人気ブログランキング | 話題のタグを見る

よしもとばなな「さきちゃんたちの夜」(「新潮」2012年12月号)

 もともとは大澤信亮さんの「新世紀神曲」を読み返すつもりだったのだ。単行本が今月末に出る、その予習のために。いささか新刊告知の「惹句」に思うところあり、自分の感覚を再確認するつもりもあった。一応付言しておくと、新潮社サイトでの告知には何の違和感も覚えぬ。これでいいし、これがいい。


 さて、気温は低くとも日差しは心地よい。近所の公園にでも出かけてのんびり読もう、と「新潮」2012年12月号をバッグに入れて出かけた昼下がり。木漏れ日が程良く差しこむベンチに腰掛け、さあと頁を開くと目にとびこんできたのがよしもとばななさんの「さきちゃんたちの夜」であった。


 お金がたくさんない状態なのはまあしかたがない。

 同じ仕事をずっとしていてお給料が上がる気配もないが、他にバイトするほど時間があるわけではない。


 こんな何気ない書き出しがどうも気になる。そういえば、比較的最近誰かよしもとばななさんについて話しておられるのを聞いた気がするぞ、あれはひょっとしたら若松英輔さんだったかどうか……まあともかく読んでみよう。ほんとうに文学音痴の僕がこのような気になるのは珍しいことなのだし。


 あらすじを僕がここに記そうとするのは野暮にすぎる。「要約は書評の基本」と犬神修羅に叱られそうだが、そこは卑怯に逃げる。35歳一人暮らしの女性・「崎」のもとに、その双子の兄の娘「さき」(十歳になる)が突然、家出をしたから泊めてくれ、と電話をかけてくる。そこから一夜半のあいだの物語。ふたりの会話を中心に、義姉、実母、そして一年前に事故で亡くなった兄の存在が描かれていく。まあ、すみませんが皆さんご自分で読んで下さい。文芸誌二段組みで30頁弱の短編ですから。


 どう言っていい感覚なのか判らないし、別にここで何かとってつけたような言葉をこねくり回すのが僕の商売ではない。ただ、ああ、いいなあ、とぼんやり思ったのだ。例えば……。


 さきのお母さんは美人だと描写される。事業家でもある。夫を亡くして一年、どうやら付き合う異性が出来たらしい。再婚したら、引っ越して転校するか、実父と暮した今の家に新しい父がやってくるか。子どもっぽいと自覚しながらも、「常に私は抜きで話は進んでいくんだよ。」と不満が口をついて出る。そこからのやり取り。


 
 「お菓子やジュースでも買って帰って、好きなDVDでも観て、楽しく過ごそう。」

 「大人になったら、そういう小さな楽しみが大きな悩みを消してくれるの?」
 
 さきはまっすぐに私を見て言った。本気で聞いていることがわかったので、いやみを言われているとは感じなかった。

 「これはねえ、逃げじゃなくて、魔法なんだよ。私の場合。」

 私は言った。

 「時間を稼いで、チャンスをつかむのさ。その稼いでいる時間のあいだは、楽しくしなくちゃ魔法は起きない。」

 
 なんとも生活実感のこもった、それでいてほんとうに「知恵」とよべるものがあるここにありはしないか。こういう言葉に触れることで、どうにかこうにか生き延びることが出来るような、そういう感覚に包まれる。


 ここはこの短編のヤマ場ではない。それはもう少しあと、崎と義姉との電話中にやってくる。再現する筆力は僕にはないので略す。その出来事にふれた後に義姉はいう、

 「ありがとう、急には受け入れがたいできごとや意見だけれど、うなずけるところもあるの。でもなにより、今、変なものに接したような、気味悪いような、おかしな気持ちです。ありがとう。なんだか、よかったわ。」


 非現実的だ、ファンタジーだと思うならそれはそれでよいだろう。しかし、上述のような知恵を平凡な生活――平凡さは繰り返し作品のなかで強調される――を通じて獲得したような崎の身に、それが起きるということ。僕はそこに大きな意味があると感じたのだ。


 なんだか、哲学者・アランの影がちらついてくるようでもある。

# by todoroki-tetsu | 2013-05-03 20:53 | 文学系

「神と人とのあいだ 第二部――夏・南方のローマンス」

 僕が木下順二さんをちゃんと読もうとするきっかけがこれであった。厳密に言えば、この作品にある台詞、

 取り返しのつかないこと――でも、その取り返しのつかないことをあたしは取り返そうと思うんだな。


 これに仮託して「失われた10年」への静かな怒りを込めた二宮厚美さんの一文にふれたことによる。岩波の「木下順二集」は僕の書棚の一角を占め続けている。

 
 戯曲は繰り返し読めるが、舞台でお目にかかれることはめったにない。「神と人とのあいだ」の第一部「審判」は、2006年にようやく観る機会を得た。そして今回の第二部「夏・南方のローマンス」は2013年4月。場所はどちらも紀伊國屋サザンシアター。どちらも生で見られたのは僥倖といえよう。


 僕が観た回(4/15)ではワキを固める役者さんにトチりが重なったのが残念ではあった。が、メインを張っておられる方々はもちろんのことしっかりしておられ、特に女A(戯曲では「トボ助」と明記)・女B(同じく「希世子」)のお二人、桜井明美さんと中地美佐子さんの対峙は素晴らしく感じられた。

 
 その上で記すのだが、役者さんはもちろんのこと、観ている僕も、不遜な言い方をすればその場に居合わせた総体としての観客ぜんたいが、木下さんの繰り出した言葉の重みに持ちこたえられていないように感ぜられたのだ。それは例えば女Aたるトボ助のこういう台詞。

 うるさいよ! あたいはあたいを説き伏せているんだ。言葉であたいにそう思いこませようとしてるんだ。言葉はあたいの商売なんだよ。自分で自分をそう思いこまされもしないで何が人前でものをいえるもんか。 

 僕だって一度や二度でない程度には戯曲を読んでいる。読んでいて迫力を感じたのはもちろんだが、台詞は役者さんの生身を通じて発せられ、椅子に坐る生身の僕の耳に目に飛び込んでくるとその力は想像をはるかに超える。失語。

 
 もうひとつあげて見よう。男Aと鹿野原の戦犯裁判の控えた場面でのやり取り。最初は男Aから。

――罪? 罪って、罪があるからおれたちつかまっちまった。そうじゃねぇのか?

――お前こそばかだな。こっちでそう決めてかかる奴があるか。つかまえたほうがつかまったほうより偉いときめこんじまうのが日本人のいけないとこだ。卑屈な根性だ。

――なるほど。テキさんだってうんと悪いことやってるに違いねえ。

――だから同格さ。けどテキさんは、今や自分を神さまだと思いこんじまってる。

――なるほど。

――けど、こっちが勝ってたらおれたちも自分を神様だと思いこんじまうにきまってる。

――はあ――

――そこンとこなんだろうな、“罪”っていう問題は。



 なぜ今これが再演されたか、その理由は僕には判らない。しかし、今なお続く戦争責任の問題にとどまらず、さらに根源的・あるいは普遍的な何ものかに近づこうとする無意識の力が働いたように思えてならない。いや、そうした力に用いられたというのが正しいのか? 

 
 その何ものかに、役者さんも僕も僕以外の観客も、同時に触れたのだ。ためらいも戸惑いもあってそれは当然であるだろう。


 戦争責任を描いた戯曲としてこの連作が優れているのは言うまでもない。それは先に引用した台詞でも判るように、何かを一方的に断ずるようなものでは決してない。おそらく虚心に接すれば、かなりの程度思想が異なる人でも共感し得るものが少なからず含まれている。中野重治「五勺の酒」に通ずるものがあると僕は感ずる。


 言葉の重みに耐えきれない、という体験はけっして悪いことではない。逃げ出しさえしなければ。あるいは、早急な解決を求めて、沈黙を恐れるというだけの理由で言葉を発する事さえしなければ。さいきんの僕の体験に引き付ければ、それはやはり失語というほかはない。その体験を通じて何ものかに触れる。

 
 失語とは、自分に折り返された問いへの「もがき」なのかもしれない。
  

# by todoroki-tetsu | 2013-05-02 18:22 | 批評系

大澤信亮「復活の批評」再読その二――失語について

 「新潮」2013年4月号。山城むつみさんの「蘇州の空白から」と大澤信亮さんの「小林秀雄序論」を数度読み返している。山城さんの論考は、ジュンク池袋本店さんでお話されていたことを思い起こしながら読んでいる。

 
 事前/事後という表現を山城さんはその時に使われた、と記憶している。その意味の細かいことはいまだに理解できているとは思わない。が、この時に得たイメージは僕の仕事においても生活においても奥深いところに潜み続けている。

 
 この講演の時にとったメモを紛失しており、残念なことをしたものだ、山城さんはあまりこういう場でお話をされない方らしい、と後で聞いて残念さが更に増したのだが、部屋を片付けていたらひょっこりとメモが見つかった。走り書きを読み返しながら、記憶を掘り起こす。1946年11月3日という日付の意味(「五勺の酒」の世界との重層性!)については今回の「蘇州の空白から」でも述べられているが、このお話を最初に伺った時の身震いが蘇って来る。

 
 「復活の批評」を読む。「蘇州の空白から」を読む。「小林秀雄序論」を読む。そして「ドストエフスキイの生活」を読む。電車に乗ってる時間だったり、余裕があれば昼休みや早く帰った夜などに。そんななかでも仕事と生活は変わらない。朝起きてメシを食って10時間から14時間の仕事をして時に一杯ひっかけたりひっかけたりしなかったり、風呂にゆっくり入ったりさっとすませたりしながら、いよいよもって立ちゆかなくなってきた遠方の両親の生活のことなどを考えたり忘れたりしながら、結局どうにかなるさと思って寝る。
 

 こんな仕事と生活のなかで批評文を読むことは僕にとって不可欠のことのように思われる。何の必要があるかと問われても答えられやしない。生き延びるため。そうかもしれない。ただ、別に大上段なこっちゃない。ゲラゲラワッハッハな文章ではないが、そこには何か大切なことが書かれているという感覚が、ある。いや、これらの批評文はいま僕が心底読みたいと思うような、そういうものであるのだ。「……伝えるからには面白くありたい。娯楽に満足できない気持ちを表現するなら、その試み自体が娯楽以上に面白くなければならない」(『神的批評』あとがき)。この言葉に読者として、「娯楽以上に面白い」と言い切りたい。


 しかし。しばしばふと思う。仕事や生活からの逃げ場所を批評文に求めているだけではないのか。読んでいる最中は、たとえわずかであっても文字通り時間を忘れる。じっさい今回の「新潮」初読時には電車をふたつかみっつ乗り過ごしている。本屋としてはそう問題のある行動ではない。本を買って読むという行為が無ければメシが食えぬ生業なのだから。


 問題はそこではない。大澤さんを読む。山城さんを読む。小林さんを読む。その時僕は、自分を問うことを忘れてはいないか。他人の文章を読み、感心する時の僕はいったん作品に入り込む。が、頁を閉じた時にはすぐさま仕事の段取りや生活について考える。どこかで余韻は残っているけれど、頭は基本的にパッと切り替わる。

 
 これは当たり前のことなのだ。今までそう思ってきたし、今でもそう思っている。批評文にほんとうにぐうの音も出ないほど突き付けられた時、「失語」という言葉でその体験を表現することは出来る。そう言ってみせることなど、難しいことじゃない。もんだいは、「失語」の意味を問い続けることだ。しかし、このドーナツの穴のような体験を言葉にしようとすることはたやすいことじゃない。


 「復活の批評」再読中に僕を見舞った「失語」――それは他者からもたらされたものでもあり自己の奥から生じたものでもある――のさなかにも、日常生活は何の滞りもなく過ごした。テキストをあえてうっちゃっておいた時期においても、問いは僕のなかで生き延びていた。


 「自分を問う」ことの大切さを説く批評に感心している自分が、その言葉を額面通りには決して受け取れていないという感覚。「自分を問う」という言葉ですら「消費」出来る自分への、戸惑い。そこから始めるほかないのだという嘆息と、少し清々している自分の奇妙な同居。


 書くことで狂うことがあるのなら、読むことで狂うことだってあるだろう。狂気の善悪など誰にも判断できやしない。


 「筆と爆裂弾とは紙一重」の意味に、ほんの少し近づけてきたのだろうか。

# by todoroki-tetsu | 2013-03-24 20:53 | 批評系

大澤信亮「復活の批評」再読

 大澤信亮さんの「復活の批評」を、発売からそう遠くないうちに僕は読んでいる。そのことは当時に記したとおりだ。いつかはちゃんと形に残るような再読をしておこうと思っていたのだが、TWITTERでの着手は昨年末。タグはまんまの #復活の批評 。

 
 「見る者が見られる」「読む者が読まれる」……たしかにそういう感覚は初読当時にあった。それは「読むために書く」という実践と認識に引き継がれつつ今も僕のなかにある。だが、着実に何かが進行した。それが、昨年12月24日から今日まで、何度となく中断を強いられつつの「復活の批評」再読であったのだ。その意味するところがさっぱり判らないでいるし、そもそも書くことでそれが表現出来るのか見当もつかない。取りこぼす何かがきっとあることを前提に、記す。

 
 内省への、内省にまつわる思考をたどる時、読み手あるいは読むために書こうとしている僕に突き付けられたのは、「この言葉を理解したと言えるのはどういうことか」という問いであった。「たとえば、書くとはどういうことかと考えるとき、それを書いている『この私』自身が分析の対象に含まれざるを得ない」という言葉に同意するのなら、「それを読んでいる『この私』自身も分析の対象に含まれざるを得ない」。

 
 そうした問いは、具体的には以下のように僕にあらわれた。再読初期の12月26日のツィートを以下に録する。

 「たとえば、書くとはどういうことかと考えるとき、それを書いている『この私』自身が分析の対象に含まれざるを得ない。(略)/これは、書くことのなかに絶えず自分を織り込むタイプの記述がもたらす感覚だが、べつに方法的なトリックによるものではない。目の前の現実を問おうとすれば、その現実を見つめつつ、それを疑う「この私」が要請されるだけだ(だから、『私』と書けば疑っていることになるわけではないし、必ずしも『私』と書かれる必要もない)」。この()内の指摘がこの上もなく僕にとっては重要になる。どういうことか。


 「自分を問う」あるいは他者に対して「お前は自分自身を問うているのか」と問う言葉。ある世代に或る程度共通する感覚かも知れぬがそれはさておき、そうした言葉を読み耳にし時には口にする僕自身が、形骸化させてはいないか、という問題。


 自分を問うているように見せかけて実は他者に何ものかを突き付ける。会社員を10年強やって来てそんなテクニックはいつの間にか身につけた。いや、90年代半ばの学生運動で既に僕はそうした振舞いを身につけていたのではなかったか。何の為でもない、ただ自分が逃げるために。


 本気で自分を問おうとしていて、しかしいつの間にかそれはただのフリになっていて、そこに気づかぬままにさも自分は自分を問うているのだと思いこんじゃいなかったか。今こう記しているこの文章すら、フリではないのか。


 内省がその拒絶に転化するのが必然であったとしたら、その必然を意識するならまだましなほうだということになる。無意識に、さも内省しているかのように見えてその実まったく内省に至っていない思考。それこそがもっとも深い病理ではないのか。じゃあ、これを読んでいる俺はなんなのだ。


 「対象自体に自分が含まれる記述を続けていると、やがて能動と受動、主体と客体が入り乱れる瞬間がやって来る。自分が言葉を書いているのか、言葉が自分に書かせているのか」。読み手である僕にも同様のことが今起きている。



 内省の困難と大切さと可能性を論じる言葉に「なるほど」と思い、「もっともだ」と読み手である僕自身が感じる時。「資本制の商品交換を破壊する、そのような言語使用」を目指して苦闘するその言葉を、「知的消費や感動消費」としてしか受け止められていないのではないのか。かといって、社会運動的な何かにちょっとばかり参加してみて何かをやった気になるような問題でもこれはない。

 
 繰り返し読んでいけば何か判るかもしれない。そう思って幾度も頁をめくり戻りつするうちに、内省を拒絶しようとして大澤さんの言葉を読んでいる自分を発見するようになる。内省は確かに大事ですね、その理由を突き詰められたら、結局「大澤さんが言っているから」というくらいにしか答えられない自分を発見する。


 なんだその矛盾は、と思われるだろう。その通りだ。何せ他ならぬ僕自身がそう思ったのだから。

 
 以前の僕なら、ここで開き直るか、とってつけたような自戒めいた言葉でお茶を濁すかしただろう。今回は、いっぺんじっくり立ち止まろうと決めた。こういう態度で臨むことが出来たのは明らかに若松英輔さんのお話をこの間何度か伺ってきた影響であるだろう。
 
 
 立ち止まっているさなかにも折に触れ読みなおし、あるいはしばらく放っておこうと机の片隅に追いやってみたりもした。そうしたなかでも普通に会社で働きメシを食い、多少酒を飲んだりしながら寝る、その日常生活にとくだんの変化は表面上はない。

 
 何かが深化しているのか、それとも何かが蝕んでいるのか。そして、「受肉」とは何か……そのことについては別に記そう。

# by todoroki-tetsu | 2013-03-15 21:38 | 批評系

楳図かずお『14歳』

 先ごろ完全版といえる全4巻が完結した。4巻目には楳図先生書き下ろしが加えられているという以上、文庫版は持ってはいるが買わないわけにはいかない。


 いやはやもうすごい迫力であった。なぜこの人はこんな絵を描けるのだろう、と何とも幼稚だがしかし誰しもが抱くであろう感想を強く持ち直す。

 
 1990年連載開始当初はまだ僕は中学生で、クラスに好きな奴がいて回し読みさせてもらっていた。けれどしばらくブランクが僕にはあって、連載終了の1995年よりまだずっと後だと思う、通読したのは。


 今回読み直してみて、あのラストの意味が、ああ、こうならざるを得ないのだな、と切迫感とともに感じることが出来たのだが、そこに到るまでのいくつかを拾ってみる。


 2巻の終りの方におさめられる「ざんげ」というエピソード。地球をいためつけてしまったことへの後悔を各国首脳が語る場面。日本国総理はこう語る。


 かつて日本は世界中から嫌われたことがあった!! けれど日本はいくら考えてもそのわけがわからなかった!!

 日本の政治家が法律と金の二つしか、物を考える時のモノサシを持たなかったからだと気がついたのは、東京大地震で何もかも潰れた後のことだった!! 何一つ、残しておくべき芸術が無かったことに気がついた。けれども再度日本は同じことを繰り返した。以前にもまして大発展をとげた……何かを忘れたままで!!

 だが、その時にやっと気がついた。わたし達が忘れていたものはもう一つのモノサシ、“美意識”というモノサシだったということを!

 わたし達は常に、法律とお金というモノサシ以上に、美意識というモノサシを持つべきだった!!

 美意識の伴わない法律はうそだ!! 美意識の伴わないお金は悪だ!! 美意識の伴わない科学は破壊だ!! 美意識を伴わない学問はクズだ!!


 美意識を、何かに置き換えてもよい。ここで思わず人間と言いそうになってしまうが、少し危険がある。美意識を伴わぬ法律やお金に、人間ほど左右される存在もまたないのだから。じじつ楳図先生はこれでもかというくらい人間の醜さを描き込む。

 
 ストーリーが少し進むと、「もの」とよばれるクローン=人工人間が誕生するシーンになる。この商品化を迫る人物が吐く台詞。


 クローン人間を商品として売り出すなんて、かつてあったでしょうか!? いや、かつて人間を奴隷として売買したころがありました。人間は本質的に人間を商品として扱うことを夢みていたにちがいない。 

 
 こういうところからカントを理解しようとするのはよくないことだろうか。しかし、「人間は本質的に人間を商品として扱うことを夢みていたにちがいない」という断言は恐ろしい。ずっと隠していたものを暴かれてぐうの音も出ない、そういう心境。

 
 「もの(人工人間)」による殺人プロレス、そのおぞましい光景に熱中する大人たち。しかし、画面を通じて呼びかけられ、反応する未来の担い手たる子どもたちの姿。『漂流教室』を例に出すまでもなく、なんとこう子どもたちのひたむきさ(醜さも当然に含まれる)がいたく迫ってくることか。大詰めに近いところで子どもたちのリーダー、アメリカはこう呼びかける。


 たとえどんな破滅がやって来ても、ぼくは破滅を信じない!! 

 なぜなら、身を滅ぼすのが目的で生まれてきた生物は、この世のどこにもいないからだっ!!

 ぼく達は生きるんだ!! そして進化するんだ!!

 ぼく達は神に進化しよう!! 生きて神になるんだ!! 
 
 そして、この世の不幸を一掃しよう!! 地球を緑に変えよう!!

 
 生きることへのひたむきさ。神の観念……どうにも批評を読む自分への問いが重なってくるようで仕方がないのである。

# by todoroki-tetsu | 2012-12-24 22:40