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今日の3点

 べつにどうということはない。文学音痴の僕に、たまたま今日出来事が重なっただけ。

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 漱石の『明暗』、ついに通読を果たす。他の作品はおおよそ最低でも一読はしていたのだが、こればっかりは最初に手に取った高校の時の記憶があまりに重すぎて躊躇していた。


 頁をめくるたびにグサグサと胸を抉られる。なんだろうこの感覚は。カネだの見栄だのの話のえぐさがグイグイきて、手にとって4日くらいで読んでしまった。


 『道草』でも感じたが、漱石の描く女性心理というのは、女性から見ると(という言い方も大くくりすぎてダメだと思うのだが、他にうまい表現が見当たらない)どんな風に映るのだろう? 何か機会があれば話を聞くなり読んでみるなりしてみたい。



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 中野重治の『甲乙丙丁』。やっと見つけた。さして熱心に探しているというわけでもなかったが、この一年くらい、ふらっと古本屋に立ち寄る時には気にかけていた。たまたま通りがかった池袋西口の古本市で入手。楽しみだ。



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 ようやく出たか、と棚に並んでいるのを早速購入。大澤信亮さんの『神的批評』。収録作品はだいたい読んでいるつもりではあるし、「柄谷行人論」はtwitter読書もやってみたりもしたのだった。

 
 しかし、購入して早速「宮沢賢治の暴力」を読み、あらためてその「破壊力」に圧倒される。単行本になったら一気読みしてみよう、と思ったのだが、到底無理だ。いや、それでいいのだろう。



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 装丁はシンプルだ。上記はカバーを外した状態。本屋から見ると新潮社さんというのは実に手ごわい出版社さんであるが、こうした造りはさすがだと思う。


 読者としてだけでなく書店員としても「対峙セヨ」と迫られる。写真には写せていないが、帯の背の部分には「問いを生きることはできるか」と朱で染め抜かれている。


 書き手に対して恥ずかいことはしたくない。それが何なのかは分からないけれど。まずはとにかくもがいてみるか。
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by todoroki-tetsu | 2010-10-27 22:16 | 文学系 | Comments(0)

「殺される」ことについて――その二

 「自分が殺されるのはいやな癖に、他人を殺す側になることは想像できる、というのはどういうことだろう?」と昨日記した。今日はここからはじめてみる。

________________


1.
 すんでのところを生きのびた苦しい体験を有するのであれば、その痛みから殺されることを想像することは出来るかもしれない。が、僕は今までのところ幸運にも実際にそんな大変な目にあったことはない。自分で自分を殺そうと思った、その体験だけしかない。が、これは主体的な選択であって突然他者からもたらされるようなものではなかった。もちろん、そこに至るまでには様々な他者が介在してはいるが、何かひどいめにあったとかいうのではなく、こうありたい・あるべきと思い描く自分がそうでない自分を肯定できなかった、という側面が強い。


2.
 ならばもう少し他人にやさしい人間になっていてもよさそうなものだが、そうはなっていないのが何とも情けない。ここは最近真面目に考えなければならないと思っている。


3.
 さて、殺される、というのは明らかに受動的な行為である。何らかの決意や思想でもって何かのために身をささげるということはある。どこまでがはたして自己決定といえるのかという問題はここでは問わず、何かしらの自らの意図や覚悟があったものは主体的行為として考えることとしよう。


4.
 もし他者に身をささげようと考えていた人がいたとしても、それは「誰でもよかった」というような殺され方で満足が出来るだろうか? 身をささげようとなんて考えもしない僕だが、仮にそういう決意をしたとしても、せめて世の中の誰か一人くらいを助けられるような殺され方ならば少しはお役に立てるのか? などとと思う。「誰でもよかった」なんてたまったもんじゃない。

 やっぱり殺されるのはいやだ。


5.
 しかし、もう一度立ち返る。「自分が殺されるのはいやな癖に、他人を殺す側になることは想像できる、というのはどういうことだろう?」

 殺されるのはいやだ、というのは、自分の殺されない状態が肯定出来ているからである、というように考えてみる(A)。もうひとつには、殺すことを想像するのなら、自分が殺されることも想像しなければならない、というように考えてみる(B)。


6. 
(A)殺されるのがいやなのは、自分の殺されない状態が肯定出来ているからである 

 「別段日々の生活が満ち足りて仕事にも満足していて友達もたくさんいてあるいはパートナーがいて……なんてことは一切ありゃしないのだが、それなりになんとかやっている(と思いこんでいる)生活が、無意味に奪われるのはいやだ。いや、意味があってもいやだ。」と昨日記した。思い込んでいるんだかなんだか知らんけれども、とにかくそれなりに生きている日々を、僕は肯定出来ている。そこは、間違いない。だから、「殺される」のはいやなのだ。

 では、それなりに生きている日々を肯定出来なかったとしたらどうか? 運よく正社員であること、そこそこに職場に居場所があること、非社交性の塊だけれどもそれでも多少の他者とのつながりがあること(こう考えてみると本当に有難いことだ)……。もちろん、自分なりに考えたりしてきた/いることの積み重ねもないとはいわないけれども、制度的なことや他者の存在、そんなことが重なって、そこそこに肯定が出来る条件が、今の僕にはある。でも、ひとつひとつが崩れていったらどうだろう? 

 確かに今は正社員だ。手取りで年収は300万を少し切る。貯金はわずかしかないが、借金はない。恵まれているといえばいえる。が、斜陽産業のこの業界、いつ会社から何を言われるか、また会社そのものがどうなるか分からない。そうなったら職は見つかるだろうか。『ブルーカラー・ブルース』の転職の描写が思い浮かぶ……。うまくいかなかったら、きっと「自己責任」なのだろう。「自己責任」と「自己中心」との境目はどこにある?

 自分が生きていることを肯定出来ないからといって他者を殺していいとは思わない。当たり前だ。ただ、生きていることを肯定出来なければ、他者が生きていることを肯定的にとらえる、その想像力は貧弱になっていくような気が、僕はする。


7.
(B)殺すことを想像するのなら、自分が殺されることも想像しなければならない

 これは論理的に考えればそうなる、というだけのことなのかもしれない。自分だけに他者を殺す特権があるわけではない。冷静に考えると、そうなるような気がする。少なくとも、自分の想像力をそのようなものとして鍛えることは、困難だが不可能ではない気がする。井上ひさしさんの『ムサシ』めいてくる。それもよかろう。あるいは、大澤信亮さんの次の言葉を頭の片隅においておくのもよいかもしれない。

 たとえば、イエスは、姦淫を犯した女を石で打とうとする民衆に対し、「石を投げるな」とは言わなかった。「投げる資格がある者は投げよ」と言ったのだ。個体の内部に攻撃性を折り返し、自らへの問いを喚起させるこの力こそが、普遍宗教の本質である。
                      (「柄谷行人論」、「新潮」2008年11月号、P.276)



________________


 まだまだ不十分だが、読者としてひとまずここまでの準備をした上で、杉田俊介さんの「『ロスジェネ芸術論』(3)――加藤智大の暴力(その二)」(『すばる』、2010年9月号)を読み始めることにしよう。
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by todoroki-tetsu | 2010-08-06 23:44 | Comments(0)

大澤信亮「批評と殺生――北大路魯山人」

 無謀なことなのは分かっている。おそるおそる記さざるを得ない。大澤信亮さんの「批評と殺生――北大路魯山人」(「新潮」2010年4月号)の読後感である。

 勉強になることは山ほどあるのだが、引用は一点に絞る。

 「自らを問わせるものだけが『他者』なのだ。/困難は目の前にいる他者との出会い直しにこそある」

 文意をどこまで読み取れているのかまったく自信はないが、もっともハッとしたのがこの箇所だった。自分を主語にして「他者」を考える際と同時に、自分は誰かの「他者」になりうるだろうか? とも考えた。

 今、僕はそのままいるだけで誰かにとっての「他者」ではあるだろう。そのままでも良くも悪くも何かを誰かに「問わせ」ているのかもしれない。

 そういうことなんだろうか、ここで書かれているのは……。

 何度読んでももっとも気にかかったのはこの一文で、能動的に誰かの「他者」になることは可能だろうか、などと考えてみたりもしたのだ。

 しかし、引用した一文は、「自然の他者性」について考察している一連の文章の中にある。そのことの意味を、まだつかみかねているのだが、人間同士の関係だけでしか僕はまだ到底考えられていないことは間違いがない。書かれている言葉に何かを思い、それを記そうとすると、いや、そんなことは大澤さんにはもうすべて分かっていて、全部分かった上で絞り出されているという気がしてくる。

 ちょっと途方もない気になってきた。一体、「読む」ということは何なんだろう?
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by todoroki-tetsu | 2010-04-07 14:13 | 批評系 | Comments(0)

山城むつみ『文学のプログラム』読了

 twitter読書、第4弾は山城むつみさんの『文学のプログラム』にチャレンジ。批評には前回の吉本さんで懲りたはずなのだが……。昨年文芸文庫になった際に大澤信亮さんや杉田俊介さんがどこかで言及されていたような気がして、遅ればせながら手にとってみた次第。何せ予備知識も何もありゃしない、巻末の著者近影で「あ、男性だったんだ」(失礼!)と気づいたくらいのお恥ずかしいレベル。

 「書くこと」の難しさは何となく想像できるのだが、「読む」ことはほとんど意識せずにたらたらとやって来たので、随所にちりばめられた「読む」という営みについての指摘は新鮮であった。

 厳しいところにまで自分を追い込むというか、突き詰めていった先にある何かを追い求めるストイックな姿勢、でも希望を見出そうとする点でどこかあたたかな、そんな思いを全編にわたって感じていたように思う。

 実は、次も批評の本に挑戦するつもりでいる。さあ、どうなるか。
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by todoroki-tetsu | 2010-03-07 21:42 | 批評系 | Comments(0)

大澤信亮「柄谷行人論」(「新潮」2008年11月号)

 またずいぶんと間が空いてしまった。仕事がたてこんだせいもあるが、大澤さんの「柄谷行人論」(」(「新潮」2008年11月号)について、どう記そうかと逡巡していたせいでもある。

 雑誌掲載論文をこう繰り返し読んだことは、たぶん初めてである。恥をさらすが、柄谷行人さんはもちろん、大澤さんが随所で触れられるデリダもカントもろくに読んではいない。
 
 「なんだかよく分からないところがいっぱいあるが、大事なことを言っていて、たぶんそれは実感できるものだろう」というのが最初に通読したときの感想。二度目、三度目と読み返すにつれ、それは確信に変わった。

 柄谷さんを読んでいる人がどう受け止めるか、僕には分からない。が、柄谷さんを論じている大澤さんの眼差しは、当然程度の低い個人攻撃とは一切無縁であり、いかに今を私たちが生き抜くか、その一点に全身全霊を込めているように思われた。

 「いたずらに難解な言い回しを使うのは論外だが、『わかりやすいこと』と『明晰であること』は必ずしも一致しない。むしろ往々にして後者は前者を退ける。しかし、それは、『わかりにくい』現実とそれに翻弄され続ける『他者』に向き合うとき、誰もが強いられる思考の条件なのだ」(P.287)

 他者、あるいはわからなさをテーマとしたブックフェアもあったようだが、最近こういったキーワードに注目が集まっているのだろうか。本屋として非常に気にかかり、また注目したいところである。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-30 22:54 | 批評系 | Comments(0)

中西新太郎「1995年から始まる」(『1995年』)

 『1995年』の序論、中西新太郎さんの「1995年から始まる」について。

 中西さんの論考はいろんな要素をぎっちりと圧縮したような印象を受けるのだが、この序論も解凍するととてつもなく大きく――通時的にも共時的にも――なりそうなものである。

 もちろん年長であることも大いに影響はしているのかもしれないが、「1995年」に至る流れを簡潔に整理した上で、では、何が問題なのか? を指し示す。この序論がその後に続くどの対談にも基調となっており、個別具体的な話題ともシンクロして絶妙な読後感を生み出す。

 
「95年を捉える各論者の視角は、それぞれの違いが当然あるとはいえ、文化的個体化作用を、ともすれば、単純に解放的契機とみなしてきた前時代のエートスとはいずれも無縁のように思える。『ロスト・ジェネレーション』の旗手と言ってよい語り手たちのそうした姿勢には、新自由主義政治と消費社会の抑圧作用とが結びついたポスト95年の歴史状況が正確に映されている。『ロスト・ジェネレーション』が効果的就労対策を怠った政策による一過性の犠牲者ではないように、ポスト95年の歴史状況もそれ以前の歴史軌道からの一時的逸脱ではない。『自分さがし』の時代から『生きづらさ』の時代への転換こそが本質的であり、転換への着目ぬきに両者を無自覚につないだまま『生きづらさ』をあげつらうと誤読に陥る。ロスト・ジェネレーションが尖端に位置してぶつかっている困難と問題群とは、歴史の隘路に迷い込んだ結果遭遇するそれではなく、新たな歴史ステージの『正面』に立ち塞がる問題である」(P.29)


 「ロスト・ジェネレーション」といってもいろいろいるわけで、そうひとくくりにすることは出来ないのは当然なのだが――しかし、それは例えば杉田俊介さんの「自立と倫理」(『無能力批評』)、大澤信亮さんの「柄谷行人論」(「新潮」2008年11月号)といった試み、すなわち、「他者」と向き合うことについての極めて根源的な思考を通じて、ひょっとすると乗り越えられるかもしれない(もちろん、道は恐ろしく険しいに違いない)、と思わせるものでもある。この点は別の機会に少し触れてみたい――、問題設定を明確に示している点で捨てがたい記述である。雨宮処凛さんと萱野稔人さんの『「生きづらさ」について』の第四章「『超不安定』時代を生き抜く」にも通じるものであろう。

 中西さんらしく様々な作品への言及があるのだけれども、それらを評しつつ、「ただ現実を写すことも夢見ることも許さない身動きのとれなさ」(P.35)を描き出した上で、こう締めくくる。

 「過去と同じように夢は見ないが、そのようにして夢見る新たな試みをやめないこと、そうした仕方で『95年から始まる』現実に向き合うこと、つまり、『95年から始める』こと――それが、構造改革時代を生きる普通人ordinary personに課せられた歴史的責任ではないだろうか」(P.36)


 「夢」という言葉を、正面から受け止めつつ、続く対談についても思うところを触れていければ、と思う。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-16 00:41 | 業界 | Comments(0)

座談会「秋葉原事件と時代の感性」(毎日新聞)

 8/20(水)21(木)の二日間にわたって「毎日」夕刊で掲載された、大澤真幸さん、東浩紀さん、大澤信亮さんの鼎談。

 すくなくとも新書1冊にはなるだろう、というくらいの議論の積み重ねが背景にあるように思う。読み応えがあって、一度や二度読んだだけではもったいない。

 今、店頭では『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』が継続して売れており、これはその論者の多彩さにおいて現時点でかなり「決定版」だと思ったのだが、この三者の座談会は、議論の深さと広がりの可能性の提示という点において、極めて重要なものだと思う。

 評論として全体的に統制というか均衡がとれているのが大澤真幸さん、色々な異論を全部わかった上できっぱりと言い切ろうとしているのが東浩紀さん、なんとか手探りをしようとしているのが大澤信亮さん……そんな印象を受けた。

 一番印象に残ったのは、「資本主義の横に、愛やケアがあればいいのでは」という東さんの発言を受けた、大澤信亮さんの一言。

 「資本制や民主制自体の中に、それらを乗り越える道を探すことはできませんか?」(21日の「下」にて)

 という言葉である。

 このあとでベーシック・インカムなどの話になるので、この提起はその後の議論に受け止められているともいえるのだが、どうも、あまり掘り下げられていない気がする。

 もちろん、それをこの座談会で求めるのは無理な話なので別によいのだが、要するに、もっとも原理的な問題に、直接ぶつかっていこうとしているのが大澤信亮さんなのではないか、という印象を持ったのだ。
 
 単著が切望される論客、との思いを強くした。
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by todoroki-tetsu | 2008-08-22 20:06 | 業界 | Comments(0)

吉本隆明の講演「日本経済を考える」を聞く

 『吉本隆明の声と言葉。』特典の第二弾、「日本経済を考える」を聞く。

 「経済学は支配者、もしくは指導者の学である」という話(この部分は『声と言葉。』にも収録されている)から、講演のあった1988年当時の「円高・ドル安」や農業自由化の問題などが語られる。時代背景はもちろん今と違うし、吉本さんの話の各論については、正直、よくわからない。

 が、庶民の立場でどう考えるか、という語り口は面白く感じた。たぶん、字面で読むと反発もしくは違和感を覚えたかもしれない。話で聞くと比較的すんなりと入る。要するに、自分の実感から出発しましょう、ということを言っているんだと思う。こういう姿勢というか立ち位置というか、やはりこの人は詩人というか文学者なんだな、と。

 質疑応答が収録されていて、これがまた非常に面白い。質問者の意図を探りながら、言葉を選んで答えようとするうちに気持ちが乗ってくるのがわかる。

 「五十度の講演」の収録内容がアップされていた。

 「苦難を超える──『ヨブ記』をめぐって」に惹かれる。大澤信亮さんの小説「左翼はなぜ間違っているのか」(「ロスジェネ」所収)を読んで以来旧約聖書が気になっていて、パラパラと気になったところを読み返している最中なので。

 「苦難」とはどういうもので、それにどう対峙(対処?)していくのか、ということ。「今」とひきつけすぎるのは間違っているのかもしれないし、結局のところ自分で考えるしかない。だが、批評家/評論家の言葉は、自分なりの考えを積み重ねていく上での大きな手掛かりになるはずだ、と信じている。
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by todoroki-tetsu | 2008-07-25 19:55 | 業界 | Comments(0)

秋葉原の事件・爆笑問題太田さんのコメント

 今しがた、爆笑問題の太田さんがTBSラジオ(日曜サンデー)で秋葉原で先週起きた事件について20分弱、しゃべり続けていた。

 「自分の中にある怪物」と「それを冷静に見ている自分」との関係、人とつながっていなかったのではなくて自分の中でつながっていなかったのではないか、など、興味深いコメントだった。

 その中で、ケータイサイトでの「ノーリアクション」という問題に触れたくだりにハッとさせられた。太田さんの発言をかいつまんで記す。テープにとったわけではないので、微妙な違いはあるかもしれない。あらかじめ御寛恕願います。

 「ノーリアクションなんて当たり前だ。芸人としてもそういったことはいっぱいあるし、例えば信仰している人を考えてみよう。神様からのリアクションなんてありゃしない。そればかりか災害まで降りかかる。それでも祈る。そうした苦しみの中で生きている人がいるということを想像することが出来れば、自分の苦しみが自分だけじゃない、と想像できれば、もっと違ったかもしれない」。

 また、「こんなことがおきて、これはどうだとかあれはどうだ、とか今いえる訳がない。え、ちょっと待って、考えさせて、というしかないし、それが正しいと思う」とも。

 連想することが二つ。

 ひとつは、秋葉原の事件が、若い人、例えば今20歳の人、あるいはもっと若い人がどう見ているのか、あるいはどのようにこれから捉えていくのか、ということ。
  
 もうひとつは、太田さんが信仰にふれたくだりから、大澤信亮さんの小説「左翼のどこが間違っているのか?」とヨブ記を想起したということ。これについては以前少し記したけれども、「苦しみ」をどう捉えるのか? という問題(こんな単調な言葉でしか僕は記せない)。浅尾大輔さんのブログでもほんの少し触れられている。杉田さんの『無能力批評』にもつながるイメージだろうか、とも思う。

 もちろん、被害にあわれた方、そのご家族や友人・知人の方の無念さははかりしれないだろう、と思う。通り一遍のことを言うのはかえって失礼かもしれないが、被害にあわれた方のことをも記さないわけにはいかない。何であんな目にあわなきゃいけなかったのか。こんな理不尽な話はありえない。

 こんな時、本屋は何をすべきだろうか?
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by todoroki-tetsu | 2008-06-15 13:57 | 業界 | Comments(0)

「ヨブ記」と小説「左翼はなぜ間違っているのか」(『ロスジェネ』)

 引き続き『ロスジェネ』から。大澤信亮さんの小説「左翼はなぜ間違っているのか」である。

 小説なので、ネタバレになるようなことは書かないし、以前記したように、めったなことを記せない、迫力のある怖い小説である。

 「ヨブ記」が、引用されている。「ヨブ記」そのものがすさまじい話だが、「左翼はなぜ……」のすさまじさも負けてはいない。増山麗奈さんの迫力ある挿絵がすさまじさをいっそう増している(繰返すが、この挿絵はすごい)。

 この小説はどう批評されるのだろうか? 挿絵とセットで批評されるのをぜひ読んでみたい。


 
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by todoroki-tetsu | 2008-06-06 01:36 | 業界 | Comments(0)