タグ:大江健三郎 ( 4 ) タグの人気記事

大江健三郎「戦後世代のイメージ」

 「生前退位」をめぐる報道。なぜいまこのタイミングなのか。僕は一瞬、参院選が何か影響しているのかと考えた。天皇じしんの意図か周辺の意図か、あるいは「政治」的な何ものか。


 ふと、学生時代に聞いた講義を思い出した。今上天皇が何かの折に「日本国憲法」という言葉を用いた(いつの発言だったかは覚えていない)、それに対していわゆる「右派」知識人が強く反発をした、と。95年ごろの講義であった。


 その記憶のせいか、今上天皇は「日本国憲法」について何か格別に思い入れがある、そんなイメージを常に抱いている。即位に際する発言でもそれはなんとなく感ぜられる。思わず、何らかの意図を勘ぐったのは、政治センスとしては間違っているが、そういうことだ。


 もうひとつ、今上天皇についての僕の手掛かりは、大江健三郎さんにある。大江さんは天皇(制)について少なくない文章を記しておられる文学者の一人と思われるのだが、ほぼ同世代の今上天皇に対して呼びかけたような文章があったはずだ、と本棚から引っ張り出してきたのが「戦後世代のイメージ」。1959年初出とある。「週刊朝日」に連載した一連のコラムをまとめている。僕の手元にあるのは、講談社文芸文庫版『厳粛な綱渡り』。

 
 これらは、皇太子ご成婚にわく日々に記されたものだ。そこで大江さんは自身の戦争末期の体験から現在(1959年)までを振り返る。気になるところを抜き出してみる。


 皇太子妃が決まったことを祝って旗行列をしている小学生の写真があった。その歓呼している幼い顔のむれの写真は、ぼくにとって衝撃的なものだった。
 あの子供たちを、旗をもって行進させたものはなにだろうか。親たちの影響、教師の教育、根づよく日本人の意識の深みにのこっている天皇崇拝、または、たんなるおまつりさわぎの感情か。
 日本人の一人ひとりが、自由に天皇のイメージをつくることができるあいだは、≪象徴≫という言葉は健全な使われかたをしていることになるだろう。
 しかし、ジャーナリズムの力が、あの子供たちに天皇の特定のイメージをおしつけたあげくに、あの行進が歓呼の声とともにおこなわれる結果をまねいたのだとしたら。
 あの小学生たちは、にこにこしていたが、ぼくらは子供のころ、おびえた顔をして、御真影のまえをうなだれて通り過ぎたのだ。



 「日本人の一人ひとりが、自由に天皇のイメージをつくることができるあいだは、≪象徴≫という言葉は健全な使われかたをしていることになるだろう」という一文は今なお試金石である。


 ぐっと飛ばしてこの連作コラムの最後を見てみよう。同世代の皇太子(当時)に、大江さんはこう呼びかける。

 
 皇太子が眼をつむって、日本の国民について考えるとする。かれの頭にうかぶ日本の国民は、どんな顔をしているだろう?
 (中略)ぼくは皇太子に、日本人のなかの天皇制にたいする考えかたについて深く広い知識をもっていただきたいと思う。とくに、あなたと同じく戦後のデモクラシー時代に育った若者たちの声に、耳をかたむけていただきたいと思う。それら若者たちの顔は、決してすべての顔が微笑をうかべているとは限らないだろうから。



 この文章を今上天皇が目にしたことがあるのかどうか知らない。しかし、気脈通ずるところは確かにあったのではあるまいか。ぼくは制度としての天皇制には違和感を覚えるものであるが、それが一朝一夕にうんぬんされるようなものではないことは十分理解している。と同時に、その制度の中で生き抜く個人の姿を見るとき、今上天皇のふるまいはおのずと敬意を感じざるを得ない。


 「戦後世代」、戦後民主主義といわれるものを最初に体験し、それをたいせつにしてきた世代。日本国憲法世代といってもいいかもしれない。「戦争を知らない子供たち」の子供たちであるぼくらが、共通にできる何ものかなど、もうないのかもしれない。あるのはただの雰囲気か、あたりさわりのない昔話か、同じ趣味の仲間でしか通じない言葉だけか。そこを自分じしんでえぐる覚悟が僕にはあるか?


 途中飛ばしてしまったところには、こうある。「再軍備」や「自衛隊」にまつわる一文。


 われわれには、現実を見きわめることの困難さにへきえきして、現実に背をむけ、現実のかわりの言葉だけをもてあそぶ傾向があるということだろう。
 現実を言葉におきかえること、これはやむをえないばかりか、文化的な行為である。しかし、他人がおきかえてくれた言葉をそのまま服用して、自分自身が現実を自分の言葉におきかえることを怠ることは、危険な要素をふくんでいる。それは、自分の肩のうえに、他人の頭をのせて動きまわることだからである。



 自分のあたまを他人に「乗っ取らせない」こと。矛盾するようだが、他者の力を借りつつそれを行うこと。意固地や偏屈や偏見をすべてさらけ出しながら昇華させたそのとき、何が見えてくるだろう。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2016-07-16 11:19 | 批評系 | Comments(0)

伊丹万作の直筆

 偶然といえば偶然か。松山に伊丹十三記念館があるというのは知っていたが、場所はよく調べていなかった。ぶらぶら近所を自転車で徘徊していて発見。なんだこんなに近かったのか、もっとはよう来りゃよかった、と思いながら中に入る。

 
 中には妙な人だかりがあって、ああ、観光コースになっているんだろう、団体さんでもきてるのかなと何の気なしに目をやると、宮本信子さんがお見えになる日だったようだ。あわててグッズを買ってサインを頂こう、というようなミーハー根性はさらさらない、というより気恥かしい。遠目で落ち着いたたたずまいを拝見しながら展示室に足を踏み入れる。


 しかしこういっちゃなんだが、伊丹さんにそう大きな思い入れがあるというほどではない。映画も全部見てるわけではないし、エッセイを読破しているわけでもない。大江健三郎さんを介して、漠然とした畏敬の念を感じているというのが偽らざるところだ。


 だが、伊丹万作は、僕にとっては別格である。渡辺一夫や上原專祿といった人と同じ位置にある。福岡の古書店で手を出そうか迷っているうちに売れてしまい、何年も経ってから吉祥寺「百年」で邂逅した「伊丹万作全集」は、それらの人の著作と共に本棚にある。


 「演技指導論草案」を手にしたきっかけが何だったのかは覚えていない。大江さんの作品の中で、宮沢賢治「農民芸術概論綱要」とからめて論じられた個所があったはずだが、それ以前に意識している筈だ。三上満さんあたりがどっかでふれておられたのかもしれない。佐藤忠雄さんの注釈のようなエピソード集のような岩波現代文庫も、しばしば読み返したものである。何かあった時に立ち返る文章の一つがこれである。

 
 その「草案」の、それまた草稿になるのだろう、病床で綴られた伊丹万作の直筆が、企画展で展示されている。何度も繰り返して読んできた言葉の、その生まれた時の姿がここにある。そう思うとなんともいえない感動がある。


 手を動かして書き留めた言葉、身体性そのものとしての言葉、伊丹万作という特定個人にどこからか宿った言葉が、形となった瞬間。その瞬間から長い時を経て、私たちもその言葉にふれることが出来るということ。


 なんだか井上ひさしさんの「きらめく星座」みたいな話だが、しかし、これはある種の奇蹟であろう。奇蹟は日常に満ち溢れているがゆえに気づきにくい。そんなことを思わせてくれる展示であった。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2013-10-03 01:28 | 文学系 | Comments(0)

脱原発10万人集会にて

 どうにも体調が芳しくないこの数日。いくつかの、どうあっても避けることのできなさそうな問題が連発し、しかもまだ何の解決も見いだせていないことが影響している……と思っているのだが、ただの暑気あたりかもしれない。

 
 というわけで、今日も出遅れてしまった。しばしばデモだの集会だのに向かう前に覚えるだるさとも似ている。身体がどこかで拒んでいるのかもしれない。が、電車に乗ってしまえばどうということはなくなるのだから不思議だ。

 
 原宿駅がえらいこと混雑している12:30、まあ、急ぐこたあねぇやと人の流れに身を任す。炎天下というにふさわしい。色んな団体やら車やらで歌だのアピールだのがさかん。


 別段あてはハナからないが、出来ることなら武藤類子さんのお話は伺いたいと思っていた。代々木公園でやられたイベントに参加したことなんてあっただろうか、と思うくらい記憶のかなた――国民大集会といったか、あれはたしかここだったような気もする。20年近く前だからもう覚えていない――。なので、人数がどうだとか比較は出来ない。えらいこと人がいることだけは判る。


 メイン会場らしきところにようやくたどりつくと、ちょうど大江健三郎さんのスピーチが始まるところであった。相変わらずの朴訥とした口調。しかし、その中には力がみなぎる。

 
 再稼働が決まって落ち込んだ、という大江さんは、中野重治の作品「春さきの風」を想起したという。簡単に粗筋を紹介したのち、大江さんはこの作品の末尾、


 「わたしらは侮辱のなかに生きています。」


 との一節を引いたのだった。
 

 昨年、「わたしたちをばかにするな」と語った武藤さんの姿がすぐさま思い起こされた。これらの言葉を、今生きている人間をしていわしめる何かがあるような気がしてならないでいる。


 それから後、幾人かのスピーチが続く。兎に角暑いのでそれとなく木陰らしいところに移動したりしながらとこちらも忙しい。ペットボトルに詰めてきた水はすぐさま空になってしまった。

 
 いよいよ武藤さんのスピーチ、という段になって、乱入してきた人がいた。舞台が見えないので声と音でしか判断できないのだが、明らかにハプニングのようであった。きっとどうしても言いたいということがあったのだろう。思いつめてもいたのかもしれない。が、間もなくマイクを切られ、おそらくは舞台の外へと連れ出されたようだ。

 
 経産省前であったり、官邸前であったり、東電前であったり、そうしたところで絶叫としかいいようのない声をあげている人を見てきた。聞くに堪えない罵倒も中にはあった。そんな言い方じゃ伝わらない、というのは圧倒的に正しいけれども、簡単だ。そう表現するほかないところまで追いつめられたことを想像すると、僕にはもう何も言えなくなってしまう。それはそうした言動を支持する/しないという以前の問題としてある。


 しかし、今回の乱入者は残念であった。他ならぬ武藤さんのお話を邪魔するような格好になってしまったのだから。やり方を「間違っていた」という資格は僕にはないが、少なくとも「まずかった」ことは確かだろう。


 ややあって、武藤さんが登場した。武藤さんのお話を直接に伺ったのは、数十人程度の集まりの一回だけだったように記憶している。この方のすごいところのひとつは、そうした数十人程度の集まりでのお話しぶりと、10万人を超す場所でのお話しぶりとが、ほぼ変わらないことだ。後者の方がどうしても多少は演説・スピーチめいたものにはなるけれども、ひとりひとりに語りかけるような、そういう口ぶりは変わることがない。

 
 ほんの数時間前のことなのに、もはや話の細部は自力で思い出すことが出来ない。しかし、お話をおおぜいの人と一緒に、直接に「聞いた」という体験だけは、強く、深く、頭の中に、あるいはこういってよければ「魂」の中に、残っている。


 武藤さんはおそらく、自分が何かを語るというお気持ちでおられるのではない。誰かに、何かに、陰に陽に突き動かされ、あるいは守られながら、言葉を発している。そのようにご自身で自覚されているのではないだろうか。それは武藤さんを通じて、聞き手、いや、同じ時代を生きる僕たちひとりひとりに響いてくる。

 
 かつて武藤さんの言葉について考えた時、僕はこのように記したことがある。


 武藤さんを絶対的存在として称揚してはならない。同時に、貶めてもならない。当たり前のことだが、どちらも失礼だ。確かにすごい人だと思うけれど、そのすごさは自分も生活し、働いている同じ社会・同じ時間と地続きであるというべきだ。自分とは無関係の地平にある存在なのではない。このことは何度でも思い出す価値がある。そして、そうした人が発した言葉が突き付ける絶対性が、確かにあるということを記憶にとどめよう、出来る限り。



 今は少し手触りが違ってきている。例えば、こうした文章に接した時の感覚に、近い。様々な違いを捨象しても、なお。


 何をなすか、ではなく、何を受け継ごうかと考え、世界をみるとき、私たちははじめて自身に準備されている「遺物」の豊かさに気がつくのではないか。別な見方をすれば、生きるとは、自己の願望を成就することではなく、先人の生に、いかに受け継ぐべきものを見出すか、ということになる。
                                 若松英輔、『内村鑑三をよむ』、P.48


 
 相対的存在に宿る絶対性、というのが僕がこの数年ぼんやりと考えてきたテーマであったが、どうやら少しは問いを進めることが出来そうな手触りが、ある。それは、数多くある問いや課題を、貫くことのできる「棒のごときもの」となるものかもしれない。

 
 武藤さんのスピーチのもたらしてくれた「体験」を、今一度かみしめることにしよう。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-07-16 17:47 | Comments(0)

「現在」に引きつけるための準備――「原爆批評」メモその2

 『われなお生きてあり』を手掛かりに「原爆批評」について考えたその1につづき、では、現在の地平で原爆の問題をどうとらえるか、という問題について。

 ありていに言おう。僕は、核兵器はなくなったほうがいいと思っている。数ある兵器の中で核兵器だけを特別扱いするいわれはないのかもしれない。その意味で核兵器に限定するつもりはあんまりないのだが、キツすぎる兵器、無差別に人を殺す/が殺される兵器は、やっぱり格段に怖いと思うから。

 これはあまりに素朴すぎるといわれるかもしれない。それでいいじゃねぇか、という気持ちが半分、もう少し勉強しなきゃな、と思うのがもう半分。実に宙ぶらりんである。

 勉強といっていいのか分からないが、たとえばその1であげたような各作品からだけでなく、二人の若者の死を描きながら「日本に愛想づかしする権利」を説いた大江健三郎さんのエッセイ(「日本に愛想づかしする権利」、初出1965、『厳粛な綱渡り』、講談社文芸文庫、所収)などは僕にとって有益である。

 同じく大江さんの言葉を、二つほど掬いだしてみよう(なお、大江さんは1935年生まれであるから、これらの言葉は30代前半につづられたものである)。

 「なぜヒロシマ、ナガサキが記憶しつづけなければならず、そこにいまなお埋れている真実が更に発掘されつづけなければならぬか、といえば、それは世界で核戦争の現実をみずから体験した人々がそこにのみ、なお生き延びているからにほかならない。われわれの核戦争への想像力を検証する現実的な力をそなえた人々がそこにいるからにほかならないのである。ヒロシマ、ナガサキについて具体的に考えつづけることによってのみ、われわれは核時代を『なおも生きのびようとする』民衆としての根本的な資質を確かめうるのである」(「核基地に生きる日本人」、初出1968、『持続する志』、講談社文芸文庫、P.198)

 核時代、という「大きな物語」が前提とされているが、それは当然のことだったろう。福田さんの『われなお生きてあり』もこの年の出版だ。「物語」などではなく、目の前の現実として、被爆者の直面する困難があったのだ。「われわれの核戦争への想像力」という言葉はある程度時代を超えた普遍性を持ちうるものである。しかし、これが記されてからさらに40年、「想像力を検証する現実的な力をそなえた人々」――「他者」と置き換えてもよい――がもはや少ない、という現実に直面する。

 だからといってこれは失われていい類の想像力ではないだろう。もう一歩進むための手掛かり。

「われわれ民衆は、恐怖するものとしてか、あるいは、殲滅されるもの、としてのみ、核戦争に参加する。恐怖するものとして、われわれは核時代のエスカレーション体制を、裏面から支えている。この惨めな役割につく資格は、われわれが殲滅されるものであることをもってのみ保証されたのである」(「核時代の暴君殺し(タイラニサイド)」、初出1969、『壊れものとしての人間』、講談社文芸文庫、P.106)
             *下線は本文では傍点。

 核兵器がある状態におかれた「われわれ民衆」の「惨めな役割」。これは単に被爆者という「他人」が直面する困難について思うというような「想像力」では勿論、ない。誰もが被爆者となりうる時代に生きているということの意味、それを自分自身に引き付けて考えるヒントが、ここにはある。

 ぐっと最近になるが、鶴見俊輔さん(1922年生まれ)のインタビューが昨年の「すばる」(2008年6月号~8月号)にて掲載された(*1)。「鶴見俊輔 思索の道筋」と題した一連のそれを締めくくるのが「原爆からはじめる戦後史」(「すばる」2008年8月号所収)である。

(*1)先日送られてきた新刊情報からみて、作品社さんから近々出版される『言い遺しておくこと』がこのインタビューをまとめたものになるのではないかと思われる

 ご自身が(あるいは実際に被爆した丸山眞男さんも)、原爆というものをどうとらえたらよいのか、と苦心されたことを率直に吐露している。その上で、広島と長崎で二重に被爆した人の言葉を手掛かりに、「自分たち(*2)がもてあそばれたような気がする」というのが「原爆のもつ真実の意味」だとし、「戦後史というのは、ほんとうはここから考えるべきなんですよ」(P.189)、と説く。

(*2)文脈からは「被爆者」に限定されるようにも思われるのだが、もっと広く、被爆者になりうる私たち、と言い換えてもよいだろう。

 「恐怖するもの」、「殲滅されるもの」、「もてあそばれ」るものとしての私たち……こう続けてみると「被害者」としての面しか見えてこないようにも思える。そうであるともいえるし、そうでないともいえる。

 「今日の戦争反対の思想は、未来の戦争において自分は被害者でありたくない、被害者であるということを拒否するという思想であると同時に、未来の戦争における加害者でありたくない、加害者であることも拒否する、という思想でなければならない筈です」(大江健三郎、「記憶と想像力」、初出1966、『持続する志』、講談社文芸文庫、P.40)

 
 を引くことは出来るが、ここはやはり小田実さんを参照せざるを得なくなってきたようだ。恥ずかしながらほぼ未読、この機会にチャレンジする。その上で、「ロスジェネ」「フリーターズフリー」への接続を試みよう。

 ……うーむ、思いつきをつぶやいただけなのがずいぶんと大事(おおごと)になってきた(笑)。もっとも、自分の中だけだけれど。まあいい、せっかくの機会なのでもう少し考えてみよう。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2009-10-20 19:48 | 批評系 | Comments(0)