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「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十七

 最終セクション8:「2010年、ニッポンの春」を、いよいよ読み進める。セクション全体の印象は冒頭の段と最後の段に描きこまれる「新緑」で、それが実に清冽なのだけれども、そこに目を奪われてはいけないと言い聞かせる自分がいる。映像を映し出してくれる「カメラ」の位置に注意しながら、読み進める。

 
 ニッポンの四月は、新緑まぶしく、季節が生まれかわるとき。
 
 思考が行き詰まった私は、いま田舎の母屋に逃げ帰っており、義妹が、ポカポカ陽気の縁側で、七ヵ月になる息子岳途(たけと)のオシメ替えをしているのを見つめている。


 実に鮮明な映像がイメージされる。ほんとうに思考が行き詰まったのだろう。そりゃそうだ。新しい等価交換なんて大事(おおごと)に、挑もうとしているのだから。それを少しでも追体験出来ないか。書き手が苦心して紡いできた言葉を何とかしてしっかりと読むことが出来ないか、と読み手もまた、真剣に追って来たのだった。


 この幸福な光景を眺める、笑顔ではあろうがどこか疲れてもいるだろう男が、赤子の小さな爪のかたちの細部に驚いているさま。これ以上でもこれ以下でもない。この描写のもつ意味が何なのか、と探ることにあまり意味はなかろう。呼び起こされる映像イメージ、大人と子ども、子どもの細部の観察と驚き。それだけだ。それだけのことが、たいせつだ。


 赤ん坊の爪に驚いた男は、きっと何気なくついていたのであろうテレビに目をやる。新緑の眩しさは今度は脇から差し込むようになる。映像は部屋の中へと切り替わる。カメラは男の後ろ姿と、その目線の先にあるテレビ画面へと向けられる。棋士・加藤一二三さんが登場する。


 2012年の今となっては忘れ去られていると言えるかもしれないこのニュース。しかし、このニュースから引きこまれる「思考のモード」には、普遍的なものがある。映像は思考の中にもぐりこむ。色彩は徐々に消えていき、加藤棋士の「長考」についての考察へと進む。加藤の「長考」と「神の存在」とが重ねあわされる山口瞳の観戦記が参照されたのち、こう続けられる。


 なるほど長考そのものが「神の存在」だとするなら、私の気は晴れる。なぜなら、考えることは、たたかいの最善手を選ぶことであるが、同時に、迷うことでもあり、その結果、時間切れ投了という幕切れもありうるというのだから。

 
 長考を、例えば「苦しみ」や「哀しみ」に置き換えてみる。その時、人は、何かにふれている。そういう感覚は、おそらく遠い昔からあった。そう思うよりほか仕方がなかったのかもしれない。しかし、それは確かに何かにふれるものであったに違いない。「死者論」としてそれを提示しているのは若松英輔さんである。若松さんの場合は考えることと感じることをかなり厳密に分けておられるのだが、それは今もんだいにすべきことではない。つまり、何かを強いられる、どうしようもないことに遭遇する、その時、何が見られるか、何を感じられるかということだ。「孤独が自問する」(吉本隆明)と言っても同じことだ。


 ハックは、考えた。それが長い時間であったかどうか知らない、と既に補助線は引いておいた。その時にハックに感じ取ることができたものこそがたいせつだった。


 気にかかるのは、「私の気は晴れる」という言い回しだ。それは「唯物論者」であることからくるものであろうか。それとも、今一つ納得は出来ていないが、ひとまずは理解が出来るという意味合いだろうか。あるいは……。僕には判らない。しかし、長考が「神」、あるいは何らかの存在にふれる大きなきっかけであることは確かなことだ。開かれた契機であるのは確かなことだ。


 次の段も、思考の中の話だ。あまり色彩豊かな映像は沸き起こらないが、それでよい。


 私たちの暮らしの圧倒的な部分は、あらかじめ決定されている。

 現実の動かなさを前にして、疲れ果て、途方に暮れる運命にある。

 しかし、ある時期、あるポイントにおいて、私たちが考え抜いた果てに生まれた渾身の一撃が、その決定を留保させ、大きくねじ曲げ、思いもよらなかった方向へとうっちゃる場合がある。すなわち、新しい等価交換のルールの手がかりをつかむ場合がある。

 
 ここまで読み進めてきた者は、改めてかみしめるようにこの結論めいた文章を目にするだろう。もんだいは、この次だ。


 そんな新世界において、私たちの仲間のひとりが、「死」を選ぶということがあるとすれば、世界のなかに豊かなファンタジーがなかったからであり、豊かな物語であっても恐慌的な悲劇にとどまっているからではあるまいか。

 もちろん書き手としての私は、平和な世界であればあるほど暴力の復権あるいは蘇生という「願い」が実現されなければならないことを知っている。ひとびとが――すなわち私が、亡くなったひとの表情や血の匂いを忘れそうになるたびごとに、悲劇の文学は、繰り返し、何度でも描かれなくてはならない。その作業に終わりはない。そうして悲劇に慣れきってしまった私は、ふいに訪れた身近な他人の「死」のリアリズムに打ちのめされたりなんかして、「人間の終わり」は、あらかじめさだめられているのだという大げさな錯覚にとらわれていくのだ。

 なんという恥ずかしい態度であったことか!



 この言葉を、僕は他人が書いたものとは思えない。思ってはいけないと読んでいたうちにそうなったのか、自然とそうなったのかはもはや判らない。書き手と読み手が、ともに言葉に対して開かれている。そういう感覚が生じてくる。確かにこの文章を書いたのは浅尾大輔その人であって僕ではない。しかし、浅尾さんが記した言葉が他人事には思えないのもまた、事実なのであった。「ひとびと」がすなわち書き手の「私」であるならば、「ひとびと」がすなわち読み手の「僕」であると言えない理由はどこにもない。


 もちろん僕は書き手ではない。なので、この文章の中にある「書き手」はおのずと「読み手」と変換される。読み手である僕はいかなる文学を欲しているか。恐慌的な悲劇だけを、求めてはいないか。いや、それにすらいかない、豊かではないもので満足しようとしているのではないのか。「悲劇」に慣れることで、何かを判った気になっちゃいないか。言葉のパッケージであるところの本に囲まれて、知った気になっていて、そのくせ何か大事(おおごと)が起きた時には、「本(屋)なんて……」と思わせぶりな態度をしてみせる。嗚呼、「なんという恥ずかしい態度であったことか!」

 
 いつの間にかカメラは切り替わり、おそらくはさっきと同じ姿勢で坐る男を、後ろから映し出すだろう。その男の姿は、書き手なのか読み手なのか。もはや判然としない……。


 カメラは再び外を映し出す。縁側から覗かれる青葉の葉脈。そこに、「亡くなっていったひとたちの心の優しさと、そのなかで演じられた葛藤のすさまじさ」が重ねあわされていく。基調はやはり新緑だけれど、その下地には、おそらく血の赤や苦しさの黒、切羽つまった白が、塗られているだろう。じっと目を凝らすと、様々な顔が浮かび上がってくるであろう。今の僕には、控訴審に一度も顔を出さない、ある若い男の顔が見える。

 
 私は、いつか、いつの日にか、文学という手法で、追い詰められた彼らが怯え続けた暴力の記憶を新しい物語として――死よりも恐ろしいもの、カネよりも尊いもの、暴力より痛いもの、そうして天国より素晴らしい世界を提示したいと願う。それは、「溜めのない世代」の「弔い合戦」ではあるが、復讐を乗り越える「別次元の均衡」(シモーヌ・ヴェイユ)のはずである。


 もはやこの決意表明は、書き手ひとりのそれでありながらも、そこにとどまりはしない。まずもって同時代の作家、批評家、それに何より読者に、共有されるテーゼであろう。さらに願わくば、次の世代へ。あるいは私たちより前に存在した世代へ(高橋源一郎さんの『「悪」と戦う』が、なぜだか思い起こされる)。


 その共有のされ方は、決して表立つことはない。コミュニケがつくられることもない。けれど、私たちが知らず知らずのうちにたどり着いてしまっているような、あるいは、いつの間にかこうありたいと思う、そういう地平であり、願いである。

 生きられなかったということは、存在しなかったということでは、けっしてない。

 
 この一文に込められた力強さははかりしれない。このあとすぐさま自分の話になるのだが、それは「ひとびと」を媒介とした、あるいは「ひとびと」そのものであるところの「私」であることは、既に見たとおり。


 現代ニッポンにトムとハックが蘇ったとしたら、どんな青年になっただろうかと夢想することがある。

 私たちは、いつでも子どもから生き直すことができる。


 このフィナーレには、この最後のセクション冒頭で挿入された赤子の映像が重ねあわされる。その爪に驚く男の思考は、130年前のアメリカの少年にまで飛んでいくだろう。


 子どもから生き直すこと。それは既に補助線を引いた通り、ひとびと、すなわち書き手にも読み手にも、開かれているものであった。

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 当初数日程度で仕上げるつもりであった感想文だが、気がつけばほぼ一ヶ月が過ぎていた。


 もちろん、かっちりとした下書きを全部準備したわけではないけれども、おおよそのあたりはつけてからはじめたのだったが、読みなおせば読みなおすほど、どんどん思わぬ方向に進んで行った。それが見当違いであるのか、少しは言葉に近づけたのかは、判らない。ハックのように破り捨てるべきものを書いたのではないことを祈っているが、もんだいは、書いてから考えること、あるいは何かを実行することだ。

 
 前にも似たようなことを書いたかもしれないが、繰り返そう。こうした文章と同時代を生きるのは、幸せなことである。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-24 00:29 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十六

 「かつて、ぶどう園で起きたこと」、最終セクション8:「2010年、ニッポンの春」に入る前に、もう少し逡巡というか、補助線を引いておこうと思う。

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 ハックルベリ・フィンが、「よし、それなら、オレは地獄に行こう」(角川文庫版、大久保博訳、第31章)と決意をした、その過程について考えてみる。


 ジムが捕まった詳細を、軽妙な嘘を交えながら聞きだしたハックは、筏の中の小屋で考える。ジムはせめてなら故郷に返してやりたい、いやそれはミス・ワトソンの怒りを招くだろう、さて……。逡巡するうちに、「おいらは突然、ハッと気がついた。この世にはプロヴィデンス(神さま)のはっきりとした手があって、それがオレの頬をピシャッと叩いたんだ」。恐ろしくなって震えるハックは、祈ろうと試みるが、うまくいかない。「人は、ウソを祈ることはできねぇ」ことに気づく。


 そこでハックが思いついたのは、手紙を書くことだった。「おいらの気持ちは、そう考えたとたんに、羽根のように軽くなった」。しかし、ワトソンさんへジムの居場所を知らせるその手紙を書き終えて、ハックは再び考える。思い起こされるのはジムとの楽しい思い出だ。「今ではおいらがたった一人の友だちだ」と言ってくれたジム。

 
 考えながら「ヒョイとあたりを見まわ」すと、さっき自分の書いた手紙が目に入る。再び手に取る。「体はブルブルと震え」る。そうして「心の中で」、「よし、それなら、オレは地獄に行こう」と口にする。「恐ろしい考え」であり、「恐ろしい言葉」だとハックは自覚している。その上で、「口から出たままにしておいた」。ここまでくれば、あとはハックの本領発揮、いかにジムを取り返すか、その算段に奔走することになる。


 さて、この過程から、何を学びとることが出来るだろう。


 第一に、「人は、ウソを祈ることはできねぇ」ということ。数々の嘘を「吐く」ハックでも、嘘を「祈る」ことは出来ない。ここに少年らしい潔さを見ることは不当ではない。嘘は吐いてもいい、でも、嘘を祈っちゃいけない。ここでの祈りは、信仰を持たない人間の無礼を承知で言わせてもらえば、「集中」(大江健三郎)なり、他の言葉で置き換えてもいいだろう。ほんとうにここぞという時、何が大切なのか。ハックはそこを考えようとしている。実際、体が言うことを聞かないというのが象徴的だ。この正直さは、少年固有のものだろうか。いつの間にか失われているように思えるとするならば、それはただの思い込みではないのか。


 第二に、ハックが取った手段が「書く」ことであったということ。心の中での問答。口にして祈ることが出来ない困難。その代わりに、手紙を書いてみたのだった。口にすることが出来ない言葉も書くことなら出来る、と見ることも出来るし、考えるために書く、と見ることも出来る。どちらもたいせつな見方だ。書いてみなければ決断出来なかったのだ、ということも出来るだろう。「読むために書く」「書きながら読む」という感覚と共にある今の僕には、とにかくハックが書いてみたということに、限りない敬慕の念を覚える。


 第三に、口には出来なかったが書いてみることが出来た言葉と、ジムとの思い出との対比。どれくらいの時間を掛けたのか知らない。けれど、少年にとっては決して短絡的なものではなかっただろう。たとえ短い時間であったとしても、その密度において。その末の、決断。書いた言葉をハックは破り捨てた。その時に心の中で発した「恐ろしい考え」と「言葉」を、「口から出たままにしておいた」。これもまた、潔い。書いた言葉は、それはもちろん強制された言葉ではなく、ハックが今までに受けてきた教育だったり説教だったりであるだろう。ある程度は内面化もしていたろう。それを書くことで外部化し、そして、捨てる。新たな決意に向かう。ハックが再びこのように迷うことがあるかどうか、知らない。しかし、少年時代にこうした時間をかけて考えた末にひとつの決断をしたという経験は、長い人生のどこかに影響しないはずはない。


 ハックの物語、そして特にこの部分が、文学者のみならず多くの読者がどのように読んできたのか、僕は知らないし、別段研究するつもりもない。しかし、何度か繰り返し読んでみて感じるのは、ハックの正直さと潔さだ。ハックは何も難しいことをしていない。ただ自分に正直に考え、震え、書き、思いだし、そして決断した。誰もがやろうとすればやれないことではない。ただ正直でありさえすれば。その正直さがいかにも少年時代に特有のものであったとしても。


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 「叡智の扉は万人にひらかれている」――そんなような言葉を若松英輔さんの講演で耳にした。ここだけ取り出すと何のこっちゃと思われるかもしれないが、若松さんの講演や書いたものに少しでも触れられた方は、さほど違和感なくこの言葉を感じ取ることができるだろうと思う。


 僕は、叡智をハックに置き換えることに、ためらわない。


 ……ここまで考えてようやく、浅尾評論に入っていくことが出来る。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-23 21:39 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十五

 浅尾大輔さんの評論「かつて、ぶどう園で起きたこと」(「モンキービジネス」第10号所収)も、残すところあと1セクションとなった。


 この清冽で気高いセクションを、読みながら書く/書きながら読む、その前に、今一度最初から読んでみる。


 読み遺していることはいくらもある。聖書に関する記述は特に鬼門のようだ。「悔い改めた盗賊」のイメージは、確かにヴェイユとも重なるだろうことは理屈では何となく判るのだが、感じ取るまでにはいかない。ヴェイユとスピードとの関係も、ひとまずは僕なりには考えてみたけれども、どうもまだ無理からに理屈で納得しようとしたきらいがある。

 
 ……まあ、いいだろう。おそらく長く付き合うテキストだ。今いっぺんに判ろうとする必要もない。職場で何気ない会話を交わしている時に、あるいは何かに切羽詰まった時に、あるいはあやうく転落しそうなホームを歩く時にふと、思い起こすだろうから。頑張って考えることはたいせつだが、背伸びをしたところでしょうがない。


 さて、もういっぺん最初に立ち返ると、改めていっとう最初のセクションの存在感が際立つように思われる。

 
 「ロスジェネ文学」とは、「溜めのない世代」の物語で、おそらく「神を待ちのぞむ」。すなわち、若者たちの貧しさと不当に損なわれているという心象のスケッチは、この世界が――私たち人間こそが、もっとも信じるに値しない被造物であるという疑念をもたらして、ふたたび「神の問題」と向き合わせる。



 「私たち人間こそが、もっとも信じるに値しない被造物であるという疑念」。これは「嘘」という言葉でなんどか言い表されてきたことであった。同時に「嘘」における可能性もまた同時に、見据えられた。


 ふと、思う。浅尾さんは、文学者として、「人間」を信じてはいないのではないか。いや、「人間」の「理想化」を徹底して排除しようとしているのではないか。


 実は当初、この評論の最後のセクションから得られる色鮮やかな緑のイメージを手がかりに、大江健三郎さんが講演・評論の場でしばしば表明する「人間」への全幅の信頼と重ね合わせて、この感想文を締めくくろうかと漠然と考えていたのだった。しかし、読み進めるにつれ、そしていよいよ最後のセクションに入ろうとするにあたって、いや、そうした心象ではどうにも読み誤っているのではないかという気がしてくるのだった。

  
 なぜか、鈴木邦男さんの言葉が思い出される。「左翼は人間を理想化しすぎる。だからこそ反動も大きい。人間なんてもともとダメなもんでしょう」といったようなことを、5/13のシンポジウム「当事者が語る連合赤軍」で語っておられたのだった。

 
 平等な分配がありうる、という「希望」の型を「資本論幻想」と名付け、「人間という変数の閾値が少しも勘定に入っていない」と批判し、「主人公たちが人間の連帯を安易に信じていない」ことをもって「ロスジェネ文学」を高く評価する浅尾さんの言葉は、この鈴木さんの言葉とそうかけ離れた位置にあるとは思えない。


 しかし、ここで僕は安易に「右」だの「左」だのと結びつけたり持ち上げたり腐したりするつもりはない。もうひとつの参照項が同時に思い起こされるからだ。

 
 「ロスジェネ」創刊号に、萱野稔人さんが寄せた小論「なぜ私はサヨクなのか」は、今読み返しても十二分に面白い。萱野さんはこう述べておられる(同書P.62-3)。

 
 左翼はけっして人びとの実存の問題や価値観に――左翼の立場から――口をはさんではならない。もっというなら、人間の意識から問題をたてないという左翼の方法からいけば、そもそも左翼が生き方とか、生存の美学といったものを教えることは無理というものだろう。

 (略)

 ……生き方や実存の問題は左翼の守備範囲とはまったく異なるオーダーにあるのだ。だから左翼も、左翼じゃない人も、左翼の問題圏とは別のところで、それぞれ生き方を学び、生きるうえでのよろこびや倫理を確立し、実存の問題を解決しなくてはならないのである。

  

 そう、「ロスジェネ」は、「右と左は手を結べるか」のキャッチコピーで世に出たのだった。手を結んだその先にあるだろうものを、編集長自らが指ししめしているというのは深読みに過ぎようか。
 
 
 さらに連想は飛ぶ。参照すべきは大江さんというよりも、「人間古今東西チョボチョボや」と言った小田実さんではないのか。「『身銭を切る』ことから」より(『世直しの倫理と論理』、下巻、P.214)。


 問題は、人間はインチキである、自分をふくめてふつうの人間はインチキさにおいても徹底し得ないほどインチキであるとみきわめておいて、そこで開きなおるのではなく、さて、そこで、どうするのか、ということだと思うのです。

 
 この文章が浅尾評論の中にあっても違和感はあるまい。


 人間を理想化しない。実存や生き方に左翼の立場から口をさしはさまない。とすると、小田実―浅尾大輔というラインはおのずと引かれるように思われる。浅尾さんが長篇小説を物した時、それは『HIROSHIMA』のような作品であるかもしれない、と夢想する。


 ところで、「神の問題」と向き合うとはどういうことだろうか。そのたいせつな手がかりは、最後の最後で触れられることだろう。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-20 23:09 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十四

 7:「『あらかじめ』に逆らう」を引き続き。


 私たちに忍び寄る「あらかじめ」に対し、「嘘」をもって逆らう。「やられたらやり返せ」ではない世界へ、「新しい交換形態」へ。では、嘘をつけるというのはどういうことか、主体は誰か、という思いを重ねながら読み進めてきたのだった。

 
 何を守るのか。誰を生かすのか。そして、誰と共に……。そうした視点が、ぜひとも必要に思われる。 


 「仲間」という言葉だが、「ヤンキー」をめぐる言説(「分析」とか「論」とか名付け得る状況なのか、僕には判らない)などを考え合わせると、少しばかり用法に注意せにゃあいかんという気がしてくる。言葉だけが先行しないように注意しておこう――ついでながら記しておくと、「ヤンキー文学」なるジャンルが成立するとした場合、その中には浅尾さんの「家畜の朝」は必ず含まれなければなるまい、と思っている――。


 ヴェイユの根は、おそらくアメリカの少年たちにも共有されている。しかし彼らの場合は、「嘘」の花の大輪を咲かせることによって、お互いを励まし合えたのだと指摘できる。


 前にも引いた部分だが、この一文にある「彼ら」や「お互い」という言葉に見合うような存在と関係性を、ひとまずは「仲間」と考えたい。そこに、いわば決まり文句に過ぎない「本当にみなさんのものである」というハックの言葉から得られるイメージを付け加えよう。

 
 閉じた「仲間」ではないのだ、ということだ。それは「仲間」と自称する自分たちのあいだだけでなく、仲間を外から見る場合にも、「あいつら」と「自分」は違うという目で見ないように努めるということだ。


 そのように考えた上で、このセクションの最後に記されるトムの物語について読み進めてみる。

 
 「復讐」に燃えさかるインジャン・ジョーと、「誰が外にいて、自分が囚われの身から解放されるのを待っていてくれるか」をわかっているトムの対比は見事だ。ジョーにあってトムにないもの。しかし、浅尾さんの注記を忘れないでおこう。


 しかしそれ(=トムをとりまく「外部」の寛容)さえも、トムの「嘘」と等価交換されたものだということも忘れるべきではない。



 不穏な影が、僕の脳裏をかすめる。してみると、「嘘」もまた、「能力」であるのか、と。生き延びるための「スキル」であって、それなしにはうまくいかないどころか、「うまくいかなくても仕方がない」「努力しなかったのだから報いは受けて当然」と思われるような、そういう「能力」「スキル」が増えるだけではないのか……。

 
 故のない被害妄想であろうか。僕の感じる不安を、理屈で説得してもらえるならこんなありがたいことはない。しかし、いかなる理屈であれ、不安を忘れることはあっても、根源を断ち切ることは出来まい。おそらく、先に見たような意味での「仲間」を常時意識し、それと照らし合わせて考えていくこと以外に、不穏な影を解消する道はないのだ。

 
 決意だの覚悟だの実行だのに感銘を受けるのは、悪いことじゃない。だけれど、それは何を守るのか。誰を生かすのか。そして、誰と共に。自分の読み方がたとえ誤読にしか過ぎないとしても、そこにこだわること。たたかいや威勢のよさに「だけ」酔いしれるな、と自分に言い聞かせよう。


 物語の最後に、執拗に描かれたインジャン・ジョーの苦悶は、トウェインなりの旧世界への葬送であったにちがいない。すなわち「等価交換としての復讐」を超える世界の開示――新しい交換過程に貫かれた世界へのいざないである。


 「新しい交換過程に貫かれた世界」は、どこかに扉が隠されていて、そこを見つけさえすれば、あける方法さえ分かれば、すぐさまバラ色の世界がひろがるといったものではない。その世界は、おそらく今自分のいる世界と違ったところはほとんどないだろう。ほんのちょっとしたことが、違うだけのことだ。少なくとも同時代を生きる私たちにとって、一夜明けての劇的の変化なんてことはそうそう、ない。

 
 そのほんのちょっとしたこと、そのきっかけはそこかしこにあって、それをどうこうするのは自分たち次第なのだ。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-19 13:04 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十三

 7:「『あらかじめ』に逆らう」の前半部分では、生き延びるための「嘘」、奪われようとするものを守ってやれる「嘘」、というところにまでたどり着いた。では、そのような「嘘」をつけるのはどういう人間なのか、と考えるのが後半である。


 作者トウェインは、「嘘」をつく行為が、モーゼの十戒に背くことを承知でハックに語らせている。その源泉が不信と孤独にあること――私の考えでは、「神」にすら見捨てられているという感覚にあることを踏まえたうえで、ハックの「嘘」こそが、黒人ジムの尊厳を守る世界へといたる大いなる助走となったことを教える。


 
 さて、「あとの者は先になり、先の者はあとになる」というのが「世界が滅びる際のルール」であったわけだが、ハックはあとの者か、それとも先の者か。ヴェイユのイメージに重ね合わせようと試みるならば、先の者であるように思われる。不信と孤独の極限で、すべてを取り返す「嘘」をつく。しかし、労働に自らを重ねながら、最後には死にいたったヴェイユと、労働からも排除されたハックとの間には、決定的な違いはないのか。プロレタリアートとアナーキスト? いや、まずは浅尾さんの言葉を聞こう。


 私の経験したところでは、ハックの形象は、現代ニッポンの「社会的ひきこもり」の原型のひとつに数えられるのではあるまいか。

 すなわち労働力の再生産過程から排除された者だけが、ときに「死」を賭けて、「関係のない人たちや知らない人たちの不幸」にふれると「恐ろしい苦痛を感じ」「魂がばらばらに引き裂かれ」たのち、臆病な心を突き破って圧倒的な優しさの行使にいたるという――。

 ヴェイユの根は、おそらくアメリカの少年たちにも共有されている。しかし彼らの場合は、「嘘」の花の大輪を咲かせることによって、お互いを励まし合えたのだと指摘できる。


 
 「私の経験」と呼ぶものに何が含まれているのか、他者である僕は想像するしか手立てはない。しかし、その中には2009年2月に行われたシンポジウム「女性と貧困――生き抜く道は、どこにあるのか」(『ロスジェネ 2009別冊』)における、いちむらみさこさんとの接触が含まれているだろうと想像するのは、さほど突飛なことではないと信ずる。ここでの浅尾さんの発言を引こう。

 いちむらさんが伝えた路上の世界には、確かに、現在の賃労働者には足りないものがある。現代の労働者の世界で失われたものが、ホームレスの世界にあるんだと言われて、そういうかたちで新しい価値観を提示されたことは、率直に言って、とても新鮮で、これから大きなテーマとして議論されるべきだと思いました。


 ことわっておくが、「社会的ひきこもり」と「ホームレス」を結び付けようとか、いちむらさんをそんな不遜な文脈に落とし込もうとか、そういうことを言いたてようとして引いたのではない。僕自身この会場にいて、あの時、「賃労働でメシを食っている自分は、じゃあ、どうすりゃあいいんだろう?」と考え込んでしまったことを覚えている。僕はそのまま思いだしたように考えたり考えなかったりしてきただけだ。その間に、文学者・浅尾大輔は、認識を拡げようと努力をしてきたのだ、と思う。


 「確かに、現在の賃労働者には足りないものがある」と、労組専従をやってきた人間が口にすることの意味は、重い。下手すれば自己否定になりかねないのだから。


 その重さを、いまだにはかりかねるけれども、何とか近づこうと試みる。そのために、賃労働者である自分が、ハックの物語を読むことの意味を考えてみよう。


 ハックなんて所詮は風来坊の浮浪児で、ロクなやつじゃない。けれど、そうした奴がどえらいこと=ジムを救いだすことを、やりぬいた。浮浪児だから出来たのさ、と賃労働者の俺はうそぶいてみる。けれど、ハックは確かにそれをやったのだ。まず、そのことは認めよう。それが大したもんだと認めよう。あいつにはそれだけの時間があったのさ、こちとら朝から晩まで働きづめなんだからな。そういったところで、やっぱりハックのやったことは大したもんだ。ハックと俺は違うのさ、というよりも、ハックはすげえや、と素直に思う方が、潔いってもんじゃないか。だって、ハックルベリの物語は、こう締められているんだから。


 これでおしまい。

 本当にみなさんのものである、ハック・フィン。



 ヴェイユを、労働を抜きに語ることが出来ない思索家だというのは多くの人が認めるであろう。そのヴェイユと、ハックを「根」が「共有されている」という言葉でズドンと串刺しにする力、これに起因する心象は、強い影響を読む者に及ぼす。

 
 賃労働者であるか否か、といった問題ではない次元。さりとてなんだか急に「人間そのもの」みたいなところにもいかない。本当に、こう言う他はない、「生身の人間」の根源をえぐり出すような、そういうイメージが湧きおこってくる。戦線が広大にひろがっていくのを感じる。


 とはいえ、ヴェイユが嘘をつけるようになるとは思われない。ハックにおけるような意味での「励まし合う仲間」は、彼女にはいなかったのかもしれない。彼女は学生時代ボーヴォワールに向かって「あなたは飢えたことのないような顔をしているわね」と言い放ったというが、確かにヴェイユは孤高であったのかもしれない。けれど、ハックの物語を、浅尾さんのような読み方でもし読み得たとするならば、嘘は自分では決してつけなかったとしても、嘘のたいせつさは、理解出来たかもしれない。死の手前で、踏みとどまったかもしれない。

 
 自分のたたかいとあなたのたたかいは、決して違うものではないということ。嘘をつくことが得意な人はそうでない人を、嘘をつくのが苦手な人はそうでない人のことを、お互いに想像しあうことは出来ないか。少なくとも、否定先にありきで考えることは、努力すれば止めることが出来るだろう。ハックは「みなさんのもの」なのであり、その「みなさん」に僕が含まれていないと考える理由はどこにもないのだから。


 賃労働者として言えるのは、このあたりがいまのところせいぜいか。 
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by todoroki-tetsu | 2012-08-16 23:07 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十二

 少し長く中断してしまったが、浅尾大輔さんの「かつて、ぶどう園で起きたこと――等価交換としての文学(ファンタジー)」(「モンキービジネス」第10号)を再開する。セクション残すところあとふたつ。しかし、じっくりといこう。


 「ロスジェネ文学」の運命は、「資本」に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐く人間の再構築にあることは、すでにのべた。

 私の考えでは、「あらかじめ」に逆らう文学の起源は、ドストエフスキーのロシアにではなく、マーク・トウェインが描いたアメリカに潜んでいる。すなわち『ハックルベリ・フィンの冒険』である。



 7:「『あらかじめ』に逆らう」は、こんな書き出しで始まるのであった。大江健三郎さんが幼少期に愛読したというこの物語のキモは、「よろしい、じゃあ地獄へ行こう」であるとすっかり信じ込んでいる僕は、浅尾さんの読み方に半ば呆然としつつ引き込まれる。一例を引こう。

 
 たとえば「神」は、人間の「死」を無言のうちに天国へと回収するだけだが、私たちは「死」を奪い返すことができる。ハックは、少女エミリーンの死を「神」の手から奪い返し、畏れおおくも弔い直そうとする。その理由は、幼いころから近所で弔われる死者のために詩を「捧げ物」にしていた彼女が亡くなったあと、彼女のために詩を書いてあげる者がいなかったことを「公平じゃない!」と感じたからだ。


 「私たちは『死』を奪い返すことができる」! しかも、ここに悲壮感はないことがたいせつに思える。ヴェイユがもし同じ局面にあったら、あの写真で見られるようなほのかな微笑は消え失せ、悲痛な祈りが書きつけられるだろう。

 
 私の考えでは、おそらくヘミングウェイは、『ハック』第三十一章以前にまき散らされた「嘘」のなかにこそ、この世界を反転させるアメリカ文学の起源を見ている。なるほどそれは、ヴェイユのいう「復讐とは別次元の均衡」へと続く、もうひとつの道かもしれない。人間の「嘘」によって積み上げられた「虚構」には、「等価交換としての復讐」とは別の、新しい交換過程がありうるということだ。


 この記述は、『悪人』の作品分析から得られた認識を引き継ぐものであるだろう。

 このようにしてニッポンの青年たちは、まさに見えない敵によって追い詰められている。確かなことは、資本は「嘘」にまみれており、その是正に振り回される私たちもまた「嘘」をつく人間・被造物であるということだ。
 


 しかし、「嘘」ゆえに殺し/殺された人間もいるだろう。そもそも「嘘」をつけない人間もいるかもしれない。当たり前のことだが、「嘘」ならいいやってもんじゃない。生き延びる「嘘」でなければならない。したたかな「嘘」でなければならない。奪われようとするものを守ってやれる「嘘」でなくちゃいけない。


 そういう「嘘」をつけるのは果たしてどういう人物か、という問題があらわれてくる。




 
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by todoroki-tetsu | 2012-08-15 20:10 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十一

  6:「ヴェイユが拒絶したアメリカ」は、引き続き第二幕の助走である。徐々に身体を温め、いよいよラストスパートをかけようという、その手前である。


 思考の枠を、労働力が消費されていく過程から「神の問題」へと広げていった思想家のうちで、シモーヌ・ヴェイユは、私にとって詰め将棋「けむりづめ」を実践したひとであり、現代に復活した「悔い改めた盗賊」であり、ぶどう園の農民労働者であった。

 そうして彼女は、事実上、アメリカを拒否したひとでもある。

 アメリカを拒否したという意味は、私の考えでは、アメリカにこそ、ヴェイユなるものを延命させるものがあったということである。


 ヴェイユには墓のにおいがする、といったのはバタイユであったそうだ(吉本隆明講演「シモーヌ・ヴェーユの意味」)。死の影は確かに付きまとうように思われる。この評論でしばしば触れられるヴェイユもまた、かずかずの重要な言葉を残しつつも、死の影からは逃れ得ぬ。そう、「あらかじめ」定められているものとしてそれはある。人は誰しも死ぬものだ、という意味ではない。「最後の被救済者」すなわち、もっとも長く苦しむ者としてのヴェイユ。


 その死を、取り返そうという。ヴェイユを、延命させようという。いや、正確に書かれた言葉に従おう。「ヴェイユなるもの」。失われたものは二度ともとには戻らないかもしれない。しかし、それが悲劇であるならば、繰り返さないことは出来るかもしれない……。

 
 ここで唐突に、次のようなセリフが僕の中に響いてくる。それを言ったのはトボ助であった(木下順二、「神と人とのあいだ――夏・南方のローマンス」)。


 取り返しのつかないこと――でも、その取り返しのつかないことをあたしは取り返そうと思うんだな


 この言葉を受けるのにもっとも適切なのは、「はぁいッ、でも……、そんな闘争、出来るかしら」(「猫寿司真鶴本店」)であるだろう。気負いも不安も、ありのままがここにある。それでもなお、取り返しのつかないことを取り返そう、と。

 
 いよいよ、ハックルベリ・フィンに教えを請う時がやってくる。



  
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by todoroki-tetsu | 2012-08-10 01:20 | 批評系 | Comments(0)

「ラ・マンチャの男」と「誤読」

 ミーハーでいささか恥ずかしいのだが、「ラ・マンチャの男」と幸四郎丈の「勧進帳」はほぼ必ず足を運ぶようにしている。居住地の近辺で公演のある場合、という限定はつくのだが。どちらも、まあ、いかにも男が好きそうな演目ではある。だが、こればっかりは致し方ない。


 さて、「ラ・マンチャの男」。そんなことでもない限り帝国劇場なんざ足を踏み入れたりはしないのだが、おそらく今日が三度目か四度目だ。早めに行ってベトナム珈琲を頂くのも恒例である。こうした定番パターンをつくっておくと、以前はどんなことを考えていたか、とか、そうしたことが思い出しやすくてなかなかに面白い。年をとるのも悪くない、と思うのはこういう時だ。


 舞台を見るのは決して嫌いではない。けれど、どこがいいとか悪いとか、あんまりそういうことは判らない。ひとりで行くからかもしれない。観る前も観た後も、ひとりであれこれ考えてみるだけだ。


 「ラ・マンチャの男」を観るこの数回、どうしても脳裏をよぎる男がいる。かつて首相を務めたその男は、数々の「改革」を、その片腕と目される「経済学者」とともに行った。彼の好むミュージカルが、「ラ・マンチャの男」であったと知ったその時から、どうあってもその姿が観劇中に思い浮かんでしまうのだ。


 かつて学費値下げの国会要請の時に、議員会館で一度だけすれ違ったことのあるその男は、決して大柄ではなかった。しかし、その鋭い目つきは、「食えない奴に違いない」と二十歳そこそこの学生にも判るくらいのものではあった。

 
 セリフを丹念に追えば、彼が勝手にたたかいに酔いしれているだけだということくらいは言えるだろう。山場のひとつである「あるべき姿」のくだり、その前に語られるのは貧しさであり苦しさであり、死であるのだから。


 そうしたことを取り上げるのはたいせつなことだ。それは、加藤周一さんが陸軍省情報部の「万葉集」の読み方を批判したのと同じような重要性を持つ(『「日本文学史序説」補講』、かもがわ出版、P.47)。

 
 しかし、それだけではダメなように思うのだ。その男の解釈は、要するに「誤読」といえば「誤読」である。しかし、「誤読」は時として「正読」を超える。そこに作品の生命力が宿るといっても過言ではない。吉本隆明さんの言葉を繰り返そう。「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です」(『真贋』)。


 これは必ずしも誤読を勧めるようなものではない。しかし、紙一重のところをついている。

 
 正しい読み方、ということでふと思いついたのは、社会的というか、資本主義批判というか、そういう文脈を持ち込むこと。例えば今読み進めている「かつて、ぶどう園で起きたこと」はそうした視点を有したすぐれた批評である。けれど、それは非常に練って練って練り上げられたものである。素人が下手に手を出せばともすると、ふた昔前くらいにあったという、やれ階級的視点がどうだとか、帝国主義に対するどうのこうのだとか、何だか紋切り型の口上を並べることで終始してしまいそうなおそれがないでもない。


 じゃあ、どうするか。

 
 「誤読」には「誤読」で対抗するしかないんじゃないか?

 
 あの男は要するに、「敵」とたたかう自分に酔いしれたかっただけだろう。ならば、そうではない読み方をしてやろうじゃないか。


 ドン・キホーテがなぜ狂わなければならなかったか、そこから始めてみてもいい。ただ騎士道物語を読み過ぎたたわけものではない。騎士道物語に傾注しなければならないほど、この世が嫌だったのだ。それは正視するのを避けたからではない。正視するあまりに気がふれたのだ。


 「狂わなければ見えないこともある」(鴻上尚史「ピルグリム」)といわんばかりに、キホーテの目に見えるものは常人の目から見れば荒唐無稽だ。しかし、ただひとつ、狂気によってしか見えなかったものがあるとすれば、それはアルドンサの中にドルシネアを見たことではなかったか。アルドンサはキホーテによってドルシネアになる(そこにはキホーテの「気高き心」に起因する不幸があったことは忘れてはならない)。そしてキホーテのたたかいの意味も、ドルシネアによってはじめて意味づけられる。


 敵を見つけ、それをつぶす。そうしたためにたたかうのではない。思い起こせ。キホーテは打ち棄てた敵にも手当をしてやろうとしたではないか。敵を見出すことにキホーテは執心したのか。それ以上に、ドルシネアの姿を追い求めることにこそ、彼の狂気は向けられたのではないか。キホーテの「あるべき姿」とは、まずもって敵を打ち滅ぼすようなことではなく、自らに意味をもたらす思い姫に出会うことではなかったか。


 しかし、なんど観ても砂をかむような思いになるのは、前述したように、アルドンサを見舞う不幸が、他ならぬキホーテの言動によって引き起こされること。この不幸を、フィナーレによって埋め合わせることは出来ないし、してはならないだろう。キホーテの狂気は少なくとも自分自身を救い得たろうし、最後の最後にはアルドンサをドルシネアとして救ったようにも見える。けれど、後者についてはそう言いきれる自信はない。


 こんな程度の「誤読」では、あの男の下らぬ「誤読」には打ち勝てぬかもしれない。しかし、僕は悔しくてならない。我慢がならないのだ。奴に大事なものを奪われてしまった気がしてならない。


 何としても取り返す。「物語」を、取り返してやる。

 
 その方法は……、ハックルベリ・フィンに教えてもらうことにしよう。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-07 23:28 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十

 5:「かつて、ぶどう園で起きたこと」に、そろそろ区切りをつけることにしよう。ああ、ほんとうはもう少しスムーズに進むつもりでいたのだが、ずいぶんと紆余曲折を経てしまっている。別にそれは構わないのだが、対象としている評論は、浅尾大輔さんが「モンキービジネス」10号に発表された、「かつて、ぶどう園で起きたこと――等価交換としての文学(ファンタジー)」である。なんべんかに一ぺんはちゃんと記しておかないと途中から見られた方はよく判らないかもしれない、と変な気遣いごころが起きてしまった。

 
 さて、このセクションの前半はたいへんに大きな難関であった。どうにかこうにか読み進んできたのだが、その先に見えてきたのは、どうしようもない救いのなさであった。いや、救われるのかもしれない。最後の最後には。しかし、それは「世界の滅びる際のルール」であったのだ。資本の暴力と、新しい等価交換の世界はあらかじめぶどう園に存在していたとはいえ、そこは殺人の現場でもあったのだった。


 この救い難さから、一気に転換を図るのがこのセクションの後半である。書き手が実践する「けむりづめ」を、ここに見出す。


 しかし私たち読者が、心の底から求めているのは、ニッポンの「ロスジェネ文学」が、その臨界において昇華させた「恐慌のリアリズム」であっただろうか。



 この一言をきっかけに、この評論の第二幕があく。これまでではなく、これからのことが語られていく。しかし、焦ってはいけない。この特異点から、さらに周到な助走が準備される。

 
 「道草」に象徴される「諦念」。それに対置される、「日はまた昇る」のラストシーン。この部分を引いた後の浅尾さんの言葉を聞こう。


 ここにあるのは、恐慌でも放置でもない。楽観的ではあるが諦念でもない。「自堕落な世代(ロスト・ジェネレーション)」と呼ばれた二十七歳のヘミングウェイが書き込んだ若い男女の――戦争でペニスだけを負傷して性行為を禁じられた男と、戦争で最愛の男を失った女の短い言葉の応酬は、私にとって分厚い希望のように読めるものである。現代ニッポンへと伸びてくるそれは、おそらく歓喜――実際には起きなかった/持続することがなかったその「生」の喜怒哀楽を、いま存在する世界と人間の同時進行的な「生」と「性」のなかで、あれこれと想像すること、その歓喜に他ならない。


  
 絶望に彩られた前半から、うってかわって歓喜の景色が広がってくる。しかしそれは、絶望の中で笑うしかない、といったようなたぐいのものではない。周到な助走が用意されている意味。論理の力もあるかもしれないが、それよりも、何としても人を生かしたい、いや、のみならず自分も生きたいのだ、という倫理が伝わってくる。「生まれたからには生きてやる」(ザ・ブルーハーツ)と、シャウトするでなく、ひょっとすると誰に言うでもなく、つぶやいている。そんな感じがする。

 
 「社会的ひきこもり」にここで唐突に触れられるのも、そうした倫理に基づくものだろう。これについてはまたあとで述べることになる。







 
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by todoroki-tetsu | 2012-08-07 22:09 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その九

 5:「かつて、ぶどう園で起きたこと」に、引き続き呻吟している。結局のところ、自分の国語力の貧弱を露呈させるだけなのかもしれない。とにかくやってみる。


 まず、このセクションからえられる心象のおおきな部分が、「殺人」であることから考えてみる。前のセクションで吉田修一さんの『悪人』を取り上げており、その流れからみると不自然ではない。

 
 遠い昔、「神の一撃」によって繰り出された殺人ビリヤードの玉突きが、人類の全歴史を貫いて、ニッポンの九州北部という荒廃した地方都市において、たまさかスパークしたというような、そんな「畏怖」である。



 このような壮大なさかのぼり方をしておられるため、「いまから二千年ほど前、イスラエル地方で起きたぶどう園連続殺傷事件は、……」という記述から始まっても、そのこと自体には大きな違和感がない。


 しかし、なぜ「殺人」にふれられなければならなかったか。もう少し考えてみる。

 
 4:「作品分析――副詞『あらかじめ』の恐怖」に挙げられた作品のうち、殺人事件が中心に据えられているのは『悪人』だけである。言い換えれば、「ロスジェネ文学」の分析は、殺人を伴う作品によって締めくくられる。わたしたちの日々の労働や生活の中で、おそらく最悪の事態のひとつとして考えられる殺人。それは殺すことも殺されることも含むものだ。


 ほんとうに希望をつかもうとするのなら、どうしてもこのイメージが、「殺す」「殺される」ということについて真正面から向き合うことが、必要である。この評論では一切触れることがないが、しかし、浅尾さんの頭の片隅では、秋葉原の連続殺傷事件が去らないであろう。同時代の読み手も、また。もちろん、この事件だけでなく、ありとあらゆる怒りや悲しみ、暴力が視野に入れられていることが、知られるのでもあるが。


 さて、殺人のイメージをどこまでさかのぼるか。そう考えた時に、おそらく書き手の中心にあったのは、聖書より先にヴェイユであったろうと思われる。吉本さんの言葉を借りれば、「疾く死なばや」の境地に行き着いたヴェイユ、工場の、ぶどう園の労働に身を投げ出したヴェイユ。資本あるいは労働と、死が重なりあう心象。『悪人』―ヴェイユへ、そして聖書における「ぶどう園」の物語へとたどり着く。


 したがって、「ぶどう園」の物語は、死⇔殺人のイメージと、資本⇔労働のイメージの双方が重なりあわされなければならない。どちらか一方ではダメなのだ。重なり合ってはじめて意味を持つのである。この二つが重なった時、マタイ伝のぶどう園エピソードから引き出される「この最後の者にも」(ラスキン)あるいは「遅れた者が勝ちになる」(井上ひさし、湯浅誠)といったタイプの展望――こうした展望の「型」はたいせつだとは強調しておく――は、跡形もなく消え失せる。殺人は、他ならぬぶどう園で起きたではないか、と。


 そこから何を引き出すことが出来るのか。書き手と読み手とが立っている場所がここである。


 では、ふたつのぶどう園の挿話の重なり合うさまを、みていこう。聖書そのものに当たってみる。まずは、マルコ伝第12章。高校時代にもらった日本聖書協会発行の、旧約・新約のまとまった一冊本が手元にあるのでここから。


 ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。
 すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だたきにし、から手で帰らせた。
 また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。
 そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。
 ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。
 すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、
 彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
 このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。



 連続殺傷というにふさわしい「事件」である。では、そのぶどう園の内実はいかなるものであったのか。浅尾さんの現場検証はマタイ伝第20章によるものと考えてよい。


 天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけていくようなものである。
 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園にいきなさい。相当な賃銀を払うから』。
 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
 ところが、最初の人がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして、
 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
 そこで彼はそのひとりに応えて言った、『友よ、わたしはあなたに不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。



 ぶどう園=天国あるいは「悔い改められた世界」、という理解でまず間違いはあるまい。ここで、登場人物を整理してみる。

 
 マルコ伝においては、「主人(不在地主)――その使い――農園の農夫たち」が登場する。農夫たちは農園を守るために使いをなぐったり殺したりするが、そんなことをした結果、主人(不在地主)に殺される運命にある。主に農園とその外部の話であり、殺人が起きるのは農園の内部ではない。

 
 マタイ伝においては、農園の内部が語られる。「主人―管理人―雇われ人」が登場するが、管理人の出番は少ない。主人は自ら市場に出かけて積極的に雇用をはかる。この内部では、さきの者の不平はあるが、そこから殺人にまで至ることはない。すくなくとも記述の中では。

 
 マルコ伝の主人と、マタイ伝の主人は、同一人物ではない、と考えてみる。そうすると、登場人物は次のように整理される。

 
 「マルコ伝の主人(不在地主)――その使い――【マタイ伝の主人―管理人―雇われ人】」


 こう考えると、マタイ伝の主人以下管理人と農夫が、よってたかって不在地主の使いをなぐり、殺したことになる。自分たちの収穫と「奇妙な労使関係」を守るために。それはゆくゆく、マルコ伝の主人(不在地主)によって斥けられるものであるが。


 しかし、どちらも同じぶどう園なのだと考えてみた場合、主人が違うと考えるのは不自然だとも言える。どちらも「天国」なのだから、と考える。すると、マルコ伝の主人(不在地主)は、マタイ伝の主人と同一人物であり、ある時はぶどう園を離れて使いをやり、ある時には自ら農夫を雇いに行く。使いをないがしろにした=ぶどう園の収穫をひとり占めしようとした場合にはその農夫たちを殺し、自らがぶどう園にいる時には「自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか」とうそぶく。


 次第に「主人」の姿には「資本」が、暴力が、重なり合ってくる。ヴェイユの言葉が、いや、ここでヴェイユの言葉を引く浅尾さんの心象が、少しずつひらかれていく。

 
 彼女(ヴェイユ)は、持病の頭痛に苦しみながらも、屈強な農夫と同じだけの労働を成し遂げたあと、農民哲学者ティボンに次のように語っている。

 「ある日、わたしは、自分で気づかないうちに、死んでしまって、地獄に落ちたのではないか、地獄とは、永遠にぶどう摘みをするところではないかなんて思ったことがありますの……」

 ヴェイユのようなひとこそが地獄に落ち、最後の被救済者となる。

 そう、「ぶどうの房を引っぱったりすれば、ぶどうの粒はみな地面に落っこちてしまう」。

 すなわち私たちは、ぶどう園における連続殺人事件から「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という、世界が滅びる際のルールを導き出すことができる。

 
 
 救いのイメージではないということ。「世界が滅びる際のルール」が記されているのだということ。だが、続く次の一連の文章で、再び路頭に迷いそうになる。


 しかし、私の考えでは、この、ぶどう園での殺人事件から真逆の「誤読」――すなわち剰余価値の誕生と、人間が内在する労働は他者のそれと比較不能であるという「誤読」をともに導き出すことができる。さらに換言すれば、資本の暴力(本源的蓄積)の起源と、それを克服する新しい等価交換の世界が、あらかじめ、ぶどう園において存在しており、そこで殺人がおきたという「発見」である。悔い改められた世界は「滅びの世界」であり、「コミュニズム」などと名付けることは出来ないが、とどのつまり両者は呉越同舟/同工異曲なのではあるまいか。


 「あとの者は先になり、先の者はあとになる」を、「世界が滅びる際のルール」とする点ですでに独創性が十二分に発揮されているように思えるのだが、読む者に息もつかせず言葉は続いていく。真逆の誤読、とは、滅びのイメージとは違うということだと強引に解釈しよう。


 「剰余価値の誕生」――「資本の暴力(本源的蓄積)」。マタイ伝で描かれる、12時間労働した者と1時間労働した者との賃金の話。両者が同じ程度の「低さ」にとどまっていれば、剰余価値はここから生まれよう。あるいは、マルコ伝による、不在地主として暮していけることをもって剰余価値の誕生としてもいいのかもしれないが、これはいささかこじつけがすぎようか。


 「人間が内在する労働は他者のそれと比較不能」――「新しい等価交換」。同じくマタイ伝で描かれる、12時間労働した者と1時間労働した者との賃金の話。労働時間は違うが対価は同じ。なぜなら、その両者は比較できないから。この論法は、判る気がする。マルコ伝からは、不在地主がどの程度の「収穫の分け前」を求めたのかが判らないため、いかにも考えようがない。


 ここでマルコ伝とマタイ伝に再びさかのぼったのは、「資本の暴力(本源的蓄積)の起源と、それを克服する新しい等価交換の世界が、あらかじめ、ぶどう園において存在しており、そこで殺人がおきたという『発見』である」という一文を理解するためである。


 殺人現場はどこなのか? 


 ぶどう園とその外部か、それともぶどう園の内部か。マルコ伝では、不在地主が分け前を求めた、その時に殺人が起きているのを見た。しかるに、ここで披歴される「誤読」は、殺人の描かれないマタイ伝に主に依拠しているように思える。ここが、判らない。判らないのだけれども、この誤読を覆すほどの「物証」も、僕にはないのである。「判らないが、何かを感じる」と繰り返し述べてきたが、ここはそうした手触りの典型の個所である。しかし、ひとつ言えるとしたら、「収穫をひとり占めしようとすること」(マルコ伝)、「一日じゅう働いた対価に対して他者と比較をして文句を言うこと」(マタイ伝)はともに、主人の意に沿おうとしないという点で共通しているということ。その時の最悪の事態として、殺人(殺すことも殺されることも)があるということ。


 しかし、「ヴェイユのようなひとこそが地獄に落ち、最後の被救済者となる」以上、たとえ主人の意に沿って働いたとはいえ、最後の最後には救われるのかもしれないけれども、そこに至るまでには繰り返し繰り返し地獄の苦しみを経験しなければならない。


 暗澹たる気持ちが、沸き起こってくる。そりゃあ「ラジオ体操の歌」なんて耳にしちゃあいられないはずだ。


 この手の判らなさがもうひとつある。「とどのつまり両者は呉越同舟/同工異曲なのではあるまいか」という一文。ここでの「両者」は何と何なのか。「悔い改められた世界」と「滅びの世界」と読むべきか、「悔い改められた世界」=「滅びの世界」と「コミュニズム」と読むべきか。あるいは……。しかし、ここも判らないが、感じ取ることは出来る。要するに、一見「展望」や「救い」のように見えるところに、そんなものはありゃあしないのだということだ。


 がんじがらめの、それこそ文字通り「あらかじめ」の、救いようのなさが読む者を覆う。はっきり言ってしまえば、「嫌な感じ」である。だが、ここを通り抜けないかぎり、いつわりの希望で日々を慰安するだけなのだろう。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-06 12:01 | 批評系 | Comments(0)