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「言葉のパッケージ」を商いにするということ――書店員イデオロギー論へのメモ

 入荷して早々に、中島岳志さんの対談集『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』を購入し、昨日には読了した。


 僕にとって大事な言葉、考えなければならないと思う言葉にあふれている。


 しかし、同時に思う。「言葉のパッケージ」である本という商品でメシを食うというのは、どういうことなのか。

 
 言葉を発する人、すなわち著者にとって、それはその人自身の血肉であるだろう。そうでない場合もあるかもしれないが、そのことはとりあえず措く。その血肉をパッケージ=形にしようとする編集者、装丁家、校正者……その他たくさんの人々も、言葉を形にすることに携わっている。


 出版社の営業担当の方々のことをここでどうとらえればよいのかよく判らないので、これもまた失礼してひとまず措かせてもらおう。さて、形になった本が出来あがってからが書店員の本格的な出番となる。


 カウンターでの接客などを除き、棚の管理だけに絞って言えば、書店員の仕事は「発注」「陳列」「返品」の三つしかない。その三つの仕事の際に、パッケージ化された言葉のことを思うこともあれば、思わないこともある。頑張って売ろうと思って並べた本を半年後(あるいはもっと早く)に返品してしまうこともあるし、何の思い入れもない本をガシガシ仕入れることもある。書店員にとってはたぶん、当たり前すぎるくらいの日常だ。ここで取次さんの配本が……などと言い出すとこれまたきりがないのでひとまず措く。

 
 いかにも即席で出したという体の本も、どれだけ時間をかけて書かれた本も、すべては「商品」として等価である。売れるか売れないか、ただ、それだけだ。

  
 だけれども、それだけだとは言い切れない何かを感じる本が、ある。中島さんがこの最新刊の中で吐露しておられるような、ある種の危機感。その危機感の一端に、自分自身も身を置いているように思える。


 ここに書かれている言葉に対峙しうるような、そのような構えで僕はこのパッケージ=本を扱い得ているか?


 そんな思いにさせられることは今までも幾度かあった。 それは例えば『ロスジェネ』であり、杉田俊介さんの『無能力批評』であり、大澤信亮さんの『神的批評』であり、「フリーターズ・フリー」であったり、した。その度ごとに何かを試みたこともあれば、何も出来ずにスルーしてしまったりも、した。


 そろそろ、書店員として自分のやっていることは何なのか、ちゃんと考えないといけない。いよいよもって宿題を片付けなくちゃならない、そんな感覚を覚えはじめている。


 「こちとらただの商売人だい!」と開き直ろうと思えば出来るし、今までもやってきた。これからもやっていくだろう。だって、商売人であることは事実なのだから。「これじゃあ売れない」「これは売れる」という判断は、常に必要なのだから。でも、その開き直りの一歩手前か、開き直った直後の一歩、そこいらのあたりで垣間見える何かを、もう少し自分なりに探っていきたいと思う。

 
 その過程を「書店員イデオロギー論」と仮称しておくが、それは書店員一般論には到底なり得ないし、そうなる必要もなかろう。あくまで僕自身の問いとして考えていきたい。
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by todoroki-tetsu | 2011-12-18 21:44 | Comments(0)

現在の日本の若者の文化や流行について分かる本

 というお問い合わせを受けた。

 達者な日本語だが、韓国の方らしい。学生さん風の男性。旅行なのか留学生なのかはよく分からない。

 さて、こりゃ腕のみせどころだわい、とちょっと息を整え、どんなイメージのものをお求めなのか、伺っていく。アニメ系のものとか、ムック本のようなビジュアルのもの――いわゆるジャパン・コンテンツそのものをお求めではないようだ。じゃあ、ということで売場をかけずりまわって集めたのが下記。→は一応のおすすめコメント。

宇野常寛、『ゼロ年代の想像力
→言及している作品・事象が幅広い。

鈴木謙介、『サブカル・ニッポンの新自由主義』 
→政治というか社会の状況まで射程を拡げるならこれ。

広田照幸編、『若者文化をどう見るか
→テキストとして格好。

毛利嘉孝、『はじめてのDiY
→メインあるいはメジャーではない動きを知るのなら。

日経MJ編、『日経MJトレンド情報源
→データやマーケティングを視野に入れた知識が必要ならこれ。
 
 もっといろんな選択があったのだろうが、真っ先に思い浮かんだのは『ゼロ年代の想像力』と『日経MJトレンド情報源』であった。要するに、批評とマーケが現在を知るには最適ということか? などと的が外れているんだかいないんだかよく分からん感想を勝手に抱く。

 結果お買い上げ頂いたのは『ゼロ年代の想像力』。こうしたきっかけで日本の若い世代の言論が海外に知られるといいな、と妄想する。日本語が亡びるんだかどうだかよく分からないが、商売の観点からいえば、そりゃあ限られた市場じゃ限界があるのは間違いないんであって、日本語で書かれたものを読みたいと思う人を増やすしかないでしょう(帝国主義的?)。どうも日本の今の批評やら社会学は面白いらしいぞ、と知られていくようになれば、もっと違った局面を創り出せるんじゃないだろうか。

 もっとも、そのためには今日本でふつうに読まれているものをダイジェストでもなんでもどんどん翻訳していくことが市場拡大に必須。もうすでにあるのかもしれないが、たとえば、主要新聞の書評などを英・中・ハングル・仏くらいに訳して有料配信するサービスとかはどうだろう? 日本人が外国人に何かを伝える時にも結構有効じゃないかと思うのだ。別段新聞書評じゃなくてよろしい、イメージのひとつとして例に挙げただけ。もちろん、独自に編集しても面白いだろう。

 いや、『フランス ジュネスの反乱』が今の日本で読むに値する のであれば、『ロスジェネ』だって『フリーターズフリー』だってフランスで読むに値するに違いない、と思う、ただそれだけのこと。

 「ただそれだけのこと」でなおかつまっとうに利益が出せれば素晴らしい。
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by todoroki-tetsu | 2009-01-05 01:00 | Comments(0)

「独立系硬派雑誌」について

 昨日11/2(日)の「朝日」にて、竹信三恵子さんが「独立系硬派雑誌」というくくりかたで「ロスジェネ」「POSSE」「フリーターズフリー」などを紹介されている。シノドスなどにも言及されており、幅広くフォローしている印象を受けた。

 本屋としてはこの間実感している動向ではあるので、なるほどと思いつつ読みながらふと考えた。

 発行されている皆さん、採算は取れているのだろうか?

 自分の店では取次扱いのものはもちろん扱っているし、「POSSE」や「オルタ」は直扱いをさせて頂いている。

 細かい数字はここでは記さないが、それなりに売れてはいる。が、莫大な数というほどではない。この点、「思想地図」はちょっと別格な売れ方であった。

 もちろん、自分の店以外でも他の経路があるのだろうし、またいろんなつながりやイベントなどで「手売り」したりすることもあるのではないかと思う。が、硬い言い方をすれば、諸々の「イデオロギー」「主張」「意見」「考え方」が「形」≒「商品」となって立ち現れるのが本屋の棚。こうしたところでどう見せるか、どう売るか、と、本屋の仕事としては考えなくちゃいけない。

 「独立系硬派雑誌」を本屋で目立たせる際のメリット、一言でいえば「商材の多様化」ということに尽きる。多様な主張をしっかり見せることで顧客の選択肢を増やすことができるし、それが店頭の活性化につながる。集客効果は少なくない(もちろん店にもよると思うので一概には言えない)。

 ただ一方で、販売絶対数はやはり少ないのであって、集客機能を果たしてくれていることに対して「ご恩返し」をしなくちゃ、という気持ちだけはある。今のところ思いつくのは、雑誌そのものを売るだけでなく、発行/寄稿している著者や団体の著作もあわせてしっかり売る、ということくらいだろうか。

 雑誌発行者の方々からすれば、書店は数ある販売チャネルのひとつにすぎないだろう。そして、正直なところ、こちらも利益を多少なりとも得たい。雑誌発行者方々から見て、「本屋に卸すと直接販売よりは利益は落ちるが、それに見合うだけの効果はある」と思ってもらえるようなパターンを作り出せないかな、と考えている。色々なことを試してみたい。
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by todoroki-tetsu | 2008-11-03 09:29 | 業界 | Comments(0)

「現代の生活における貧困の克服」によせて(上田耕一郎さんを追悼す)

 上田耕一郎さんが昨日亡くなった。81歳。お若いとは決して言えない年齢だとは思うが、吉本隆明さんが84歳の今も現役であることを考えると、まだもうしばらくはいて欲しかった、と思う。

 学生時代に何度か上田さんの話を聞く機会があった。えらく元気な人だなあ、というのが最初の印象。当時はまだ参院議員であったと思うが、どうも上田さんのお話は他の共産党政治家/活動家とちょっと違う気がした。どこがどうとは言えないが、それがいわゆる「上田節」だったのだろう。

 大衆社会論争における上田さんの位置というか役割については、正直なところよく分からない。後藤道夫さんの力作『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』でも言及されているが、時代状況がいまひとつ感覚として掴めないでいる。が、戦後日本政治史なんかをやっている先輩などからは「上田耕一郎という人は切れ者だ」というような話を聞いたこともあり、へぇーと思ったものである。

 「現代の生活における貧困の克服」(初出は1963年、岩波講座「現代」第一巻「現代の問題性」。その後大月書店『先進国革命の理論』に収録)や、さらに遡って『マルクス主義と現代イデオロギー』、『戦後革命論争史』などを読んだのはずっと後のことであった。

 いずれも時代状況を想像するのに四苦八苦した記憶がある。が、『戦後革命論争史』からは、とにかく今ある条件や可能性を最大限に生かしていこう、という上田さんの覚悟というか意気込みが感じられた。連帯というか共闘というか、そういったものへの執着。

 僕がもっとも感銘し、今でも繰り返し読み返すのは「現代の生活における貧困の克服」。その書き出しはこうである。

 「『生活』という使いなれた言葉から、私たちはまず何を思い浮かべるだろうか。それは第一に、いっさいの人間的諸活動を個人の場で切り取ったもの、すなわち、一人ひとりの人間にとっての一個の小宇宙を意味している。人間の尊厳も栄光も、その創造性も未来もすべて生活の中にはらまれ、はぐくまれる」(大月書店版、P.153)


 ここだけだとただの「良いこと」あるいは「当たり前のこと」を言っているにすぎない。しかし、運動の観点から捉えた時、この認識が冒頭に来ている意味の重さが分かる。

 
「私たちの生活意識における、歴史的変革の担い手としての自覚こそが、社会的変革の内容の、小さくはあるが決定的な一分子となる。その自覚の形成はあくまで個性的である。いっさいの画一的な紋切型を排して、個性的な自覚の過程を歴史的主体の形成の本質的、根源的な要素として尊重すること、生活上の要求を追求するすべての運動は、このことをなによりもまず重視しなければなるまい」(同、P.161)

 共産党きっての理論家が、かかる認識を示していたこと。実態として実現されていたのかどうかは分からない。なかなかうまくいかないことが多分にあったのではないか、と想像する。が、少なくともこうした認識があったということは知っておいてよいだろう。今、漠然と「運動が盛り上がっている」的な雰囲気がある中で、これは当たり前と言えば当たり前だが、極めて今日的な問題と言いうる。

 上田さんは文中で「綱領的要求」という表現を用いている。当時の状況なり上田さんの立場からすれば、これは一定の説得力を持ち得たのかもしれない。が、今はそうではないだろう。別冊「ロスジェネ」所収のシンポジウムが示しているように――ということは現時点での批評の到達点でもある――、そう簡単に希望は語れないし、こうすりゃみんなが幸せに、なんて処方箋もそうそう書けない。

 しかし、だからこそ、思考なり議論なり運動なりの作法というか倫理が必要なのであって、それをやろうとしているのが「ロスジェネ」であり「フリーターズフリー」(もうじき第2号が出るそうだ)なんだと思う。

 読み違えているのかもしれないが、上田さんはどうも「綱領(≒結論)先にありき」というような態度――その世代の、あるいは共産党の理論家/活動家の中では、という限定つきだが――をとらなかったタイプではなかったか、という気がしている。ある問題があり、それを個別具体的に解きほぐそうとする中で綱領に到達する、というような態度に徹していたのではないだろうか、少なくともいわゆる「大衆運動」においては。
 
 上田さんは共産党の幹部で長くありながらちょっとはみ出たところというか、型にはまらないところがあった人だと思う。上田さんのやってきたことから学びうること、学ぶべきことは――もちろん批判も含めて――少なくない。

 まっとうな上田耕一郎評価/批評が出てくること。これが現在の運動を考える上でも大いに手がかりになると思う。
 
 ご冥福をお祈りいたします。

【追記】
 遅く起きた今朝、新聞で訃報を知り、即机に向かって記したのだけれども、先ほど、浅尾大輔さんが「日本共産党の認識論――上田耕一郎氏へのオマージュ」という記事をすでに昨日記されていることを知った。

 浅尾さんが「現代の生活における貧困の克服」を深く受け止めていらっしゃること、我が意を得たりというのは不遜にすぎるだろうが、心強いことだ、とは言っておきたい。「ロスジェネ」と結びつけた連想は、あながち間違いではなかったか。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-31 12:56 | 業界 | Comments(0)

『フリーター論争2.0』読了

 『フリーター論争2.0 フリーターズフリー対談集』、ようやく今日入荷しましたので書き込みます。

 いわゆる「雑誌」ブームにひとつの画期を作った(ように棚では思えた)『フリーターズフリーVOL.1』の続編といってよいのかは分からない。今回はフリーターズフリーが編集プロダクションとして人文書院に原稿を納めた、というスタイル(大澤信亮さんの「あとがき」より)なのだそうだ。でももちろん流れは汲んでいる。

 論考を集めたものではなく、サブタイトルにもあるとおり、対談集である。多彩なメンツが揃っており、議論の幅の広さと奥行きの深さが同時に感じられる。

 杉田俊介さんの「はじめに」にガツンとやられる。

 「……われわれの多くがすでに限界と疲弊を、心のどこかでは退屈すら、感じていないか? しかし、問題はその先にある。『祭りのあと』的な空気と弛緩の中でこそ、一人ひとりの中で、運動と支援の意味がもう一度自己検証されていくからだ」(p.2)

 どの対談も考えさせられるが、どれと挙げることは今できない。読後感としては二つ。

 ひとつは、栗田隆子さんのお話をもっと聞いてみたいな、ということ。5本の対談のうち3本(貴戸理恵×雨宮処凛×栗田隆子×大澤信亮:「この生きづらさをもうないことにしたい――プレカリアートな女たち」、雨宮処凛×城繁幸×大澤信亮×栗田隆子×杉田俊介:「若者はなぜ『生きさせろ!』と叫ぶのか?――多様な生の肯定に向けて、武田愛子×ちろる×そら豆×生田武志×栗田隆子×大澤信亮:「支援とは何か――野宿者支援のグラデーション」)に登場しておられ、控えめだが、考えに考えを重ねて言葉を振り絞っているように感じる。もっとじっくりとお話を拝読したい、という気にさせられる。

 もうひとつは、これは最後に収録された対談(小野俊彦×大澤信亮×杉田俊介:「新たな連帯へ――法・暴力・直接行動」)に顕著なのだが、そこかしこに「暴力」の問題への言及があるということ。主に杉田さんが話題を先導しているように思えるが、今この段階でこうしたことを考えるのはすごく重要なことだと思う。いわゆる「運動」だとか「活動」といったものに対するイメージの問題というだけでなく、自分自身に内在する暴力というか、そういったものに対するまなざし。大事だと思うが、でも一方でものすごくしんどいことだとも思う。

 読みながら僕は、「お前はどうするんだ?」と問われているような気がしてならなかった。こんな感覚は赤木智弘さんの『若者を見殺しにする国』以来。読みながら自分の覚悟を問われる、という読書は久しぶり。

 「舌触り」のよい本も決して悪くないが、こういう本も、いい。
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by todoroki-tetsu | 2008-05-15 23:56 | 業界 | Comments(0)