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断片

 いろんなことが中途半端で、でもたぶん進行している。よい進行と悪い進行と、そのどちらであるかは判らない。


 本を読んでいるようであまり読めてもいない。若松英輔さんや大澤信亮さんの書いたものが載っているものはなるべくもれなく買ってはいる。読めてはいない。いつかきっと読むだろう。それでいい。


 いくつかのテレビドラマを見ていて、今は亡き人が語り部となるようなものが複数あった。その時、「死者論」をいつのまにか通俗的に解釈していることに気づき、愕然とした。これが今の時代なのだな、というような、そんな言葉がふと頭をよぎった。別に誰かに話そうとしたわけではない。ただそう思っただけだ。ちょっと間をおいて、待てよお前、と自分で自分に強烈に突っ込んだのだった。なぜそうスムーズに言葉が出るのだ、と。「魂」の震えがない言葉。


 気づいただけまだましか、と慰めつつ、いや、そういう問題ではない、これはおそらく「言葉」に関わる根本的な問題だ。

 
 ミシマ社さん仕切りの、若松英輔さんと中島岳志さんの対談。その場において中島さんは、自らの中から出てくる言葉、それに対するおそれ、といったようなことを語っておられた(厳密には少し意味合いが異なるのかもしれない。いつかきっと本になるはずだだから確認はその時にお願いしたい)。言葉は誰のものか。そして、自分とは何か。

 
 おそれ。畏敬と言い換えてもよいだろう。日々使う言葉にどこまで畏れ、どこまで敬うことが出来るか。そこから何が見えてくるか。


 「様々なる意匠」の書きだしが思い起こされる。この地平に身を置こうと試みると、あらゆる「論争」は違った様相を呈する。自らは絶対に傷つかない場所で、ああでもないこうでもないと言うことのくだらなさとつまらなさ。これを例にするとかえって通じないかもしれないが、選挙も似たようなものだ。一度でいい、自分がこの人を、この党を、自分たちの代弁者としてなんとか政治の場に食い込ませようとあがいてみた経験があれば、ほとんどありとあらゆる「論評」が色あせて見えるだろう。


 誰かと誰かが喧嘩した。それを遠目で見て評定する。勝手にしやがれ。問いを見出せないのなら口をつぐんでおればよろしい。魂の震えとしての沈黙が、ありうるはずだ。


 「沈黙も言語である」。最晩年の吉本隆明さんはそう言った。言葉への畏れを、まずは自分なりに積み重ねていくこと。

 
 
 


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by todoroki-tetsu | 2013-12-30 23:38 | 批評系 | Comments(0)

中野重治「五勺の酒」について(その十三)

 校長の「問題は共産党だ」という物言いの裏には、共産党をとっぱらっても残るものがある。そこをつかみたい。逆を言えば、残るものがなきゃその物言いはダメだということにもなる。だが。


 去年の八月十五日僕はぼんぼんといって泣いた。あのとき泣いたもののうちいちばん泣いた一人が僕だろう。僕はかずかずの犯した罪が洗われて行く気がして泣けたのだ。あのとき僕は決してだまされたとは思わなかった。しかしあれからあと、毎日のようにだまされているという感じで生きてきた。元旦詔勅はわけても惨酷だった。僕らはだまされている。そして共産主義者たちがだまさせている。これが僕個人のいつわらぬ感じです。


 さすがにこれは言い過ぎ/言われ過ぎの感がする。もちろん、当時の様々な言説を調べているわけではない。そこは専門家に任せる。しかし、単純に考えて、共産主義者に非はないとはいわないが、総体として力を有していたのは誰だったのか、そこを問わずして何故共産主義者が非難されねばならないか。


 ここでもまた、共産主義者を現在活発に活動している特定個人や運動体に置き換えてみようか。政治なり社会なりに何らかの問題がある。それに対して「否」と声をあげる。上げ方にもやり方にもいろいろとあるだろう。けれど、問題の主たる責任は現行の体制を推進してきた側にあるのであって、「否」と声をあげた側ではない。にも関わらず非難の声は、しばしば「否」と声をあげた者に向かう。それは例えば「寝た子をおこすな」という変化にたいする忌避であり、「そんなやり方ではだめだ」という評論もしくは否定によって自己の存在を知らしめるような精神構造として顕在化する。

 
 ――中島みゆきさんの「世情」が流れ出す。

 
 さらに難しいのは、「否」と声をあげた者には主たる責任はもちろんないわけだが、問題と状況によっては、やはり何らかの責任を背負っているという自覚にたどり着くことがしばしばである(例:「チッソは私であった」)。これは自らの主体性を突き詰め、また失われた何ものか――多くの場合には死者であろう――と向き合う時に出てくる自覚といえよう。濃淡はあれ、こうした自分自身への問いがなければ、やはり言葉は浮いてしまうだろう。「否」と声をあげた者への非難には、時としてまっとうな批判=批評が含まれるのである。


 おそらくどこまでいっても、こうした構図は変わらない。危険だが、吉本さんの講演「喩としての聖書」を手がかりに、参照項として下記をあげておかねばなるまい。
 

 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え」。祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。


 「マルコによる福音書」15章。「正しい者、聖なる者は迫害される。よって迫害される者は正しい」という構図をここから引っ張り出したいのではない。イエスの中に自分を見たければどうぞご勝手に。僕は「他人を救ったように自分を救え」と嘲弄する、通りかかった者たちの中に自分を見る。いいことを言っている奴に、「じゃあお前これはどうなんだ」と突き付けてやりたくなる気持ち。それはどうしようもなくあるものなのだ。


 そうだ。どうしようもなくあるものだからこそ、共産主義者を現在ある何ものかに置換してもすぐさま通用するのだ。共産党だ運動だという話に限ったこっちゃないのだ。そうしたことが作品として遺されていることにより、読む者は自分の気持ちを再発見し、孤独から逃れることが出来るのと同時に、問い直す契機を得る。

 
 ここからの数頁が、「五勺の酒」のヤマ場となってくる。
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by todoroki-tetsu | 2012-11-03 06:20 | 批評系 | Comments(0)

白川静『漢字』

 白川静さんの『漢字』を、あいまあいまに読み進めていた。若松英輔さんの影響による。


 仕事上のかかわりからどうしても入っていかざるを得なかった吉本隆明さん、そのおかげでかなりいろんな世界を知ることが出来たのだが、おそらくこの一冊も、そうした経緯と経験を積んでいなければ読めなかったかもしれない。とにかく難しい。旧き佳き岩波新書だ。懐かしんでばかりもいられない。自分を括弧に入れられない、読者として、書店員として。

 
 細かいことはさっぱり判らない。けれど、吉本さんが「歌」をさかのぼったように――それには折口信夫さんの蓄積を大いに活用したであろう――、その初原にまでさかのぼる、その姿と重ね合わせながら読んでいた。今となっては埋もれきっている何ものかを明らかにする興奮。実証がどこまで出来るか知らない。しかし、何ともいえず訴えかけてくる何ものか。


 何せ「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」という言葉から始まるのである。具体的に取り上げられるのは古代中国であり、それを手がかりとする古代日本への想いであろう。その時に生きていた人間が何を感じ取っていたか。今なお何か惹かれるものがそこにあるとするならば、そこには人間が人間として受けついでいる何かがある。

 
 僕が知識がないから間違っているかもしれない。しかし、感覚として、白川さんは確信を以て字源の意味するところを書いている。反証する根拠はおそらく無数にあるだろう。それは古代の音韻論などでも見られることだろう。けれど、自分自身に血肉化した解釈には揺るぎがない。さりとて独断という感はまったくない。大きな何かをつかんだ上でものを言っている。そういう印象を受ける。例えば「歌謡について」と小見出しのついたセクション(P.131)。


 ことばが、神とともにあり、神そのものであった時代に、神と交渉をもつ直接の手段は、ことばの呪能を高度に発揮することであった。「ことだまの幸(さき)はふ国」というのは、ひとりわが国の古代のみではない。中国にあっても、そのことだまへのおそれは、古代文字の構成の上にあらわれているのである。

 呪言としてのことばは、日常のことばづかいと、多少異なっている方が呪能の効果を高めると考えられた。お経をよみ、聖書をよむにしても、適当な抑揚やリズムが要求される。その最も古代的なものが歌であった。国語の「うた」は、あるいは「うつたふ」という語と、関係があるかも知れない。歌は神に訴え、哀告することばであった。

 古代人の感情は素朴で直截的であり、つくろうところがなかった。かれらは神に祈るとき、もとより神に哀訴するのであるが、かれらの感情は、祈る以上はその実現を要求してやまなかった。どうあっても、神に聴いて頂かねばならぬという、強訴に近いものであった。


 じっさいに哀告、哀訴、あるいは強訴を体験した者でなければ醸し出せない説得力を、ここに感じる。


 以前だったらここで終っていたのだが、最近はもう少し先の、あるいはややこしいことを考える。なぜ、自分はこうした部分に説得力を感じるのか。読み手として、この時何を為し得ているか。

 
 言葉がわかることすなわち喩がわかること、それはすなわち信仰を持っているということだ、という吉本さんの講演「喩としての聖書」でのお話がふと頭をよぎる。


 何ものかに触れ得ているかは自信がない。だが、どうやらここではないかという戸口には、立せてもらっている気がする。
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by todoroki-tetsu | 2012-10-29 06:47 | 批評系 | Comments(0)

「ラ・マンチャの男」と「誤読」

 ミーハーでいささか恥ずかしいのだが、「ラ・マンチャの男」と幸四郎丈の「勧進帳」はほぼ必ず足を運ぶようにしている。居住地の近辺で公演のある場合、という限定はつくのだが。どちらも、まあ、いかにも男が好きそうな演目ではある。だが、こればっかりは致し方ない。


 さて、「ラ・マンチャの男」。そんなことでもない限り帝国劇場なんざ足を踏み入れたりはしないのだが、おそらく今日が三度目か四度目だ。早めに行ってベトナム珈琲を頂くのも恒例である。こうした定番パターンをつくっておくと、以前はどんなことを考えていたか、とか、そうしたことが思い出しやすくてなかなかに面白い。年をとるのも悪くない、と思うのはこういう時だ。


 舞台を見るのは決して嫌いではない。けれど、どこがいいとか悪いとか、あんまりそういうことは判らない。ひとりで行くからかもしれない。観る前も観た後も、ひとりであれこれ考えてみるだけだ。


 「ラ・マンチャの男」を観るこの数回、どうしても脳裏をよぎる男がいる。かつて首相を務めたその男は、数々の「改革」を、その片腕と目される「経済学者」とともに行った。彼の好むミュージカルが、「ラ・マンチャの男」であったと知ったその時から、どうあってもその姿が観劇中に思い浮かんでしまうのだ。


 かつて学費値下げの国会要請の時に、議員会館で一度だけすれ違ったことのあるその男は、決して大柄ではなかった。しかし、その鋭い目つきは、「食えない奴に違いない」と二十歳そこそこの学生にも判るくらいのものではあった。

 
 セリフを丹念に追えば、彼が勝手にたたかいに酔いしれているだけだということくらいは言えるだろう。山場のひとつである「あるべき姿」のくだり、その前に語られるのは貧しさであり苦しさであり、死であるのだから。


 そうしたことを取り上げるのはたいせつなことだ。それは、加藤周一さんが陸軍省情報部の「万葉集」の読み方を批判したのと同じような重要性を持つ(『「日本文学史序説」補講』、かもがわ出版、P.47)。

 
 しかし、それだけではダメなように思うのだ。その男の解釈は、要するに「誤読」といえば「誤読」である。しかし、「誤読」は時として「正読」を超える。そこに作品の生命力が宿るといっても過言ではない。吉本隆明さんの言葉を繰り返そう。「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です」(『真贋』)。


 これは必ずしも誤読を勧めるようなものではない。しかし、紙一重のところをついている。

 
 正しい読み方、ということでふと思いついたのは、社会的というか、資本主義批判というか、そういう文脈を持ち込むこと。例えば今読み進めている「かつて、ぶどう園で起きたこと」はそうした視点を有したすぐれた批評である。けれど、それは非常に練って練って練り上げられたものである。素人が下手に手を出せばともすると、ふた昔前くらいにあったという、やれ階級的視点がどうだとか、帝国主義に対するどうのこうのだとか、何だか紋切り型の口上を並べることで終始してしまいそうなおそれがないでもない。


 じゃあ、どうするか。

 
 「誤読」には「誤読」で対抗するしかないんじゃないか?

 
 あの男は要するに、「敵」とたたかう自分に酔いしれたかっただけだろう。ならば、そうではない読み方をしてやろうじゃないか。


 ドン・キホーテがなぜ狂わなければならなかったか、そこから始めてみてもいい。ただ騎士道物語を読み過ぎたたわけものではない。騎士道物語に傾注しなければならないほど、この世が嫌だったのだ。それは正視するのを避けたからではない。正視するあまりに気がふれたのだ。


 「狂わなければ見えないこともある」(鴻上尚史「ピルグリム」)といわんばかりに、キホーテの目に見えるものは常人の目から見れば荒唐無稽だ。しかし、ただひとつ、狂気によってしか見えなかったものがあるとすれば、それはアルドンサの中にドルシネアを見たことではなかったか。アルドンサはキホーテによってドルシネアになる(そこにはキホーテの「気高き心」に起因する不幸があったことは忘れてはならない)。そしてキホーテのたたかいの意味も、ドルシネアによってはじめて意味づけられる。


 敵を見つけ、それをつぶす。そうしたためにたたかうのではない。思い起こせ。キホーテは打ち棄てた敵にも手当をしてやろうとしたではないか。敵を見出すことにキホーテは執心したのか。それ以上に、ドルシネアの姿を追い求めることにこそ、彼の狂気は向けられたのではないか。キホーテの「あるべき姿」とは、まずもって敵を打ち滅ぼすようなことではなく、自らに意味をもたらす思い姫に出会うことではなかったか。


 しかし、なんど観ても砂をかむような思いになるのは、前述したように、アルドンサを見舞う不幸が、他ならぬキホーテの言動によって引き起こされること。この不幸を、フィナーレによって埋め合わせることは出来ないし、してはならないだろう。キホーテの狂気は少なくとも自分自身を救い得たろうし、最後の最後にはアルドンサをドルシネアとして救ったようにも見える。けれど、後者についてはそう言いきれる自信はない。


 こんな程度の「誤読」では、あの男の下らぬ「誤読」には打ち勝てぬかもしれない。しかし、僕は悔しくてならない。我慢がならないのだ。奴に大事なものを奪われてしまった気がしてならない。


 何としても取り返す。「物語」を、取り返してやる。

 
 その方法は……、ハックルベリ・フィンに教えてもらうことにしよう。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-07 23:28 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その八

 5:「かつて、ぶどう園で起きたこと」は、評論のタイトルにもなるくらいの、キモの中のキモの部分である。その分、たいへんなのだ。「スピード」の心象をつかもうとしたとき以上の、エネルギーが必要だろう。そう考えながら読むのは、しんどいこともあるが、実に面白いものである。読むために書く、ということを実感する。


 そもそも、このぶどう園の挿話は、マルコ伝とマタイ伝とに記される話である。注釈には「など」とあるから、他にもぶどう園のエピソードはたくさんあるのだろう。マルコ伝には殺人のことが記されており、マタイ伝には賃金の話がある。これらを一緒にして考えてよいものかどうかは知らない。けれど、ぶどう園の挿話はおそらくたくさんにあるのだろうから、数々に語られるエピソードをつなぎ合わせてひとつのイメージをつくるのは悪くないのだろう。


 ……と、ここまで昨日のうちに書くだけ書いてみて、ほおり出してしまった。どうやって読んだものだか、どうにも見当がつかん。


 僕は今回再読するにあたって、はじめにこう記しておいた。


 ハナから判らないだけでなく、何も感じないのであればまだあきらめがつく。何かがありそうだという感覚だけは感じ取ることが出来る作品というのは、ずいぶんと始末に悪い。言っちゃあ悪いが、腐れ縁のようなものだ。


 このセクションの前半、わずか2頁足らずの記述を、どう読んだものだかさっぱり判らない。しかし、判らないけれども、何かがありそうだとは感じ取れるのだ。ああもう。こんなに厄介なことがあるか。


 あけて今朝。新聞をひらく。「毎日」には湯浅誠さんの記事を見つける。「『無縁』想定した備えを急げ」と題するこの記事では、幸福度調査日本一に輝くという福井県を訪れた際の話が中心となる。記事の中ほどに次のような文章を見つけ、ハッとする。下線は等々力による。

 
 人口減少、生産年齢人口減少によって走る向きを逆転させてみると、前の者が後に、後の者が前になる。前近代的、古臭いと言って切り捨ててきた価値が見直される。


 思い出した。たしか井上ひさしさんのエッセイにも「遅れた者が勝ちになる」だったか、そんなタイトルがあった。論法はこの湯浅さんとほぼ同じである。

 
 そう、マタイ伝における「ぶどう園」の挿話は、「あとの者は先になり、先の者はあとになる」というものであった。ラスキンに始まったことではなかろうが、この言葉から、現世における「改良」を読みとろうとした人は少なからずいるだろう。そして、浅尾さんは、その来歴からすれば、井上ひさし―湯浅誠のラインに連なってもなんら不思議はない。


 ところが、この評論ではどうだろう。主にマタイ伝での挿話を引いた後、即座につなげられるのはヴェイユの姿である。

 
 ヴェイユのようなひとこそが地獄に落ち、最後の被救済者となる。

 そう、「ぶどうの房を引っぱったりすれば、ぶどうの粒はみな地面に落っこちてしまう」。

 すなわち私たちは、ぶどう園における連続殺人事件から「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という、世界が滅びる際のルールを導き出すことができる。



 「あとの者は先になり、先の者はあとになる」というフレーズが醸し出す雰囲気の、語り手によってなんと異なることか。かたや現世での展望、かたや滅びの世界。浅尾さんがここから現世での展望を直接的に引き出すことを、しないのか出来ないのか、判らない。しかし、そうさせない何かが存在していることだけは、ここまで読み進めてきた自分にも、感じ取ることが出来る。それは、この書き手が、「「ロスジェネ文学」の主人公は、みんな真面目で、かつナイーブときている」といい、「彼らは、流通過程でふたたび過酷な労働と暴力に出会う。彼らは、それを逆らえない必然として一身に引き受けている。そうして密かに傷つき、悲しみに暮れて、ひとり声を殺して泣いているのだ」と記し、「私には、主人公たちを『もっとがんばれ』『愚鈍だ』などと言って叱ったり、笑ったりはできない」と書きつける、そういう人であることを、既に知っているからだ。


 マタイ伝でのぶどう園とマルコ伝でのぶどう園とを結び付けて論ずるのが、一般的なことなのか、浅尾さんの独創によるのかは知らない。しかし、少なくとも今ここではふたつは結び付けて考えられなければならない、そのことだけは確かだ。


 かつて、吉本さんは「マチウ書試論」において、マチウ書=マタイ伝の作者の、怨念ともいうべき熱情を掘り起こしたのだが、そこでえぐりだされたのはマチウ書の作者個人の姿ではなかった。「マチウ書試論」を引こう。

 マチウ書の作者が、ここで提出しているほんとうの問題は、現実の秩序のなかで、人間の存在が、どのような相対性のまえにされされねばならないかという点にある。

 ゆらいこの課題はけっして解かれたことがない。あらゆる思想家がみな見ぬふりをしてきただけであり、すくなくともマチウの作者は、幼稚で頑強なこの課題に、はげしくいどみかかったのである。


 僕もまた、このように浅尾評論を読み進めたいと願う。まぎれもないひとりの作家個人に宿る精神に、近づきたいと思う。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-03 23:10 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その六

 4:「作品分析――副詞『あらかじめ』の恐怖」を引き続き。


 作品分析においては、岡崎祥久さんの『秒速10センチの越冬』、長嶋有さんの『泣かない女はいない』、伊藤たかみさんの『八月の路上に捨てる』、吉田修一さんの『悪人』の4つの作品が取り上げられる。この分析を引いてしまうのは野暮だ。出来る限り最小限に抑えたいと思う。しかし、どうしても『八月の路上に捨てる』と『悪人』の分析には触れざるを得ない。


 『八月……』で印象的に挿入される「けむりづめ」のエピソード。将棋を解さない僕は、この誰だか偉い人が造り上げたというこの手について、何も言うことが出来ない。しかし、浅尾さんが言うところは、判る。

 
 私の考えでは、詰将棋「けむりづめ」は、自陣の兵隊や馬車、持ち金を失っていく絶望の戦略ではない。そうではなくて、自分が手に持っているものすべてを敵に「贈与」しながら漸進する生き方である。



 そして、ここに最晩年のヴェイユの姿を重ねあわせるところまでは、何とか追うことが出来る。判らないのが次の個所だ。

 
 私は、「けむりづめ」のたたかいやヴェイユの真心と蛮勇に、何者も追いつけないスピードを感じる。否、この世界を成り立たせているルールを根本からひっくり返すような力が宿っているのを見る。


 この文章の後半はどことなく判る。前半が判らない。ヴェイユからは張り詰めた倫理を読みとることが出来るが、そこから「スピード」を感じ取ることが僕にはなかったからだ。僕にとってこの評論の難関のひとつは、この「スピード」を把握できるかどうかにある。資本のスピードについては判った。それに対抗するようなヴェイユに「スピード」を感じ取るとはどういうことか。
 
 
 吉本さんの講演「シモーヌ・ヴェーユの意味」を聴き直してみる。工場生活に入ったころのヴェイユについて語るくだり。引用は『〈信〉の構造 2』に依る。


 へとへとに疲れてなにもかんがえられないというような日々の工場生活について、ヴェーユが感じたことのうち決定的なことがひとつありました。(略)他の労働者とまったくおなじように働いたら、反抗心をもったり、敵愾心を燃えあがらせるというふうになるかなとおもったところ、意外なことに、ぎゅうぎゅうと職制に押さえつけられて、暇もなく製品作りに専念させられてという状態を、素直に受け入れていたとヴェーユは記しています。(略)じぶんはこの抑圧を受け入れ、あたかも古代の奴隷のように嬉々としてこき使われるみたいに、そのことを心で肯定し、受け入れているという精神状態になったということが、じぶんにとって衝撃だったとヴェーユは述べています。



 このようなヴェイユの掴み方を、吉本さんは外側からだけで掴んだものではない、として評価する。この講演ではこの後また別の興味深い論点に話がスライドしていくのだが、ここで「やられたらやり返せ」との関係を考えてみたい。

 
 ついこの間、こんなふうに僕は考えてみていたし、記していた。


 資本の求める「スピード」に、「やられたらやり返す」のが「等価交換としての復讐」である。そう考えてみる。確かに、ストライキはそういうものだ。「そっち(資本)の言うことなんて聞かねぇよ」ということだ。これが生産の暴力のイメージだとしよう。

 
 ひるがえって、資本の求める「スピード」に、「耐え忍ぶ」こと。「流通の暴力」。これにさらされた人間が、「やられたらやり返せ」式に立ちあがることは極めて困難だ。ならばスピードに耐え忍ぼう、その先に「何か」があるはずだと。



 だが、ヴェイユはあきらかに工場労働であって、これ以上にないというくらい生産労働である。だとすれば、生産過程においても、「やられたらやり返せ」が成り立たない領域があるということ。いや、そもそも「やられたらやり返せ」が成り立つのは、まれな場合でしかなかったのではないか。黄金律は厳然と存在し続けている。「しはらったものを/ずっと以前のぶんまでとりかえ」そうとする人のほうがすくないのではないかという疑い。


 ならば、資本の求める「スピード」に耐え忍ぶ。それしかない。いや、耐え忍ぶばかりではなく、「自分が手に持っているものすべてを敵に『贈与』しながら漸進する」。無謀。手前で引けば良いのに。どうすることもできない。耐え忍ぶ。我が身がさらされる資本のスピードの、ほんの少し先に自らを投げ出す。頭一つ前に出す。


 しかし、その時、ヴェイユは、あるいは「ロスジェネ文学」の主人公たちは、怯えているだろうか。否。スピードにさらされ抜いた、その先に開ける地平。スピードを逆手に取る。「この世界を成り立たせているルールを根本からひっくり返すような力」がそこに宿る。

 
 ……だんだんと、心象に近づけてきた気がしてくる。とはいえ、このイメージだけでは「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」で済まされてしまいそうな、たいせつではあるけれども、どこかこう、物足りないものに思えてくる。


 『悪人』の分析に学びとることが、ぜひとも必要となってくる。

______________________________________

 ところで、本論とはそれるかもしれないが、大変に興味深いことがある。先に吉本さんの講演を引用した、その少し先。ヴェイユの体験に対し、吉本さんは自分の体験を対置する。学校出たてで町工場に働きに出て、二日に一回は徹夜でずいぶんとつらかったこと、それで自分は三ヶ月くらいで身体を壊して職場を離れたということ。その体験を振り返った時の言葉は、講演録にはこうある。


 そのときに、ぼく自身はくだらないからね、ヴェーユのように体得しなかったのですが、ヴェーユの〈気づき〉の意味の深さは理解することが出来ます。



 音声には残っていて、講演録には収録されていないくだりが存在する。その部分を再現して埋め込もう。


 そのときに、ぼく自身はくだらないからね、ヴェーユのように体得しなかったのですが、自分は素直になったなあ、とはならなかったんです。あとあとまで僕ね、あいつ、工場のおやじさんとね、町であったらただじゃおかねぇぞと、そういう反抗心を燃やしたんですけどね、ヴェーユの〈気づき〉の意味の深さは理解することが出来ます。

 
 
 吉本さんとヴェイユの岐路はここにある。どちらがいいとか悪いとかではない。「やられたらやり返せ」が吉本さんだ、とは、単純には言いきれないかもしれないが、少なくとも今、この局面ではそうだと言いうる。浅尾さんは、吉本さんが見切りをつけたところに可能性を見る。かつての「論座」での緊張感あふれる「対談」(インタビューなどでは断じてない)を思い起こす。


 わたしたちの文学はいずこにあるか。


 
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by todoroki-tetsu | 2012-07-31 22:48 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その五

 4:「作品分析――副詞『あらかじめ』の恐怖」の冒頭では、「生産」の暴力が、今までとは違った表現で語られる。


 かつて生産現場における勇猛かつ無政府主義的なファンタジーを牽引した「希望」は、支配―被支配という等価交換のなかに潜む剰余価値G’の「山分け」、すなわち平等な分配があり得るというものだった。


  
 これをふまえると、「やられたらやりかえせ」という言葉はまた違った印象を持って迫ってくる。あるいは、吉本さんの「ちいさな群への挨拶」を連想するのは、読者の勝手に過ぎようか。

 ぼくはでてゆく
 すべての時刻がむこうがわに
 ぼくたちがしはらったものを
 ずっと以前のぶんまでとりかえすために



 浅尾さんの言葉はさらに先に進む。

 
 私がこのような「希望」の型を「資本論幻想」と呼ぶのは、人間という変数の閾値が少しも勘定に入っていないからである。ひるがえって現代ニッポンの「ロスジェネ文学」は――『資本論』に忠実ではあるが、主人公たちが人間の連帯を安易に信じていないという点で、かなり深いリアリズムを獲得している。



 「平等な分配」にむけて、人間どうしが連帯することの困難。本来連帯すべき人間どうしが、何かによって分断されているという認識ではおそらくない。もともと連帯なんて出来ないし、しないじゃないか。前提が逆転する。そう、「黄金律は、天地開びゃくの第一日目から存在しており、私たち人間の目に見えなかっただけである」。


 彼らは、流通過程でふたたび過酷な労働と暴力に出会う。彼らは、それを逆らえない必然として一身に引き受けている。そうして密かに傷つき、悲しみに暮れて、ひとり声を殺して泣いているのだ。



 エドワード・ホッパーの作品から感じ取ることの出来る寂しさをも思わせる。僕はこうした言葉を記す人を、心の底から信頼する。一言一句を盲目的に信頼する、という意味では決してない。書き手と商売人である書店員という関係上、そこにはどうしても「仕事」「カネ」の関係が介在する。あらゆる緊張関係が発生しうる。しかし、それでもなお、この一文を記しうる書き手を、信頼しない理由は何一つありはしない、そう言い切る。こうした文学者と同時代を生きることの幸福が、ここにはある。

 
 とはいえ、この幸福は絶望の中のそれである。

 
 彼/彼女の後ろ姿から伸びているのは、死の影と副詞「あらかじめ」の恐怖である。


 
 この正体を突き止めるには、ヴェイユ―吉本隆明から、書き手と読者がともに学びとることの出来る以下のような着想が必要である。


 ……「ロスジェネ文学」を論じるにあたっては、物語から絶望が引き出され、「神の問題」に直面するはずである。

 しかし唯物論者の私は、いまここでは「神の問題」とは呼ばない。「資本」、あるいは副詞「あらかじめ」という表現に言い改めながら、「溜めのない世代」が抱える苦しみと悲しみを、この身に引き寄せてみたい。

 
 
 唯物論者、という言葉にひっかかる必要はないだろう。「神の問題」すなわち「信仰」にかかわるもんだいを、そうではないアプローチで考えていこうという、それだけのことだ。そのそれだけのこと、が大事なのだが。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-30 14:24 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(7)「社会問題/運動」と単行本

 社会運動としての出版、という考え方はあり得る。それには相当程度賛成する。書き手、編集者、営業さん、出版社としては、十二分に成り立つ考え方であろう。書店員においては、部分的に成立する考え方であると考えておいた方がよさそうだ。そんなことについて今日は。


1.基礎イメージ
 
 まず、社会運動とは何ぞやという問題なのだが、その手前(?)の社会問題から考えてみよう。この定義をどこかで誰かがやっているのか、僕は知らない。例えば水俣病、例えば原発の問題、例えば小沢さんのおカネの問題、例えば消費税の問題……具体的に挙げていけばおそらくキリがない。ひょっとすると、あらゆる問題は社会問題だと言いうるのかもしれない。が、混乱を避けるために、ここではひとまず、吉本隆明さんの「三人の世界」という定義を借りておこう。講演「宗教と自立」より。
 
 
 かんたんにモデルでいえば、ひとりの世界というモデル、それから二人の世界というモデル、それから三人の世界というモデルをつくれば、人間の観念の世界は全部了解することができるでしょう。多数の世界において起る問題の原型は、三人の共同性の世界で起る問題を徹底的につきつめることによって理解することができます。

                          吉本隆明、『<信>の構造 2』、春秋社、P.220



 これは「観念の世界」について言われていることだけれども、概念整理には非常に役立つ。要するに、個人的な問題とか、二人だけの問題ではなさそうな問題を、ざっくりと社会問題であると認識しておこう。その程度のことである。

   
 さて、これらの問題に、何らかの行動・言動をもってアプローチしていこうとすることをひとまず社会運動としておこう。問題ごとに組織が創られるかもしれない。予めある組織が何かを行うのかもしれない。組織といってもいろいろあるだろう。一人で起つのも運動ではあり得るが、他者への働きかけをそれは前提とする。


 余談だが、一人で何かすることで、運動と言いうるかもしれない、と思えることで自分がやったことは、学生時代に何度かやった個人署名入りの立て看板づくりとか、数年前に手製のプラカードを持って国会前(議員会館前)に突っ立っていたとか、そんな程度のことしかない。誰かに伝えたいという思いはあるが、その行動は一人で責任を負う/負える範囲でやろう、という発想であろうか。比較的最近ではしばしばデモの隊列にひっそりと加わらせてもらっているが、これで「運動」をやっている気になってはいけないと自戒している。企画・運営・実行する皆さんが非常に大変だろうことを思うと、おのずと自戒のモードに入っていくのである。



2.社会問題/運動を単行本にするということ

 様々な社会問題、またそれに対する働きかけとしてのいわゆる社会運動を活字化・報道することは、ブログなども含めるとかなりよく行われていることだろう。もちろん、大手の新聞・雑誌が云々といった問題はあるだろうけれど。

 
 新聞で報道されること(特集のようなものも含む)、週刊誌や月刊誌でそれらが記事なること、これらは非常に意義もあり、ニーズにも一定応え得ると思う。しかし、それらを単行本にするとなると、話は変わってくる。ここが僕の認識の中心だ。


 新聞・雑誌であれば、定期刊行物という性格からくるひとつの枠組み・パッケージの形式がある。その中の構成の一部を為す、という次元においては社会運動についての記事や論説は大いに許容されるであろうし、また、されねばなるまい(実際はなかなかそうではないだろうことはもちろん重々承知しているつもりである)。


 ここで、ふたつのパターンを想定する。いきなりその社会運動・問題の単行本を作ってしまう場合と、何らかの媒体での連載をベースに単行本にする場合。

 
 どちらも様々な成り行きでそうなるわけだろうが、いきなり単行本にする場合、ともすると陥りがちなのは、運動当事者もしくは運動に既に参加している人を励ます意味合いが強くなりがちなことだ。そういう本はもちろんあっていい。だが、高度に専門的ではない書店の場合に、僕はあまり積極的に陳列する意味を感じない(置かない、という意味ではない。誤解なきよう念のため)。

 
 例えば、「声を上げないのは賛成しているのと同じ」という言い方があったとする。その言葉そのものは、おそらく間違っていない。その言い方は、運動を頑張っている人、参加し始めた人を励ますかもしれない。しかし同時に、運動に現時点で携わっていない人に対してはある種の「拒絶」と受け取られることもあるだろう。

 
 もちろん、どんな物言いも100%万人に伝わるなんてことはあり得ない。今挙げた例でいえば、「そうか、だから自分も黙っていてはいけないんだ」と思う人もきっといるだろう。しかし、単行本全体としての方向性として、どんな人を想定しているのか、そこは書店員として意識せざるを得ない。特定の層を狙うのならそれでいい。運動の場で売ってくれればいいのだから。「社会問題に関心のある人」なんてあいまいな客層想定しか出来ないようなら、少なくとも書店で売ることは難しいと一度は、一度だけでも良いから、考え直してみてほしい。

 
 ところで、新聞や雑誌連載の単行本化の場合には、反響に基づき、想定される客層もある程度は事前に予測出来るだろうとは思っている。レイアウトや注釈、また必要に応じたまえがきなどの配慮は必要であるけれども。それがない、もしくは不十分なものがあるのは非常に残念だ。



3.モデルの整理

 以上を三人のモデルをベースに整理してみる。


 Aさん、Bさん、Cさんの三人がいる。この三人が意識している/いないに関わらず、さらされている問題を仮に社会問題だとしておく。


 さて、Aさんはこれは問題だと思い、その改善のための運動をしようと考える。Bさんはそれに賛同する。Cさんは「興味がない」といって賛同しない。


 ここでAさん、もしくはAさんとBさんを、主たる読者と想定する本には、僕はあまり積極的に陳列する意味を感じない。AさんやBさんは確かに買ってくれるかもしれないが、わざわざ本屋に来ずとも運動現場の手売りなどで購入しているかもしれない。来てくれても、AさんとBさんの最大2冊までだ。

 
 ここでCさんにいかに手に取ってもらおうか、と考えて作った本は、積極的に陳列したい。ひょっとすると、AさんやBさんにとってはわざわざ買うまでもない本かもしれないという可能性もある。けれど、「興味がない」といったCさんが買ってくれるような本であれば、Cさん――それは無数に連なるCさんだ――への販売可能性があるというものではないか。またそんな本であるならば、AさんやBさんも、Cさんを説得するための材料として買ってくれるかもしれない。3冊以上売れる可能性がようやく出てくるわけだ。

 
 着実に2冊売れる本を別段切り捨てるつもりはないが、必要以上に積極的に陳列するつもりがないのは以上のような意味である。無数のCさんへの販売可能性がある本があれば、積極的になってみようというものである。



4.「つくり」の問題

 とはいえ、Cさんに向けて本を作ろうとするのは難しい。結果としてなかなかうまくいかないことの方が多い。けれど、努力を放棄したらそこでおしまいだと思う。


 以上のようなことをもっとかいつまんだりデフォルメしたりして営業さんや編集者に伝えると、「それでも社会的意義が……」とか「本のレベルを落としたくない」などと言われたりする。何もCさんに向けることが別段社会的意義を貶めるとか本のレベルを下げるとか、そういうことではない。もちろん、何度でも繰り返すが、Aさん・Bさんにだけ向けて作る本はあっていいし、それはそれでありだが、それらを必要以上に積極的に陳列するつもりはない。Aさん・Bさんのことしか想定していないような本を「幅広い読者の方に……」なんて言われても別に注文部数を増やすつもりはありません。ただ、それだけのことだ。


 結果としてそれなりに堅調なセールスをあげている本もあれば、やはりなかなか結果には結びついていかないな、と思う本もあるけれども、内容を維持しながらちゃんとCさんのことも考えているな、と思う「つくり」を実現した本を3点あげて、今回のエントリの締めとする。


・雨宮処凛、『14歳からの原発問題』、河出書房新社

 雨宮さんの語り口に帰するところが少なからずあるが、かゆいところに手が届く注釈とよみやすいレイアウトが素晴らしい。


・園良太、『ボクが東電前に立ったわけ』、三一書房
 
 上記のモデルで言えば、かなりAさん・Bさんよりにはなっているけれども、これも注釈やコラム、また時系列の記述などで「読みやすさ」を確保している。編集者の力を感じさせる。


・中島岳志、『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』、金曜日

 まえがきならびに雑誌連載未収録分の対談を大幅に付加し、単行本ならではの付加価値化に成功した好例。強いて言うならもう少し注釈を増やしてもよかったかもしれないが、しかし初読者への配慮は十二分に感じさせる。また、書店店頭においては非常に重要なことだが、カバーの装丁(色遣いと写真)が控えめでありながら存在感をアピールするに十分。


_____________________________________

 
 明日、明後日で脱原発関係の大きな催しが行われるようだ。それをベースに何かしらの単行本の企画が生まれるかもしれない。本来は個人的な問いに沈潜すべきところを放棄し、あえて今日記してみた所以である。
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by todoroki-tetsu | 2012-01-13 14:20 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(6)「内容」か「背」か

 「著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である」と以前のエントリで記したけれども、書店員が扱うのは言葉であってなおかつ、商品でもあるものだ。

 
 前回『言語にとって美とはなにか』を引いた。今回は別のところを前置きとして参照しておきたい。概念図も掲出されているが、ここでは本文のみを引く。


 ……言語表現を『経哲手稿』のマルクスのように「人間の本質力の対象化された富」といってみれば、この対象化された表現をbの経路(等々力注:自己表出から指示表出へ)でかんがえるとき言語表現の価値を問うているのであり、aの経路(同注:指示表出から自己表出へ)でかんがえるときその意味を問うているのだ。そして、そのうえでさまざまの効果のさくそうした状態を具体的にもんだいにすべきだということになる。

                           『言語にとって美とはなにか Ⅰ』、P.103



1.書店員の二つのタイプ

 極論する。書店員には二つのタイプがある、と言ってしまおう。内容派と背派と仮にここでは名付けておく。なお、背派という言葉は小倉金榮堂のご主人、柴田良平さんの言葉による。興味ある方は、『吉本隆明 五十度の講演』の「【11】〈アジア的〉ということ」の冒頭をお聞き頂きたい。些か高くつくけれども、損はない買い物である。
 

 さて、内容派は、自分で読んでみてよいと思ったものを力を入れて売っていきたい、と考えるタイプ。背派は、自分では本を読まないが、今何が売れているかをベースに、装丁の雰囲気やタイトル、書評などから売れそうなものを売っていく、というタイプ。そのように分けて考える。


 実際に書店員がやっているのはこのタイプを適度に混合したものである。内容派といっても全てが全てゲラなり自分で購入したりした本を読んでからでないと売れないわけではないし、背派といっても目次などからおおよそ何が書かれているかというのはチェックするものである。考察においてはある種極端なタイプを想定してからはじめたほうが都合がよいのでそうしておく。


 タイプという用語を用いたが、これは実はその書店員がどういう世界観を持っているかという問題である、と大げさに言おうと思えば言える。書店員は内容を知った上で売るべきだと考えているか。それとも、この本はどんな顧客に向けたら売れるだろうとさえ考えればよいと思うか。

 
 繰り返すが、この両者は実際には複合する。どちらか一方だけ、というのは考えにくい。しかし、その書店員がこのいずれを理想と考えているか、突き詰めて考えていくとこのどちらかの問題になる。内容=「意味」か、背=「価値」か。言葉に寄り添うか、商品として突き放すか。良し悪しの問題ではこれはない。どちらが正しいということではない。



2.内容派と背派の実際――個人的経験から

 僕自身はどちらかというと内容派である。いや、あった、という方が近いかもしれない。具体的に記そう。


 例えば家電では、新しい機種について、そのメリットやメーカーごとの違いなどを説明してくれる店員さんがいるだろう。それと同じように本来は書店員も、扱っている本についてちゃんと知っているべきだ。しかし、高度の専門書(例:医学書)については難しいだろうし、担当する分野が広いと全てが全て読むというわけにはいかない。だから、全部読むというのは到底無理だが、少しでも読んでおくのが書店員としての理想である。なかなか難しいかもしれないが、努力しよう――いつ頃からは覚えていないが、だいたい、書店員として勤め始めて1~2年程度の段階(約10年前)ではこうした考え方をしていたように思う。


 この考え方は今でも否定すべきものだとは思っていない。が、突き詰めて考えるとあくまで努力目標にとどまるものでしかない。それはそれで大事なことだけれど。

 
 最初にこうした内容派的な考え方をするようになったのは、個人的な性向にもよるだろうが、振り返ってみると地方店にいたことが大きかったのかもしれない、と思う。地方店には地方店なりの忙しさがあるが、例えて言えば、全国紙の書評が出たからといってその日曜や月曜のうちに何十冊も売れるような、そういうような反応はなかった。その意味では相対的に内容について考える余裕があったし、また焦りもあったのかもしれないと思う。


 その後いくつかの場所を経たが、現在勤務しているのは比較的顧客の反応の早いところである。新刊の物量も多いし、版元営業さんもよくお見えになる。情報量は格段に多い。落ち着く時間がなくなっていく。それでも新刊は入ってくる。粘るものと見切りをつけるものを見分けよ。判断のスピードを上げよ。読んでいる暇はない。タイトルと著者でだいたいの見当をつける。困ったら目次だけざっと眺め、置くべき場所を決め、部数の過不足を予測する。装丁から受ける印象で、これはいけそうだ、と思うこともある。そこそこに当てた勘もある。外した勘は無数にある。
 
 
 かくして、内容派はいつの間にか背派にシフトする。大量の本を触ることで、あるいは顧客動向をよく観察したり、新聞やテレビをよく読んだり見たりすることで「この本はここに置いた方が売れそうだ」「こういう本が出ると売れるのではないか」という感覚を磨いていく。そうなると、本を読むのはあまり重要ではなくなってくる。顧客の関心がどこにあるのか、その関心にマッチングさせるためにはこの本をどこに置けばよいのか、徹底的に考えていく。誤解を恐れず言えば、本を読んでいる暇などなくなってくるのだ。


 しかし。顧客は確かに誰かが紹介していたから買うのかもしれない。が、その紹介に何か自分が思うところがあったから買おうと思うのであって、それはやはり内容とはまったく無関係であるとは言い切れない。となると、やはり内容も……。


 たぶん、勤務する店なり部署が変わればまた考え方は変化していくだろう。書店員は顧客によって応じて変化するものだから。なので良し悪しではないし、正しいとか正しくないという問題でもないのだ。


 以上、長々と自分の経験を振り返ってみた。書店員一人ひとりの経験は個別具体的であるが、そこには何かしら共通項として原理的に抽出しうる要素が含まれているだろう。自分の経験を一般化するつもりはないが、部分部分では他の書店員にも多少は共通する要素があるだろう、と記すにここではとどめておく。



3.本という商品の「無理」

 どんな商品でも――食品であれ家電であれ車であれ――、作り手が渾身の思い入れを以て作り上げたものがある。もちろん、それなりにそこそこに、というものもある。それはそれでよい。すべては顧客ニーズとのマッチングで決まる。作り手は思い入れがあるけれども、やっぱり売れなかったというものもあるだろうし、逆に、思い入れが通じたかのごとく売れていく商品もある。どちらもありふれた光景だ。


 本という商品でも、それは同じことだと思う。商品として流通させる/する以上、売れるか売れないか、しかないはずだけれども、それだけでは割り切れないものがある。でも、本、すなわち言葉をパッケージ化したこの商品は、割り切れないものの比重が相対的に高いのではないかという気がどうにもしてくる。実際、今回取り上げた事例で言えば、背派とはいえやはり内容を無視するわけにはいかない。


 僕が当事者でもあるからだろうか、どうやら本という商品、言葉をパッケージ化した商品は、時として過剰な思い入れがつきまとうように思われる。言葉を広くあまねく流通させるには、本という形で商品化するのが有効な手段の一つであることは間違いない。商品としての流通を突き抜けて何らかの生命力をもつような、そんな言葉もあるかもしれない。しかし、商品化するにそぐわない言葉も、ひょっとしたらあるのではないか。


 鳴り物入りで創刊される「言論誌」や、自信満々に売り込んでくる自費出版物を見るたびに「そんなにあなたが思っているほど売れはしませんぜ」と思う。内輪で地道にやれば如何、と思う。同時に、ごく普通に流通していて、地味な本ではあるけれども、読者としての僕には実に大切で手放せないと思うような本も、少なからずある。


 そもそも、言葉を商品化することは可能なのだろうか。ふと思い起こすのが、下記。

 
 人間の労働力が自然に働きかけて物を生産し、その物によって労働力を再生産するといういわゆる自然と人間との間の物質代謝の過程が――それはあらゆる社会において行われている過程であるが――資本主義社会では商品形態を通して資本の生産過程として行われているのであって、そこに資本主義に特有な形態的な無理がある。資本は、その形態として当然に要請せられる無限の蓄積を続けようとしても、この点で続け得なくなる

                             宇野弘蔵、『恐慌論』、岩波文庫、P.125


 
 商品化した/された言葉とは何か。他者が商品化した言葉を売ってメシを食う自分は、何なのか。
 

 他者の言葉を、何らかの理由から売りたいと考える。POPのひとつでも書いてみようと思う。1枚や2枚は書ける。しかし、枚数を重ねていくごとに、同じような言い回しを何度も使っていたことに、気づく(例:「気鋭」)。あるいは、無意識のうちに作り上げたパターンをなぞっているだけのことに、気づく。内容派であれ背派であれ、そんな経験をしたことはないか。他者の言葉を自分の言葉で表現する矛盾を、他者の言葉の一部をクローズアップして伝えようとすることの空虚さを、無意識のうちに感じ取ってはいないか。

 
 ……割り切ってしまうのは大切なことだ。深く考えない方が精神衛生上よろしい。「無理」は、資本主義社会における様々な問題と同様、無視しようと思えば案外簡単にできる。あるいは、「無理」をなんとか乗り越えようと試みてみることも出来る。店や会社の枠を超えて書店員同士で集まろうとすることも出来るし、著者と接点を持とうとあがいてみることも出来るし、版元さんと関係を密にしていくことも出来る。きっとどれもそれなりに根拠があって、それなりに重要なことなのだ。


 その先にあるのははたして何だろう。それを考えるために、僕は「自分を問う」(大澤信亮)という作業をしなければならない。そのためにこの書店員イデオロギー論を書き散らしているのだが、どうもやはり、より個人的な問題を見つめなおす作業が必要になってくるようだ。それは、他者の問いを共有することは可能か、というテーマとして、漠然と、しかし確実に、僕の身の上に覆いかぶさっている。


 
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by todoroki-tetsu | 2012-01-08 21:19 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(5)「自己表出」「指示表出」を手がかりに

 当たり前のことだが、書店員はパッケージ化された言葉を売る/買って頂くのが仕事であって、書くことが仕事ではない。仕事と切り離して個人的に何かを書くのはもちろんあり得るだろう。その是非を云々したいわけではない。しかし、書店員が書店員として仕事をする、その局面を考える場合において、理論的第一義的には、書き手の思いを忖度するよりも、顧客が買ってくれるかどうかを考えることが先であるということを確認しておきたい。書店員風情がその立場と力量以上に何かを出来るなどと思ってしまう不遜を予め警戒しよう。

 
 もっとシンプルにいえば、著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である。他者と他者とを仲立ちするというわけだ。

 
 それを前提とした上で、「売りたい」と思う本が売れたり売れなかったりするということ、別段売れると思っていないかった/あんまり売りたくないなと思っていた本が思いのほか売れたりやっぱり売れなかったりするということについて、考えてみたい。主に書店員個人=次元Ⅰを想定する。



1.言葉がパッケージ化される過程から
 
 前言と矛盾するようだが、言葉がパッケージ化される過程、より直接には著者に近いところから考え始める。それがやはり起源であるということと、そうすることで参照項を拡げたいと思うからだ。参照項は、吉本隆明さんの『言語にとって美とはなにか』。二か所ほど引いておこう。


引用A 
 芸術の内容形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまな生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる。その意味では、もちろんこのあいだに、橋を架けることができる。この橋こそは不可視の<かささぎのわたせる橋>(自己表出)であり、芸術の起源につながっている特質だというべきだ。         
                                    『Ⅱ』(角川文庫、P.240)



引用B 
 ……自己表出の極限で言語は、沈黙とおなじように表現することがじぶんの意識にだけ反響するじぶんの外へのおしだしであり、指示表出の極限で言語はたんなる記号だと想定することができる。そして人間の言語はどんな場面でつかわれても、このふたつの極限のすがたがかさなって存在している。

                                    『Ⅱ』(角川文庫、P.279)

 
 
 吉本さんの自己表出/指示表出の概念を、ちゃんと理解している自信はまったくない。考えるヒントにはなるししたいな、と思う程度である。


 著者が書きたいと思うことをそのまま書き、それが比較的スムーズにパッケージ化され、かつ売れた場合には、著者の自己表出がそのまま顧客ニーズを体現していたということになる。売れなかった場合には、その自己表出は顧客ニーズにはあわなかったということになる。


 ところで、著者の自己表出は純然たる自分の中から出たものなのか、それとも実のところ指示表出をそうとう意識したものなのか、その切り分けは難しい。「人間の言語はどんな場面でつかわれても、このふたつの極限のすがたがかさなって存在している」(引用B)からだ。しかし、「誰が何と言おうとこれを書きたいのだ」という思いのほうが相対的に強い場合と、「とにかく広く読んでほしい(買ってほしい)」という思いが相対的に強い場合とは、たしかにあるように思える。前者は時としてわがままに映り、後者は時としてあざとく見える。どちらも大事なことなのだが。


 「誰が何と言おうとこれを書きたいのだ」が、編集者・営業・書店員のいずれもが「あ、それはいいですね。売れそうです」と思ってパッケージ化され、受け取ることが出来れば、そしてその結果として他者=顧客がカネをはらってくれるのであれば、その場合著者の自己表出は、「不可視の<かささぎのわたせる橋>」を、着実に架けていることになる。


 が、大概の場合においては、前回記したように様々な葛藤を経てパッケージ化される。そこでは常に自己表出と指示表出のせめぎ合いがあるということが出来る。



2.書店員が個人として「売りたい」と思うというのはどういうことか

 「著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である」と冒頭に記した。経験の蓄積などからくる顧客ニーズ認識を基に発注し、陳列することが主な仕事であるわけだが、中には「売れないかもしれないけれども、試してみたい」と思うことはやはり、ある。
 
 
 その時、書店員個人の問題意識を他者の言葉である本に託すというような場合もあれば、「ちょっと目先を変えてみるか」という比較的軽い気持ちの場合もある。これは、良し悪しの問題ではない。前者は、書店員個人がその問題意識を自己表出として他者の言葉に託していると考えてみることができるだろう。後者を指示表出の仮託と言いうるかは判らないが。


 さて、書店員個人の問題意識があるがゆえに、自制する場合もある。前回のエントリでちらと社会運動系の本について記しておいたけれども、もっと言ってしまえば、デモに行く書店員がデモの本を力を入れて売るとは限らない。かえって「これはこれ。それはそれ」と区別してしまうことだってある。まあ、これは僕のことなのだが。この場合、デモの現場での盛り上がりが書店に反映するわけではないことを経験則上知っているからであり、また結果を出そうとすれば相当の工夫が必要と自覚しているから二の足を踏むのである。この二の足が間違っているかどうかは、やはり顧客の審判を待つほかはない。


 書店員個人が何らかの問題意識をもって「売れないかもしれないけれども、試してみたい」と思った場合、それは書店員個人が優れて顧客ニーズの動向を観察しているか、あるいは書店員個人が実は顧客自身としてニーズを認識していたか、そのいずれかであろう。どちらの場合もあり得るし、たぶん複合している。前者は商売人としての徹底化の結果であり、後者は個人の問題意識でありながら実は顧客ニーズそのものであった、すなわち顧客との同一化である。「芸術の内容も形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまな生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる」(引用A)を、商売人として表現すれば前者になるし、広く社会的な文脈に引き付けるならば、後者の表現となるだろう。

 
 さらに言えばそれが結果に結びついた時、意識的な場合もあるだろうし、無意識な場合もある。顧客が「ここに並んでいたのでつい買ってしまった」という時、それは無意識の顧客ニーズが商品との出会いによって顕在化したのだということが出来る。


 ここで考える必要がさらに出てきたのは、言葉のパッケージの商品としての旬・寿命・生命力という問題だ。今までは主に新刊を想定してきたが、新刊の中にも10年後に残っていくものもあるだろうし、三ヶ月で売り切っておしまいというものもある。ほとんどはその莫大な中間地帯に在るだろう。時系列の考察が必要となる。


 書けば書くほど考えることが増えていく。よいだろう。あせらずにやっていこう。
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by todoroki-tetsu | 2012-01-02 11:10 | Comments(0)