大澤信亮『新世紀神曲』単行本刊行にあたって

 昨晩ちらと触れたことについて、ちゃんと記しておこう。

 
 大澤信亮さんの第二弾目となる単行本、『新世紀神曲』が5月末に出る。嬉しいことである。一読者として嬉しいというだけでなく、こうした「これを読むとここで紹介されているこの本が読みたくなってくる」と思われるような作品が出れば、それだけ他の本も売れるというものだ。それが何よりド定番というか、王道に向かうところがいい。枝葉の「知識」などはどうでもいいのだ。


 宮沢賢治しかり、柳田國男しかり。食うこと、暴力、「その人」……どれをとっても個別的かつ普遍的な主題である。最新の知見と古典の言葉が入り乱れる。旧い物のなかに新しいものを、新しいもののなかに旧いものを、見る。見えるもののなかに見えないものを、見えないもののなかに見えるものを。

 
 要するに、古くて新しい問いに常に全身全霊で立ち向かう批評家と、僕たちは同時代にめぐりあっているということだ。耳触りのよい言葉などありはしない。だが、そこには僕たちの生きる足元を照らす光がある。


 この光のイメージは、どうしても僕のなかから拭い去ることは出来ない。無意識的に「朝日のような夕日をつれて」を参考としているだろうが、それはどうでもいい。以前に記した文章を再録させて頂こう。「出日本記」に触れてのことである。


 今まで、大澤さんの文章を拝見していて、ひとつのイメージが出来上がりつつあった。というよりも、読みながらどうしても僕の中でイメージされていく映像。それは、教会と思しき建物の中で、ひとりステンドグラスから差し込む光に照らされている男の姿。


 彼はしっかりと立つ。何かをつかもうと手を上方に伸ばす。目はしっかりと光の先にある何かを見ている。光の先にあるのは具体的な誰かであるのか何か、判らない。その人自身にも判らないのかもしれない。けれど確かに、光のほうを見上げて目を逸らそうとはしない、決して。


 『神的批評』に収録された文章、ならびに「復活の批評」は、すべからくこうした映像を僕に喚起させるものであった。では、その姿を見ている自分はどこに立っているのか。それが僕の読み手としての問いであった。けれど、「出日本記」から喚起される映像は、こうしたものとは少し違う。


 同じく光は、ある。が、差し込む光のイメージが違うのだ。ステンドグラス越しに上方から差し込むのではなくて、それこそより直接的に太陽から降り注ぐような光の輪。その輪に差しかからんとする場所に、彼は立っている。いや、もうすでに光の輪の中に足を踏み入れているのかもしれない。


 気がつけば僕の足元すぐ近くにも、光の輪はぼんやりとは届いていて。さあ、お前はどうするのだ、といよいよもって迫ってくる。


 「柄谷行人論」や「批評と殺生」などに特徴的に見られる、エンディング直前におけるたたみかけるような否定語の連続が「出日本記」にはない。それのみが光のイメージの違いの理由なのかは判らない。「新世紀神曲」のエンディングも目立った否定語の連続は見られぬけれども、「光の輪」が僕自身の足元にも届いてきているというイメージを抱くことには変わりなく、それは関係あるのかどうか。ついでに言っておくと、「新世紀神曲」のラストは大江健三郎さんの『洪水はわが魂に及び』を僕に連想させるものであった。


 さらに言おう。「小林秀雄序論」(「新潮」2013年4月号)において、大澤さんは小林の「私信」「再び文芸時評に就いて」――批評と創造・創作についての言葉――から引用をしたあとこう続ける。

 ここには何か根本的な態度の変更がある。社会通念としての評論を書いていた者が、社会通念としての創作を試みる、そんなことではない。数々の論争を行った人間が達した境地である。この言葉を文字通りに受けるには、受け取る側にも準備がいるのだ。


 こう記された言葉を、僕たちが読むにも準備がいるだろう。さらに、「数々の論争を行った人間が達した境地」とあるところに注意しておきたい。

 
 大澤さんは為にするような批判はしていない。論争がどの程度あったのかなかったのか知らないけれども、無駄な喧嘩を吹っ掛けたような印象は持たない。何か大物とされるものに対して虚勢を張り、闘った気になっているような言葉など、どこにもありはしない。それを見抜けぬ読者は、見抜きたくない自分に気づくことから始めなければならない。そこに気付いて虚心に読めば、ただ問いを生きていこうとする生身の批評家の姿が浮かび上がるだろう。

 
 ここまで記してようやく、本題に入ることができる。


 新刊案内といってもいろいろあるのだが、大手取次が週次で出すものがわりあいに書店の世界では一般的だ。そこで『新世紀神曲』がどのように紹介をされているか。ネットでも確認できるからそこを参照しよう。e-honではこうある。

 言語ゲームはもう終わりだ。闘って問え。問うて闘え。『神的批評』で劇的なデビューを遂げた新鋭、待望の第二作。「超批評」三篇。

 
 正直に言って、初見時に大変違和感を覚えた。これは駆け出しの新人を売り込むような文句ではないのか。ことさらに「闘い」などと言う必要がもはやあるか? いささかあざとくはないか。言葉数少ないところで目立てせなきゃいかんのは確かに判るが……。前述の「境地」を思わせるのは難しかろうが、これでは真逆ではないか。


 新潮社のサイトでの告知はさすがなものだ。これを目にして安心すると同時に、キャッチフレーズ的な文句をひねり出さざるを得なかった、おそらくは担当の編集さんか営業さんだろう、その苦労も改めて偲ぶのだ。

 名探偵・犬神修羅。彼と共に密室に閉じ込められたのは、実在する現代小説の主人公たち。謎めく空間から抜け出すため、彼らの「愛」を巡る言葉の饗宴が始まる!――これは批評なのか。これが批評なのだ。前代未聞の表題作他二篇を収録、『神的批評』に続く評論集。

 
 とはいえ、文句を言うだけなら誰でもできる。肝心の今更こんなことをしてもしょうがないが、60字以内のしばりのなかで、例えばこんなフレーズならどうだろう? 

 『神的批評』から二年半。待望の第二作は現代小説の主人公が織りなす「神曲」! 批評を超える「超批評」。表題作含む三篇。

 
 「超批評」というのがよく判らないが、何となく判る。それを活かして、「神」のつながりを意識させたいと考えるとこんな風になる。


 が、こんなことはどうでもいい。既に単行本を出し、この二年半のあいだに不定期ながらも王道の文芸誌各紙に評論を掲載してきた批評家を売り込もうとする時、このような惹句でしか書店員が気付けない、あるいは気付けないと思われている情況こそが、書店員である僕の直面するもんだいである。

 
 読者としては、単行本になって改めてじっくりと読みたいと思う。書店員としては、いかに多くの読者に買ってもらうか、そのための準備をいかにすべきかと思い悩む。楽しさと苦労の入り混じる、何とも落ち着かない日々が続きそうである。
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# by todoroki-tetsu | 2013-05-04 10:04 | 批評系 | Comments(0)

よしもとばなな「さきちゃんたちの夜」(「新潮」2012年12月号)

 もともとは大澤信亮さんの「新世紀神曲」を読み返すつもりだったのだ。単行本が今月末に出る、その予習のために。いささか新刊告知の「惹句」に思うところあり、自分の感覚を再確認するつもりもあった。一応付言しておくと、新潮社サイトでの告知には何の違和感も覚えぬ。これでいいし、これがいい。


 さて、気温は低くとも日差しは心地よい。近所の公園にでも出かけてのんびり読もう、と「新潮」2012年12月号をバッグに入れて出かけた昼下がり。木漏れ日が程良く差しこむベンチに腰掛け、さあと頁を開くと目にとびこんできたのがよしもとばななさんの「さきちゃんたちの夜」であった。


 お金がたくさんない状態なのはまあしかたがない。

 同じ仕事をずっとしていてお給料が上がる気配もないが、他にバイトするほど時間があるわけではない。


 こんな何気ない書き出しがどうも気になる。そういえば、比較的最近誰かよしもとばななさんについて話しておられるのを聞いた気がするぞ、あれはひょっとしたら若松英輔さんだったかどうか……まあともかく読んでみよう。ほんとうに文学音痴の僕がこのような気になるのは珍しいことなのだし。


 あらすじを僕がここに記そうとするのは野暮にすぎる。「要約は書評の基本」と犬神修羅に叱られそうだが、そこは卑怯に逃げる。35歳一人暮らしの女性・「崎」のもとに、その双子の兄の娘「さき」(十歳になる)が突然、家出をしたから泊めてくれ、と電話をかけてくる。そこから一夜半のあいだの物語。ふたりの会話を中心に、義姉、実母、そして一年前に事故で亡くなった兄の存在が描かれていく。まあ、すみませんが皆さんご自分で読んで下さい。文芸誌二段組みで30頁弱の短編ですから。


 どう言っていい感覚なのか判らないし、別にここで何かとってつけたような言葉をこねくり回すのが僕の商売ではない。ただ、ああ、いいなあ、とぼんやり思ったのだ。例えば……。


 さきのお母さんは美人だと描写される。事業家でもある。夫を亡くして一年、どうやら付き合う異性が出来たらしい。再婚したら、引っ越して転校するか、実父と暮した今の家に新しい父がやってくるか。子どもっぽいと自覚しながらも、「常に私は抜きで話は進んでいくんだよ。」と不満が口をついて出る。そこからのやり取り。


 
 「お菓子やジュースでも買って帰って、好きなDVDでも観て、楽しく過ごそう。」

 「大人になったら、そういう小さな楽しみが大きな悩みを消してくれるの?」
 
 さきはまっすぐに私を見て言った。本気で聞いていることがわかったので、いやみを言われているとは感じなかった。

 「これはねえ、逃げじゃなくて、魔法なんだよ。私の場合。」

 私は言った。

 「時間を稼いで、チャンスをつかむのさ。その稼いでいる時間のあいだは、楽しくしなくちゃ魔法は起きない。」

 
 なんとも生活実感のこもった、それでいてほんとうに「知恵」とよべるものがあるここにありはしないか。こういう言葉に触れることで、どうにかこうにか生き延びることが出来るような、そういう感覚に包まれる。


 ここはこの短編のヤマ場ではない。それはもう少しあと、崎と義姉との電話中にやってくる。再現する筆力は僕にはないので略す。その出来事にふれた後に義姉はいう、

 「ありがとう、急には受け入れがたいできごとや意見だけれど、うなずけるところもあるの。でもなにより、今、変なものに接したような、気味悪いような、おかしな気持ちです。ありがとう。なんだか、よかったわ。」


 非現実的だ、ファンタジーだと思うならそれはそれでよいだろう。しかし、上述のような知恵を平凡な生活――平凡さは繰り返し作品のなかで強調される――を通じて獲得したような崎の身に、それが起きるということ。僕はそこに大きな意味があると感じたのだ。


 なんだか、哲学者・アランの影がちらついてくるようでもある。
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# by todoroki-tetsu | 2013-05-03 20:53 | 文学系 | Comments(0)

「神と人とのあいだ 第二部――夏・南方のローマンス」

 僕が木下順二さんをちゃんと読もうとするきっかけがこれであった。厳密に言えば、この作品にある台詞、

 取り返しのつかないこと――でも、その取り返しのつかないことをあたしは取り返そうと思うんだな。


 これに仮託して「失われた10年」への静かな怒りを込めた二宮厚美さんの一文にふれたことによる。岩波の「木下順二集」は僕の書棚の一角を占め続けている。

 
 戯曲は繰り返し読めるが、舞台でお目にかかれることはめったにない。「神と人とのあいだ」の第一部「審判」は、2006年にようやく観る機会を得た。そして今回の第二部「夏・南方のローマンス」は2013年4月。場所はどちらも紀伊國屋サザンシアター。どちらも生で見られたのは僥倖といえよう。


 僕が観た回(4/15)ではワキを固める役者さんにトチりが重なったのが残念ではあった。が、メインを張っておられる方々はもちろんのことしっかりしておられ、特に女A(戯曲では「トボ助」と明記)・女B(同じく「希世子」)のお二人、桜井明美さんと中地美佐子さんの対峙は素晴らしく感じられた。

 
 その上で記すのだが、役者さんはもちろんのこと、観ている僕も、不遜な言い方をすればその場に居合わせた総体としての観客ぜんたいが、木下さんの繰り出した言葉の重みに持ちこたえられていないように感ぜられたのだ。それは例えば女Aたるトボ助のこういう台詞。

 うるさいよ! あたいはあたいを説き伏せているんだ。言葉であたいにそう思いこませようとしてるんだ。言葉はあたいの商売なんだよ。自分で自分をそう思いこまされもしないで何が人前でものをいえるもんか。 

 僕だって一度や二度でない程度には戯曲を読んでいる。読んでいて迫力を感じたのはもちろんだが、台詞は役者さんの生身を通じて発せられ、椅子に坐る生身の僕の耳に目に飛び込んでくるとその力は想像をはるかに超える。失語。

 
 もうひとつあげて見よう。男Aと鹿野原の戦犯裁判の控えた場面でのやり取り。最初は男Aから。

――罪? 罪って、罪があるからおれたちつかまっちまった。そうじゃねぇのか?

――お前こそばかだな。こっちでそう決めてかかる奴があるか。つかまえたほうがつかまったほうより偉いときめこんじまうのが日本人のいけないとこだ。卑屈な根性だ。

――なるほど。テキさんだってうんと悪いことやってるに違いねえ。

――だから同格さ。けどテキさんは、今や自分を神さまだと思いこんじまってる。

――なるほど。

――けど、こっちが勝ってたらおれたちも自分を神様だと思いこんじまうにきまってる。

――はあ――

――そこンとこなんだろうな、“罪”っていう問題は。



 なぜ今これが再演されたか、その理由は僕には判らない。しかし、今なお続く戦争責任の問題にとどまらず、さらに根源的・あるいは普遍的な何ものかに近づこうとする無意識の力が働いたように思えてならない。いや、そうした力に用いられたというのが正しいのか? 

 
 その何ものかに、役者さんも僕も僕以外の観客も、同時に触れたのだ。ためらいも戸惑いもあってそれは当然であるだろう。


 戦争責任を描いた戯曲としてこの連作が優れているのは言うまでもない。それは先に引用した台詞でも判るように、何かを一方的に断ずるようなものでは決してない。おそらく虚心に接すれば、かなりの程度思想が異なる人でも共感し得るものが少なからず含まれている。中野重治「五勺の酒」に通ずるものがあると僕は感ずる。


 言葉の重みに耐えきれない、という体験はけっして悪いことではない。逃げ出しさえしなければ。あるいは、早急な解決を求めて、沈黙を恐れるというだけの理由で言葉を発する事さえしなければ。さいきんの僕の体験に引き付ければ、それはやはり失語というほかはない。その体験を通じて何ものかに触れる。

 
 失語とは、自分に折り返された問いへの「もがき」なのかもしれない。
  
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# by todoroki-tetsu | 2013-05-02 18:22 | 批評系 | Comments(0)

大澤信亮「復活の批評」再読その二――失語について

 「新潮」2013年4月号。山城むつみさんの「蘇州の空白から」と大澤信亮さんの「小林秀雄序論」を数度読み返している。山城さんの論考は、ジュンク池袋本店さんでお話されていたことを思い起こしながら読んでいる。

 
 事前/事後という表現を山城さんはその時に使われた、と記憶している。その意味の細かいことはいまだに理解できているとは思わない。が、この時に得たイメージは僕の仕事においても生活においても奥深いところに潜み続けている。

 
 この講演の時にとったメモを紛失しており、残念なことをしたものだ、山城さんはあまりこういう場でお話をされない方らしい、と後で聞いて残念さが更に増したのだが、部屋を片付けていたらひょっこりとメモが見つかった。走り書きを読み返しながら、記憶を掘り起こす。1946年11月3日という日付の意味(「五勺の酒」の世界との重層性!)については今回の「蘇州の空白から」でも述べられているが、このお話を最初に伺った時の身震いが蘇って来る。

 
 「復活の批評」を読む。「蘇州の空白から」を読む。「小林秀雄序論」を読む。そして「ドストエフスキイの生活」を読む。電車に乗ってる時間だったり、余裕があれば昼休みや早く帰った夜などに。そんななかでも仕事と生活は変わらない。朝起きてメシを食って10時間から14時間の仕事をして時に一杯ひっかけたりひっかけたりしなかったり、風呂にゆっくり入ったりさっとすませたりしながら、いよいよもって立ちゆかなくなってきた遠方の両親の生活のことなどを考えたり忘れたりしながら、結局どうにかなるさと思って寝る。
 

 こんな仕事と生活のなかで批評文を読むことは僕にとって不可欠のことのように思われる。何の必要があるかと問われても答えられやしない。生き延びるため。そうかもしれない。ただ、別に大上段なこっちゃない。ゲラゲラワッハッハな文章ではないが、そこには何か大切なことが書かれているという感覚が、ある。いや、これらの批評文はいま僕が心底読みたいと思うような、そういうものであるのだ。「……伝えるからには面白くありたい。娯楽に満足できない気持ちを表現するなら、その試み自体が娯楽以上に面白くなければならない」(『神的批評』あとがき)。この言葉に読者として、「娯楽以上に面白い」と言い切りたい。


 しかし。しばしばふと思う。仕事や生活からの逃げ場所を批評文に求めているだけではないのか。読んでいる最中は、たとえわずかであっても文字通り時間を忘れる。じっさい今回の「新潮」初読時には電車をふたつかみっつ乗り過ごしている。本屋としてはそう問題のある行動ではない。本を買って読むという行為が無ければメシが食えぬ生業なのだから。


 問題はそこではない。大澤さんを読む。山城さんを読む。小林さんを読む。その時僕は、自分を問うことを忘れてはいないか。他人の文章を読み、感心する時の僕はいったん作品に入り込む。が、頁を閉じた時にはすぐさま仕事の段取りや生活について考える。どこかで余韻は残っているけれど、頭は基本的にパッと切り替わる。

 
 これは当たり前のことなのだ。今までそう思ってきたし、今でもそう思っている。批評文にほんとうにぐうの音も出ないほど突き付けられた時、「失語」という言葉でその体験を表現することは出来る。そう言ってみせることなど、難しいことじゃない。もんだいは、「失語」の意味を問い続けることだ。しかし、このドーナツの穴のような体験を言葉にしようとすることはたやすいことじゃない。


 「復活の批評」再読中に僕を見舞った「失語」――それは他者からもたらされたものでもあり自己の奥から生じたものでもある――のさなかにも、日常生活は何の滞りもなく過ごした。テキストをあえてうっちゃっておいた時期においても、問いは僕のなかで生き延びていた。


 「自分を問う」ことの大切さを説く批評に感心している自分が、その言葉を額面通りには決して受け取れていないという感覚。「自分を問う」という言葉ですら「消費」出来る自分への、戸惑い。そこから始めるほかないのだという嘆息と、少し清々している自分の奇妙な同居。


 書くことで狂うことがあるのなら、読むことで狂うことだってあるだろう。狂気の善悪など誰にも判断できやしない。


 「筆と爆裂弾とは紙一重」の意味に、ほんの少し近づけてきたのだろうか。
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# by todoroki-tetsu | 2013-03-24 20:53 | 批評系 | Comments(0)

大澤信亮「復活の批評」再読

 大澤信亮さんの「復活の批評」を、発売からそう遠くないうちに僕は読んでいる。そのことは当時に記したとおりだ。いつかはちゃんと形に残るような再読をしておこうと思っていたのだが、TWITTERでの着手は昨年末。タグはまんまの #復活の批評 。

 
 「見る者が見られる」「読む者が読まれる」……たしかにそういう感覚は初読当時にあった。それは「読むために書く」という実践と認識に引き継がれつつ今も僕のなかにある。だが、着実に何かが進行した。それが、昨年12月24日から今日まで、何度となく中断を強いられつつの「復活の批評」再読であったのだ。その意味するところがさっぱり判らないでいるし、そもそも書くことでそれが表現出来るのか見当もつかない。取りこぼす何かがきっとあることを前提に、記す。

 
 内省への、内省にまつわる思考をたどる時、読み手あるいは読むために書こうとしている僕に突き付けられたのは、「この言葉を理解したと言えるのはどういうことか」という問いであった。「たとえば、書くとはどういうことかと考えるとき、それを書いている『この私』自身が分析の対象に含まれざるを得ない」という言葉に同意するのなら、「それを読んでいる『この私』自身も分析の対象に含まれざるを得ない」。

 
 そうした問いは、具体的には以下のように僕にあらわれた。再読初期の12月26日のツィートを以下に録する。

 「たとえば、書くとはどういうことかと考えるとき、それを書いている『この私』自身が分析の対象に含まれざるを得ない。(略)/これは、書くことのなかに絶えず自分を織り込むタイプの記述がもたらす感覚だが、べつに方法的なトリックによるものではない。目の前の現実を問おうとすれば、その現実を見つめつつ、それを疑う「この私」が要請されるだけだ(だから、『私』と書けば疑っていることになるわけではないし、必ずしも『私』と書かれる必要もない)」。この()内の指摘がこの上もなく僕にとっては重要になる。どういうことか。


 「自分を問う」あるいは他者に対して「お前は自分自身を問うているのか」と問う言葉。ある世代に或る程度共通する感覚かも知れぬがそれはさておき、そうした言葉を読み耳にし時には口にする僕自身が、形骸化させてはいないか、という問題。


 自分を問うているように見せかけて実は他者に何ものかを突き付ける。会社員を10年強やって来てそんなテクニックはいつの間にか身につけた。いや、90年代半ばの学生運動で既に僕はそうした振舞いを身につけていたのではなかったか。何の為でもない、ただ自分が逃げるために。


 本気で自分を問おうとしていて、しかしいつの間にかそれはただのフリになっていて、そこに気づかぬままにさも自分は自分を問うているのだと思いこんじゃいなかったか。今こう記しているこの文章すら、フリではないのか。


 内省がその拒絶に転化するのが必然であったとしたら、その必然を意識するならまだましなほうだということになる。無意識に、さも内省しているかのように見えてその実まったく内省に至っていない思考。それこそがもっとも深い病理ではないのか。じゃあ、これを読んでいる俺はなんなのだ。


 「対象自体に自分が含まれる記述を続けていると、やがて能動と受動、主体と客体が入り乱れる瞬間がやって来る。自分が言葉を書いているのか、言葉が自分に書かせているのか」。読み手である僕にも同様のことが今起きている。



 内省の困難と大切さと可能性を論じる言葉に「なるほど」と思い、「もっともだ」と読み手である僕自身が感じる時。「資本制の商品交換を破壊する、そのような言語使用」を目指して苦闘するその言葉を、「知的消費や感動消費」としてしか受け止められていないのではないのか。かといって、社会運動的な何かにちょっとばかり参加してみて何かをやった気になるような問題でもこれはない。

 
 繰り返し読んでいけば何か判るかもしれない。そう思って幾度も頁をめくり戻りつするうちに、内省を拒絶しようとして大澤さんの言葉を読んでいる自分を発見するようになる。内省は確かに大事ですね、その理由を突き詰められたら、結局「大澤さんが言っているから」というくらいにしか答えられない自分を発見する。


 なんだその矛盾は、と思われるだろう。その通りだ。何せ他ならぬ僕自身がそう思ったのだから。

 
 以前の僕なら、ここで開き直るか、とってつけたような自戒めいた言葉でお茶を濁すかしただろう。今回は、いっぺんじっくり立ち止まろうと決めた。こういう態度で臨むことが出来たのは明らかに若松英輔さんのお話をこの間何度か伺ってきた影響であるだろう。
 
 
 立ち止まっているさなかにも折に触れ読みなおし、あるいはしばらく放っておこうと机の片隅に追いやってみたりもした。そうしたなかでも普通に会社で働きメシを食い、多少酒を飲んだりしながら寝る、その日常生活にとくだんの変化は表面上はない。

 
 何かが深化しているのか、それとも何かが蝕んでいるのか。そして、「受肉」とは何か……そのことについては別に記そう。
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# by todoroki-tetsu | 2013-03-15 21:38 | 批評系 | Comments(0)

楳図かずお『14歳』

 先ごろ完全版といえる全4巻が完結した。4巻目には楳図先生書き下ろしが加えられているという以上、文庫版は持ってはいるが買わないわけにはいかない。


 いやはやもうすごい迫力であった。なぜこの人はこんな絵を描けるのだろう、と何とも幼稚だがしかし誰しもが抱くであろう感想を強く持ち直す。

 
 1990年連載開始当初はまだ僕は中学生で、クラスに好きな奴がいて回し読みさせてもらっていた。けれどしばらくブランクが僕にはあって、連載終了の1995年よりまだずっと後だと思う、通読したのは。


 今回読み直してみて、あのラストの意味が、ああ、こうならざるを得ないのだな、と切迫感とともに感じることが出来たのだが、そこに到るまでのいくつかを拾ってみる。


 2巻の終りの方におさめられる「ざんげ」というエピソード。地球をいためつけてしまったことへの後悔を各国首脳が語る場面。日本国総理はこう語る。


 かつて日本は世界中から嫌われたことがあった!! けれど日本はいくら考えてもそのわけがわからなかった!!

 日本の政治家が法律と金の二つしか、物を考える時のモノサシを持たなかったからだと気がついたのは、東京大地震で何もかも潰れた後のことだった!! 何一つ、残しておくべき芸術が無かったことに気がついた。けれども再度日本は同じことを繰り返した。以前にもまして大発展をとげた……何かを忘れたままで!!

 だが、その時にやっと気がついた。わたし達が忘れていたものはもう一つのモノサシ、“美意識”というモノサシだったということを!

 わたし達は常に、法律とお金というモノサシ以上に、美意識というモノサシを持つべきだった!!

 美意識の伴わない法律はうそだ!! 美意識の伴わないお金は悪だ!! 美意識の伴わない科学は破壊だ!! 美意識を伴わない学問はクズだ!!


 美意識を、何かに置き換えてもよい。ここで思わず人間と言いそうになってしまうが、少し危険がある。美意識を伴わぬ法律やお金に、人間ほど左右される存在もまたないのだから。じじつ楳図先生はこれでもかというくらい人間の醜さを描き込む。

 
 ストーリーが少し進むと、「もの」とよばれるクローン=人工人間が誕生するシーンになる。この商品化を迫る人物が吐く台詞。


 クローン人間を商品として売り出すなんて、かつてあったでしょうか!? いや、かつて人間を奴隷として売買したころがありました。人間は本質的に人間を商品として扱うことを夢みていたにちがいない。 

 
 こういうところからカントを理解しようとするのはよくないことだろうか。しかし、「人間は本質的に人間を商品として扱うことを夢みていたにちがいない」という断言は恐ろしい。ずっと隠していたものを暴かれてぐうの音も出ない、そういう心境。

 
 「もの(人工人間)」による殺人プロレス、そのおぞましい光景に熱中する大人たち。しかし、画面を通じて呼びかけられ、反応する未来の担い手たる子どもたちの姿。『漂流教室』を例に出すまでもなく、なんとこう子どもたちのひたむきさ(醜さも当然に含まれる)がいたく迫ってくることか。大詰めに近いところで子どもたちのリーダー、アメリカはこう呼びかける。


 たとえどんな破滅がやって来ても、ぼくは破滅を信じない!! 

 なぜなら、身を滅ぼすのが目的で生まれてきた生物は、この世のどこにもいないからだっ!!

 ぼく達は生きるんだ!! そして進化するんだ!!

 ぼく達は神に進化しよう!! 生きて神になるんだ!! 
 
 そして、この世の不幸を一掃しよう!! 地球を緑に変えよう!!

 
 生きることへのひたむきさ。神の観念……どうにも批評を読む自分への問いが重なってくるようで仕方がないのである。
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# by todoroki-tetsu | 2012-12-24 22:40 | Comments(0)

近過去から

 都知事選・総選挙の結果を受けて、様々に思うところはある。いまだに形にならないことのほうが多いけれども、ふと、近過去のこと、すなわち数年前の「蟹工船」ブームだの「ロスジェネ」だのといったことを思い返していた。あの時何かを間違ったのかもしれない。が、実感としては、あの時にわずかながらに得られた何かを、ほんの少し垣間見えたものを、忘れてはいないか、という自問に近い。

 
 近過去を思い返すのがもっとも難しい。そんなことを言われたのは確か市野川容孝さんだったと思う。ことあるごとに思い起こしている。

 
 整理はまだ出来ていない。が、保守だの革新だのといった次元での話は考えていない。主権者であるということはどういうことか。それが「上からのお説教」だとかいうんじゃなくて、自分たちにはそれだけの責任もあれば権利もあるのだということ。クロかシロか100かゼロかじゃなくて、自分に担えるだけのことを少しばかりでもやってみるとか、ある時は頑張るけどある時は休むとか、これは納得できるけどこれはイヤだとか、そういうことでいいじゃないか。何もかも自分たちで背負う必要もなければ突っぱねる必要もなくて、清算主義でもなく、みんなで生きてかなきゃいけないんだから、出来ることなら足の引っ張り合いじゃなくて、どうにかこうにかお互いに生き延びることができるようにしていこうや、という、そんな程度のこと。誰がダメだとか言うのもいい、対案を出せと言ってもいい、けど結局自分や自分の身の回りの人間が、出来ることなら他者の犠牲によってではなく、生き延びていくこと。


 そう、こんなのはまったくもって保守でも革新でもない。どちらかといえば「まっとうな保守」の再生を願っているのかもしれないとすら思う。「五勺の酒」で校長が党員でもないのに共産党のことを真摯に心配し批判するのと似たようなことだろうか。


 自分の行きつけの蕎麦屋が云々と言ったのは福田恆存であったか。大向こうの言葉よりはこうした言葉の方がよほど心地がよい。近しい人としゃべる言葉と大きなことをしゃべる言葉が、同じかどうか知らんが自然とつながりを持っているように思われる。断続していない気がする。言葉の問題の大きさ、重さをあらためて思う。

 
 僕が今回の選挙で一番反省すべきなのは、生身の言葉で身近の人間とほとんど語らなかったことだ。特定の候補者・政党に支持を呼びかけるという意味での「対話」ではなく。自分たちの働いているということそのものが、決して政治と無縁ではないのだということくらい、もう少し話し合ってみることは出来た筈だ。


 投票日当日――本屋にとって12月半ばの週末なんてのは一年の中でも一二を争う書き入れ時だが、早朝出勤をしなければならなくなった同僚がぼそっと、「ああ、投票いけないな今日は。しょうがないな」とつぶやいた。前日も遅くまで仕事をしていたのを知っている僕は、とても「7時には投票所あいてるんからギリ間に合うんじゃないの」とは言えなかった。ましてや棄権を咎めることなど出来やしない。

 
 こういう次元で、場で、どれだけのことが言えるのだ。「沈黙もまた言語」(吉本隆明)である。が、その先は。


 手がかりになるような何かに、僕はかつて触れた気がする。記憶を掘り起こす。「あくまでも左翼は人びとの社会的生活を条件づけるものに介入するだけで、それぞれの人の生き方や実存の問題にはけっして介入しない」(萱野稔人、「なぜ私はサヨクなのか」、「ロスジェネ」創刊号所収)、「過剰な労働で燃え尽きていく人のリアリティと、生きづらくて働くのも難しい人のリアリティ」(杉田俊介、『フリーター論争2.0』)……これらについては2008年に記していた

 
 まてよ。もう少し遡ってみる。「『人生、落ちるところまで落ちたとき、ミギだのヒダリだの言ってられますか』 バリバリの左翼からネット右翼まで」(小丸朋恵、2007年11月号の「論座」所収)。そう、ここだ。短いが、印象的なルポルタージュである。もはや容易に読める環境にないのが残念だけれども、強引に要約する。もちろん、僕の関心に沿った恣意的なものであることはお断りせねばならない。機会あらばぜひ本文にあたって頂きたい。


 契約社員としてシビアな状況を強いられた若者が、ふとしたきっかけで組合の扉をたたく。あれこれ一緒にやっていく。小林よしのりさんを尊敬する彼は、自分の思想信条を吐露したことをきっかけに、他の組合員とやりあうことになってしまう。辞めてやる、と思う。しかし、様々な苦しかったことなどが頭をよぎる。他の先輩格のスタッフからも引き留められて彼は思う、「僕たちは『仲間』なのかなあ――」。しかし彼は、結局は組合に残る。「僕たちは『仲間』なのかもなあ――」という言葉を以て。


 「僕たちは『仲間』なのかなあ――」と「僕たちは『仲間』なのかなあ――」(下線等々力)とのあいだにあるもの。ためらい。この文章を何回かは読み返している筈だ。しかし、僕はこのためらいをなぜ「他者」のものとして、自分の外部にあるものとしてしか読まなかったか。こうしたためらいに対し、内在化することなく外からいかにアプローチすべきか、「理解」(!)すべきかとしか考えていなかったか。言葉に対する認識の圧倒的な不足を思い知る。


 言葉に対する認識は、そのまま人間に対する認識である。たった一文字の「も」に揺れ動く思いを想像すること。言葉に忠実であること。盲目的信仰ではなく、まっとうに畏怖すること。口にする、耳にする言葉を大切にすること。


 おそらくこのように思い起こすべきものが、まだまだ近過去には眠っている。容赦なくそれらは僕に襲い掛かってくる。さて、どれだけの勝負が出来るか。
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# by todoroki-tetsu | 2012-12-20 20:03 | 批評系 | Comments(0)

書くことと商売

 今日は若松英輔さんの講演。「聖夜の詩学―ディケンズ・内村鑑三・太宰治」と名付けられたそれは、実にすばらしい空間と時間であった。


 ここでその体験を語るのは野暮に過ぎる。ここでは講演の本題とは、外れてはいないが少しそれた部分のところを少しだけ記したい。


 今回は質疑応答の時間を多めに取っておられた。為に普段よりも双方向のやり取りが多かったわけだが、そのやり取りの中で、若松さんがこんなことを語られた。

 
 ――一連の機会を通じてやりたかったのは、文章をみなさんと読むということ。難しいことだろうが、さらにはみなさんと書くという作業をやってみたい。書く、ということが発表することと強く結び付けられたのはある種の不幸ではないか。誰に発表するでもなく、読んで書いてみる。そうすると書くことの難しさもよく判る。

 
 精確にメモを取れたわけではなく、うまく文意を再現出来ているか自信がない。が、言葉をめぐる体験の大切さを強調されていることがひしひしと伝わってきた、そのことだけは確かだ。


 さて、僕は他人が記した言葉のパッケージでメシを食っている。ゼニになる言葉のパッケージと、そうでない言葉のパッケージ。そのような分け方が僕には染みついている。ゼニにならないならなるように工夫しようじゃないか、というのが基本スタンスでもあり、だからある時には散々にこきおろすし、ある時には版元さんにおしかけて口を出す。


 しかし、何か根本のところで何か思い違いをしてはいないだろうか。自分のやってきたことにはそれなりの自負はある、だが……。

 
 自省するにはふさわしい寒さである。
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# by todoroki-tetsu | 2012-12-13 22:53 | 批評系 | Comments(0)