<   2014年 03月 ( 1 )   > この月の画像一覧

感想、あるいは「戦争責任者の問題」読書異曲

 先日、ある講演を聞く機会に恵まれた。諸般の事情で参加することになったのだが、自分からはけっして出向くことはあるまいというものであっただけに、非常に興味深いものであった。

 
 「保守」なのか「右翼」なのか「タカ派」なのか、僕にはわからない。日本の「誇り」を取り戻す、というのがその講演の趣旨であった。例えば、従軍慰安婦問題はねつ造であるという。河野談話が諸悪の根源であるという。その是非や真偽を僕は云々したいわけではない。僕はただ、そこで話を聞いている僕自身が何を感じていたのか、何に触れていたのか、を探ってみたいだけである。


**************************************** 


 話は多岐にわたり、率直にってなかなか話術もあって興味深いものであった。首相の靖国参拝は他国から言われる筋合いのものではない、という話も出たが、その一方で「あのタイミングは適切ではなかった」という指摘もあわせてなされ、ははあ、なるほどと思わせるようなところも多分にあったのである。


 聴衆は、シンパ的な皆さんがほとんどであったろう。小中学生らしきお子さんを連れた親御さんもおられたし、年配の方も熱心にうなずいておられるなど、なかなかの熱気であった。アウェー感を十二分に僕は感じつつ、しかしこれはやはり貴重な体験であるなと思ったのだった。

 
――講演者のような意見に批判的な人々に対して、「こうした場に来たことがあるか」と問うてみたい自分を、僕は真っ先に発見する。それはアウェーでの居心地の悪さを自ら糊塗してのことであったろう。自分を正当化するには他者をこき下ろせばよい。こき下ろす他者は目の前ではなく遠くのどこかにいる誰かで十分だ。お前たちは遠くでハナから人の話も聞かないで批判していればよい。揶揄して何か言った気になってろよ。それを聞こうとする人間の気持ちがどこにあるのかまるで知ろうとせずに。そんな風に勝手に心の中で敵をこしらえていた。


 話は進む。歴史や外国や、近い隣国の話へとあちこちへ行く。博識な方らしい。メモはあまり取っていない。


――だいたいこういう時、僕はかなりのメモを取る人間だ。悪筆だがかなりの再現精度はあると自負している。睡眠防止もある。書きながら考えるというのもある。が、ある時期からメモは最小限にとどめ、言葉が仲介する時間と空間そのものに身をゆだねるようになってきた。これは明らかに若松英輔さんの講演会に連続して参加させて頂いた体験によるものだ。聞くということ、あるいは読むということ。その行為への認識が自分の中で変化していることがわかる。だからこそ、主義主張の是非や真偽ではなく、言葉を前にする自分自身を見つめたいと思ったのだ。


――そう思うと、さっき抱いた一方的な他者批判、そんなものはどうでもよくなってくる。それが問題なんじゃない。お前自身は今何をどう感じているのだ。お前の考えやものの見方とはまるっきり違う意見を今聞いているのだろう? それに向き合ってみろよ。


――さて、そうなってくると実に僕は浅い知識しか持ち合わせていないことに驚く。これじゃあ気分的なものじゃないか。その気分にあう人はいいが、合わなければそれでおしまいだ。しっかり勉強して「事実」を知る、知れば変わるだろう。そんな風にはもはや思えない。「事実」はいくらでも積み重ねてこられたはずだ。それは右であろうが左であろうが関係ない。「事実」を知れば変わる。違う。そんな生易しいもんじゃないはずだ。


――見たいものしか見ない。聞きたいことしか聞かない。そういって自分と違う意見の相手を批判するのは簡単だ。だが、そういう自分自身が、見たいものしか見ず、聞きたいことしか聞いてこなかったのではないのか。そんな地平でいくら「事実」合戦をしたところで何の意味があろう。


 壇上では「ストーリー」ということが話される。ひとつひとつのニュースをつなげてみる力が大事だという。なるほどその通りだ。昨今の従軍慰安婦像をめぐる流れ、隣国のこと、河野談話、それらが見事につなげられた「ストーリー」が展開された。


――「事実」では足りない。だとすれば、反論したいなら「ストーリー」で対峙せよ。うん、この考え方は悪くない。わかりやすく現状を解説してくれる「ストーリー」は魅力的だ。ならば、それに対抗するような魅力的な「ストーリー」を作り出せばよい。しかし、それは今までも多くの人がやってきたはずだ。それが今もろくも崩れ去ったかのように見える。いや、それは正しくない。それらの「ストーリー」の生命力は今なお失われてはいない。主題は変奏され、再びよみがえるだろう。


――だとするならば、結局は「時代のせい」か。今はこうした意見が優勢だが、いつかは変わるだろう。でも、何をきっかけに? どうやって? 「あらゆる身近な人々」がお互いに圧迫しあっていたのは数十年前のこの国で起きていたことではなかったか。「『だまされていた』といつて平気でいられる国民」(!)という伊丹万作の言葉が突き刺さる。
 

――でも、万作の言葉でもっと重要なのは、ここだ。「……まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。/こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であって、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである」(「戦争責任者の問題」)。


――「ストーリー」を求めているのは誰か? 言いたいことをいくら言おうが、自分たちがいくら満足していようが、時間やカネを支払おうとする他者の存在を抜きにして何を考えることができようか。書店員としては、いかに「ストーリー」を売れるようにしていくかが大事であるが、それは今は措こう。僕はいかなる「ストーリー」を求めているのか。それを求める自分への折り返しとともに見つめること。


――なんとかうまくみんなでやっていく方法はないか。お互いに傷つけたり傷つけられたりしてもなお、それでもみんなでどうにかこうにかいいところもダメなところも引き受けながらやっていく術は。それは例えば、中野重治さんの「五勺の酒」と大澤信亮さんの「左翼はなぜ間違っているのか」と井上ひさしさんの「ムサシ」から、引き出せたりはしないか。それは評論家の仕事であってもいいが、任せっぱなしにして安心していい話ではない。読者の責任、「ストーリー」を求める者の「自己反省」である。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2014-03-05 17:20 | 批評系 | Comments(0)