伊丹万作「戦争責任者の問題」其の七

だまされるということも一つの罪だ、と述べたのち、万作は別の角度からこの問題を見据える。


(略)いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
この単純素朴な一文に込められた意味は重く、豊かだ。どっちがか悪いということではない、かといって開き直りとは無縁。脊椎反射のような、威勢はよいが品と意味のない言葉の応酬を見つめなおすには格好の文章だ。

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に事故の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

ここで日本の封建制云々という話が少しつづられる。かかる感覚はこの時代の知識人のある程度の層には共有されていたものと思われる。そこにある種の、そして何度目かの見直しやゆりもどしが来ているのが現代であるだろう。「近代の超克」が何を準備したのか、あるいはしなかったのか。もうじき上梓されるという若松英輔さんと中島岳志さんの対談本の仮タイトルが『現代の超克』(ミシマ社)となっているというのは実に示唆に富む。結果このタイトルに決するかどうかはさしたる問題ではない。言葉の上っ面ではないところでどこかで何かがつながっている。いや、引き受けるという言葉のほうがしっくりくるか。


さて、問題はそうした感覚を有したその先にどこに向かうか、である。丸山眞男なら? 渡辺一夫なら? 高島善哉なら? そして上原專祿は? みなそれぞれであり、簡単に論ぜられるものではないけれども、万作の向かうところはやはり文学的な印象を与える。それは渡辺一夫や上原專祿に感ずるものに近い。


万作は先に挙げた文章を引き継ぎ、「(日本)国民の奴隷根性」という厳しい言葉を用いた上でこう述べる。

それは少なくとも個人の尊厳の冒瀆、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

渡辺や上原の本を引っ張り出せば、おそらく比較の真似事はできよう。が、すでに若松英輔さんの連続講座で少しの訓練を経験したおかげで、それで何かを知った気になるのはまったく意味もないことだと判る。ここで何よりかみしめなければならないのは、個人の尊厳、自我と人間性が分かちがたく結びついているということ。人間性へのゆるぎない信頼と、それを裏切ってしまう不忠もまた存在するのだという冷徹なまなざし。しかしだからこそ信頼に依拠しようという決意。その信頼は、あくまで個としての人間ひとりひとりへのものであるが、それゆえに普遍的な人間性へも連なるものであるということ。人間性を「叡智」と置き換えてよい。



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# by todoroki-tetsu | 2014-07-23 00:34 | 批評系 | Comments(0)

走り書き的覚書

こういうことはじっくりやらなきゃいけない。だから機会が他者からもたらされる場合を除いてしゃべったり書いたりはしてこなかった。とはいえ情勢が情勢でもある。順不同に書いていく。なお、かつて書店員イデオロギー論としてメモしてきたことと、特に「三人のモデル」の部分には基本認識に大きな変化はないと自覚している(実際はわからない)。


「売れるなら何でもありか」。何でもありでもあり、何でもありではないともいえる。問いの立て方が間違ってやしないか、と疑ってみよう。売れる、とは何に比べてどうなのか。何でもあり、のその中身は何か。主語を己一人として語り続けることができるか、と内省してみること。


「ほんとうは売りたくない」。そうだろうか。どんな中身であれ、商品として値段がついている。金額の多寡によってのみ判断される。本だけは違う、などという輩の言葉を僕は信じない。言葉とカネの問題を突き詰めて考えている同時代の批評家・文学者のことを僕はできる限り忘れないでおこうと思う。どんなものであれ、カネに変わればそれとしての喜びはある。押し付けて売るわけでないのだし。売れれば置くし、広げる。売れなければ見切りをつける。それだけのことだ。


「ほんとうは売りたくない」と書店員が言う場合と書店員以外の立場の人が言う場合は、分けて考えよう。「ほんとうは売りたくない」といったところで、売れたらそれはそれとしてうれしいし、達成感はある。そういう次元が確かに存在する。そもそも何であれ売らなければ食っていけないのだ。もっと初歩的な、好ききらいだけの次元もある。ある、今でも続くある作家さんの歴史ものがある。彼が嫌いだった書店員は、人気の全盛期であっても一面以上には広げなかった。そんな程度の次元も書店員にはある。書店員以外の立場から見えるほど、書店員は考えていないのではないか、と疑ってみよう。そもそも、考える暇がどこまであるか。


たくさん本が出ていることと、実売数が伸びているかどうかは別の話であると考えること。むしろ、たくさん出始めたらそのジャンルの市場は崩壊に近づいている、と考えるのが書店員としては実感に沿うだろう。崩壊までが恐ろしく短い場合、徐々にの場合、細々とではあるが着実に定着する場合。何がいずれに属するかは、わからない。


ここに至るには、源流があるということ。比較的目立たなかったもの、一部にしか支持されなかったものが一挙に表舞台に出た、ということ。無から有は生じない。ならば転化はどこにあったのか。あったものをなかったことにはできない。顕在化には、それとして意味はある。


頭を切り替えてみよう。逆の立場から見れば、どうか。 今まで虐げられていたものが逆転した。こんなに喜ばしいことはあるまい。同じようなことが、何度も何度も繰り返されてきただけではないのか。問題を相対化しようとして、ずらそうとして言うのではない。何度となく人間が繰り返すとして、僕はむしろこれを絶対的な問題として直視していきたいと思う。

事実も真実も大事なことだ。 しかし、いかなる事実も、いかな真実も、人を変える力を持ちえない、そんなことにぶち当たったことはないか。自分自身が事実や真実によって変った、という経験はあるだろう。僕にだってある。しかし、それは果たして事実や真実の力だけであったろうか。その時に実は、自分自身を見つめていたのではないのか。自分を揺るがす事実を、真実を、知らぬうちに選び取っていたのではないのか。

慰安の言葉を消費するのは、悪いことではない。その慰安が、他者の何かを奪うようなものでなければ望ましい。慰安を求める自分を、言葉を消費する自分を、見つめること。今もんだいとされるものを出している会社の、ほかのラインナップをよく見てみよう。機を見るに敏、というところが少なからず見当たりはしないか。企業として、悪いことでは決してない。消費者と読者の裂け目、これを見極める手がかりはこうしたところにあるのではないか。



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# by todoroki-tetsu | 2014-06-13 00:27 | 批評系 | Comments(0)

感想、あるいは「戦争責任者の問題」読書異曲

 先日、ある講演を聞く機会に恵まれた。諸般の事情で参加することになったのだが、自分からはけっして出向くことはあるまいというものであっただけに、非常に興味深いものであった。

 
 「保守」なのか「右翼」なのか「タカ派」なのか、僕にはわからない。日本の「誇り」を取り戻す、というのがその講演の趣旨であった。例えば、従軍慰安婦問題はねつ造であるという。河野談話が諸悪の根源であるという。その是非や真偽を僕は云々したいわけではない。僕はただ、そこで話を聞いている僕自身が何を感じていたのか、何に触れていたのか、を探ってみたいだけである。


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 話は多岐にわたり、率直にってなかなか話術もあって興味深いものであった。首相の靖国参拝は他国から言われる筋合いのものではない、という話も出たが、その一方で「あのタイミングは適切ではなかった」という指摘もあわせてなされ、ははあ、なるほどと思わせるようなところも多分にあったのである。


 聴衆は、シンパ的な皆さんがほとんどであったろう。小中学生らしきお子さんを連れた親御さんもおられたし、年配の方も熱心にうなずいておられるなど、なかなかの熱気であった。アウェー感を十二分に僕は感じつつ、しかしこれはやはり貴重な体験であるなと思ったのだった。

 
――講演者のような意見に批判的な人々に対して、「こうした場に来たことがあるか」と問うてみたい自分を、僕は真っ先に発見する。それはアウェーでの居心地の悪さを自ら糊塗してのことであったろう。自分を正当化するには他者をこき下ろせばよい。こき下ろす他者は目の前ではなく遠くのどこかにいる誰かで十分だ。お前たちは遠くでハナから人の話も聞かないで批判していればよい。揶揄して何か言った気になってろよ。それを聞こうとする人間の気持ちがどこにあるのかまるで知ろうとせずに。そんな風に勝手に心の中で敵をこしらえていた。


 話は進む。歴史や外国や、近い隣国の話へとあちこちへ行く。博識な方らしい。メモはあまり取っていない。


――だいたいこういう時、僕はかなりのメモを取る人間だ。悪筆だがかなりの再現精度はあると自負している。睡眠防止もある。書きながら考えるというのもある。が、ある時期からメモは最小限にとどめ、言葉が仲介する時間と空間そのものに身をゆだねるようになってきた。これは明らかに若松英輔さんの講演会に連続して参加させて頂いた体験によるものだ。聞くということ、あるいは読むということ。その行為への認識が自分の中で変化していることがわかる。だからこそ、主義主張の是非や真偽ではなく、言葉を前にする自分自身を見つめたいと思ったのだ。


――そう思うと、さっき抱いた一方的な他者批判、そんなものはどうでもよくなってくる。それが問題なんじゃない。お前自身は今何をどう感じているのだ。お前の考えやものの見方とはまるっきり違う意見を今聞いているのだろう? それに向き合ってみろよ。


――さて、そうなってくると実に僕は浅い知識しか持ち合わせていないことに驚く。これじゃあ気分的なものじゃないか。その気分にあう人はいいが、合わなければそれでおしまいだ。しっかり勉強して「事実」を知る、知れば変わるだろう。そんな風にはもはや思えない。「事実」はいくらでも積み重ねてこられたはずだ。それは右であろうが左であろうが関係ない。「事実」を知れば変わる。違う。そんな生易しいもんじゃないはずだ。


――見たいものしか見ない。聞きたいことしか聞かない。そういって自分と違う意見の相手を批判するのは簡単だ。だが、そういう自分自身が、見たいものしか見ず、聞きたいことしか聞いてこなかったのではないのか。そんな地平でいくら「事実」合戦をしたところで何の意味があろう。


 壇上では「ストーリー」ということが話される。ひとつひとつのニュースをつなげてみる力が大事だという。なるほどその通りだ。昨今の従軍慰安婦像をめぐる流れ、隣国のこと、河野談話、それらが見事につなげられた「ストーリー」が展開された。


――「事実」では足りない。だとすれば、反論したいなら「ストーリー」で対峙せよ。うん、この考え方は悪くない。わかりやすく現状を解説してくれる「ストーリー」は魅力的だ。ならば、それに対抗するような魅力的な「ストーリー」を作り出せばよい。しかし、それは今までも多くの人がやってきたはずだ。それが今もろくも崩れ去ったかのように見える。いや、それは正しくない。それらの「ストーリー」の生命力は今なお失われてはいない。主題は変奏され、再びよみがえるだろう。


――だとするならば、結局は「時代のせい」か。今はこうした意見が優勢だが、いつかは変わるだろう。でも、何をきっかけに? どうやって? 「あらゆる身近な人々」がお互いに圧迫しあっていたのは数十年前のこの国で起きていたことではなかったか。「『だまされていた』といつて平気でいられる国民」(!)という伊丹万作の言葉が突き刺さる。
 

――でも、万作の言葉でもっと重要なのは、ここだ。「……まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。/こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であって、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである」(「戦争責任者の問題」)。


――「ストーリー」を求めているのは誰か? 言いたいことをいくら言おうが、自分たちがいくら満足していようが、時間やカネを支払おうとする他者の存在を抜きにして何を考えることができようか。書店員としては、いかに「ストーリー」を売れるようにしていくかが大事であるが、それは今は措こう。僕はいかなる「ストーリー」を求めているのか。それを求める自分への折り返しとともに見つめること。


――なんとかうまくみんなでやっていく方法はないか。お互いに傷つけたり傷つけられたりしてもなお、それでもみんなでどうにかこうにかいいところもダメなところも引き受けながらやっていく術は。それは例えば、中野重治さんの「五勺の酒」と大澤信亮さんの「左翼はなぜ間違っているのか」と井上ひさしさんの「ムサシ」から、引き出せたりはしないか。それは評論家の仕事であってもいいが、任せっぱなしにして安心していい話ではない。読者の責任、「ストーリー」を求める者の「自己反省」である。
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# by todoroki-tetsu | 2014-03-05 17:20 | 批評系 | Comments(0)

伊丹万作「戦争責任者の問題」其の六

 「だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人」を批判したあと、さらにこう記される。


 私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまたひとつの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

 ここでもまた、伊丹万作は言葉の人だと痛感する。「不明を謝す」という言葉を知っているか知らないかという次元ではなく、その言葉に込められた何ものかをつかんでいる。言葉を正しく用いる、いや、用いられるということ。言葉は他者から、いや死者から、やってくる。死者なくして私たちの生はない。ならば、言葉に正しく向き合うことそのものに、私たちの死と生のすべてがあるとは言えないか。

 伊丹万作が「知識の不足」ではなく「意志の薄弱」に、力点を置いていることは明白である。これは後にさらにはっきり記されるのだが、「知識の不足」には言い訳の余地がありそうだが、「意志の薄弱」には逃げ道がない。要するに、手前の了見しだいじゃねぇかってことだ。

 謙虚さ、あるいは内省。静かな怒りとでもいうべきものが、感ぜられるようだ。
 



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# by todoroki-tetsu | 2014-02-05 21:58 | 批評系 | Comments(0)

伊丹万作「戦争責任者の問題」其の五

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 
 この一節を引いてからしばらく経つ。すべては進行する。伊丹万作は揺るがない。現在を語ろうとする凡百の論評は色あせる。楔を打ち込むような言葉を発することなど僕にはできやしない。しかし、楔を打ち込むかのように「読む」ことは出来ないか。むしろそのほうが難しいかもしれない。けれど。

 
 そんなことを思いながら再び頁をめくる。万作が次に導入する視点は、子どもである。

 そこで私は、試みに諸君に聞いてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。
(中略)いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。 

 万作が子どもたちに示した限りない愛情。例えば、伊丹十三記念館では、軍国少年むけのカルタを万作がすべて芭蕉の俳句に置き換え、丁寧に絵まで描き添えたものを見ることができる。我が子への思いと次世代の担い手への思いがストレートに繋がっていたに違いない。「良心」「厳粛」ともに、言葉が正しく使われていると感じる。

 
 これでは責任の範囲を広げ過ぎてやしないか。そういう疑問が起きるだろうことをじゅうぶんに想定して筆を進める。数の多寡は実は問題ではないのだ。

 
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 
 この言葉が、自身の内省から出てきていることは読み進めるとさらに判って来る。伊丹万作をしてこの言葉をいわしめたなにものか。そこにどうやったらたどりつけるのか。
 
 

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# by todoroki-tetsu | 2014-01-16 23:31 | 批評系 | Comments(0)

断片

 いろんなことが中途半端で、でもたぶん進行している。よい進行と悪い進行と、そのどちらであるかは判らない。


 本を読んでいるようであまり読めてもいない。若松英輔さんや大澤信亮さんの書いたものが載っているものはなるべくもれなく買ってはいる。読めてはいない。いつかきっと読むだろう。それでいい。


 いくつかのテレビドラマを見ていて、今は亡き人が語り部となるようなものが複数あった。その時、「死者論」をいつのまにか通俗的に解釈していることに気づき、愕然とした。これが今の時代なのだな、というような、そんな言葉がふと頭をよぎった。別に誰かに話そうとしたわけではない。ただそう思っただけだ。ちょっと間をおいて、待てよお前、と自分で自分に強烈に突っ込んだのだった。なぜそうスムーズに言葉が出るのだ、と。「魂」の震えがない言葉。


 気づいただけまだましか、と慰めつつ、いや、そういう問題ではない、これはおそらく「言葉」に関わる根本的な問題だ。

 
 ミシマ社さん仕切りの、若松英輔さんと中島岳志さんの対談。その場において中島さんは、自らの中から出てくる言葉、それに対するおそれ、といったようなことを語っておられた(厳密には少し意味合いが異なるのかもしれない。いつかきっと本になるはずだだから確認はその時にお願いしたい)。言葉は誰のものか。そして、自分とは何か。

 
 おそれ。畏敬と言い換えてもよいだろう。日々使う言葉にどこまで畏れ、どこまで敬うことが出来るか。そこから何が見えてくるか。


 「様々なる意匠」の書きだしが思い起こされる。この地平に身を置こうと試みると、あらゆる「論争」は違った様相を呈する。自らは絶対に傷つかない場所で、ああでもないこうでもないと言うことのくだらなさとつまらなさ。これを例にするとかえって通じないかもしれないが、選挙も似たようなものだ。一度でいい、自分がこの人を、この党を、自分たちの代弁者としてなんとか政治の場に食い込ませようとあがいてみた経験があれば、ほとんどありとあらゆる「論評」が色あせて見えるだろう。


 誰かと誰かが喧嘩した。それを遠目で見て評定する。勝手にしやがれ。問いを見出せないのなら口をつぐんでおればよろしい。魂の震えとしての沈黙が、ありうるはずだ。


 「沈黙も言語である」。最晩年の吉本隆明さんはそう言った。言葉への畏れを、まずは自分なりに積み重ねていくこと。

 
 
 


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# by todoroki-tetsu | 2013-12-30 23:38 | 批評系 | Comments(0)

伊丹万作「戦争責任者の問題」其の四

 戦争のあいだ、だれが我々を圧迫し続けたか、と伊丹は問う。それは「我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつた」。つづけてさらに言う、「これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである」。


 中野重治「五勺の酒」が蘇ってくる。しかし、書きつけておきたいのは次の一節だ。
 

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。

 2013年12月6日の夜に、ここまでは記しておく。
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# by todoroki-tetsu | 2013-12-06 23:56 | 批評系 | Comments(0)

伊丹万作「戦争責任者の問題」其の三

だましたりだまされたりする日本人全体。その様相を掘り下げていく過程で、服装について触れられる個所がある。万作自身は病身でもあり、あまり出歩くことはなかったようだが、戦闘帽なるものをかぶらずに外出すると「国賊」かのように見られた、という。


 その本意は「我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々」が「我々を圧迫しつづけた」、その事実と意味を剔出するにある。そこはのちにふれよう。いま興味深いのは服装について万作自身の考えが述べられる個所。戦闘帽の例を出したそのあと。

 
 もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもついて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、かれらは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をしてみせることによつて、自分の立場の保鞏(ほきょう)につとめていたのであろう。
 
 服装の、これほど明確な定義を僕は知らない。しかし、定義があらかじめ伊丹の中にあったというような感じはしない。むしろ、眉を逆立てる様子から遡ってこの定義にたどり着いた、と思える。十三さん幼少の日記へ万作がしるしたコメントが記念館にはある。そこでは注意深く観察することの大事さを簡潔に説いていた。その注意深さが、どうやらここでも発揮されているようなのだ。

 アラン、あるいはヴェイユに通ずるような眼差しがここにありはしないだろうか。アランには、ヴェイユには、万作にはなれなくとも、しかし注意深さは、日々の自省によって鍛えることが出来る。




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# by todoroki-tetsu | 2013-11-15 00:36 | 批評系 | Comments(0)