タグ:ロスジェネ ( 25 ) タグの人気記事

近過去から

 都知事選・総選挙の結果を受けて、様々に思うところはある。いまだに形にならないことのほうが多いけれども、ふと、近過去のこと、すなわち数年前の「蟹工船」ブームだの「ロスジェネ」だのといったことを思い返していた。あの時何かを間違ったのかもしれない。が、実感としては、あの時にわずかながらに得られた何かを、ほんの少し垣間見えたものを、忘れてはいないか、という自問に近い。

 
 近過去を思い返すのがもっとも難しい。そんなことを言われたのは確か市野川容孝さんだったと思う。ことあるごとに思い起こしている。

 
 整理はまだ出来ていない。が、保守だの革新だのといった次元での話は考えていない。主権者であるということはどういうことか。それが「上からのお説教」だとかいうんじゃなくて、自分たちにはそれだけの責任もあれば権利もあるのだということ。クロかシロか100かゼロかじゃなくて、自分に担えるだけのことを少しばかりでもやってみるとか、ある時は頑張るけどある時は休むとか、これは納得できるけどこれはイヤだとか、そういうことでいいじゃないか。何もかも自分たちで背負う必要もなければ突っぱねる必要もなくて、清算主義でもなく、みんなで生きてかなきゃいけないんだから、出来ることなら足の引っ張り合いじゃなくて、どうにかこうにかお互いに生き延びることができるようにしていこうや、という、そんな程度のこと。誰がダメだとか言うのもいい、対案を出せと言ってもいい、けど結局自分や自分の身の回りの人間が、出来ることなら他者の犠牲によってではなく、生き延びていくこと。


 そう、こんなのはまったくもって保守でも革新でもない。どちらかといえば「まっとうな保守」の再生を願っているのかもしれないとすら思う。「五勺の酒」で校長が党員でもないのに共産党のことを真摯に心配し批判するのと似たようなことだろうか。


 自分の行きつけの蕎麦屋が云々と言ったのは福田恆存であったか。大向こうの言葉よりはこうした言葉の方がよほど心地がよい。近しい人としゃべる言葉と大きなことをしゃべる言葉が、同じかどうか知らんが自然とつながりを持っているように思われる。断続していない気がする。言葉の問題の大きさ、重さをあらためて思う。

 
 僕が今回の選挙で一番反省すべきなのは、生身の言葉で身近の人間とほとんど語らなかったことだ。特定の候補者・政党に支持を呼びかけるという意味での「対話」ではなく。自分たちの働いているということそのものが、決して政治と無縁ではないのだということくらい、もう少し話し合ってみることは出来た筈だ。


 投票日当日――本屋にとって12月半ばの週末なんてのは一年の中でも一二を争う書き入れ時だが、早朝出勤をしなければならなくなった同僚がぼそっと、「ああ、投票いけないな今日は。しょうがないな」とつぶやいた。前日も遅くまで仕事をしていたのを知っている僕は、とても「7時には投票所あいてるんからギリ間に合うんじゃないの」とは言えなかった。ましてや棄権を咎めることなど出来やしない。

 
 こういう次元で、場で、どれだけのことが言えるのだ。「沈黙もまた言語」(吉本隆明)である。が、その先は。


 手がかりになるような何かに、僕はかつて触れた気がする。記憶を掘り起こす。「あくまでも左翼は人びとの社会的生活を条件づけるものに介入するだけで、それぞれの人の生き方や実存の問題にはけっして介入しない」(萱野稔人、「なぜ私はサヨクなのか」、「ロスジェネ」創刊号所収)、「過剰な労働で燃え尽きていく人のリアリティと、生きづらくて働くのも難しい人のリアリティ」(杉田俊介、『フリーター論争2.0』)……これらについては2008年に記していた

 
 まてよ。もう少し遡ってみる。「『人生、落ちるところまで落ちたとき、ミギだのヒダリだの言ってられますか』 バリバリの左翼からネット右翼まで」(小丸朋恵、2007年11月号の「論座」所収)。そう、ここだ。短いが、印象的なルポルタージュである。もはや容易に読める環境にないのが残念だけれども、強引に要約する。もちろん、僕の関心に沿った恣意的なものであることはお断りせねばならない。機会あらばぜひ本文にあたって頂きたい。


 契約社員としてシビアな状況を強いられた若者が、ふとしたきっかけで組合の扉をたたく。あれこれ一緒にやっていく。小林よしのりさんを尊敬する彼は、自分の思想信条を吐露したことをきっかけに、他の組合員とやりあうことになってしまう。辞めてやる、と思う。しかし、様々な苦しかったことなどが頭をよぎる。他の先輩格のスタッフからも引き留められて彼は思う、「僕たちは『仲間』なのかなあ――」。しかし彼は、結局は組合に残る。「僕たちは『仲間』なのかもなあ――」という言葉を以て。


 「僕たちは『仲間』なのかなあ――」と「僕たちは『仲間』なのかなあ――」(下線等々力)とのあいだにあるもの。ためらい。この文章を何回かは読み返している筈だ。しかし、僕はこのためらいをなぜ「他者」のものとして、自分の外部にあるものとしてしか読まなかったか。こうしたためらいに対し、内在化することなく外からいかにアプローチすべきか、「理解」(!)すべきかとしか考えていなかったか。言葉に対する認識の圧倒的な不足を思い知る。


 言葉に対する認識は、そのまま人間に対する認識である。たった一文字の「も」に揺れ動く思いを想像すること。言葉に忠実であること。盲目的信仰ではなく、まっとうに畏怖すること。口にする、耳にする言葉を大切にすること。


 おそらくこのように思い起こすべきものが、まだまだ近過去には眠っている。容赦なくそれらは僕に襲い掛かってくる。さて、どれだけの勝負が出来るか。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-12-20 20:03 | 批評系 | Comments(0)

「ロスジェネ文学」としての『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』

 『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』、と記すといささか長ったらしいが、デザインされたカバーから受ける印象はPOPなものだ。


 「フリースタイルなお別れざっし『葬』」で知られる「おもだか大学」こと奥山晶子さんの単著である。「葬」の独自のテイストを感じさせつつ、小説と実用的知識を兼ね備えたものであって、ああ、『ザ・ゴール』を源流とし、『もしドラ』へと流れた「小説仕立てのビジネス書」の流れが、お弔いの世界に、書店的な分類でいえば「実用書」の世界にもやってきたのだな、と思う。文藝春秋という出版社がこのノウハウをつかんだとすれば、面白い流れが、この本を起点に生まれるかもしれない。いかにも書店員的な発想だが、そういう意味での注目はしている。

 
 しかし、ここで記そうと思うのは、もう少し内容にかかわる部分、特に小説としての部分についての「感想文」である。


 本の内容に入る前に、おもだかさんとしてのブログ記事をいくつか拾っておきたい。


 2011年3月15日(火)の日付で、おもだかさんは「土葬という方法」という記事をアップされている。どれだけの人がこの記事を読み得たかは知らない。しかし、持ちうる知識をこの時期に発信しておられたことに敬服するほかはない。


 それからややあって2011年6月20日(月)の日付では、「日本の喪明け」 との記事があげられる。一見軽妙なタイトルだが、内容は実に真摯なものだ。

 まだまだ呆然と、していたい人

 私と一緒に呆然と、しましょう
 
 何もしないでいましょう。


 この時期にこういうことを言えたということ、こういう言葉があったのだということは、私たちにとって大変に重要な意味を持つ、と思う。前向きになんてなれやしない、がんばろうだなんていえない、そういう気持ちがあったし、それはおそらく今も何らかの形で継続している。「何もしないでいましょう」という言葉は、この日付とあいまって記憶しておいてしかるべきものだ。

 
 ここから僕の連想は若松英輔さんの『魂にふれる』に及ぼうともするのだが、ここはひとまずさておいて。『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』に話を移そう。


 一読して、実用的な意味での役立ち度合は非常にデカいと思ったのだけれども、結論を言ってしまえば、それ以上に、これは「ロスジェネ文学」だと感じたのだった。浅尾大輔さんはロスジェネ文学について様々な言葉を駆使しているのは以前に見てきたことだし、定義といえるものももちろんある。『お弔いファイル』には、「カネと暴力に破れていく人間の終わり」(「かつて、ぶどう園で起きたこと」)が描かれているわけではない。けれど、主人公がナイーブであること(同)、「働くことを軽んじないで描いてきたこと」(同評論注6)、そういった特徴は十二分に兼ね備えている。


 プロローグにそれは明瞭に描かれる。


 病院で父の死に対面する五十嵐守。父は77歳とあるから、おそらく年のころあいは50代だろう。いきなり「喪主」となった守は、とたんに様々な決断に迫られる。自分の気持ちの整理もつかぬままに。その様子を見ていた葬儀社スタッフの川島まどかは、「一日何もしないこと」を提案する……。


 ここまでは、読み物の出足としても、また実用的知識を得るための「つかみ」としても、非常にすぐれている。
守の不安は共有され、「一日何もしない」なんて選択肢があり得ることに吃驚もする。さあ、続きを読んでみよう、という気になってくる。


 しかし、この一連のくだりの次が、僕にとってはたいせつに思われる(P.19-P.20)。「一日よく考えろって言って帰ってきた? ばかなんじゃないか、お前」と、上司に叱責されるまどかの姿が描きこまれるのである。


 この描写がなければまどかはただの狂言回しになってしまうし、何より、主人公まどかのナイーブさ――目の前のいる人の役に何とか立とうと思ってやってみる、けれどそれが会社的にはうまくいかないということ――がここで自然に、しかしはっきりと、表現される。


 無視も出来ず、さりとて会社の理屈に開き直りきることも出来ず……。そんな光景は、僕たちが日ごろ身を持って経験していることではなかったか。そうしたまどかが、公務員への転職を考えているというのも、極めて象徴的なことだ。

  
 ほかにも随所に「ロスジェネ文学」を感じさせる描写があるが、まだ新刊として一カ月も経過していない今はおいておくことにしよう。中下大樹さんの短いコメントにも随分と刺激されるのだが、それもまた別の機会に。

______________________________________

 内容にかかわることではないかもしれないが、この本に「ロスジェネ文学」を感じ取る身として、気になることをひとつ記しておきたい。目次の最後に、ブックデザインとか編集協力の方々の名前があるのだが、「イラスト・DTP」のところに著者自身の名前がある。イラストは、判る。DTPまで、著者がやるものだろうか。もちろん、それだけのスキルをたまたま有していたのだろうと思うけれども、書店員としては「書くことに専念させればいいのに」とは思う。そんなところまで見やしないだろう、ともし出版社が思っていたら、それはかなり危機的な認識であろう、とは言っておきたい。

 
 はたして、「対価」はまっとうに支払われたのだろうか。「うちから本を出したいなら金をもってこい」という「学術系」「社会系」出版社の構図と、同じなのか違うのか。

 
 書くこと以外のこともやらざるを得なかったとして、少なくともその分への「対価」はまっとうに支払われていて欲しい、と思う。しかし、それは「値段をもう少し下げたほうが売れるのでは」といった、他ならぬ僕のような書店員の発言・発想――もちろんそれはものによるわけだけれども――が、回り回って著者や製作に携わる人々の首を絞めているのだとしたら。

 
 どうやら、僕自身のカネの話も、しなければならんようだ。
 
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-09-10 09:04 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十五

 浅尾大輔さんの評論「かつて、ぶどう園で起きたこと」(「モンキービジネス」第10号所収)も、残すところあと1セクションとなった。


 この清冽で気高いセクションを、読みながら書く/書きながら読む、その前に、今一度最初から読んでみる。


 読み遺していることはいくらもある。聖書に関する記述は特に鬼門のようだ。「悔い改めた盗賊」のイメージは、確かにヴェイユとも重なるだろうことは理屈では何となく判るのだが、感じ取るまでにはいかない。ヴェイユとスピードとの関係も、ひとまずは僕なりには考えてみたけれども、どうもまだ無理からに理屈で納得しようとしたきらいがある。

 
 ……まあ、いいだろう。おそらく長く付き合うテキストだ。今いっぺんに判ろうとする必要もない。職場で何気ない会話を交わしている時に、あるいは何かに切羽詰まった時に、あるいはあやうく転落しそうなホームを歩く時にふと、思い起こすだろうから。頑張って考えることはたいせつだが、背伸びをしたところでしょうがない。


 さて、もういっぺん最初に立ち返ると、改めていっとう最初のセクションの存在感が際立つように思われる。

 
 「ロスジェネ文学」とは、「溜めのない世代」の物語で、おそらく「神を待ちのぞむ」。すなわち、若者たちの貧しさと不当に損なわれているという心象のスケッチは、この世界が――私たち人間こそが、もっとも信じるに値しない被造物であるという疑念をもたらして、ふたたび「神の問題」と向き合わせる。



 「私たち人間こそが、もっとも信じるに値しない被造物であるという疑念」。これは「嘘」という言葉でなんどか言い表されてきたことであった。同時に「嘘」における可能性もまた同時に、見据えられた。


 ふと、思う。浅尾さんは、文学者として、「人間」を信じてはいないのではないか。いや、「人間」の「理想化」を徹底して排除しようとしているのではないか。


 実は当初、この評論の最後のセクションから得られる色鮮やかな緑のイメージを手がかりに、大江健三郎さんが講演・評論の場でしばしば表明する「人間」への全幅の信頼と重ね合わせて、この感想文を締めくくろうかと漠然と考えていたのだった。しかし、読み進めるにつれ、そしていよいよ最後のセクションに入ろうとするにあたって、いや、そうした心象ではどうにも読み誤っているのではないかという気がしてくるのだった。

  
 なぜか、鈴木邦男さんの言葉が思い出される。「左翼は人間を理想化しすぎる。だからこそ反動も大きい。人間なんてもともとダメなもんでしょう」といったようなことを、5/13のシンポジウム「当事者が語る連合赤軍」で語っておられたのだった。

 
 平等な分配がありうる、という「希望」の型を「資本論幻想」と名付け、「人間という変数の閾値が少しも勘定に入っていない」と批判し、「主人公たちが人間の連帯を安易に信じていない」ことをもって「ロスジェネ文学」を高く評価する浅尾さんの言葉は、この鈴木さんの言葉とそうかけ離れた位置にあるとは思えない。


 しかし、ここで僕は安易に「右」だの「左」だのと結びつけたり持ち上げたり腐したりするつもりはない。もうひとつの参照項が同時に思い起こされるからだ。

 
 「ロスジェネ」創刊号に、萱野稔人さんが寄せた小論「なぜ私はサヨクなのか」は、今読み返しても十二分に面白い。萱野さんはこう述べておられる(同書P.62-3)。

 
 左翼はけっして人びとの実存の問題や価値観に――左翼の立場から――口をはさんではならない。もっというなら、人間の意識から問題をたてないという左翼の方法からいけば、そもそも左翼が生き方とか、生存の美学といったものを教えることは無理というものだろう。

 (略)

 ……生き方や実存の問題は左翼の守備範囲とはまったく異なるオーダーにあるのだ。だから左翼も、左翼じゃない人も、左翼の問題圏とは別のところで、それぞれ生き方を学び、生きるうえでのよろこびや倫理を確立し、実存の問題を解決しなくてはならないのである。

  

 そう、「ロスジェネ」は、「右と左は手を結べるか」のキャッチコピーで世に出たのだった。手を結んだその先にあるだろうものを、編集長自らが指ししめしているというのは深読みに過ぎようか。
 
 
 さらに連想は飛ぶ。参照すべきは大江さんというよりも、「人間古今東西チョボチョボや」と言った小田実さんではないのか。「『身銭を切る』ことから」より(『世直しの倫理と論理』、下巻、P.214)。


 問題は、人間はインチキである、自分をふくめてふつうの人間はインチキさにおいても徹底し得ないほどインチキであるとみきわめておいて、そこで開きなおるのではなく、さて、そこで、どうするのか、ということだと思うのです。

 
 この文章が浅尾評論の中にあっても違和感はあるまい。


 人間を理想化しない。実存や生き方に左翼の立場から口をさしはさまない。とすると、小田実―浅尾大輔というラインはおのずと引かれるように思われる。浅尾さんが長篇小説を物した時、それは『HIROSHIMA』のような作品であるかもしれない、と夢想する。


 ところで、「神の問題」と向き合うとはどういうことだろうか。そのたいせつな手がかりは、最後の最後で触れられることだろう。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-08-20 23:09 | 批評系 | Comments(0)

誰をも貫く「言葉」のありようについてのイメージ

 先週22日(金)の官邸前以来、やや強く考えていることのひとつに、誰をも貫く言葉、敵も味方も他者も自分を、全てを貫くような、そうした言葉のことがある。例えば、先週のエントリでこう記したようなもの。


 賛成か反対か、という次元を超えて、どういう気持ちか判らないけれどもおそらくは真面目な気もちでわざわざ「再稼働賛成」を言いに来た人たちも、「反対」の気持ちで集まった人たちをも、そしてもちろん自分も含めて、みんなに等しくいきわたる「言葉」



 そうした言葉が上から降り注ぐのか(垂直)、それとも同じ地平にいる者どうしの中から紡ぎだされるのか(水平)は判らない。かつて「相対的な存在が持ちうる絶対性」について考えたこともある。結論など容易に出やしないんだが、どうにもここいらあたりには僕なりに感ずるものがあるようだ。
 

 さて、そんなことと若松英輔さんのこととがあいまって、『ロスジェネ 第4号』を、ひさびさにちゃんと引っ張り出してきたりしていた。

 
 杉田俊介さんと対談している中で、ここでもやはり大澤さんの言葉を参照項として引いてみる(P.187)。


 それはまさにこの瞬間に互いが他者に成り得るかという話でもある。僕は一緒にやっていくというのは、友が敵であることを肯定できることだと思うんだよね。敵をどう友に変えるかだけではなく、自分が本当に親しいと思っていた存在が異物と化していったとしても、その光景自体を肯定し、共有できる関係があるはずです。もしかしたらそれは個人の意志の強さではなく、それを可能にさせる社会的な流通、生産、消費、そこから生じる新しい信頼なのか信仰なのか、そういうものによって可能になるのかもしれない。

 市場システムの強いところは敵を味方にするところですね。心理的に、生理的に考えたら、あるいは社会的なアングルから見たら一見敵であるはずなのに、それがいないと自分が生きていけないという意味での味方。たとえば僕にとって、文章を書くことで生きると覚悟した人は、たとえ主義主張が敵対していても、その人がいなければ空間が成立しないという意味では否応なく味方でもあるわけです。そのように敵対性を回転させるものが資本のなかにある。その強さを見ないところでオルタナティブな空間や市場を作ろうとすると、結局は、仲間内で組み合ったり、敵を排除するという発想になる。だから、この資本性の厄介さに根差したところで、その先を開くことが大事だと思うんです。それ自体もまた資本制とはべつの信仰や宗教なんだろうか。



 これに対し杉田さんは、「ああ、そうか。うん。友と出会う条件はそのまま敵と出会う条件であるのかもしれない」と応じておられる。詳しくは『ロスジェネ』そのものに譲ろう。ここにはたいせつな何かがある。

 
 賛成や反対は切実だ。でも、割り切れないもの様々にある。無限のグラデーション。そのグラデーションはそのままに、なにかこう、「みんな幸福」(ベルク店長井野さんの言葉)になることは出来ないものだろうか。そう思っている。


 ……どうも僕は「三人の世界」(前回エントリ参照)にすぐ引き寄せられるようだ。決して悪いとは思わないが、それが「一人の世界」や「二人の世界」の固有性を塗りつぶしたり無視したりしていないか、自己点検が必要だ。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-06-28 07:20 | Comments(0)

twitterで杉田俊介『無能力批評』を再読する

 twitter読書第6弾は杉田俊介さんの『無能力批評』。ハッシュタグは #munouryoku。部分的な再読は何度かやっているが、通しての再読は初めて。2年前の初読時には圧倒されるばかりであったのだが、今回は少し冷静に、杉田さんの言う「無能力」とは具体的にどういうことか、と考えながら読んでいた。『ロスジェネ』4号における大澤さんとの対談を読んでいたから、それで少し自分なりの相対化が出来始めていたのかもしれない。

 「他者」という問いの延長線上、あるいはその問いを押し上げるものとしての「無能力」。そんなイメージを抱いたのだが、さて、これが正しいかどうかは分からない。

 新たなステージを切り拓く言葉への模索、という印象も同時にある。フリーターズフリーの最新対談集ではどんな言葉が繰り広げられているのか。これから着手しよう。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2010-05-15 08:17 | 批評系 | Comments(0)

「近代100年の問い〜文学とアートの過去・現在・未来〜」

 イベント情報です。

 ポスターが素敵なのですが、うまく画像をのっけられないので「ロスジェネ」のページをぜひご覧下さい。

 いわゆる「ロスジェネ」論壇が低迷している今、かなり本格的なというか伝統的な、デカいテーマに真っ向から挑むものと感じます。「ガチ」な話しが聞けるものと期待しています。
___________________________________________

ロスジェネ3号「エロスジェネ」出版記念イベント

【イベント名】第58回紀伊國屋サザンセミナー
      「近代100年の問い〜文学とアートの過去・現在・未来〜」

【とき】8/10(月)午後6時半開場 午後7時開演

【場所】紀伊國屋新宿南店7F紀伊國屋サザンシアター

【出演】
小森陽一(東大教授/国文学者)
会田誠(美術家)
浅尾大輔(小説家/ロスジェネ編集長)
大澤信亮(批評家/ロスジェネ編集委員)
増山麗奈(画家/エロスジェネ責任編集)

【予約方法】03−5361−3321(紀伊國屋サザンシアター)
★紀伊國屋本店・新宿南店にてチケット販売も行っております。

【入場料】1000円

【テーマ】
一〇〇年前、世界の中心・ロンドンで精神を病むまで近代を味わい、高等遊民という名の「ロスジェネ」を主人公に小説を書き続けた夏目漱石。漱石の死の直前に渡仏、芸術の都・パリで喝采を浴びるという日本画壇の悲願を達成しながら、太平洋戦争中その力のすべてを「戦争画」に叩き込んだ藤田嗣治。彼らの絶望と希望を私たちは一度でも魂で受け止めたことがあるのか。漱石研究の第一人者・小森陽一氏、「戦争画RETURNS」で近代日本画を問うた画家・会田誠氏を迎え、資本主義の暴力を怒りの沸点で味わった「ロスジェネ」が、今、グローバル下の文学と芸術という「近代一〇〇年の問い」を切り開く。現実の矮小化、下らぬマッピング、偽の問題、愚劣な揶揄が許される時間はもう終わりだ。(大澤信亮)
[PR]

by todoroki-tetsu | 2009-07-30 00:36 | | Comments(0)

いちむらみさこさん

 2/10(火)「毎日」夕刊9面、「憂楽帳」なる小さなコラムにいちむらみさこさんの名前を見つける。

 「働く女性の全国センター」の総会で、「働くのが怖い。働かないっていうのもあっていいんじゃないか」といちむらさんが発言、これをめぐって賛否両論あったというところから働くことの意味について投げかける。

 記者は山崎友記子さん。本当に短いコラムだが、いちむらさんのラディカルさ――根元的という意味での――と、その意味を非常によく表している。「貧困」と「労働」に関する「毎日」の記事の奥深さはこの間とみに感じられるところではあるが、流石と思う。

 いちむらさんの名前を最初に拝見したのは確か「オルタ 2008年7・8月号」で、比較的最近といえば最近である。それから『Dearキクチさん、 ― ブル-テント村とチョコレ-ト』にたどりついたのだが、『ロスジェネVOL.2』にいちむらさんが寄せられた路上エッセー、「殺す市民、カレーライスでつながり生き返れ!」で僕は衝撃を受けた。暴力をここまで見据えているのか、と。

 その目で、『Dearキクチさん、 ― ブル-テント村とチョコレ-ト』を読み返すと、最初に読んだ時とはまた違った印象を受ける。ごく普通に「読み物」として読めるし、いちむらさんの筆致はあたたかでかつ、毅然としているので読み心地がいい。しかし、それだけではない読み方が色々と出来る、奥深い一冊であると認識した。

 いまのところ単著としてはこの一冊だけの様子。次にどんな言葉を発するのか、期待しながらしっかりと売っていきたい。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2009-02-12 10:19 | 批評系 | Comments(2)

現在の日本の若者の文化や流行について分かる本

 というお問い合わせを受けた。

 達者な日本語だが、韓国の方らしい。学生さん風の男性。旅行なのか留学生なのかはよく分からない。

 さて、こりゃ腕のみせどころだわい、とちょっと息を整え、どんなイメージのものをお求めなのか、伺っていく。アニメ系のものとか、ムック本のようなビジュアルのもの――いわゆるジャパン・コンテンツそのものをお求めではないようだ。じゃあ、ということで売場をかけずりまわって集めたのが下記。→は一応のおすすめコメント。

宇野常寛、『ゼロ年代の想像力
→言及している作品・事象が幅広い。

鈴木謙介、『サブカル・ニッポンの新自由主義』 
→政治というか社会の状況まで射程を拡げるならこれ。

広田照幸編、『若者文化をどう見るか
→テキストとして格好。

毛利嘉孝、『はじめてのDiY
→メインあるいはメジャーではない動きを知るのなら。

日経MJ編、『日経MJトレンド情報源
→データやマーケティングを視野に入れた知識が必要ならこれ。
 
 もっといろんな選択があったのだろうが、真っ先に思い浮かんだのは『ゼロ年代の想像力』と『日経MJトレンド情報源』であった。要するに、批評とマーケが現在を知るには最適ということか? などと的が外れているんだかいないんだかよく分からん感想を勝手に抱く。

 結果お買い上げ頂いたのは『ゼロ年代の想像力』。こうしたきっかけで日本の若い世代の言論が海外に知られるといいな、と妄想する。日本語が亡びるんだかどうだかよく分からないが、商売の観点からいえば、そりゃあ限られた市場じゃ限界があるのは間違いないんであって、日本語で書かれたものを読みたいと思う人を増やすしかないでしょう(帝国主義的?)。どうも日本の今の批評やら社会学は面白いらしいぞ、と知られていくようになれば、もっと違った局面を創り出せるんじゃないだろうか。

 もっとも、そのためには今日本でふつうに読まれているものをダイジェストでもなんでもどんどん翻訳していくことが市場拡大に必須。もうすでにあるのかもしれないが、たとえば、主要新聞の書評などを英・中・ハングル・仏くらいに訳して有料配信するサービスとかはどうだろう? 日本人が外国人に何かを伝える時にも結構有効じゃないかと思うのだ。別段新聞書評じゃなくてよろしい、イメージのひとつとして例に挙げただけ。もちろん、独自に編集しても面白いだろう。

 いや、『フランス ジュネスの反乱』が今の日本で読むに値する のであれば、『ロスジェネ』だって『フリーターズフリー』だってフランスで読むに値するに違いない、と思う、ただそれだけのこと。

 「ただそれだけのこと」でなおかつまっとうに利益が出せれば素晴らしい。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2009-01-05 01:00 | Comments(0)

「独立系硬派雑誌」について

 昨日11/2(日)の「朝日」にて、竹信三恵子さんが「独立系硬派雑誌」というくくりかたで「ロスジェネ」「POSSE」「フリーターズフリー」などを紹介されている。シノドスなどにも言及されており、幅広くフォローしている印象を受けた。

 本屋としてはこの間実感している動向ではあるので、なるほどと思いつつ読みながらふと考えた。

 発行されている皆さん、採算は取れているのだろうか?

 自分の店では取次扱いのものはもちろん扱っているし、「POSSE」や「オルタ」は直扱いをさせて頂いている。

 細かい数字はここでは記さないが、それなりに売れてはいる。が、莫大な数というほどではない。この点、「思想地図」はちょっと別格な売れ方であった。

 もちろん、自分の店以外でも他の経路があるのだろうし、またいろんなつながりやイベントなどで「手売り」したりすることもあるのではないかと思う。が、硬い言い方をすれば、諸々の「イデオロギー」「主張」「意見」「考え方」が「形」≒「商品」となって立ち現れるのが本屋の棚。こうしたところでどう見せるか、どう売るか、と、本屋の仕事としては考えなくちゃいけない。

 「独立系硬派雑誌」を本屋で目立たせる際のメリット、一言でいえば「商材の多様化」ということに尽きる。多様な主張をしっかり見せることで顧客の選択肢を増やすことができるし、それが店頭の活性化につながる。集客効果は少なくない(もちろん店にもよると思うので一概には言えない)。

 ただ一方で、販売絶対数はやはり少ないのであって、集客機能を果たしてくれていることに対して「ご恩返し」をしなくちゃ、という気持ちだけはある。今のところ思いつくのは、雑誌そのものを売るだけでなく、発行/寄稿している著者や団体の著作もあわせてしっかり売る、ということくらいだろうか。

 雑誌発行者の方々からすれば、書店は数ある販売チャネルのひとつにすぎないだろう。そして、正直なところ、こちらも利益を多少なりとも得たい。雑誌発行者方々から見て、「本屋に卸すと直接販売よりは利益は落ちるが、それに見合うだけの効果はある」と思ってもらえるようなパターンを作り出せないかな、と考えている。色々なことを試してみたい。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2008-11-03 09:29 | 業界 | Comments(0)

「現代の生活における貧困の克服」によせて(上田耕一郎さんを追悼す)

 上田耕一郎さんが昨日亡くなった。81歳。お若いとは決して言えない年齢だとは思うが、吉本隆明さんが84歳の今も現役であることを考えると、まだもうしばらくはいて欲しかった、と思う。

 学生時代に何度か上田さんの話を聞く機会があった。えらく元気な人だなあ、というのが最初の印象。当時はまだ参院議員であったと思うが、どうも上田さんのお話は他の共産党政治家/活動家とちょっと違う気がした。どこがどうとは言えないが、それがいわゆる「上田節」だったのだろう。

 大衆社会論争における上田さんの位置というか役割については、正直なところよく分からない。後藤道夫さんの力作『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』でも言及されているが、時代状況がいまひとつ感覚として掴めないでいる。が、戦後日本政治史なんかをやっている先輩などからは「上田耕一郎という人は切れ者だ」というような話を聞いたこともあり、へぇーと思ったものである。

 「現代の生活における貧困の克服」(初出は1963年、岩波講座「現代」第一巻「現代の問題性」。その後大月書店『先進国革命の理論』に収録)や、さらに遡って『マルクス主義と現代イデオロギー』、『戦後革命論争史』などを読んだのはずっと後のことであった。

 いずれも時代状況を想像するのに四苦八苦した記憶がある。が、『戦後革命論争史』からは、とにかく今ある条件や可能性を最大限に生かしていこう、という上田さんの覚悟というか意気込みが感じられた。連帯というか共闘というか、そういったものへの執着。

 僕がもっとも感銘し、今でも繰り返し読み返すのは「現代の生活における貧困の克服」。その書き出しはこうである。

 「『生活』という使いなれた言葉から、私たちはまず何を思い浮かべるだろうか。それは第一に、いっさいの人間的諸活動を個人の場で切り取ったもの、すなわち、一人ひとりの人間にとっての一個の小宇宙を意味している。人間の尊厳も栄光も、その創造性も未来もすべて生活の中にはらまれ、はぐくまれる」(大月書店版、P.153)


 ここだけだとただの「良いこと」あるいは「当たり前のこと」を言っているにすぎない。しかし、運動の観点から捉えた時、この認識が冒頭に来ている意味の重さが分かる。

 
「私たちの生活意識における、歴史的変革の担い手としての自覚こそが、社会的変革の内容の、小さくはあるが決定的な一分子となる。その自覚の形成はあくまで個性的である。いっさいの画一的な紋切型を排して、個性的な自覚の過程を歴史的主体の形成の本質的、根源的な要素として尊重すること、生活上の要求を追求するすべての運動は、このことをなによりもまず重視しなければなるまい」(同、P.161)

 共産党きっての理論家が、かかる認識を示していたこと。実態として実現されていたのかどうかは分からない。なかなかうまくいかないことが多分にあったのではないか、と想像する。が、少なくともこうした認識があったということは知っておいてよいだろう。今、漠然と「運動が盛り上がっている」的な雰囲気がある中で、これは当たり前と言えば当たり前だが、極めて今日的な問題と言いうる。

 上田さんは文中で「綱領的要求」という表現を用いている。当時の状況なり上田さんの立場からすれば、これは一定の説得力を持ち得たのかもしれない。が、今はそうではないだろう。別冊「ロスジェネ」所収のシンポジウムが示しているように――ということは現時点での批評の到達点でもある――、そう簡単に希望は語れないし、こうすりゃみんなが幸せに、なんて処方箋もそうそう書けない。

 しかし、だからこそ、思考なり議論なり運動なりの作法というか倫理が必要なのであって、それをやろうとしているのが「ロスジェネ」であり「フリーターズフリー」(もうじき第2号が出るそうだ)なんだと思う。

 読み違えているのかもしれないが、上田さんはどうも「綱領(≒結論)先にありき」というような態度――その世代の、あるいは共産党の理論家/活動家の中では、という限定つきだが――をとらなかったタイプではなかったか、という気がしている。ある問題があり、それを個別具体的に解きほぐそうとする中で綱領に到達する、というような態度に徹していたのではないだろうか、少なくともいわゆる「大衆運動」においては。
 
 上田さんは共産党の幹部で長くありながらちょっとはみ出たところというか、型にはまらないところがあった人だと思う。上田さんのやってきたことから学びうること、学ぶべきことは――もちろん批判も含めて――少なくない。

 まっとうな上田耕一郎評価/批評が出てくること。これが現在の運動を考える上でも大いに手がかりになると思う。
 
 ご冥福をお祈りいたします。

【追記】
 遅く起きた今朝、新聞で訃報を知り、即机に向かって記したのだけれども、先ほど、浅尾大輔さんが「日本共産党の認識論――上田耕一郎氏へのオマージュ」という記事をすでに昨日記されていることを知った。

 浅尾さんが「現代の生活における貧困の克服」を深く受け止めていらっしゃること、我が意を得たりというのは不遜にすぎるだろうが、心強いことだ、とは言っておきたい。「ロスジェネ」と結びつけた連想は、あながち間違いではなかったか。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2008-10-31 12:56 | 業界 | Comments(0)