2013年 05月 03日
よしもとばなな「さきちゃんたちの夜」(「新潮」2012年12月号)
さて、気温は低くとも日差しは心地よい。近所の公園にでも出かけてのんびり読もう、と「新潮」2012年12月号をバッグに入れて出かけた昼下がり。木漏れ日が程良く差しこむベンチに腰掛け、さあと頁を開くと目にとびこんできたのがよしもとばななさんの「さきちゃんたちの夜」であった。
お金がたくさんない状態なのはまあしかたがない。
同じ仕事をずっとしていてお給料が上がる気配もないが、他にバイトするほど時間があるわけではない。
こんな何気ない書き出しがどうも気になる。そういえば、比較的最近誰かよしもとばななさんについて話しておられるのを聞いた気がするぞ、あれはひょっとしたら若松英輔さんだったかどうか……まあともかく読んでみよう。ほんとうに文学音痴の僕がこのような気になるのは珍しいことなのだし。
あらすじを僕がここに記そうとするのは野暮にすぎる。「要約は書評の基本」と犬神修羅に叱られそうだが、そこは卑怯に逃げる。35歳一人暮らしの女性・「崎」のもとに、その双子の兄の娘「さき」(十歳になる)が突然、家出をしたから泊めてくれ、と電話をかけてくる。そこから一夜半のあいだの物語。ふたりの会話を中心に、義姉、実母、そして一年前に事故で亡くなった兄の存在が描かれていく。まあ、すみませんが皆さんご自分で読んで下さい。文芸誌二段組みで30頁弱の短編ですから。
どう言っていい感覚なのか判らないし、別にここで何かとってつけたような言葉をこねくり回すのが僕の商売ではない。ただ、ああ、いいなあ、とぼんやり思ったのだ。例えば……。
さきのお母さんは美人だと描写される。事業家でもある。夫を亡くして一年、どうやら付き合う異性が出来たらしい。再婚したら、引っ越して転校するか、実父と暮した今の家に新しい父がやってくるか。子どもっぽいと自覚しながらも、「常に私は抜きで話は進んでいくんだよ。」と不満が口をついて出る。そこからのやり取り。
「お菓子やジュースでも買って帰って、好きなDVDでも観て、楽しく過ごそう。」
「大人になったら、そういう小さな楽しみが大きな悩みを消してくれるの?」
さきはまっすぐに私を見て言った。本気で聞いていることがわかったので、いやみを言われているとは感じなかった。
「これはねえ、逃げじゃなくて、魔法なんだよ。私の場合。」
私は言った。
「時間を稼いで、チャンスをつかむのさ。その稼いでいる時間のあいだは、楽しくしなくちゃ魔法は起きない。」
なんとも生活実感のこもった、それでいてほんとうに「知恵」とよべるものがあるここにありはしないか。こういう言葉に触れることで、どうにかこうにか生き延びることが出来るような、そういう感覚に包まれる。
ここはこの短編のヤマ場ではない。それはもう少しあと、崎と義姉との電話中にやってくる。再現する筆力は僕にはないので略す。その出来事にふれた後に義姉はいう、
「ありがとう、急には受け入れがたいできごとや意見だけれど、うなずけるところもあるの。でもなにより、今、変なものに接したような、気味悪いような、おかしな気持ちです。ありがとう。なんだか、よかったわ。」
非現実的だ、ファンタジーだと思うならそれはそれでよいだろう。しかし、上述のような知恵を平凡な生活――平凡さは繰り返し作品のなかで強調される――を通じて獲得したような崎の身に、それが起きるということ。僕はそこに大きな意味があると感じたのだ。
なんだか、哲学者・アランの影がちらついてくるようでもある。
# by todoroki-tetsu | 2013-05-03 20:53 | 文学系