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選挙と書店員

 ずいぶんと慌ただしいことになってきた。都知事選が急に決まったかと思えば、次には総選挙。かねてから、景気回復のためには総選挙だろうと思ってきた。それで何が変わるかどうかは判らんが、少なくとも何かを変えるきっかけがないことには商環境は膠着するばかりだ。

 
 紙か電子か、などという問いにどこまで意味があるか知らない。ただ、顧客の求めるものを提供すること、それを維持できる仕組みを作ること、その仕組みでみんながそれなりにメシを食っていけること、そのことだけが重要だ。そうしてみると、いずれにしたって、コンテンツを購入する個人顧客のふところがあったかいものかお寒いものか、が書店員にとって極めて重要であることにかわりはない。


 その意味では、いま本を買って下さる顧客の生活がこれ以上しんどくならないように、本代を削らずに済むような社会になること。さらに言えば、いままで本には手が回らなかったという方が、「まあ、月に1冊くらい単行本を買ってもいいかな」と思ってもらえるような状況になることが、重要だ。もちろん商売人であるから、いかなる商環境であれ努力はするし、それが現状不足している部分があることも承知はしている。個人消費が上向けばおのずと本の売上が上がるなどと楽観はしていない。しかし、選挙の際にそのような思いを込めて個人として投票するのは問題あるまい。


 さて、その選挙である。選挙の結果を受けて諸般の経済状況が変化する、そこに期待するというのは何も書店に関わらず、小売全般に当てはまる問題であろう。書店の場合にはその業種特有の条件が付加される。つまり、選挙関連本というやつだ。近年政治がらみでえらいこと売れたので記憶しているのは、オバマ大統領の初当選の時だが、それもすぐさま大量の類書が出てお互いを食いつぶしてしまった。


 まあ、それはいい。問題は、いまだ。いまを、どうするか。


 経験則上、「政局」で本は売れない。もちろん、僕は僕の勤めている店のことしか実感としては判らないから、普遍化するつもりはない。しかし、誰と誰だどうくっつくだの離れただのというのは、本の売れ行きにほとんど影響しない。存外そんな評論家めいたものは売れやしない(関係者が組織的な購入をすることはあり得るだろうが)。その結果として何がどう変わるか、その具体的な手掛かりを指し示すものでない限り、たいしたセールスになりはしない。書店の棚を一時的に食いつぶしてはいおしまいだ。

 
 要するに、個別具体的な政策であり、論点である。これが明確にならないと、本は売れないのだ。この間のいわゆる「第三極」報道で気にかかるのは、そこだ。第三極の是非を云々するのは商売人の立場ではない。しかし、誰と誰がどうしたこうしたじゃあ本は売れないんだよなあ、という危機感だけは抱いている。


 投票まで4週間。単行本で新たなものが出ることは期待していないし、やっつけ仕事になるならやめたほうがいい。速報は新聞・雑誌がやればいい。ならば、いままで出ている本、いわゆる既刊本をうまく演出していくしかない。

 
 TPP、消費税、社会保障、原発、選挙制度、米軍(基地)、領土、民主主義、憲法、労働、生活保護……問題は無数にある。そして、これに関する本はすでにそれなりの数出てもいる。これをどう活かすかが、書店員の腕の見せどころだろう。政治家の顔がバーンと出るような本はとりあえずいい。「人」では売れないから。立場の違いはもちろんあっていい。というより、なきゃ始まらない。反対でも賛成でも、ガンガンに論争が起きなくちゃならない。

 
 しかし、反対のシンパ、賛成のシンパだけが買うような本は、よくもわるくも数が見えてしまうので面白くない。論争が発展していけば、相手の言うことを論破しようと違う意見の本も読むだろう。その問題に興味のない人でも、とにかく読んでみようかと手に取るだろう。


 以前、社会運動に関する本を念頭において、ある種のモデルを考えてみた。三人のモデルである。ここで記した考え方は、変更する必要が今もないと思っている。


 まっとうな議論が起きれば、本は売れる。そのようにして本が売れる社会は、少なくとも悪い社会ではない。これは、僕は確信だ。その確信をいかに形に出来るか。コーナーのためのブックリスト作りを、急ピッチで進めているところである。
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by todoroki-tetsu | 2012-11-19 09:38 | 業界 | Comments(0)

カネの話

 『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』について記した折に少し触れておいた、書店員としての僕自身にかかわるカネの話を少ししておこうと思う。

 
 とはいえ、別段給料がどうだとか労働条件がどうだとか、それに比べてあいつは云々などといったそういう話ではない。僕が、会社員書店員としてもらう給料以外に、発生したことのある、あるいは発生しなかった、カネの話である。ごくわずかなことでもあるから、時系列は前後する。記憶があいまいなところもある。


 ある本の話。営業さんと縁があって、事前にゲラを拝読する機会があった。面白いと思ったし、実際によいセールスだったのだが、新刊が出てから少しして、「新聞広告を出すから、コメントを一筆書いてくれないか」とのお申し出を営業さんから頂いた。面白い本だと思ったし、その営業さんとの関係も悪いものではないので、引き受けた。そう長いコメントではないが、たしか二種類くらい渡した気がする。そのどちらかが無事(?)採用となった。

 
 その際、謝礼の話をしたかどうかは全く記憶にない。ないのだが、その営業さんは「気持ちです」と、図書カードをお持ちくださった。しかもいつの間にやら僕の勤めている店で購入されたようなのだ。ここまでされて無碍に断るわけにもいかんな、とありがたく頂戴した。中味はたしか¥3,000分だったと思う。結構な額だな、と思った。何かのお返しをした記憶はない。せいぜい礼状一本くらいを差し上げたかどうかだろう。たぶん5年くらい前の話。


 話ついでに記しておくと、ゲラを読む/読まないについては様々な考え方がある。郵便物の整理などをしていると、バンバン文芸担当者あてにゲラが送られてくるのがよく判る。こちらから望んだものもあるだろう。営業さんや編集さんと関係性が出来た、その中で送って頂けることもあるだろう。まったくの「送りつけ」という場合もあるだろう。ある地方店経験の長い僕の同僚――月にゲラも含めて50冊は読むという、人として半ばおかしい領域に到達している人間だ――は、「ゲラを読んでしっかりコメントを返せば、さすがに露骨な減数はないからね」と話してくれた。部数確保のためのゲラ読み。これは実態としては立派な業務となるだろう。しかし、それは自分の時間を削ってということになるのだが。

 
 閑話休題。ふたつめの体験。一時期、ある新聞社系のサイトに本の紹介をする羽目になったことがある。本社が絡んだ案件であったので、サイトで見える部分は勿論判るのだが、運営実態は全く不明であった。1年間でたしか5,6回は原稿を書いたのだが、少なくとも半分はボツになった。採用になった際の対価は図書カード¥1,000分であった。まあ、こんなもんなんだろうな、と思った。中途半端に本社が絡んでいてもいたので、僕にはかなりどうでもいい案件であった。断るほどの額でもないな、とも思った。


 続いて、帯にコメントを、とのお申し出を頂いたことがある。これも少し縁があり、ゲラまで拝見したかどうかは覚えていない。営業さんも新刊発売当初から随分と力を入れてくださった。じっさいこれもよいセールスだった。その二度目か三度目かの重版の時に頂いたお申し出であった。「弊社の規定ではこうしたことをお願いする時の謝礼は一万なのですが、よいでしょうか」と、その時はきっちりと最初にお話があった。「いやあ、いいですよそんな」と僕は即座に断った。それまでに経験していたのが上記の¥3,000だったから、いやに高いなあ、と物おじしたのもあるし、まあ、一度はお断りするのが礼儀だろうとも思った。そうしたらあっさり引き下がられてしまったのだけれども、別にそれはうらみにも何にも思っていない。その営業さんにはいろいろとお世話になっていたし、もうちょっと別のところにカネを回してほしいという思いもあった。まだその帯が生きているのかどうかは確認していない。


 人前でしゃべらなけりゃならない機会になったことが、3度ほどある。ひとつは業界内の内輪の集まりで、他書店の書店員とあるテーマについて話をすることとなった。時間にして僕の持ち分は30分程度であろうか。この時は別段謝礼の話もなくそんことを期待してもいなかった。その後どうやら懇親会的なものがあったようなのだが、そうした場が嫌いなので早々に立ち去った。あるいはそうした場に出れば、講演料代わりに一杯くらいおごってもらえたのかもしれないが、それもまた妙な話ではある。上原專祿の「学芸会」を気取る気などさらさらないが、よほどの関係性のある相手でなければ、自分がしゃべった後に気さくに話をするようなことは出来ない。慣れていないことだから、消尽してしまうのだ。


 だいたい、ふだんから付き合い酒は避けている。結果として「接待」を受けた格好になった飲食はもちろんあるが、関係性の薄い間柄では申し訳ないが気が乗らない。営業さんからすればそれも「仕事」なのだろうが、そんな「仕事」に付き合わせるのは心苦しくもある。もはや声もかけられなくなったが、かえってありがたい。

 
 話を戻そう。二度目の機会は、これもまた比較的業界内の集まりであったが、入場料を500円ばかりとる場であった。この時も他の書店の書店員(大先輩であって、普段なら僕のようなものは一緒には話せないような方であった)と一緒で、これもまた僕の持ち分は30分ほどであった。この時の講師料は¥5,000を提示され、確か明確に事前にお断りした記憶がある。だが、講演終了後には「今後のこともあるから」と改めてお話を受け、頂戴した。今後のことは、今のところ何もない。受け取ってよいものだったのかどうかは、いまだによく判らない。


 三度目の機会は、ある学校での講義であった。時間は90分。手取りで¥9,000。これは会社がらみの公式の依頼であった。別にぼくでなくてよい案件だったのだが、致し方ない。曲がりなりにも学生時代にあれこれやっていた身としては、学生相手にしゃべる機会で謝礼を頂くのはいかがなものかと思い、謝礼を固辞したい旨具申したのだが、上司に叱られた。もらってから考えるか、と思ったが、振込まれてからしばらくたつものの、何もしていない。我ながらだらしないものである。まあ、しょせんこんなものだ。


 事前にカネの話があった場合/なかった(か記憶していない)場合、固辞した場合と受け取った場合、あれこれある。実際にコメントなり話のために使った時間はほぼ業務時間外のことであり、それがいいのかわるいのか判らない。


 対価をもっと受け取りたいとも思わない。いや、もっと景気が良ければ「多少は俺にも分け前をくれよ」と思えるかもしれないが、そこはちょっとおいておこう。しかし最近、こうしたいわばこれも仕事と割り切る態度、縮小する業界が少しでも盛り上がるのならという気持ち――こうした思いで業務時間外のあれこれを「正当化」するのには「無理」があるのではないか、と思うようになってきた。自分の世代はそれでよいかもしれないが、実はこうした態度こそが、より若い世代にこの業界を、あるいは職場を、「キツイ」と思わせている要因になってはいないか、ということだ。


 若い世代から順番に書店業界を去っていくように思われる。それはそれで仕方のないことかもしれない。引きとめる根拠はない。けれど、もし自分のやり方を以て「あんなことをやってられるかよ」と思われたのであれば……。まあ、そんなこともよくあることではあるのだろうけれども。


 最後の最後にもうひとつだけ。ある座談会に参加することになったことがある。複数の書店員と著者を交えてのもの。その座談会はたしか単行本に収録されているはずだ。最初に謝礼の話はなかったし、終ってからもそうした話はなかった。献本が一冊送られてきたが、献本はほとんどの場合断っているのでお返しした。担当編集さんとは何度かやりとりをしたけれど、関係性が構築できるとは思えなかった。別にそれは悪いことではない。ただ、そうであったというだけだ。


 別段対価が欲しいと思って参加したわけではない。かといって一部――特に文芸系が中心と思われる――著者と直接対話する場に漂う妙な多幸感を得たいとも思ったわけではない。僕にとってはただ、書き手と売り手がどこまで対峙できるかを試みようとしてみただけであった。自分の力の無さを思い知ったという意味で僕には意味があったし、それで十分だった。むやみやたらと書き手と接触したがる書店員を、僕は理解できないでいる。

 
 しかし、冷静に考えてみて、広告や帯のコメントで発生するカネが、本の内容そのものについては発生しないというのはどういうことなのだろう。新聞やテレビによる取材を受ける場合もあったけれども、これらは当然謝礼などはない。ああそうか、してみると、本の中身を構成すると思われる座談会というのは、そうした取材と同一なのだろう。座談会の場では珈琲を一杯おごってもらったが、それで十分だと考えてみなくてはなるまい。

 
 してみると。自分が扱い、日々商っている「言葉のパッケージ」たる「本」の、「原価」とは何か。
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by todoroki-tetsu | 2012-09-16 00:05 | 業界 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(7)「社会問題/運動」と単行本

 社会運動としての出版、という考え方はあり得る。それには相当程度賛成する。書き手、編集者、営業さん、出版社としては、十二分に成り立つ考え方であろう。書店員においては、部分的に成立する考え方であると考えておいた方がよさそうだ。そんなことについて今日は。


1.基礎イメージ
 
 まず、社会運動とは何ぞやという問題なのだが、その手前(?)の社会問題から考えてみよう。この定義をどこかで誰かがやっているのか、僕は知らない。例えば水俣病、例えば原発の問題、例えば小沢さんのおカネの問題、例えば消費税の問題……具体的に挙げていけばおそらくキリがない。ひょっとすると、あらゆる問題は社会問題だと言いうるのかもしれない。が、混乱を避けるために、ここではひとまず、吉本隆明さんの「三人の世界」という定義を借りておこう。講演「宗教と自立」より。
 
 
 かんたんにモデルでいえば、ひとりの世界というモデル、それから二人の世界というモデル、それから三人の世界というモデルをつくれば、人間の観念の世界は全部了解することができるでしょう。多数の世界において起る問題の原型は、三人の共同性の世界で起る問題を徹底的につきつめることによって理解することができます。

                          吉本隆明、『<信>の構造 2』、春秋社、P.220



 これは「観念の世界」について言われていることだけれども、概念整理には非常に役立つ。要するに、個人的な問題とか、二人だけの問題ではなさそうな問題を、ざっくりと社会問題であると認識しておこう。その程度のことである。

   
 さて、これらの問題に、何らかの行動・言動をもってアプローチしていこうとすることをひとまず社会運動としておこう。問題ごとに組織が創られるかもしれない。予めある組織が何かを行うのかもしれない。組織といってもいろいろあるだろう。一人で起つのも運動ではあり得るが、他者への働きかけをそれは前提とする。


 余談だが、一人で何かすることで、運動と言いうるかもしれない、と思えることで自分がやったことは、学生時代に何度かやった個人署名入りの立て看板づくりとか、数年前に手製のプラカードを持って国会前(議員会館前)に突っ立っていたとか、そんな程度のことしかない。誰かに伝えたいという思いはあるが、その行動は一人で責任を負う/負える範囲でやろう、という発想であろうか。比較的最近ではしばしばデモの隊列にひっそりと加わらせてもらっているが、これで「運動」をやっている気になってはいけないと自戒している。企画・運営・実行する皆さんが非常に大変だろうことを思うと、おのずと自戒のモードに入っていくのである。



2.社会問題/運動を単行本にするということ

 様々な社会問題、またそれに対する働きかけとしてのいわゆる社会運動を活字化・報道することは、ブログなども含めるとかなりよく行われていることだろう。もちろん、大手の新聞・雑誌が云々といった問題はあるだろうけれど。

 
 新聞で報道されること(特集のようなものも含む)、週刊誌や月刊誌でそれらが記事なること、これらは非常に意義もあり、ニーズにも一定応え得ると思う。しかし、それらを単行本にするとなると、話は変わってくる。ここが僕の認識の中心だ。


 新聞・雑誌であれば、定期刊行物という性格からくるひとつの枠組み・パッケージの形式がある。その中の構成の一部を為す、という次元においては社会運動についての記事や論説は大いに許容されるであろうし、また、されねばなるまい(実際はなかなかそうではないだろうことはもちろん重々承知しているつもりである)。


 ここで、ふたつのパターンを想定する。いきなりその社会運動・問題の単行本を作ってしまう場合と、何らかの媒体での連載をベースに単行本にする場合。

 
 どちらも様々な成り行きでそうなるわけだろうが、いきなり単行本にする場合、ともすると陥りがちなのは、運動当事者もしくは運動に既に参加している人を励ます意味合いが強くなりがちなことだ。そういう本はもちろんあっていい。だが、高度に専門的ではない書店の場合に、僕はあまり積極的に陳列する意味を感じない(置かない、という意味ではない。誤解なきよう念のため)。

 
 例えば、「声を上げないのは賛成しているのと同じ」という言い方があったとする。その言葉そのものは、おそらく間違っていない。その言い方は、運動を頑張っている人、参加し始めた人を励ますかもしれない。しかし同時に、運動に現時点で携わっていない人に対してはある種の「拒絶」と受け取られることもあるだろう。

 
 もちろん、どんな物言いも100%万人に伝わるなんてことはあり得ない。今挙げた例でいえば、「そうか、だから自分も黙っていてはいけないんだ」と思う人もきっといるだろう。しかし、単行本全体としての方向性として、どんな人を想定しているのか、そこは書店員として意識せざるを得ない。特定の層を狙うのならそれでいい。運動の場で売ってくれればいいのだから。「社会問題に関心のある人」なんてあいまいな客層想定しか出来ないようなら、少なくとも書店で売ることは難しいと一度は、一度だけでも良いから、考え直してみてほしい。

 
 ところで、新聞や雑誌連載の単行本化の場合には、反響に基づき、想定される客層もある程度は事前に予測出来るだろうとは思っている。レイアウトや注釈、また必要に応じたまえがきなどの配慮は必要であるけれども。それがない、もしくは不十分なものがあるのは非常に残念だ。



3.モデルの整理

 以上を三人のモデルをベースに整理してみる。


 Aさん、Bさん、Cさんの三人がいる。この三人が意識している/いないに関わらず、さらされている問題を仮に社会問題だとしておく。


 さて、Aさんはこれは問題だと思い、その改善のための運動をしようと考える。Bさんはそれに賛同する。Cさんは「興味がない」といって賛同しない。


 ここでAさん、もしくはAさんとBさんを、主たる読者と想定する本には、僕はあまり積極的に陳列する意味を感じない。AさんやBさんは確かに買ってくれるかもしれないが、わざわざ本屋に来ずとも運動現場の手売りなどで購入しているかもしれない。来てくれても、AさんとBさんの最大2冊までだ。

 
 ここでCさんにいかに手に取ってもらおうか、と考えて作った本は、積極的に陳列したい。ひょっとすると、AさんやBさんにとってはわざわざ買うまでもない本かもしれないという可能性もある。けれど、「興味がない」といったCさんが買ってくれるような本であれば、Cさん――それは無数に連なるCさんだ――への販売可能性があるというものではないか。またそんな本であるならば、AさんやBさんも、Cさんを説得するための材料として買ってくれるかもしれない。3冊以上売れる可能性がようやく出てくるわけだ。

 
 着実に2冊売れる本を別段切り捨てるつもりはないが、必要以上に積極的に陳列するつもりがないのは以上のような意味である。無数のCさんへの販売可能性がある本があれば、積極的になってみようというものである。



4.「つくり」の問題

 とはいえ、Cさんに向けて本を作ろうとするのは難しい。結果としてなかなかうまくいかないことの方が多い。けれど、努力を放棄したらそこでおしまいだと思う。


 以上のようなことをもっとかいつまんだりデフォルメしたりして営業さんや編集者に伝えると、「それでも社会的意義が……」とか「本のレベルを落としたくない」などと言われたりする。何もCさんに向けることが別段社会的意義を貶めるとか本のレベルを下げるとか、そういうことではない。もちろん、何度でも繰り返すが、Aさん・Bさんにだけ向けて作る本はあっていいし、それはそれでありだが、それらを必要以上に積極的に陳列するつもりはない。Aさん・Bさんのことしか想定していないような本を「幅広い読者の方に……」なんて言われても別に注文部数を増やすつもりはありません。ただ、それだけのことだ。


 結果としてそれなりに堅調なセールスをあげている本もあれば、やはりなかなか結果には結びついていかないな、と思う本もあるけれども、内容を維持しながらちゃんとCさんのことも考えているな、と思う「つくり」を実現した本を3点あげて、今回のエントリの締めとする。


・雨宮処凛、『14歳からの原発問題』、河出書房新社

 雨宮さんの語り口に帰するところが少なからずあるが、かゆいところに手が届く注釈とよみやすいレイアウトが素晴らしい。


・園良太、『ボクが東電前に立ったわけ』、三一書房
 
 上記のモデルで言えば、かなりAさん・Bさんよりにはなっているけれども、これも注釈やコラム、また時系列の記述などで「読みやすさ」を確保している。編集者の力を感じさせる。


・中島岳志、『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』、金曜日

 まえがきならびに雑誌連載未収録分の対談を大幅に付加し、単行本ならではの付加価値化に成功した好例。強いて言うならもう少し注釈を増やしてもよかったかもしれないが、しかし初読者への配慮は十二分に感じさせる。また、書店店頭においては非常に重要なことだが、カバーの装丁(色遣いと写真)が控えめでありながら存在感をアピールするに十分。


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 明日、明後日で脱原発関係の大きな催しが行われるようだ。それをベースに何かしらの単行本の企画が生まれるかもしれない。本来は個人的な問いに沈潜すべきところを放棄し、あえて今日記してみた所以である。
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by todoroki-tetsu | 2012-01-13 14:20 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(6)「内容」か「背」か

 「著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である」と以前のエントリで記したけれども、書店員が扱うのは言葉であってなおかつ、商品でもあるものだ。

 
 前回『言語にとって美とはなにか』を引いた。今回は別のところを前置きとして参照しておきたい。概念図も掲出されているが、ここでは本文のみを引く。


 ……言語表現を『経哲手稿』のマルクスのように「人間の本質力の対象化された富」といってみれば、この対象化された表現をbの経路(等々力注:自己表出から指示表出へ)でかんがえるとき言語表現の価値を問うているのであり、aの経路(同注:指示表出から自己表出へ)でかんがえるときその意味を問うているのだ。そして、そのうえでさまざまの効果のさくそうした状態を具体的にもんだいにすべきだということになる。

                           『言語にとって美とはなにか Ⅰ』、P.103



1.書店員の二つのタイプ

 極論する。書店員には二つのタイプがある、と言ってしまおう。内容派と背派と仮にここでは名付けておく。なお、背派という言葉は小倉金榮堂のご主人、柴田良平さんの言葉による。興味ある方は、『吉本隆明 五十度の講演』の「【11】〈アジア的〉ということ」の冒頭をお聞き頂きたい。些か高くつくけれども、損はない買い物である。
 

 さて、内容派は、自分で読んでみてよいと思ったものを力を入れて売っていきたい、と考えるタイプ。背派は、自分では本を読まないが、今何が売れているかをベースに、装丁の雰囲気やタイトル、書評などから売れそうなものを売っていく、というタイプ。そのように分けて考える。


 実際に書店員がやっているのはこのタイプを適度に混合したものである。内容派といっても全てが全てゲラなり自分で購入したりした本を読んでからでないと売れないわけではないし、背派といっても目次などからおおよそ何が書かれているかというのはチェックするものである。考察においてはある種極端なタイプを想定してからはじめたほうが都合がよいのでそうしておく。


 タイプという用語を用いたが、これは実はその書店員がどういう世界観を持っているかという問題である、と大げさに言おうと思えば言える。書店員は内容を知った上で売るべきだと考えているか。それとも、この本はどんな顧客に向けたら売れるだろうとさえ考えればよいと思うか。

 
 繰り返すが、この両者は実際には複合する。どちらか一方だけ、というのは考えにくい。しかし、その書店員がこのいずれを理想と考えているか、突き詰めて考えていくとこのどちらかの問題になる。内容=「意味」か、背=「価値」か。言葉に寄り添うか、商品として突き放すか。良し悪しの問題ではこれはない。どちらが正しいということではない。



2.内容派と背派の実際――個人的経験から

 僕自身はどちらかというと内容派である。いや、あった、という方が近いかもしれない。具体的に記そう。


 例えば家電では、新しい機種について、そのメリットやメーカーごとの違いなどを説明してくれる店員さんがいるだろう。それと同じように本来は書店員も、扱っている本についてちゃんと知っているべきだ。しかし、高度の専門書(例:医学書)については難しいだろうし、担当する分野が広いと全てが全て読むというわけにはいかない。だから、全部読むというのは到底無理だが、少しでも読んでおくのが書店員としての理想である。なかなか難しいかもしれないが、努力しよう――いつ頃からは覚えていないが、だいたい、書店員として勤め始めて1~2年程度の段階(約10年前)ではこうした考え方をしていたように思う。


 この考え方は今でも否定すべきものだとは思っていない。が、突き詰めて考えるとあくまで努力目標にとどまるものでしかない。それはそれで大事なことだけれど。

 
 最初にこうした内容派的な考え方をするようになったのは、個人的な性向にもよるだろうが、振り返ってみると地方店にいたことが大きかったのかもしれない、と思う。地方店には地方店なりの忙しさがあるが、例えて言えば、全国紙の書評が出たからといってその日曜や月曜のうちに何十冊も売れるような、そういうような反応はなかった。その意味では相対的に内容について考える余裕があったし、また焦りもあったのかもしれないと思う。


 その後いくつかの場所を経たが、現在勤務しているのは比較的顧客の反応の早いところである。新刊の物量も多いし、版元営業さんもよくお見えになる。情報量は格段に多い。落ち着く時間がなくなっていく。それでも新刊は入ってくる。粘るものと見切りをつけるものを見分けよ。判断のスピードを上げよ。読んでいる暇はない。タイトルと著者でだいたいの見当をつける。困ったら目次だけざっと眺め、置くべき場所を決め、部数の過不足を予測する。装丁から受ける印象で、これはいけそうだ、と思うこともある。そこそこに当てた勘もある。外した勘は無数にある。
 
 
 かくして、内容派はいつの間にか背派にシフトする。大量の本を触ることで、あるいは顧客動向をよく観察したり、新聞やテレビをよく読んだり見たりすることで「この本はここに置いた方が売れそうだ」「こういう本が出ると売れるのではないか」という感覚を磨いていく。そうなると、本を読むのはあまり重要ではなくなってくる。顧客の関心がどこにあるのか、その関心にマッチングさせるためにはこの本をどこに置けばよいのか、徹底的に考えていく。誤解を恐れず言えば、本を読んでいる暇などなくなってくるのだ。


 しかし。顧客は確かに誰かが紹介していたから買うのかもしれない。が、その紹介に何か自分が思うところがあったから買おうと思うのであって、それはやはり内容とはまったく無関係であるとは言い切れない。となると、やはり内容も……。


 たぶん、勤務する店なり部署が変わればまた考え方は変化していくだろう。書店員は顧客によって応じて変化するものだから。なので良し悪しではないし、正しいとか正しくないという問題でもないのだ。


 以上、長々と自分の経験を振り返ってみた。書店員一人ひとりの経験は個別具体的であるが、そこには何かしら共通項として原理的に抽出しうる要素が含まれているだろう。自分の経験を一般化するつもりはないが、部分部分では他の書店員にも多少は共通する要素があるだろう、と記すにここではとどめておく。



3.本という商品の「無理」

 どんな商品でも――食品であれ家電であれ車であれ――、作り手が渾身の思い入れを以て作り上げたものがある。もちろん、それなりにそこそこに、というものもある。それはそれでよい。すべては顧客ニーズとのマッチングで決まる。作り手は思い入れがあるけれども、やっぱり売れなかったというものもあるだろうし、逆に、思い入れが通じたかのごとく売れていく商品もある。どちらもありふれた光景だ。


 本という商品でも、それは同じことだと思う。商品として流通させる/する以上、売れるか売れないか、しかないはずだけれども、それだけでは割り切れないものがある。でも、本、すなわち言葉をパッケージ化したこの商品は、割り切れないものの比重が相対的に高いのではないかという気がどうにもしてくる。実際、今回取り上げた事例で言えば、背派とはいえやはり内容を無視するわけにはいかない。


 僕が当事者でもあるからだろうか、どうやら本という商品、言葉をパッケージ化した商品は、時として過剰な思い入れがつきまとうように思われる。言葉を広くあまねく流通させるには、本という形で商品化するのが有効な手段の一つであることは間違いない。商品としての流通を突き抜けて何らかの生命力をもつような、そんな言葉もあるかもしれない。しかし、商品化するにそぐわない言葉も、ひょっとしたらあるのではないか。


 鳴り物入りで創刊される「言論誌」や、自信満々に売り込んでくる自費出版物を見るたびに「そんなにあなたが思っているほど売れはしませんぜ」と思う。内輪で地道にやれば如何、と思う。同時に、ごく普通に流通していて、地味な本ではあるけれども、読者としての僕には実に大切で手放せないと思うような本も、少なからずある。


 そもそも、言葉を商品化することは可能なのだろうか。ふと思い起こすのが、下記。

 
 人間の労働力が自然に働きかけて物を生産し、その物によって労働力を再生産するといういわゆる自然と人間との間の物質代謝の過程が――それはあらゆる社会において行われている過程であるが――資本主義社会では商品形態を通して資本の生産過程として行われているのであって、そこに資本主義に特有な形態的な無理がある。資本は、その形態として当然に要請せられる無限の蓄積を続けようとしても、この点で続け得なくなる

                             宇野弘蔵、『恐慌論』、岩波文庫、P.125


 
 商品化した/された言葉とは何か。他者が商品化した言葉を売ってメシを食う自分は、何なのか。
 

 他者の言葉を、何らかの理由から売りたいと考える。POPのひとつでも書いてみようと思う。1枚や2枚は書ける。しかし、枚数を重ねていくごとに、同じような言い回しを何度も使っていたことに、気づく(例:「気鋭」)。あるいは、無意識のうちに作り上げたパターンをなぞっているだけのことに、気づく。内容派であれ背派であれ、そんな経験をしたことはないか。他者の言葉を自分の言葉で表現する矛盾を、他者の言葉の一部をクローズアップして伝えようとすることの空虚さを、無意識のうちに感じ取ってはいないか。

 
 ……割り切ってしまうのは大切なことだ。深く考えない方が精神衛生上よろしい。「無理」は、資本主義社会における様々な問題と同様、無視しようと思えば案外簡単にできる。あるいは、「無理」をなんとか乗り越えようと試みてみることも出来る。店や会社の枠を超えて書店員同士で集まろうとすることも出来るし、著者と接点を持とうとあがいてみることも出来るし、版元さんと関係を密にしていくことも出来る。きっとどれもそれなりに根拠があって、それなりに重要なことなのだ。


 その先にあるのははたして何だろう。それを考えるために、僕は「自分を問う」(大澤信亮)という作業をしなければならない。そのためにこの書店員イデオロギー論を書き散らしているのだが、どうもやはり、より個人的な問題を見つめなおす作業が必要になってくるようだ。それは、他者の問いを共有することは可能か、というテーマとして、漠然と、しかし確実に、僕の身の上に覆いかぶさっている。


 
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by todoroki-tetsu | 2012-01-08 21:19 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(5)「自己表出」「指示表出」を手がかりに

 当たり前のことだが、書店員はパッケージ化された言葉を売る/買って頂くのが仕事であって、書くことが仕事ではない。仕事と切り離して個人的に何かを書くのはもちろんあり得るだろう。その是非を云々したいわけではない。しかし、書店員が書店員として仕事をする、その局面を考える場合において、理論的第一義的には、書き手の思いを忖度するよりも、顧客が買ってくれるかどうかを考えることが先であるということを確認しておきたい。書店員風情がその立場と力量以上に何かを出来るなどと思ってしまう不遜を予め警戒しよう。

 
 もっとシンプルにいえば、著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である。他者と他者とを仲立ちするというわけだ。

 
 それを前提とした上で、「売りたい」と思う本が売れたり売れなかったりするということ、別段売れると思っていないかった/あんまり売りたくないなと思っていた本が思いのほか売れたりやっぱり売れなかったりするということについて、考えてみたい。主に書店員個人=次元Ⅰを想定する。



1.言葉がパッケージ化される過程から
 
 前言と矛盾するようだが、言葉がパッケージ化される過程、より直接には著者に近いところから考え始める。それがやはり起源であるということと、そうすることで参照項を拡げたいと思うからだ。参照項は、吉本隆明さんの『言語にとって美とはなにか』。二か所ほど引いておこう。


引用A 
 芸術の内容形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまな生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる。その意味では、もちろんこのあいだに、橋を架けることができる。この橋こそは不可視の<かささぎのわたせる橋>(自己表出)であり、芸術の起源につながっている特質だというべきだ。         
                                    『Ⅱ』(角川文庫、P.240)



引用B 
 ……自己表出の極限で言語は、沈黙とおなじように表現することがじぶんの意識にだけ反響するじぶんの外へのおしだしであり、指示表出の極限で言語はたんなる記号だと想定することができる。そして人間の言語はどんな場面でつかわれても、このふたつの極限のすがたがかさなって存在している。

                                    『Ⅱ』(角川文庫、P.279)

 
 
 吉本さんの自己表出/指示表出の概念を、ちゃんと理解している自信はまったくない。考えるヒントにはなるししたいな、と思う程度である。


 著者が書きたいと思うことをそのまま書き、それが比較的スムーズにパッケージ化され、かつ売れた場合には、著者の自己表出がそのまま顧客ニーズを体現していたということになる。売れなかった場合には、その自己表出は顧客ニーズにはあわなかったということになる。


 ところで、著者の自己表出は純然たる自分の中から出たものなのか、それとも実のところ指示表出をそうとう意識したものなのか、その切り分けは難しい。「人間の言語はどんな場面でつかわれても、このふたつの極限のすがたがかさなって存在している」(引用B)からだ。しかし、「誰が何と言おうとこれを書きたいのだ」という思いのほうが相対的に強い場合と、「とにかく広く読んでほしい(買ってほしい)」という思いが相対的に強い場合とは、たしかにあるように思える。前者は時としてわがままに映り、後者は時としてあざとく見える。どちらも大事なことなのだが。


 「誰が何と言おうとこれを書きたいのだ」が、編集者・営業・書店員のいずれもが「あ、それはいいですね。売れそうです」と思ってパッケージ化され、受け取ることが出来れば、そしてその結果として他者=顧客がカネをはらってくれるのであれば、その場合著者の自己表出は、「不可視の<かささぎのわたせる橋>」を、着実に架けていることになる。


 が、大概の場合においては、前回記したように様々な葛藤を経てパッケージ化される。そこでは常に自己表出と指示表出のせめぎ合いがあるということが出来る。



2.書店員が個人として「売りたい」と思うというのはどういうことか

 「著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である」と冒頭に記した。経験の蓄積などからくる顧客ニーズ認識を基に発注し、陳列することが主な仕事であるわけだが、中には「売れないかもしれないけれども、試してみたい」と思うことはやはり、ある。
 
 
 その時、書店員個人の問題意識を他者の言葉である本に託すというような場合もあれば、「ちょっと目先を変えてみるか」という比較的軽い気持ちの場合もある。これは、良し悪しの問題ではない。前者は、書店員個人がその問題意識を自己表出として他者の言葉に託していると考えてみることができるだろう。後者を指示表出の仮託と言いうるかは判らないが。


 さて、書店員個人の問題意識があるがゆえに、自制する場合もある。前回のエントリでちらと社会運動系の本について記しておいたけれども、もっと言ってしまえば、デモに行く書店員がデモの本を力を入れて売るとは限らない。かえって「これはこれ。それはそれ」と区別してしまうことだってある。まあ、これは僕のことなのだが。この場合、デモの現場での盛り上がりが書店に反映するわけではないことを経験則上知っているからであり、また結果を出そうとすれば相当の工夫が必要と自覚しているから二の足を踏むのである。この二の足が間違っているかどうかは、やはり顧客の審判を待つほかはない。


 書店員個人が何らかの問題意識をもって「売れないかもしれないけれども、試してみたい」と思った場合、それは書店員個人が優れて顧客ニーズの動向を観察しているか、あるいは書店員個人が実は顧客自身としてニーズを認識していたか、そのいずれかであろう。どちらの場合もあり得るし、たぶん複合している。前者は商売人としての徹底化の結果であり、後者は個人の問題意識でありながら実は顧客ニーズそのものであった、すなわち顧客との同一化である。「芸術の内容も形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまな生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる」(引用A)を、商売人として表現すれば前者になるし、広く社会的な文脈に引き付けるならば、後者の表現となるだろう。

 
 さらに言えばそれが結果に結びついた時、意識的な場合もあるだろうし、無意識な場合もある。顧客が「ここに並んでいたのでつい買ってしまった」という時、それは無意識の顧客ニーズが商品との出会いによって顕在化したのだということが出来る。


 ここで考える必要がさらに出てきたのは、言葉のパッケージの商品としての旬・寿命・生命力という問題だ。今までは主に新刊を想定してきたが、新刊の中にも10年後に残っていくものもあるだろうし、三ヶ月で売り切っておしまいというものもある。ほとんどはその莫大な中間地帯に在るだろう。時系列の考察が必要となる。


 書けば書くほど考えることが増えていく。よいだろう。あせらずにやっていこう。
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by todoroki-tetsu | 2012-01-02 11:10 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(4)顧客のニーズ認識について

 「何を言ってるんだ。いいか、必要があって、商品が生まれるんじゃない。そんなのは二十世紀のビジネスだ。二十一世紀は、まず商品があって、必要を作り出すんだ」



 『朝日のような夕日をつれて '91』(弓立社、P.15)のセリフである。このセリフのあとに続くやり取りも実に興味深いのだが、それは戯曲なりDVDなりをご覧いただくことにしよう。



1.書店に本が来るまでのことを想像する
 
 さて、本を書く/出版するということはどういうことだろうか。詳しくは知らないので想像してみる。一般的に言って、


・「著者」―「編集者⇔営業」―「取次」―「書店」


 という流れで間違いはないと思われる。印刷所さんなどを省いてしまっているし、書店流通を前提としているけれども、そこは勘弁してもらおう。


 とにもかくにも著者が起点となる。著者が何かを書こうとするというのはどういうことか。自らこれを書きたい、と思って書いたものもあるだろうし、編集者が「書かせた」ような場合もあるかもしれない。このいずれも、


α:例えば「著者としての自分が書きたい」「編集者としての自分が読みたい」というような、自分が起点となる場合と、


β:「他人から言われたから/他人が面白いと思ってくれそうだから、書く」「他人が面白そうだと言っているから/他人が買ってくれそうだから、書いてもらう」というような、他者が起点となる場合と、


 この二つの場合が考えられる。もちろん、このαの場合もβのそれも簡単に切り分け出来るものではない。現実には融合しているだろうし、認識にも時を経た変化があり得る。


 しかし、ここで確認したいのは、自分が書きたいことを書いた結果として他者がその価値を認めたり認めなかったりする場合と、初めから他者のニーズを想定して書いた結果として他者がその価値を認めたり認めなかったりする場合と、どちらもあるでしょうということなのだ。そして、まがりなりにも「商品」として出版する以上は、ある程度の部数は他者にカネを払って買ってもらわなきゃいけない。だとすると、様々な葛藤が各局面であるはずなのだ。


 著者の原稿そのまんまではその真意が伝わらないので直しをお願いする編集者、価格はここまでにしておかないと厳しいと編集者に伝える営業さん……、おそらく版元さんはこの手のネタに事欠かないのではあるまいか。


 そうした葛藤を経て、言葉は本という商品としてパッケージされ、書店にやってくる。たまにこの葛藤の段階で口をさしはさむことがあるけれども、そうしたことは全体のごくわずかであるのでここでは無視して、次に進もう。



2.新刊がやってきた時の書店員の反応

 新刊がやってきた時の書店員の反応については、前回のエントリである程度具体的に記しておいた。「予断」という言葉で、書店員の経験値による自店客層のニーズ認識などを表現してみた。

 
 さて、ここで「編集者⇔営業」(=出版社)が認識している顧客ニーズ(A)と、書店員が認識している顧客ニーズ(B)との関係を考えてみたい。著者や取次も想定すべきだろうが、言葉を商品化した段階である程度著者もその成り立ちには納得しているだろうとひとまず考え(実際のところは知らないが)、また、取次についても仕入の段階と配本パターンの問題など検討したいこともあるけれども、ここでは捨象する。


ケース1)B∈A(BがAに属する/含まれる)
  「編集者⇔営業」が認識している顧客ニーズが、書店員の予断(=書店員が認識している自店客層のニーズ)を含む場合には、比較的良好な関係が生まれるだろう。普通だったら1面分7冊配本されればいいやと思うところを、これはいけそうだと早速10冊追加してみる、というような具合。


ケース2)B∉A(BがAに属さない/含まれない)
 「編集者⇔営業」が認識している顧客ニーズが、書店員の予断(=書店員が認識している自店客層のニーズ)を全く含まない場合には、悲惨である。7冊配本されても1~2冊差して残りは少しだけ寝かせておいて返品するか、そもそも1冊も出さずに即返品するか、そんなところだろう。


――ケース2)は表現としては極端なものだ。しかし、専門書や高額商品でなくてもこうしたことは起こり得る。例えば、いわゆる社会運動系の本。デモやイベントなどで盛り上がっていて、それなりにマスコミ露出もあったり研究者で注目している人もいて、というような事例を本にするとしよう。確かにデモやイベントに参加すると盛り上がるだろうし、そうした現場では、手売りで確実に売れるだろう。しかし、それが必ずしも街の本屋の顧客にまで広がるか。あるいは、街の本屋の顧客はそうした現場に足を運んでいるか。その逆もしかり。――


 しかし、書店員の判断は以上二つにとどまるものではない。例えば、


ケース3)B∈A(BがAに属する/含まれる)けれども、個人的に関心があまりなかったり(次元Ⅰ=書店員個人)、店として力を入れている分野ではない(次元Ⅱ=店)ので特に力を入れない


ケース4)B∉A(BがAに属さない/含まれない)けれども、個人的に関心があったり(次元Ⅰ=書店員個人)、店として力を入れようとしている分野なので(次元Ⅱ=店)、特に力を入れていきたい


 というようなケースも、十二分にあり得る。


 言葉をパッケージ化する段階で、様々な葛藤があっただろう。それと同じように、本が書店にやってきてからも、葛藤は継続する。その葛藤を断ち切るのは、すなわち何が顧客ニーズに合致しているのかどうかの審判は、結局のところ顧客以外には下しようがない。

 
 発注や陳列といった仕事は書店員にとっては日常茶飯事すぎることなのだけれども、それを意識的に言語化してみようとするならば、例えばこんなことになるのだろうと思う。

 
 そしてもし、ケース4)で挙げたようなこと、すなわち自店客層のニーズにはあっていないだろうと認識していたものを試し、それなりの売上結果を上げることが出来たとすれば、認識も市場も拡大出来たことになる。こうしたことが非常に重要なのだが、なかなかこれを追求していくことは難しい。これは、書店員と版元さんとの想像しうる理想的な関係は何か、という問題として、あるいは書店員がメシを食っていける職業であるのかどうかという問題として、別途考えていく。





 
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by todoroki-tetsu | 2012-01-01 22:49 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(3)「原発本」を具体例として

 いくつかの具体例をこれからあげていこうと思う。いずれも実際にあったことをベースにするが、いくつかの事例を複合させて述べる場合もある。

 
 現在進行中の事例であるので何とも生々しいのだが、いわゆる原発本をめぐる情況をまず考えてみたい。



1.原発本のラッシュ

 アプローチは様々あるが、広義の原発に関する本が怒涛のごとくこの4月からは出版されてきた。どこの書籍販売サイトでもよいのだが、試みに「原発」とキーワード検索し、出版年月順に並べてみて欲しい。いかに莫大な量の原発本がこの8カ月ほどで出版されたか、よく判るだろう。


 この出版の流れについては思うところがあるけれども、それはひとまずさておき、それでもなお原発本は出版されていく。もうすでに区切りをつけた出版社もあろうが、おそらくは2012年3月まではそれなりの量の新刊が出されるだろう。



2. 物理的な制約

 本屋の棚は有限である。もとよりすべての本を置くわけではないし、あるジャンルに出版が集中するということは一定のニーズ――あくまで出版社が認識したそれ――があるわけで、それに応じて本屋も棚を増減させればよい。だが、それにもおのずと限界がある。あらたに棚を増やしたとして、それは削った他のジャンルの売上をカバーできるものなのか? 原発の問題は確かに重大であるかもしれない。けれど、それ以外のジャンルの本だって大事じゃないか。おそらくこうした時流の問題と棚の有限性の問題を、書店員は意識するとせざるとにかかわらず天秤にかける。先取りして述べておくと、書店員のイデオロギーは棚という空間のいわば「制空権」と、密接に関わっている。

  
 有限の棚に大量の本を並べようとする場合、おのずとそこには取捨選択が生じる。ところてん的に押し出される2週間前の新刊。ある程度のペースで売れる本はそうそう平積みから外さないのが通常だが、その「ある程度のペース」がどんどん上昇していく。具体的にいえば、普段なら週に2冊売れる本は平積みから外さないけれども、その2冊というハードルを5冊に上げるようなこと。かくして原発本の寿命はその扱う課題に比してどんどん短くなっていく。



3.原発本新刊をどう扱うか:配本時に初めて気づいた新刊について

 すでに述べてきた情況において、新刊が出る/出た時に書店員はどのように判断をするか。まずは事前注文をせず、配本されて初めて気づいた新刊のことについて記してみよう。


 配本されて気づいた場合には当然ながら事前の準備はない。一般に、部数が少ないと考えればその時点で追加することもあるが、この間その必要を感じた新刊はあまりない。もちろん、売れ始めたら追加発注するけれども。


 新しい本を陳列するには、何かを減らさなければならない。日々棚を触っていればある程度は次に何をおろすかは頭の中にある。ただ、下ろす=返品ではない。書評に出やすそうな著者や出版社のものは少しストックに寝かせておく。もちろん、スペースの許す限りではあるが。

 
 この時点では売れるか売れないかは全くの未知数である。数週間で何ら動きがなければ下ろす候補になり、ゆくゆくは返品となる。売れていけば継続して発注・陳列していく。全ては棚においてからの顧客の反応待ちというわけだ。


 しかし、実のところ配本時に初めて気づいた本とはいえ、おおよそ自分の店ではどの程度売れそうかどうかという予断がある。その予断には、次元Ⅰ=書店員個人の考えや判断、次元Ⅱ=店(より正確には特定の単独店舗)の考えや判断が色濃く反映している。そのいずれにも「顧客」という他者が入り込んでいるのだが、そのことが集中的に現れるのは出版社の営業さんとのやり取りである。



4.原発本新刊をどう扱うか:出版社営業さんとのやり取り

 出版社営業さんからの提案と、それを受ける書店員の判断において、新刊/既刊の区別は一つの要素にすぎない。が、話を判りやすくするために、ここではこれから出る新刊を、営業さんが案内に来られた、というシチュエーションを想定することとしよう。

 
――すぐさま注釈を入れておかねばならない、しょせんこれは大都市圏、特に首都圏の書店員のことにすぎない、と。僕はもともと地方の店舗から書店員としての仕事をはじめているが、首都圏の店舗に異動した当初は営業さんの訪問の多さにびっくりした。なので、所詮お前の記すことは首都圏の一部の書店のことにすぎないだろう、と言われても仕方がない。その批判は甘受しよう。が、一方で、版元営業さんとの、また、顧客との関係性が、集中して現れていると考えることも可能である。僕のこれから述べる経験や考察が当たり前でも普遍的でもない、そこから何かをつかみだしたいし、つかみだしうると考えている、と記しておくほか今はない――
 
 
 ある新刊のチラシをもって、営業さんがお見えになる。そのチラシを見ながら、お話を伺う。伺いながら、また原発本か、と思う時もあれば、これは売れそうだと思う時もある。その判断根拠は、前述した予断にある。


 自店の棚を触っていれば、少なくとも自分の棚に置いている商品でどのようなものが売れているかいないかは、判る(厳密にいえば、自分の作った原発棚ではおいていない本が他の書店では原発本として置いているというようなケースもあるのだが、これについては今は触れない)。意識するとせざるとにかかわらず、自店の顧客の動向を、書店員は体感している。その体感が、予断の主な要素である。


 しかし、その予断には、こぼれ落ちるものが必ずある。例えば、書店員自身は売りっぱなしでこれはよい、あるいはもう平積みから下ろして棚差しでよいだろうと判断したものの、実は顧客ニーズはまだあって、平積みを継続している他書店ではまだ継続して平積みしてよいペースで売れているというような場合。また、もっと仕事のレベルとしては低いのだが、おざなりでやっていて売りっぱなしでほうっておく、欠本に気づかぬまま時を過ごしてしまうという場合。


 そのこぼれ落ちるものに気づくことが出来るかどうかは、顧客や出版社営業さんといった他者との関係にかかる。けれどもその一方で、どうしても自店客層とは合わないと思われる場合も確かにある。


 その場合には、他の類書との「差別化」がなされているかどうかが判断の要素となる。今まであまりない視点で書かれたようなものであれば、ひょっとしたら試してみる余地はあるかもしれない。そう考える。それでもやはり、あまりに自店客層に合わないと考えた場合には部数は渋くなってくる。

 
 問題は、それで営業さんも書店員も納得できるかどうかである。お互いに「まあ、こんなところかな」というあたりで落ち着かないことがある。こと原発本の新刊に関して言えば、書店員の側がこれだけ欲しいのに出してもらえないということよりも、その逆、書店員の側が5冊程度でよいと考えていてももう一声と粘られることのほうが多いと思われる。


 原発本に限らずこんなことは日常茶飯事なわけで、営業さんの苦労も偲ばれるわけだが、書店員としてもある程度の譲歩は出来るけれども、やはりある程度の一線はある。営業さんがとにかく部数を突っ込もうという意図が透けて見える場合(書店員が誤解している場合も含むけれど)は、相手にするまでもない。置いてみて様子を見ましょう、と切り上げるだけだ。この局面で、「社会的意義」とか言われると非常に困る。書店の棚に置くことに意義がある、などと言われても困る。いや、困るというよりは、厄介だと言ってもよい。


 意義のある本かもしれない。しかし、それは商品である。売れるか売れないかが勝負なのだ。もちろん、ここですぐさま補足するが、売れる/売れないはそのジャンルによって基準が変わるのであって、その基準は相対的なものだし、ある程度の経験を持つ書店員なら複数の基準の切り替えは十二分にできる。さらに言えば、売れない(と思われる)本をいかに売ろうとするかが大切なのであって、だからこそ「売り方」が重要になってくる。ただものを並べて置きゃあいいってもんじゃないし、むやみに「一等地に平積みを」なんてフレーズを使ってみたところで書店員の腑に落ちる筈はない。


 これは、どちらが正しいとは安易に言いうるものではない。結局のところ、審判を下すのは顧客でしかない。しかし、顧客について考えようとする前に、いくつかを記しておいて今回は一段落としよう。



5.こぼれ落ちているいくつかのこと
 
 今まで述べてきた中で、扱っている本の作り手のことはほぼ考慮していていない。あくまでパッケージ化された後の言葉としての本のことしか考えていない。これは書店員としては比較的自然な発想であると思う。ひとりの担当範囲だけでも何十の新刊を実際に触れる立場として、そういちいちには感情移入はしていられない。書店員が感じ取るのは、まず真っ先に感じ取るのは、例えばタイトルであり、例えば装丁であり、そして価格である。このタイトル、この装丁、この価格なら、売れそうかもと感じ、あるいはこれでは厳しいなと感じる。そこには作り手の苦労などに思いをはせることはほとんどない。すべては商品である。


 言葉を商品化するという点については作り手がまずもって起点になるわけだが、流通過程の末端にいる書店員は、その商品の捉え方がおそらく作り手とはだいぶんに異なるだろう。ここはひとつのポイントであり、別に考えたい。

 
 もうひとつ、これは蛇足的な話だが、ゲラや献本を書店員に送付するという販売促進方法が確かに存在する。こちらから望んで頂く場合にはもちろん売り方を考えるためであったり、最終的な部数決定の助けとするためだったりするわけだが、中にはほとんど見ず知らずに近いような関係の人から一方的に送られてくる場合もあって、さて、どうしたものかと思う。試し読み的なコンパクトなものならまだしも、200頁前後のゲラを読もうとする時間と気力が、いつもいつもこちらにあるわけではない。それで販売促進をやった気になってもらうのはご免だという気になる。この認識差は、少し考えてみる価値があるかもしれない。


 最後に。以上の記述は書店員個人(次元Ⅰ)を念頭に置いたものとなってしまったが、実際には店としての判断(次元Ⅱ)も影響してくる。店としてしっかりとスペースをとってやっていきましょう、という判断・方針であればそのように書店員はある程度までは動くし、逆に、店としてはもうある程度見切りをつけましたという場合には書店員の部数判断はもっとシビアになるだろう。


 日を改めて、さらに具体例をあげて考えていきたい。
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by todoroki-tetsu | 2011-12-23 22:21 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(2)構造の骨格

 書店員が何かしらの物事を考えたり仕事を実際にやっていく際に、いくつかの次元があると考えることが出来る。


 まず、一個人としての判断や行動がある。これを次元Ⅰとする。後述するが、書店員はその店の経営方針や職場環境などによってその判断や行動は条件付けられ、より大きな経営体である会社全体からももちろん条件づけられる。だが、局面局面においては個人として主張/行動しうる。圧倒的な力の差はあるとはいえ、しかし、全く主体性がないとも言えない。それに、個人としてはAが正しいと信じるが、会社の方針としてBに従わざるを得ない、ということも日常茶飯事である。そうしたこともひっくるめて、一個人としての判断や行動がある。そういえる次元が確かに存在する。

 
 次いで、その勤務している書店の一員としての判断や行動がある。これを次元Ⅱとしておこう。ここでは店と本社が別にあるような、そういう状況を想定している。単独店舗の上位概念として会社を想定しよう。これを次元Ⅲとする。単独店舗がすなわち会社全体であれば、その場合には次元Ⅱと次元Ⅲとがぴったりと重なり合っている、そのように考えてよい。

 
 要するに、
 

・次元Ⅰ=個人

・次元Ⅱ=店(より正確には特定の単独店舗)

・次元Ⅲ=会社

  
 というわけだ。


 この三つの次元のうち、考察のもっとも要となるのは、次元Ⅱであると思われる。次元Ⅱは書店員として判断・行動する際のもっとも基礎となる単位であり、そこには書店員として働くことにまつわるありとあらゆる喜怒哀楽が凝縮されている。まずは、次元Ⅱを成り立たせる要素を分解してみよう。

 
 第一に、会社の経営方針が具体的に現れる最小単位であるということ。経営方針の不在も顕在も、すべては単独店舗において具体化される。

 
 第二に、働く者にとっての場=職場であるということ。そこには上司もいれば部下もいる。先輩もいれば後輩もいる。正社員もいれば契約社員もいる。そういう場の中で様々な力学をお互いに意図するとせざるとにかかわらず発揮しながら、ある時はつらくもなり、ある時は楽しくもなり……そんな日々を過ごす。


 第三に、第一の裏返しであるのだが、店は顧客との個別具体的な接点であるということ。その前線に立つ書店員は、自分の勤める店舗の顧客の動向の影響を大きく受ける。必ずしもその影響を受け止めきれていないことも多々あるが、それはまた別の角度で考えることになろう。


 この三つの要素が絡み合いながら、書店員の判断や行動に影響を及ぼしていると考えることが出来る。逆に、書店員個人がこれら三つの要素に影響を受けるだけでなく与えることも大いにある。


 それらの絡み合いについて、思考を進めていこう。いくつかの具体例を今、思いだそうとしているところである。
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by todoroki-tetsu | 2011-12-20 22:49 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(1)考察の前提

 あくまで個人的な問いを考えるための作業なのだが、実際に僕が大半の物理的時間を過ごし、またメシを食う過程でもある書店員という職業なり書店という職場について、考えないわけにはいかない。


 書店員という言葉で想像されるものは何だろうか。その表象について逐一取り上げるのは面倒なので他人に任せよう。僕個人の経験で言わせてもらえば、出版業界以外の人と何かお話しをする際、だいたいが「よく本を読んでおられるのですね」というような言葉。さらに言えば、そこで言われる本とはほぼ小説であることが多い。小説をほとんど読まない自分にとっては非常にやりづらい局面である。まあ、それなりにお茶を濁すのではあるが。


 書店で扱っている本の種類は、何も小説に限ってはいない。もちろん本屋によって異なるけれども、文庫・雑誌・実用書・コミックの四分野で相当程度を占めるだろう。文芸の単行本新刊なんて、よほどの作品でない限り大きな比重を占めることはなかろう。にも関わらず、書店員であることと結び付けられる本の分野の多くは小説であるというのは――あたりさわりのない会話の糸口に過ぎないとはいえ――、興味深い個人的体験である。

 
 ここでは、自分が好きな分野、実際に担当している分野のことにどうしても比重が大きくなりがちであることを断ったうえで、なるべくどの分野でも共通するような事柄を念頭に置いて考えていきたいと思う。「本といえば文芸書」みたいなことを業界外の人がイメージするのは別段よいのだけれども、業界内での「本といえば文芸書(とかいわゆる「専門書」)」という物言いにはいささか、うんざりしているので。


 以上が分野の話。「よく本を読んでおられるのですね」というような言葉から引き出されることのもう一つは、書店員は本が好き、あるいはよく読んでいるというイメージ。

 
 本は確かに数多く触っている。店の規模や部署にもよるけれども、僕がかつて経験した職場では一日最低でも5,000冊は触っていた。ただ、触るだけだが。そうした量を扱っていることと、実際にそれを読むこととはまったく別である。また、何を以てよく読んでいるとみなすかの基準もあいまいと言わざるを得ない。30分あれば読める文庫もある。1頁に5分くらいかかりそうな本もある。

 
 そもそも、書店員は本が好きなのだろうか。分野や作者によって嗜好が異なるのがほとんどだが、中には活字中毒的なタイプや「本」という体裁そのものが好きというタイプもある。一方で、ただ単に「仕事」として淡々とこなしていく人も少なからずいる。

 
 それらをひっくるめて、書店員として働いている人全部を対象とし得るような考察を構想したい。もちろん、各人各様の書店員像はあってよいし、それらはそれらとして戦わせればそれでよかろう。その前提となる部分というか、土台の部分、そんなあたりを問題にしていきたいと思うのだ。


______________________________________

 こうして書いてみると、なんだ、個人的なことを考えると言いながらお前は何か普遍的なるものを目指そうとしているのではないかと思われるのかもしれない。が、決してそうではない。僕が書店員としての僕自身を考えようとする際にどうしても考慮しなければならないことなのだ。

 
 本をよく読んでいるかと言われれば、僕などより上を行く人は顧客をはじめいっぱいいるし、書店員の仲間内でも別段そんなに読んでいる方ではない。ましてや単行本の小説などは年に購入するのは一ケタ程度。本が好きか嫌いかと言われればもちろん好きな方ではあるし、何かフェアやキャンペーンなどの特別な仕込みは楽しんで持ち帰り仕事も休日出勤もやるが、それは別段好きでやっているのであって、決してホメられたことではない。イレギュラーなことと自覚している。そんなことを当たり前だと思っていたら、ますますこの業界でメシを食えなくなっていってしまうのではないかという危機感もある(それを述べるのは別の機会になるだろう)。


 要するに、個人的な問いを考えるために、極力前提をフラットなものにしておきたいのだ。書店員が扱っている本の分野は文芸や専門書に限らず多様であり、書店員とは何も本好きだったり沢山本を読んでいる人ばっかりではない。この二つを前提として、少しずつ考えを進めていくことにしよう。
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by todoroki-tetsu | 2011-12-19 22:08 | Comments(0)