伊丹万作「戦争責任者の問題」其の二

 伊丹万作の思考は、身近なところから少しずつ、しかし着実に深化していく。だまされたとは言うが、だましたと言う人はいない。誰にだまされたかと聞けば、民は軍や官からといい、軍や官はさらに上からだという。しかし、だ。

 
 すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 
 ここで僕は上原專祿を想起する衝動に迫られる。『世界史における現代のアジア』に収録された「世界史的自覚に生きる」、その中のセクション「日本人の思想の二重性について」。「著作集」13巻、P.243による。

  
 そして日本人は、この社会、あの社会というように幾重にも区別してものを考える。だから非常に合理的で理知的なような発言をある社会でしている人が、家庭に入ると甚だ非合理的、非理知的な考え方をする。

(略)しかし、自己と日本の全体と世界の全体とを統一的に認識する方法、それを一緒にして生きる生き方というものが身につけば、思想の二重性や、内側の倫理と外側の倫理との使い分けや、酔っぱらって、やっと鬱憤を晴らすような変に弱い心情が克服されるのではないかと思う。
 
 これを上原は世界史的見方あるいは世界史的自覚という。1960年の講演であるが、萌芽はもっと以前にある。宗像誠也との対話『日本人の創造』の時点ではどんなに遅くともあったはずだと思うが、そこは学者に譲る。

  
 かたやだました/だまされた、かたや二重性。一見違うように見えるかもしれないが、「主体性」あるいは「自覚」、もしくは「内省」や「省察」といった言葉を用いてみればどうだろう。伊丹と上原は同じものを見てやしないか。


 年譜的に一年違いの伊丹と上原は旧制松山中学校でほぼ同じ時期を過ごしていたが、ことさらにそれが何かの影響を両者に及ぼしたのかどうかも知らぬ。ただ尽きせぬ興味をそこに一方的に見出すだけだ。生誕110年をこす人物が遺した言葉に尽きせぬ興味を見出すということは、その言葉が生々しく語りかけてくるということである。


 言葉の光はますます僕を照らし出す。幻惑させるためでなく、その内奥をあぶり出すために。





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# by todoroki-tetsu | 2013-11-08 23:28 | 批評系 | Comments(0)

伊丹万作「戦争責任者の問題」

 再び伊丹十三記念館での展示を見、「戦争責任者の問題」全文を再読する。おそろしく断片的断続的になるだろうが、繰り返し読む作業を試みたい。こうした作業はあまり離れているとよくない。鍛錬しなければならない。


 いわゆる3・11以降、どの時期かは記憶が定かではないが、この文章に注目した人は少なからずいたように思われる。何かの大事(おおごと)に際し、あるいは「その後」に際し、この短い一文は確かに何度でも読み返すに値する輝きを有しているように思われる。その光はとりもなおさず読む者自身を鮮明にあぶり出す。手元にある「全集」第一巻で読んでいく。


 戦後、戦争責任を問う運動に名を連ねられてしまった伊丹が、その事情をつまびらかにするために記した一文である。多少の前置きをしての、本論冒頭。

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。

 何の気ない文章のようにも見える。初出は1946年8月である。その当時の言説がどうであったか知らぬから、安易な比較は慎もう。しかし、この素朴すぎるくらい素朴な「私の知つている範囲」から出発することじたいが、すべての光源のように思える。


 「だましたものとだまされたものとの区別」になぜまなざしをむけることが出来たのか。読み進めるうちに明らかになるのか、その前に読む者がその光に焼かれるのか。

 
 じっくりやろう。


 

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# by todoroki-tetsu | 2013-11-07 23:16 | 批評系 | Comments(0)

伊丹万作の直筆

 偶然といえば偶然か。松山に伊丹十三記念館があるというのは知っていたが、場所はよく調べていなかった。ぶらぶら近所を自転車で徘徊していて発見。なんだこんなに近かったのか、もっとはよう来りゃよかった、と思いながら中に入る。

 
 中には妙な人だかりがあって、ああ、観光コースになっているんだろう、団体さんでもきてるのかなと何の気なしに目をやると、宮本信子さんがお見えになる日だったようだ。あわててグッズを買ってサインを頂こう、というようなミーハー根性はさらさらない、というより気恥かしい。遠目で落ち着いたたたずまいを拝見しながら展示室に足を踏み入れる。


 しかしこういっちゃなんだが、伊丹さんにそう大きな思い入れがあるというほどではない。映画も全部見てるわけではないし、エッセイを読破しているわけでもない。大江健三郎さんを介して、漠然とした畏敬の念を感じているというのが偽らざるところだ。


 だが、伊丹万作は、僕にとっては別格である。渡辺一夫や上原專祿といった人と同じ位置にある。福岡の古書店で手を出そうか迷っているうちに売れてしまい、何年も経ってから吉祥寺「百年」で邂逅した「伊丹万作全集」は、それらの人の著作と共に本棚にある。


 「演技指導論草案」を手にしたきっかけが何だったのかは覚えていない。大江さんの作品の中で、宮沢賢治「農民芸術概論綱要」とからめて論じられた個所があったはずだが、それ以前に意識している筈だ。三上満さんあたりがどっかでふれておられたのかもしれない。佐藤忠雄さんの注釈のようなエピソード集のような岩波現代文庫も、しばしば読み返したものである。何かあった時に立ち返る文章の一つがこれである。

 
 その「草案」の、それまた草稿になるのだろう、病床で綴られた伊丹万作の直筆が、企画展で展示されている。何度も繰り返して読んできた言葉の、その生まれた時の姿がここにある。そう思うとなんともいえない感動がある。


 手を動かして書き留めた言葉、身体性そのものとしての言葉、伊丹万作という特定個人にどこからか宿った言葉が、形となった瞬間。その瞬間から長い時を経て、私たちもその言葉にふれることが出来るということ。


 なんだか井上ひさしさんの「きらめく星座」みたいな話だが、しかし、これはある種の奇蹟であろう。奇蹟は日常に満ち溢れているがゆえに気づきにくい。そんなことを思わせてくれる展示であった。
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# by todoroki-tetsu | 2013-10-03 01:28 | 文学系 | Comments(0)

『はだしのゲン』について(其の四)

 一段落した気でいたんだが、どうもくすぶっている。生きていくというのはそういうことなのだから別にいいんだし、ケリをつけられることなどそうあるわけではない。


 もう一度、渡辺一夫を引く。

 
 初めから結論が決まっていたのである。現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々はそれを激化せしめぬように努力しなければならない。争うべからざることのために争ったということを後になって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない。歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少い犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてよいはずである。


 
 この一文にたどりついたのは、僕にとって最悪の事態と思われる、『はだしのゲン』の流通・販売に何らかの制限がかけられること、それを防ぐために地道に何が出来るだろうかと考えてのことであった。


 しかし、渡辺のこの一文は、その最悪の事態を避けるためにとるべき「態度」をも示している。「歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少い犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてよいはずである」が、それだ。これはどちらか一方の立場に対してだけあてはまるような言葉ではないのだ。


 閲覧制限けしからん、ナンセンスだ、ありえない、見識を疑う……どういう言葉でもいいのだが、「攻撃」してよい事態なのだろうか。逆に閲覧制限を求める人にとっても、『はだしのゲン』という作品じたいを、またその扱い方そのものに対して、攻撃的なものいいは何も生み出さぬだろう。


 圧力、という言葉が可愛いと思えるくらい品のない罵倒の言葉を、僕たちはすぐさま検索することが出来る。読んだら言えない筈だ、とは思わない。読んだ後どのような感想を抱くかは自由だからだ。ただ、脊椎反射のような言葉の応酬はうんざりする。


 閲覧制限を求める人も反対する人も同様に、自戒と自省が必要だというほかはない。それは当然僕自身を含むものである。ついつい激情的な言葉を発することもありがちだからこそ、それもひっくるめて、落ち着いて、読んで、話して、じっくり考えたい。

 
 みんながみんなで幸せになるには、それしかない。
 
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# by todoroki-tetsu | 2013-08-22 16:05 | 批評系 | Comments(0)

『はだしのゲン』について(其の三)

 さて、書き継いできてもっとも生々しい現実であるところの、書店員としての自分を見つめながら『はだしのゲン』について考えてみる。


 商売、という観点からすればこれ以上の「売りどき」はない。話題になれば売れる。まっとうな議論が起きれば、関連書も売れる。

 
 まっとうでなければならない。反対者もなるほどと思わせる言い方や論法、お互いを切り結んでともに生きて行こうとする精神に貫かれた議論でなければならない。そんな体験を僕たちは近年、『「僕のお父さんは東電の社員です」』(現代書館)でしたはずではなかったか。活かせるものをすべて活かせ!

 
――余談だが、ある問題について話をしていた時、反論者には反論の場を与えない、という意見を年配の編集者から実際に聞いたことがある。その反論は「非科学的」であるから、ということなのかもしれない。だから取り上げるに値しないのだ、ということなのかもしれない。社会学的には別の観点があり得るだろうが、書店員として言っておくと、もう既にある意見に賛成の人は賛成の意見の本しか買わぬし、反対の人は反対の意見の本しか買わない。問題はそこではないのだ。目先の顧客にとらわれるな。そうした動向を遠巻きに見て、「なんだかよく判らないことで争っている人たち」と見ている莫大な潜在的読者こそが重要なのだ。僕が『「僕のお父さんは東電の社員です」』を所謂原発本の中での至高の一冊と考えるのは、そうした広がりを潜在的に今なお、秘めているからなのだ――

 
 と威勢よく言ってはみたものの、それはあくまで商売上何ら問題のないものであるから言えることだ。訴訟中であったり、出版差し止めまで行かずとも係争中のものであったり、そうしたグレーゾーンのものとなると書店員としての僕はとたんに弱気になる。


 最下級ではないにせよ、相対的に低位の下士官である僕にとって大事なことのひとつは、部下を守ることである。部下を守る武器が与えられていなければ、会社から引き出させなくてはならない。「なんでこんな本を売るのか」あるいは「なんでこの本を売らないのか」。そうしたことに会社としての「答え」を準備させなくてはならない。最も困るのはグレーゾーンであり、後だしで持ち出される「原則論」である。何も柘植行人を気取るわけではないが、組織人であれば多かれ少なかれ劇場版「機動警察パトレイバーⅡ」の冒頭には共感する部分があろう。


 その時問題になるのは武器の有無であって、その中身は問題ではなくなる。売ってよいかどうかの判断を会社が下すこと、現場任せにさせないことが最優先される。


 そんなことが重なると、「いかにも」な本を嬉々として上梓する出版社に対してはよい心持がしなくなってくる。確かに時として取次の過剰反応ともいうべきものはある。そこは問題視してよい。だが……。正直、「こっちを巻き込むなよ」「表現の自由を叫びたかったら勝手にやってくれ」という気持ちが強くなってくる。理屈をこねる出版社よりも、僕にとってはお客様と直接接する部下が大事だ。

  
 原則的には、僕が間違っているだろう。開き直るが正当化はしない。これが僕にとっての生々しい現実である。

 
 だから、今のところはああ、話題になってるな、よし今のうちに『ゲン』を売ろう、とのうのうとしていられるけれども、これがさあ販売規制云々などという話になってくるとうかうかしてはいられなくなってくる。万が一これで『ゲン』がグレーゾーンになったとしたらどうなるか。僕はやはり、「何はともあれ武器を」と求めざるを得なくなる。


 そうであってはならない、と自分の中から声が響く。そんなことで手間をかけられない、という実に小経営者的な発想と。これを機にまっとうにいろんな本を売りたい、という書店員的な発想と。市民として、読者としての発想もまた併在していよう。

 
 ささやかに、まっとうに生きたい。たぶん、今はまず『ゲン』を売ることだ。まずは知ってもらうことだ。仮にシビアな決断をせざるを得ない状況になるとしても、そこに至るまでに努力はあきらめてはならない。そう自分に言い聞かせながら、渡辺一夫の言葉を噛みしめる。「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」から。

 
 初めから結論が決まっていたのである。現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々はそれを激化せしめぬように努力しなければならない。争うべからざることのために争ったということを後になって悟っても、その間に倒れた犠牲は生きかえってはこない。歴史の与える教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、それを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬように務めることにより、はじめて、人間の進展も幸福も、より少い犠牲によって勝ち取られるだろうということも考えられてよいはずである。

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# by todoroki-tetsu | 2013-08-22 10:57 | 批評系 | Comments(0)

『はだしのゲン』について(其の二)

 読者としての個人的な体験からすれば、閲覧制限に意味があるとは思われない。


 閲覧制限を求める人、それに応じた人、そのそれぞれの思いは聞いてみたい。これをもって直ちに言論統制だの、実態がよく判らない言葉の一つであるところの「右傾化」などに結びつくとも思われない。その背景にそれぞれあるであろう思いに立ち返らなければ、何もうまくいかないような気がするのだ。


 制限を求める人には、おそらく何通りかがあるだろう。本当に心の底からの善意で、『はだしのゲン』は子どもの教育上よろしくない、と考えている人。『はだしのゲン』あるいはそれに象徴されるなにものかを嫌悪する人。子どもに限らず、こんなものはけしからんと思っているかもしれない。そのけしからん対象は、おどろおどろしい描写だけであろうか。

 
 ほかにも理由があるのかもしれない。僕がここでまず言えるのはふたつのことだ。

 
 第一。教育の「自治」について僕は保留しておいた。ことはすぐれて教育の問題である。教育の問題だから僕には関係ない、とは言わぬ。それは教育基本法の理念に反する。「旧」とは記したくないんだが、誤解を避けるために「旧」教育基本法の条文を引こう。


 第十条(教育行政) ① 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。


 「直接に責任を負」われる国民の一人として、僕はある。そんな解釈があっているかどうかなんざどうでもいい。教育の問題は僕のような独り者であったって抜き差しならぬ問題として観念しなければ嘘なのだと言いたい。
 
 
 かといって専門的なことがいえるわけじゃない。ただ、無関係ではないということだけを強調したい。謙虚な責任を負いたい。ここでも立ち返るべきは上原專祿になるのだが、今は略す。ひとつ言えるのは、閲覧制限を主張する人も、それに応じる人も、不真面目だとは思わない。ただ、ほんとうに子どものためと思うのであれば、子どもを巻き込んで、あるいは真剣に検討し合う自分たちの姿を、少なくとも子どもに見せたほうがよかった。そのほうがいくらも教育効果はあるだろう。子どもを信じようではないか。まだ、間に合う。

 
 これは第二の点とかかわる。子どもを信じようじゃないか。たとえどんな惨酷な描写(為にするものはともかく)であっても、子どもは大丈夫だと僕は思う。ただ一つの条件だけが必要だ。それは、クラスや友人や近所や身近な人やらと、一緒に読書体験を受け止める場を担保すること。僕はゲンについて友だちと話してきた。親とも話してきた。そうした体験といっしょに子どもの読書を考えなければならない。


 ゲンではないが、これも小学生時代のこと。これまた図書館にひめゆり部隊を描いたマンガがあった。僕にとってそうした過去の歴史があったことははじめて知ることであり、なんとひどいことだろうと思った。家に帰ってから夕食の支度をしている母親に「ひめゆりって知ってる?」と聞いてみた。もちろん母親は知っている、と答えた。「なんてバカげたことだろう」といったことを僕が口にしたら、母親が眼の色を変えて怒りだした。僕がひめゆり部隊をバカにしたと勘違いしたらしい。すぐに誤解は解けたのだが、その時の母親の変わり様は鮮烈に記憶している。読書とは、こうしたことと併せて考えられなきゃだめだ。


 だから思うのだ。たまたま自分が恵まれていたのだろうし、自分がもし仮にこれから子育てをすることになったとしてどこまで出来るだろうかと不安にもなるのだが、何を読むべきか/べきでないかよりも、読んだ体験をどう共有し深めることが出来るか、のほうがよっぽど重要なのではないか、と。だから、例えばタバコの描写だったりなんだりとったところに目くじらを立てる意見にはどうにも違和感がある。学校がどうこうだけじゃなく、「国民全体」なのだから。


 以上がいわば「市民」としての見解といえようか。覚えず迂回をしてしまったが、なるほど書店員である前に市民であるのだから当然か。書いてみると気づくことがたしかにある。

  
 稿を改めよう。
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# by todoroki-tetsu | 2013-08-22 10:10 | 批評系 | Comments(0)

『はだしのゲン』について

 にわかに話題となっている『はだしのゲン』について、書く。


 閲覧制限には違和感があるし、どこぞの大臣の発言とやらもどうかと思う。とはいえ、小学生の時にむさぼるように読んだ、いわば読者としての感覚と、長じて書店員としてメシを喰っている今の感覚と、その両方を記さなければ嘘だと思う。なので、書く。
 
 
 表現の自由だとか、あるいは閲覧制限にいたる教育の「自治」に関する問題――僕にとって「教育基本法」とはただひとつしかあり得ぬ――について、詳しく書こうとは思わない。論ぜられるほど得手ではないし、それは専門家がやればよろしい。素人の僕がどこまで何を考えられるかが大事だと開き直る。


 さて、昔話から入る。1975年生まれの僕は、1985年3月まで北海道にいた。通っていた小学校の図書室には汐文社の『はだしのゲン』があった。最初のきっかけが何だったかは判らない。

 
 汐文社さんのサイトで初刷を見てみる。コミック版第1巻は1975年、第2巻は1984年、第3巻は1983年となっている。何かで前後したのだろうか。そこはどうでもいい。ちょうど僕が小学2年-3年くらいのときに第1巻以降の何巻かが出版されたということだろう。アニメ映画のポスターも見た気がする。


 とにかく、何かのきっかけで、ゲンが注目された時期だったのだろう。そこにちょうど僕たちの世代があった。図書室で過ごす時間が授業として組み込まれていたが、その時だけでなく休み時間でも、図書室に行っては読んでいた。たぶん僕が北海道にいたころには4巻くらいまでしか図書室にはなかったように記憶している。

 
 クラスのみんながみんな読んでいたわけではない。しかし、僕の周りの何人かは読んでいた。何人かで一緒に読んでいたような気もする。原爆投下直後の描写をこわいものみたさで読んでいたのは間違いない。ある種怪談のような受け止めだったかもしれない。しかし同時に、「戦争」ってなんだろう、核兵器とは何か、そういう漠然とした問いを抱いたのも事実である。


 小学4年になる時、四国に移った。その学校の図書室にゲンがあったかは覚えていない。かわりと言っては何だが、小学校の近くでもあり祖母宅の近くでもあった市立図書館にはゲンがあった。この時は6巻か7巻くらいまであった気がする。これまた、読んだ。中沢さんの他のマンガもほかにあって、これまた汐文社さんのサイトで確認すると、『ゲキの河』は記憶がある。ほかにも何冊かは読んだはずだ。


 これまた、僕だけが孤立して読んでいた記憶はない。クラス全員とは言わぬが、何人かとはゲンの話をしていた記憶がある。


 80年代半ばとは、そういう時代だったのかもしれない。是非も分析も知らぬ。僕はそのような時代を生きてきたのだろうと確認しているだけだ。


 こんなこともあった。これは大学に入ってからだが、同級生や2年上の先輩たちと話している時、80年代半ば、すなわち僕たちが小学校中高学年の時、終末論や核についての話などが妙なリアリティを持って派なされたのは何だろうね、と話題になったのは記憶している。その時の結論は覚えていない。これは90年代半ばの話であった。

 
 もうひとつ、個人的な体験を記しておかねばならない。ゲンの父親のことだ。最終的にはグダグダになってしまったが、自分の父親はある程度の時期まで旧社会党支持であった。ゲンを読んでいた時期に、戦争について何かを僕が尋ねたことがある。なぜそうなったのかは覚えていない。その時の父親の答えは「戦争は人殺しが正当化される。それは、よくないことだ」というものであった。

 
 戦争に反対した人間がどうなるか。ゲンの父はなぜボコボコにされたか。それらが重ね合わさって僕にはそら恐ろしく感じられた。その感覚は、今もどこかに残っている。


 ここまで記せば、閲覧制限に対して僕がどのような立場をとるべきかは明らかである。だが、そこには現在に対する内省が欠けているように思われる。どうあっても、書店員という仕事でメシを喰っている自分を考えなくてはならんのだ。
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# by todoroki-tetsu | 2013-08-22 09:32 | 批評系 | Comments(0)

若松英輔連続講演(7/28追記)

 昨春から代官山蔦屋さんで開かれていた若松英輔さんの連続講演が、ひとまず終了した。8/5にはextraとして『想像ラジオ』を読む機会があるようだが、ひとまずは昨日7/25の講演で区切りということのようだ。


 いままでにもしばしばここに、あるいはtwitterで書いたりもしたのだが、矛盾するかもしれないし重複するかもしれない。構うもんかと思う。兎に角いま、書く。

 
 慶応義塾大学出版会さんのサイトから、演目を抜き出してみる。

■前半全7回 井筒俊彦 「存在はコトバである」

●「詩と哲学」
 第一回 私の原点―井筒俊彦と小林秀雄(1)
 第二回 井筒俊彦と小林秀雄(2) 
●「コトバの神秘哲学」
 第三回 井筒俊彦と白川静 
 第四回 井筒俊彦と空海 
●「宗教と叡知」
 第五回 井筒俊彦と柳宗悦 
 第六回 井筒俊彦と鈴木大拙/西田幾多郎 
 第七回 聖夜の詩学―ディケンズ・内村鑑三・太宰治(併せて前半のまとめ) 


■後半(全6回)
 地下水脈としての近代日本精神史

 第1回:正統と異端 2月28日(木) 
 第2回:精神と霊性 3月28 日(木) 
 第3回:美と実在 4月25日(木) 
 第4回:詩と哲学 5月23日(木) 
 第5回:啓示と預言 6月27日(木) 
 第6回:時と時間 7月25日(木)


 以上全13回のうち、第三回と第四回の二回欠席。あとは無遅刻ですべてを伺った。なので、自分自身の変化、若松さんと会場との関係の変化といったものは、おおよそ体感していると思う。

  
 最初の二回は、今思い返しても実に沈痛な気持ちで伺い、そして考えていた。自分の抱えている問題が、ひょっとするとここで何か打開できるのではないかという思いと、いや、そもそも自分の問いのたて方が――ということは僕自身の根底がということでもある――根本的に間違っていたのではないかという不安。そんなものがどうしようもなく、ないまぜになっていたのであった。


 そもそも、若松さんとの出会い方において、僕は極めて不真面目である。最初のうちは、「あ、こういう人が出てきたんだな」というほどの受け止めであって、池田晶子さんが苦手な僕は――今読みなおすと違うかもしれないとは思っているけれど――、なんとなく敬遠していたのであった。しかし、本屋という商売柄、何かあるぞこの人は、という感覚は当然あるのであって、しばらくのあいだ若松さんは僕にとって、「自分で読もうとは思わないが、読者をつかむ何かは持っている方だ」という存在であった。


 その認識の変更は、上原專祿に若松さんが言及されてからであった。

  
 その割に大して読み切れてはいないが、僕にとって上原專祿と高島善哉の存在は揺るがし難い巨人として常に僕の脳裏を離れない。このふたりに出会えたことに僕の学生時代の全ての意味があったし、どうにかこうにか今僕が生き延びていられるのは、このふたりのやってきたこと、やろうとしてきたこと、そのおかげであるといっても言い過ぎではない。

 
 高島善哉には弟子がいた。上原專祿は「私には弟子は一人もいない。仏教と世界史の両方が出来なければね」といった趣旨のことを呟いたという。だが、上原の言葉は、弟子であると否とに関わらず、着実に、たとえほんのわずかな人数であっても、後世を生きる者の魂を揺さぶり続けてきたのだ。僕もまた、そうしたひとりである。学生にとっては決して安価ではない著作集を、少しずつ揃えていく。古本屋で単行本を買う。そんなことを少しずつ続けてきた。上原の本だけは、どうしても寝ころんで読むことが出来ないのだ。


 閑話休題。だからこそ、忘却の彼方にある上原に言及した本や著者というのは僕にとってかけがえなく大切な存在だ。若松さんの文章をちゃんと読もう、と思ったのは『魂にふれる』からだ。そうした意味で、僕はたいへんに独善的な読者である。だから、講演に最初に参加した時にも、上原に言及してくれたという僕の一方的かつ不遜な感謝はありつつも、「代官山でどんなイベントをやっているのかな」「若松さんはどんな風にお話をされるのかな」という、半ば野次馬根性なのであった。

 
 それが、第一回で一変した。細かいところは、多分当時のノートを引っ張り出せば再現できるかもしれない。走り書きとはいえ相当な量をメモしたから。しかし、そんなことは問題じゃない。「ここにはなにかある」という衝撃と、その衝撃を受け止めきれていない自分と、その両方に引き裂かれそうになったのだ。


 「誰誰がこう言っている。別の誰誰はこう言っている。そんな比較にどれほどの意味がありますか?」


 そんな主旨のことを、何度も若松さんは繰り返し語る。その意味が、体で判ってきたと思えるのには数カ月を要した。お話を聞き、なるほどと思う。帰る道中考え込みながら代官山駅まで、あるいは渋谷駅まで歩く。ああでもない、こうでもない。そんな自問自答を繰り返すことなく、ただ言葉を味わい、自分の中に沁み入って来るのを待つようになったのはコートを着るような季節になってからだった。


 僕は悪筆だが、速記的にメモし、それをテープ起こしのように再現することにかけては少し自信がある。だから、どんな講演でも、比較的よくノートを取る。だが、ここしばらくの若松さんの講演では、せいぜい1頁程度しかノートを取らなかった。若松さんが紹介される言葉、つまり、若松さんを通じてその場に現象する「叡智」そのものと、触れることが大事なのだし、またそれでじゅうぶんなのだ、ということに身体の感覚として気づいていったからだ。「感じる」ことの大切さを若松さんは繰り返し説く。僕にとってそれは、こういうこととして具現化されたのである。

 
 ある時期、若松さんの講演を聞いた帰りにはずいぶんと謙虚な心持になっているのに、なぜ次の日仕事に戻ると謙虚さを忘れてしまうのだろう、と少し悩んだ時もあった。メンターとしてではなく――僕は若松さんの「信者」ではないし、誰ひとりとしてそうあってはなるまい、と思う――、一般的な意味で「他者」なくして自己認識はない、というほどの意味に解していたのであったが、もっと大きな「叡智」に日常的に触れる/触れ得る自分に気づくことの方が大切だ、と実感を込めて思えるようになってきたのが、先月の講演の帰り道なのだった。


 僕にとってこの連続講演のあった1年少々の時間は、連なることに大きな意味があった。一回きりであって一回きりではない。壊して一から創るものと、連続するもの。それらを成り立たせる、大きな何ものか。ポーの世界?

  
 みなさん自身が書くということが大事なんです、若松さんはそうおっしゃった。日々何かにふれている自分に気づく、その体験を書く。それがどんなものになるのか、想像できない。けれど、「筆と爆裂弾とは紙一重」(二葉亭四迷)というのは、そういうことかもしれない。

 
 どんな言葉を、僕は刻みつけていけるだろうか。


追記

 上原專祿著作集版の『死者・生者』、出版社在庫を代官山蔦屋さんは全て仕入れたという。目の前で何冊も売れていったのを目の当たりにして、覚えず目頭が熱くなった。こんな日が来るとは。こんな光景を見ることが出来るとは。

 
 今も残っているかどうかしらない。しかし、古本屋でもしばらく見かけぬように思う。入手の機会はそうあるまい。ちょっとでも興味を持たれた方はぜひ、蔦屋さんに問い合わせてみて頂きたいと思う。断じて損はしない。
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# by todoroki-tetsu | 2013-07-26 22:05 | 批評系 | Comments(0)