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伊丹万作「戦争責任者の問題」其の五

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 
 この一節を引いてからしばらく経つ。すべては進行する。伊丹万作は揺るがない。現在を語ろうとする凡百の論評は色あせる。楔を打ち込むような言葉を発することなど僕にはできやしない。しかし、楔を打ち込むかのように「読む」ことは出来ないか。むしろそのほうが難しいかもしれない。けれど。

 
 そんなことを思いながら再び頁をめくる。万作が次に導入する視点は、子どもである。

 そこで私は、試みに諸君に聞いてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。
(中略)いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。 

 万作が子どもたちに示した限りない愛情。例えば、伊丹十三記念館では、軍国少年むけのカルタを万作がすべて芭蕉の俳句に置き換え、丁寧に絵まで描き添えたものを見ることができる。我が子への思いと次世代の担い手への思いがストレートに繋がっていたに違いない。「良心」「厳粛」ともに、言葉が正しく使われていると感じる。

 
 これでは責任の範囲を広げ過ぎてやしないか。そういう疑問が起きるだろうことをじゅうぶんに想定して筆を進める。数の多寡は実は問題ではないのだ。

 
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 
 この言葉が、自身の内省から出てきていることは読み進めるとさらに判って来る。伊丹万作をしてこの言葉をいわしめたなにものか。そこにどうやったらたどりつけるのか。
 
 

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by todoroki-tetsu | 2014-01-16 23:31 | 批評系 | Comments(0)