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渡辺一夫「エラスミスムについて」その一


 ……異なった人間観や世界観が、生きた人間たちの肉体に宿る時、そして一ぽうを宿した肉体が他ほうを宿した肉体を屈服せしめ、それが屈服せぬ限りはその生命をも脅そうとする時、そして、この対抗を現世の権力が操る時、思想交流交替という人間のみに与えられた高貴な真理究明の協同作業も、戦乱・殺人・拷問・暗殺の形でしか現れざるを得なかった。このみじめな人間的条件への反省と、その浄化解決とを希うことが、福音の一つと信じていたエラスムスは、新旧両派の血みどろな衝突をあくまでも否定し、いずれかの側に助力を与えれば自らの否定する闘争を肯定することになると考えた以上、いずれにも属さずその態度は曖昧であり、Solus esse vouli (私は一人でいたい)と自らも言い、他人からは、Erasmus est homo pro se(エラスムスは加わらずに、一人きりでいる)と半ば揶揄的な評言さえ与えられるのである。



 渡辺一夫の「エラスミスムについて」(ちくま日本文学全集版、P.76)より。ここまでの覚悟が出来るものだろうか、と途方に暮れてしまう。さらに続く。


 そして、夢中になって斬り合いをしている人々を戒め、その行為を中止させるために有効な方法は、側にいて、こうした行動が愚劣であることを語り続け、聞く耳あらば聞けと願い、再び同じ愚挙が再現せぬように叫び続ける以外に何があろうか? 自らも剣を握って戦う二人の間に入れというのか? エラスムスは剣を握ることができないのである。剣は人間を斬り得るからである。



 同書P.77にある。

 
 痛い。痛すぎる。



 
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by todoroki-tetsu | 2011-03-22 20:45 | 文学系 | Comments(0)

渡辺一夫「ラブレー管見」

 「正気」を保つための作業として。ひきつづきちくま日本文学全集(文庫サイズ)のもので。


 「ラブレー管見」と題する、講演草稿。1953年である。P.54からまず。


 好き嫌いは別として、文化史に名を残している人々に対して、我々が負うところのものは当然たくさんあるわけです。仮に現在の我々が幸福であり利便に恵まれた生活を送っているとするならば、こうした幸福や利便を作り出してくれた人々が永年にわたり苦心し、ある時には途上で倒れたり、迫害されたり、刑死したりしたことも忘れてはならぬのです。


 
 時代をさかのぼって思いをはせようとするならば、同時代にも目を向けなければ嘘だ。同時代に思いをはせるのであれば、時代をさかのぼることもしなければまやかしだ。そんなふうに諭されているような気がしてならない。

 
 続いて、P.58。


 
 我々人間が自分で作ったものの奴隷になり、人間を見失い、人間を忘れかけている時、弱くて滑稽で危険な動物であることを思い出させてくれるための方法として、また妙な歪み方をしている我々に「気をつけよ」と警戒信号を出してくれるものの一つとして、今申しましたような、下品らしく見えて決して下品でないラブレーの笑いの一面があるのです。



 かつて赤木智弘さんが伊集院光さんについて記したエセーをきっかけに考えてみたことがあったことを思い出す。


 
 皆が、自分及び他人の歪みを笑えるだけの心のゆとりと、反省とがありましたら、世のなかは決して一挙にして改良はされますまいが、改良される方向を見いだせるのではないかと思っています。附言しますが、相手を笑うということは、相手を傷附けることではありません。我々の社会を正しく、明るくするために相手に反省を求めることですし、相手を笑い、相手に反省を求める以上、自分自身にも相当の覚悟はあらねばなりません。



 これはP.59。「自分自身にも相当の覚悟」(!)。ここにきて問いが自分自身に還ってくる。
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by todoroki-tetsu | 2011-03-21 19:39 | 文学系 | Comments(0)

渡辺一夫「びいどろ学士」「ユマニストのいやしさ」

 「正しさ」と「正しさ」がぶつかり合う時、いったい何が起きるのだろう。何を基準にすればいいのだろう。高島善哉はマルクス=ヴェーバー問題に際し、「射程の広さ」(「長さ」か「深さ」だったかもしれない)を基準にしたと記憶する。ブルカニロ博士を想起してもよいのかもしれない。

 
 さて、引き続いて渡辺一夫である。

 
  
 社会は狂人の言葉に対しては寛大だが、健康人の憂世の言葉はまま痛すぎることがあるから拒否する。実に無欲恬淡なものだな。我が日本国民だってそうなのだよ。いや、特にそうかもしれない。優れた人々が戯作者や半狂人にならねばならないということは、悲しい証拠かもしれないね。



 「びいどろ学士」の一節であった(ちくま日本文学全集版、P.17)。これは1944年6月につづられている。

 
 今、だれが狂人なのか。正気とはいったい何なのだろうか。


 次は、「ユマニストのいやしさ」から。1942年8月に記された文章である。長く引くが、ご容赦願いたい。上記と同じちくま日本文学全集版のP.48-50。


 
 もちろん、この際にパスカルの賭にも似た問題が考えられる。すなわち、何物かを生かすために果たして≪いやしさ≫を甘受すべきであろうか、生かさるべき何物とはなんだろう? 恥を忍んでまで生かさるべき何物かがほんとうにあるのであるか? そして、結局人間は虚無に帰する以上何もそう賢げに振舞い、悲愴な精神的政治家めいた覚悟を立てる必要はないのではあるまいか、とも考えられる。しかし、それとも生かすべきものがほんとうに生き、そして受けつがれるに違いないのではあるまいか? いずれを信ずべきだろう? (中略)
微風の一吹き、蟻一匹のために、個人の心境は容易に変り得る以上、また人間は、いかなる口実でも現実の保全のためには製造できる聡明さを持っている以上、更にまた人間は、焼場の鉄扉の後に肉親を納めた時でも、己の消失死滅の必然を、まだ(幸いにも)真実とは思えぬ無神経さと、事ごとに死を恐怖する過敏さとを奇妙な度合に混淆せしめて、しかも幸福を求めながら生きて行く以上、この≪賭≫も(パスカルの賭と同じく)恐らく現実に意気揚々と生きている人間の心にはかすかな波紋しか立て得ない性質のものかもしれない。考えたところで一文の得にもならず、国策を翼賛するのに役に立つものでもない。しかし、一応は考えられてしかるべきであり、その解決の志は、配給の芋を賞(め)でながらも、心ある人の胸には宿っておらねばならぬものだ。そう信じたい

 ジョルジュ・デュアメルとミゲル・デ・ウナムーノとが絶賛してやまないセナンクゥールの言葉に、「人間は滅び得るものだ。そうかもしれない。しかし、抵抗しながら滅びようではないか? そして、もし虚無が我々のために保留されてあるとしても、それが正しいというようなことにはならないようにしよう」とある。僕は、この言葉を時々思い出す。そして、冷たい、しかも劇(はげ)しい情熱をすら感ずる。



 「何かのために」と思うことの非情さと甘美さをかみしめながら、これを読み、記すお前は何なんだと問いながら、問うているうちは正気が保てるなどと甘い考えを徹底的に排除していこう。





 
 
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by todoroki-tetsu | 2011-03-17 21:02 | 文学系 | Comments(0)

渡辺一夫「月に吠える狼」

 今朝は電車で出勤した。たった二日ぶりのことだが、ずいぶん久しぶりに電車に乗った気がする。

 
 通勤時間で本が読めるな、と思った。宮沢賢治にしようと思ったのだが、その前にふと目に入った『渡辺一夫』(ちくま日本文学全集、品切れ)を思わず懐にしのばせた。


 僕は、仰いでみる明月に、思わず叫びたくなった。誰にも判らぬ、僕自身にも判らぬ。しかし月だけに判る叫びをあげたくなった。征く人々はあの皎々たる明月だ。そして、叫ぶ僕は狼だ。ただ狼は狼でいる間だけは狼の営みを十全にはたすべき以外に道はないのである。専門と定めた題目の肉をくらい骨をしゃぶり尽くしてやらねばならない。しかし、今夕の月は、いかにも皎々としていた。



 冒頭に収められた「月に吠える狼」と題する随想の締めくくりの部分。昭和18年11月12日の日付である。


 だからどうした、と言われればそれまでだ。だが、なぜだか、迫ってくるのだ。自らを「狼」と称さざるをえなかった渡辺一夫の気持ちを理解できるとは思わない。そんな不遜な思いは抱けやしない。それでも、なお。




 
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by todoroki-tetsu | 2011-03-16 21:57 | 文学系 | Comments(0)