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大澤信亮「復活の批評」再読その二――失語について

 「新潮」2013年4月号。山城むつみさんの「蘇州の空白から」と大澤信亮さんの「小林秀雄序論」を数度読み返している。山城さんの論考は、ジュンク池袋本店さんでお話されていたことを思い起こしながら読んでいる。

 
 事前/事後という表現を山城さんはその時に使われた、と記憶している。その意味の細かいことはいまだに理解できているとは思わない。が、この時に得たイメージは僕の仕事においても生活においても奥深いところに潜み続けている。

 
 この講演の時にとったメモを紛失しており、残念なことをしたものだ、山城さんはあまりこういう場でお話をされない方らしい、と後で聞いて残念さが更に増したのだが、部屋を片付けていたらひょっこりとメモが見つかった。走り書きを読み返しながら、記憶を掘り起こす。1946年11月3日という日付の意味(「五勺の酒」の世界との重層性!)については今回の「蘇州の空白から」でも述べられているが、このお話を最初に伺った時の身震いが蘇って来る。

 
 「復活の批評」を読む。「蘇州の空白から」を読む。「小林秀雄序論」を読む。そして「ドストエフスキイの生活」を読む。電車に乗ってる時間だったり、余裕があれば昼休みや早く帰った夜などに。そんななかでも仕事と生活は変わらない。朝起きてメシを食って10時間から14時間の仕事をして時に一杯ひっかけたりひっかけたりしなかったり、風呂にゆっくり入ったりさっとすませたりしながら、いよいよもって立ちゆかなくなってきた遠方の両親の生活のことなどを考えたり忘れたりしながら、結局どうにかなるさと思って寝る。
 

 こんな仕事と生活のなかで批評文を読むことは僕にとって不可欠のことのように思われる。何の必要があるかと問われても答えられやしない。生き延びるため。そうかもしれない。ただ、別に大上段なこっちゃない。ゲラゲラワッハッハな文章ではないが、そこには何か大切なことが書かれているという感覚が、ある。いや、これらの批評文はいま僕が心底読みたいと思うような、そういうものであるのだ。「……伝えるからには面白くありたい。娯楽に満足できない気持ちを表現するなら、その試み自体が娯楽以上に面白くなければならない」(『神的批評』あとがき)。この言葉に読者として、「娯楽以上に面白い」と言い切りたい。


 しかし。しばしばふと思う。仕事や生活からの逃げ場所を批評文に求めているだけではないのか。読んでいる最中は、たとえわずかであっても文字通り時間を忘れる。じっさい今回の「新潮」初読時には電車をふたつかみっつ乗り過ごしている。本屋としてはそう問題のある行動ではない。本を買って読むという行為が無ければメシが食えぬ生業なのだから。


 問題はそこではない。大澤さんを読む。山城さんを読む。小林さんを読む。その時僕は、自分を問うことを忘れてはいないか。他人の文章を読み、感心する時の僕はいったん作品に入り込む。が、頁を閉じた時にはすぐさま仕事の段取りや生活について考える。どこかで余韻は残っているけれど、頭は基本的にパッと切り替わる。

 
 これは当たり前のことなのだ。今までそう思ってきたし、今でもそう思っている。批評文にほんとうにぐうの音も出ないほど突き付けられた時、「失語」という言葉でその体験を表現することは出来る。そう言ってみせることなど、難しいことじゃない。もんだいは、「失語」の意味を問い続けることだ。しかし、このドーナツの穴のような体験を言葉にしようとすることはたやすいことじゃない。


 「復活の批評」再読中に僕を見舞った「失語」――それは他者からもたらされたものでもあり自己の奥から生じたものでもある――のさなかにも、日常生活は何の滞りもなく過ごした。テキストをあえてうっちゃっておいた時期においても、問いは僕のなかで生き延びていた。


 「自分を問う」ことの大切さを説く批評に感心している自分が、その言葉を額面通りには決して受け取れていないという感覚。「自分を問う」という言葉ですら「消費」出来る自分への、戸惑い。そこから始めるほかないのだという嘆息と、少し清々している自分の奇妙な同居。


 書くことで狂うことがあるのなら、読むことで狂うことだってあるだろう。狂気の善悪など誰にも判断できやしない。


 「筆と爆裂弾とは紙一重」の意味に、ほんの少し近づけてきたのだろうか。
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by todoroki-tetsu | 2013-03-24 20:53 | 批評系 | Comments(0)

読者である、ということ

 小林はどのように「書い」ていたか。

 「作者が答へなかつた事を、僕が答へてはならない」――この種の、「禁止」あるいは制止の標識は小林のこのテクスト中にいくつも散見される。「『五分か、それ以上も経つた』と作者は書いてゐるのに、読者は、ここで何故一分の沈黙さへ惜しむのであらううか」「傍点を附したのは作者である。読者は、暫くの間でもいい、足をとめて、かういふ傍点を附する時、作者はどういふ想ひであつたらうかを想ひみるがよい」「これはどういふ意味なのであらうか。といふのは、ここでも亦読者に暫く立ち止まつてほしいと希ふだけなのである。一体どんな説明が可能だといふのだらう」


 山城むつみ、「小林批評のクリティカル・ポイント」(『文学のプログラム』、講談社文芸文庫、P.28-9)



 無精して小林秀雄を孫引きしているかに思われても致し方はない。が、山城さんの批評文を通じてこうした小林の言葉に出会ったこと。僕にとっては重要に思える。

 
 ここで書かれていることは、例えば『ロスジェネ』最終号では実践されたことであり、また、同時代の文学者と文字通り同じ時間を生きている以上、彼らが言葉を繰り出すまでに要する時間を、まったく同じ時間でもって読者である僕は生きている。


 トートロジーなのは百も承知だ。


 彼らが言葉を繰り出そうともがく間、僕はどのようにして生きているのか。彼らが言葉を発する時、それまで等しく過ごしてきたであろう時間の意味が、読者の僕には問われることになる。彼らの言葉をただ待ち望んでうろうろとしていただけなのか。なんにも考えなかったか。どういった言葉が今の時代にありうるだろうか考えながら過ごしてきたか……。


 書き手にとって自らの言葉を何らかで発するのは、ある種の審判を待ち望むのに等しいのではないかと思う。もちろん、これはこれ、と切り離すことも出来ようが、届けたいと思う人に届くこと、或いは「誤配」が思わぬ結果(よいことも悪いことも)を引き起こすことも、彼らは十二分に知っていよう。


 読者である僕にとっても、それは同じことなのだ。じゃあ、お前はこの同じ時間、何をやってきたのだ、と。それは「書くために読むのではなく、読むために書くという感覚」のようにも思えるし、くそまじめに仕事をすることかもしれないし、いや、あるいはヤケになって酔っぱらうことだって、ひょっとするとそうした「準備」であったりするかもしれないのだ。たぶん、守るべきことはただ一つ。

 
 それは、目先だけの言葉で喜ぶな、ということだ。口先だけで通用する言葉や耳触りの良さ――「社会人」にとっては耳にすることも口にすることも必要ではある。けれど、そうした言葉を、そうしたものだと自覚することだけは忘れずにいよう。安易に言葉を消費するな。


 そうした自制=自省を、いつの頃か意識し始めたのかは判らない。しかし、自覚的に影響を受けたひとつは、明らかに作家・浅尾大輔さんのブログ休止宣言であった。

 
 江藤淳にふれたエントリよりも、「西へ、西へ」と題したエントリの方が僕にとってはより心をつかまれるものであった。

 さて、ブログ読者のみなさん、唐突ですが、

 だいたい、これで、わたしは、すべての状況について、言い尽くしたので、ブログを中止いたします。


 
 確かに、唐突に過ぎた。日付は2011年4月6日。震災からまだ一月も経っていない。誰が何を言っているか、書店員という商売柄から、また一個人としても、やたらに気になってTWITTERやらブログやらをかたっぱしからのぞきながら、渡辺一夫を読んでいた。そういう時期にあって、「だいたい、これで、わたしは、すべての状況について、言い尽くした」と言い切った文学者がいたことは、その後の展開がどうあれ、僕にとってはおそらく忘れがたい出来事であり続けるだろう。


 その後も、大変細々とした更新がされていることは知っていた。なぜなら、毎日浅尾さんのブログを覗くのは僕の日課だったから。更新されていなければいないで、きっとこの状況下で何かを着々と準備しているに違いないのだから。「モンキー・ビジネス」の最終号に小説を載せることを知ったのも、ブログからであった。それは実にひっそりと更新されていた。それでよかった。

 
 たまにエントリが更新されることがあったが、それはご自身の言葉ではなく、そこに思いは仮託されているのだろうけれども、基本的には他者の言葉であった。文学者としての、というよりも、いわば活動家としての顔を覗かせたのだと解釈していた。その典型は2012年2月10日のエントリ「ウォール街占拠2011 / Occupy Wall Street 2011」であったと思う。僕は勝手に、湯浅さんの「社会運動の立ち位置」(「世界」3月号)への浅尾さんなりの応答なのだろう、と解釈していた。


 それからも、告知的なエントリがしばしばあったけれども、どうやら徐々にブログとしては再開しているように思えてきた。そのおかげで様々な情報を知ることが出来るのだし、どうやら生存しておられるようだとも判るわけで、一方的な安心感を得たりもしていたのがこの1~2か月のことであった。


 しかし、それらのエントリを読んでいる自分は何なんだろう、とずっと考えていた。先に「毎日浅尾さんのブログを覗くのは僕の日課だったから」と記した。あんまり技術的なことにくわしくない僕は、決まったキーワードで検索するか、予めブックマークしているサイトを巡回するか、ぼんやりとTWITTER経由でサイトを覗き回るかくらいしかしない。そうした場合、当然更新がないよりはあったほうが変化があって楽しいわけで、さて、そうなると、自分は単に浅尾さんのブログに変化さえあれば楽しいなというくらいにしか考えていないのではないか。


 「目先だけの言葉で喜ぶな」との自制=自省はどこへ行ったのか。同時代の文学者に期待を寄せるというようなえらそうなことをこいておきながら、結局のところ同時代の文学者の言葉を「ネタ」程度に考え、貶めているのはお前自身ではないのか、との自問。「胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところ」(中野重治)を――「歌え」ではない――、そうした言葉を読者としてほんとうに「読もう」としているかどうか。


 「作家は、作家をやめることは出来ない。」と題し、いわばブログ再開を公式に宣言された。作家にとってブログがどのようなものであるのかは、各人と状況によって大いに異なろう。


 「作家は、作家をやめることは出来ない」。少なくともそうした決意でブログを再開し、また「目下、与えられている大きな原稿を書き抜きたい」と表明しておられる以上、僕も「読者をやめることは出来ない」と言わなければならない。

 
 やはり、読者としての自分を鍛え上げていくより術がないのである。
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by todoroki-tetsu | 2012-06-18 16:18 | 文学系 | Comments(0)

「ジョジョ」を読む

 仕事が忙しいんだか忙しくないんだか、よく分からない。読み進めなければ、と思っている石田忠さんの『反原爆』(未來社)とか、トリートさんの『グラウンド・ゼロを書く―日本文学と原爆』とか、杉田さんの「ロスジェネ芸術論」を(1)から読み返そうとか、あれこれ考えてはいるが、どうも気が乗らないでいる。


 原爆のことや戦争のこと、あれこれ報道はあった。が、その報道に接する読者としての自分自身の準備に何か足りないものがある気がして。さりとて腰を据えようという気になりきれていないのは暑さのせいにとりあえずしておいて。


 この10日ばかり、ずっと『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいた。文庫版全50巻のほう。少し前に全部読み終えた。「part6 ストーンオーシャン」までということになる。世代としてはモロなのだが、あまりちゃんと読んでいなかったし、なにせ高校生の終わりごろに大島弓子先生の作品に衝撃を受けてこのかた、「線の多い」絵柄の漫画はなんとなく敬遠していたのであった。

 
 文庫版の2巻目くらいからようやく絵柄に慣れてきて、読むスピードは加速していく。いわゆる少年漫画の王道というのだろうか、やっぱり面白いな、と思った。あらためて、この膨大なストーリーの中で「マックイイーン」に着目した「無能ノート」(『無能力批評』)の慧眼を思う。
 

 読みながら、「杜王町」を舞台とした「part4 ダイヤモンドは砕けない」あたりからだろうか、「『世界』を創ること」について頭の片隅で考えていた。僕は文学というものが(いや、「も」というのが正しい)分からない。「(F+f)」(夏目漱石)なんて目にしたところで「はぁ?」というだけである。が、自分の観察や想像力を、絵や言葉で、ひとつの「世界」として表現したい/出来る、というのはとてつもなくすごいことだな、と思ったのだ。

 
 世界観やストーリー、またキャラクターの姿やせりふによって、読者が現実の中で励まされることはあると思う。そのメッセージを受け取る力が読み手にも必要なのは言うまでもないことだが。「ジョジョ」には「成長」とか「正義」とか「希望」とかがド正面から描かれている。爽快かつ明確なメッセージだ。いわば「大きな世界」である。

 
 ここで妄想する。では、ここまで明確なメッセージがないような描写でも何らかの力をもつ場合があるのはどうしてだろう? 

 
 自分のさして豊富ではない読書体験を翻ってみるに、明確なメッセージに引き付けられる(例:漫画版『ナウシカ』)ことがほとんどであるにも関わらず、そうでない部分も確かにあるのだ。不思議なことである。


 たとえば。宮沢賢治「猫の事務所」で描かれる「かま猫」の悲劇。べんとう箱をとってやろうとして誤解される。こういうことはあるよな、と思う。誤解される側としてもする側としても。たとえ獅子の登場という明確なメッセージがなくても、あるいは「かま猫に同情します」といってくれる「ぼく」がいなくても、この描写は印象深く残るだろう。


 あるいは「銀河鉄道の夜」の、「(ああほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだらうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろさうに談してゐるし僕はほんたうにつらいなあ。)」。さそりと神の問答を経て「どこまでもどこまでも一緒に行かう」という言葉によって打ち消されたとしても、ジョバンニの感じたような「つらさ」は、やはり印象深く残るのだ。

 
 これらは「ジョジョ」ほどの壮大さがある「世界」ではない。「銀河鉄道の夜」は別の意味で壮大だが、僕が今引いた部分はけっして大きなものではない。これらはいわば「小さな世界」である。


 自分の感情や思いがあって、それは何か身近な他者とは共有できないものであったとしよう。でも、作品の、たとえ何気ない描写――小さな世界であっても、そこに自分の感情に触れるものがあるとすれば、少なくともその感情は自分一人だけが持っているのではない、ということが分かる。実際に描写した作者がいるのだから。そこに「孤独」から逃れる、少なくともそのきっかけは見つけ出せるはずなのだ。ほんのささいな描写であっても、いや、大小に関わらず「世界」が成り立っていれば、結果として人を救うことが出来るかもしれない。ひょっとすると、文学というのはそういう力のことを指すのだろうか。


 もちろん、これは作者だけの問題ではない、読者の問題でもある。次の言葉を、ふと思い出す。
 

 文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います
                               吉本隆明、『真贋』、P65-66



 読者の立場になってこの言葉を考える。「こういうことは俺だけにしかわからない」と「思えたら」、「第一級」とまではいわずともそれなりの「読者」になっているとはいえないだろうか? 自分自身の経験や感情――ライフヒストリーといってもいいかもしれない――、それらを背負った上で自分自身をたたきこむように、自分の「世界」を全力でさらけだしながら作品の「世界」にぶつけることが出来れば、少なくとも「消費」だけしている次元にはいない。そんな風に考えてみることが出来ないか。


 もうひとつ、手がかりになりそうな言葉をあげておく。


 重要なのは何回読んだか、どれくらい読み込んだかという問いではない。「読む」ときわれわれは実際には何をやっているのかという問いである
 山城むつみ、「小林批評のクリティカル・ポイント」、『文学のプログラム』所収、P.49



 あらら。ジョジョの話からずいぶん遠くなってしまった(笑)。なんでこうなったんだろう? まあ、いいや。自分への宿題みたいなものとしておこう。


 宿題ついでに、ちゃんと読みたいと今考えているものを、冒頭にあげたもののほかに2点メモしておこう。


・伊東祐吏さんの『戦後論

 恥ずかしながらノーチェックだった。今日の「毎日」で取り上げられているので初めて知った。「自分たちが戦争をした事実をごまかしているから、議論を生産的に積み重ねられず、右派は正当化ばかり、左派は批判ばかり。戦争経験を引き継ぐといっても、受け手の心に届かない議論になっています」というコメントが実に気にかかる。


・陣野俊史さんの『「その後」の戦争小説論』

 「すばる」に連載中。こま切れにしか読んでいないが、先日連載第一回を図書館で読んだ。なんでもっと早くにちゃんと読んでおかなかったんだろう、という後悔はさておき、これはじっくりしっかり読みたい。


 
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by todoroki-tetsu | 2010-08-20 00:03 | Comments(0)

山城むつみ『文学のプログラム』読了

 twitter読書、第4弾は山城むつみさんの『文学のプログラム』にチャレンジ。批評には前回の吉本さんで懲りたはずなのだが……。昨年文芸文庫になった際に大澤信亮さんや杉田俊介さんがどこかで言及されていたような気がして、遅ればせながら手にとってみた次第。何せ予備知識も何もありゃしない、巻末の著者近影で「あ、男性だったんだ」(失礼!)と気づいたくらいのお恥ずかしいレベル。

 「書くこと」の難しさは何となく想像できるのだが、「読む」ことはほとんど意識せずにたらたらとやって来たので、随所にちりばめられた「読む」という営みについての指摘は新鮮であった。

 厳しいところにまで自分を追い込むというか、突き詰めていった先にある何かを追い求めるストイックな姿勢、でも希望を見出そうとする点でどこかあたたかな、そんな思いを全編にわたって感じていたように思う。

 実は、次も批評の本に挑戦するつもりでいる。さあ、どうなるか。
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by todoroki-tetsu | 2010-03-07 21:42 | 批評系 | Comments(0)