるものでもある。この点は別の機会に少し触れてみたい――、問題設定を明確に示している点で捨てがたい記述である。雨宮処凛さんと萱野稔人さんの『「生きづらさ」について』の第四章「『超不安定』時代を生き抜く」にも通じるものであろう。

 中西さんらしく様々な作品への言及があるのだけれども、それらを評しつつ、「ただ現実を写すことも夢見ることも許さない身動きのとれなさ」(P.35)を描き出した上で、こう締めくくる。

 「過去と同じように夢は見ないが、そのようにして夢見る新たな試みをやめないこと、そうした仕方で『95年から始まる』現実に向き合うこと、つまり、『95年から始める』こと――それが、構造改革時代を生きる普通人ordinary personに課せられた歴史的責任ではないだろうか」(P.36)


 「夢」という言葉を、正面から受け止めつつ、続く対談についても思うところを触れていければ、と思う。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-16 00:41 | 業界 | Comments(0)

『1995年』(大月書店)によせて

 ド直球の本でありながら、その故にか自分なりの考えというか、スタンスを定めるのに恐ろしく時間がかかってしまった。『1995年 未了の問題圏』である。

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 この1~2年の間で、いわゆる若手の論客といった皆さんに注目が集まり、それが多少の波はありつつも継続しているように感じている。

 雨宮処凛さんの『生きさせろ!』を起点にするのが妥当なのかは分からない。が、この出版当初(2007年3月)ではなく、日本ジャーナリスト会議賞受賞(2007年7月)のころから、「なんだか熱くなってきたな」というのが店頭での実感としては、ある。

 その間の5月には、本田由紀さんたちによる名論文集『若者の労働と生活世界』があった。これは、少なくとも10年後もなお、参照項として生命力を失わないだろう。同時代を併走しながら、かつ、問題提起の幅広さにおいてさまざまな議論の起点をなすだろう――それは、岩波の講座「現代」第一巻、『現代の問題性』(1963年発行)所収の論文群(例えば、上原專祿「現代認識の問題性」、上田耕一郎「現代の生活における貧困の克服」)がもつ生命力、あるいは藤田勇さんの編による『権威的秩序と国家』に結集したそうそうたる論者のその後の活躍(渡辺治さんや後藤道夫さんといった「講座現代日本」に連なる方々など)などを、想起させるものである――。

 そして、2007年の秋には赤木智弘さんの『若者を見殺しにする国』。今年に入ってからは「ロスジェネ」。

 若い論者、ということで言えば、鈴木謙介さんもこの間で急速に、「売れる」著者となった。『ウェブ社会の思想』は切らしちゃ恥ずかしい定番書である。本屋の実感として言えば、文化系トークラジオLifeは着実に現在の主に10代後半~20代前半の人間が何かを考える際の参照項となった、と思う。批判ももちろんあるだろうけれども、1975年生まれの僕の世代が、好き嫌いに関係なく、どこかしら宮台真司さんや小林よしのりさんといった年長の論者の言説に影響を受けたのと同じような位置として、ということ。標準でも基準でもないかもしれないけれども、「手がかり」というようなもの――もちろん、ラジオというメディアの特性と言おうか、「場」という性格が強いため並列には考えられないかもしれないが――。こうしたことも、この1年弱ぐらいのことであろう。

 『思想地図』へと至る流れ、また『ゼロ年代の想像力』、『お前が若者を語るな!』なども、本屋としては動きに注目したいし、またすべきところであるだろう、と思う。もちろん、秋葉原の事件も考えないわけにはいかない。まだ自分なりのイメージがあんまり出来ていないのだが。

 つまり、あらっぽく言うと、いわゆる70年代(の特に後半の)生まれというか、現在の30歳前後くらいの論客(当事者も研究者も批評家も含む)がドッと出てきて、ある程度その位置を確立してきたのがこの1年くらいのこととしてあって、本屋の実感として、「若い論者」「若い当事者」みたいな打ち出し――POPの売り文句、とイメージしてみてください――で売ることが出来たし、また、それが分かりやすい打ち出しとして顧客にウケた、という側面があった。それは同世代に対しても有効にアピールしたであろうし、団塊世代までを含む年長の顧客にも「最近の若い人は何を考えているんだろう?」みたいな感覚で手にとってくれるような印象も少なくなかった。

 でも、もう「若い論者」みたいな打ち出しは通用しない。より主張というか、内容に即した打ち出しをやっていかなくてはならない。ある意味でより本質的な売り出し・打ち出しができるということでもあり、だからこそ、どう手に取ってもらえるか、を一層考えなくてはならなくなった、ということなのだ。

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 前置きが長くなった。そういう状況の中で上梓された、『1995年』である。これが1年前なら、湯浅誠さんはちょっと違うとして、「団塊世代」の中西新太郎さん×「団塊ジュニア世代」の雨宮処凛さん・中島岳志さん・栗田隆子さん・杉田俊介さん、みたいな打ち出しができたし、それが妥当であったと思う。

 しかし、上述の通り、そうしたアプローチは、さして有効ではない。きっと編者としても湯浅誠さんを交えたところに、いわゆる「若者本」ではない、といった思いがあったのではないかとも推測する。

 要するに、売り手の力量がものすごく試される本なのだ。そう思って、あれこれPOPだの並べ方だのを考える一方で、とにもかくにも手にとって見てほしい、そうすれば、ひきこまれる何かが絶対にあるはずだ、とも思う。

 例えば、冒頭の雨宮処凛さんの前書エッセイ、「ようこそ! 『バブル崩壊後の焼け野原』へ」。僕は雨宮さんとは学年は違えど年は同じなので、ある種の懐かしさを抱きながら読みはじめたのだけれども、最後のパラグラフでグッときた。

 「世界」2007年11月号で発表された、「ロストジェネレーションの仕組まれた生きづらさ」の加筆版とのこと。改めて「世界」を読み返したが、断然、『1995年』所収版の方が、いい。あたかも掌編小説のごとき余韻。素晴らしい。

 このエッセイのわずか1ページほどのしめくくりが、「1995年」――「未了の問題圏」というサブタイトルがまた秀逸だ――というテーマを、単なる回顧でもなく、歴史を「後知恵」でみるのでもなく、普遍性をもって問題化する、そうした手がかりを指し示しているように思う。単なる団塊ジュニア世代の「同窓会」などでは決してなく、より若い世代にも、より年長の世代にも共通する普遍的な問題として剔出される「同時代」として。

 「1995年という年に何の特権性も感じません」という大澤信亮さんの言葉(「オルタ」9-10月号での湯浅誠さんとの対談から。p.15)と合わせて、じっくり考えてみたい。


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 このテーマをどう見せることができるか。どうやって読者に届けるか。しんどいが、やりがいのあることである。 
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by todoroki-tetsu | 2008-10-10 17:08 | 業界 | Comments(0)