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「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その六

 4:「作品分析――副詞『あらかじめ』の恐怖」を引き続き。


 作品分析においては、岡崎祥久さんの『秒速10センチの越冬』、長嶋有さんの『泣かない女はいない』、伊藤たかみさんの『八月の路上に捨てる』、吉田修一さんの『悪人』の4つの作品が取り上げられる。この分析を引いてしまうのは野暮だ。出来る限り最小限に抑えたいと思う。しかし、どうしても『八月の路上に捨てる』と『悪人』の分析には触れざるを得ない。


 『八月……』で印象的に挿入される「けむりづめ」のエピソード。将棋を解さない僕は、この誰だか偉い人が造り上げたというこの手について、何も言うことが出来ない。しかし、浅尾さんが言うところは、判る。

 
 私の考えでは、詰将棋「けむりづめ」は、自陣の兵隊や馬車、持ち金を失っていく絶望の戦略ではない。そうではなくて、自分が手に持っているものすべてを敵に「贈与」しながら漸進する生き方である。



 そして、ここに最晩年のヴェイユの姿を重ねあわせるところまでは、何とか追うことが出来る。判らないのが次の個所だ。

 
 私は、「けむりづめ」のたたかいやヴェイユの真心と蛮勇に、何者も追いつけないスピードを感じる。否、この世界を成り立たせているルールを根本からひっくり返すような力が宿っているのを見る。


 この文章の後半はどことなく判る。前半が判らない。ヴェイユからは張り詰めた倫理を読みとることが出来るが、そこから「スピード」を感じ取ることが僕にはなかったからだ。僕にとってこの評論の難関のひとつは、この「スピード」を把握できるかどうかにある。資本のスピードについては判った。それに対抗するようなヴェイユに「スピード」を感じ取るとはどういうことか。
 
 
 吉本さんの講演「シモーヌ・ヴェーユの意味」を聴き直してみる。工場生活に入ったころのヴェイユについて語るくだり。引用は『〈信〉の構造 2』に依る。


 へとへとに疲れてなにもかんがえられないというような日々の工場生活について、ヴェーユが感じたことのうち決定的なことがひとつありました。(略)他の労働者とまったくおなじように働いたら、反抗心をもったり、敵愾心を燃えあがらせるというふうになるかなとおもったところ、意外なことに、ぎゅうぎゅうと職制に押さえつけられて、暇もなく製品作りに専念させられてという状態を、素直に受け入れていたとヴェーユは記しています。(略)じぶんはこの抑圧を受け入れ、あたかも古代の奴隷のように嬉々としてこき使われるみたいに、そのことを心で肯定し、受け入れているという精神状態になったということが、じぶんにとって衝撃だったとヴェーユは述べています。



 このようなヴェイユの掴み方を、吉本さんは外側からだけで掴んだものではない、として評価する。この講演ではこの後また別の興味深い論点に話がスライドしていくのだが、ここで「やられたらやり返せ」との関係を考えてみたい。

 
 ついこの間、こんなふうに僕は考えてみていたし、記していた。


 資本の求める「スピード」に、「やられたらやり返す」のが「等価交換としての復讐」である。そう考えてみる。確かに、ストライキはそういうものだ。「そっち(資本)の言うことなんて聞かねぇよ」ということだ。これが生産の暴力のイメージだとしよう。

 
 ひるがえって、資本の求める「スピード」に、「耐え忍ぶ」こと。「流通の暴力」。これにさらされた人間が、「やられたらやり返せ」式に立ちあがることは極めて困難だ。ならばスピードに耐え忍ぼう、その先に「何か」があるはずだと。



 だが、ヴェイユはあきらかに工場労働であって、これ以上にないというくらい生産労働である。だとすれば、生産過程においても、「やられたらやり返せ」が成り立たない領域があるということ。いや、そもそも「やられたらやり返せ」が成り立つのは、まれな場合でしかなかったのではないか。黄金律は厳然と存在し続けている。「しはらったものを/ずっと以前のぶんまでとりかえ」そうとする人のほうがすくないのではないかという疑い。


 ならば、資本の求める「スピード」に耐え忍ぶ。それしかない。いや、耐え忍ぶばかりではなく、「自分が手に持っているものすべてを敵に『贈与』しながら漸進する」。無謀。手前で引けば良いのに。どうすることもできない。耐え忍ぶ。我が身がさらされる資本のスピードの、ほんの少し先に自らを投げ出す。頭一つ前に出す。


 しかし、その時、ヴェイユは、あるいは「ロスジェネ文学」の主人公たちは、怯えているだろうか。否。スピードにさらされ抜いた、その先に開ける地平。スピードを逆手に取る。「この世界を成り立たせているルールを根本からひっくり返すような力」がそこに宿る。

 
 ……だんだんと、心象に近づけてきた気がしてくる。とはいえ、このイメージだけでは「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」で済まされてしまいそうな、たいせつではあるけれども、どこかこう、物足りないものに思えてくる。


 『悪人』の分析に学びとることが、ぜひとも必要となってくる。

______________________________________

 ところで、本論とはそれるかもしれないが、大変に興味深いことがある。先に吉本さんの講演を引用した、その少し先。ヴェイユの体験に対し、吉本さんは自分の体験を対置する。学校出たてで町工場に働きに出て、二日に一回は徹夜でずいぶんとつらかったこと、それで自分は三ヶ月くらいで身体を壊して職場を離れたということ。その体験を振り返った時の言葉は、講演録にはこうある。


 そのときに、ぼく自身はくだらないからね、ヴェーユのように体得しなかったのですが、ヴェーユの〈気づき〉の意味の深さは理解することが出来ます。



 音声には残っていて、講演録には収録されていないくだりが存在する。その部分を再現して埋め込もう。


 そのときに、ぼく自身はくだらないからね、ヴェーユのように体得しなかったのですが、自分は素直になったなあ、とはならなかったんです。あとあとまで僕ね、あいつ、工場のおやじさんとね、町であったらただじゃおかねぇぞと、そういう反抗心を燃やしたんですけどね、ヴェーユの〈気づき〉の意味の深さは理解することが出来ます。

 
 
 吉本さんとヴェイユの岐路はここにある。どちらがいいとか悪いとかではない。「やられたらやり返せ」が吉本さんだ、とは、単純には言いきれないかもしれないが、少なくとも今、この局面ではそうだと言いうる。浅尾さんは、吉本さんが見切りをつけたところに可能性を見る。かつての「論座」での緊張感あふれる「対談」(インタビューなどでは断じてない)を思い起こす。


 わたしたちの文学はいずこにあるか。


 
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by todoroki-tetsu | 2012-07-31 22:48 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その五

 4:「作品分析――副詞『あらかじめ』の恐怖」の冒頭では、「生産」の暴力が、今までとは違った表現で語られる。


 かつて生産現場における勇猛かつ無政府主義的なファンタジーを牽引した「希望」は、支配―被支配という等価交換のなかに潜む剰余価値G’の「山分け」、すなわち平等な分配があり得るというものだった。


  
 これをふまえると、「やられたらやりかえせ」という言葉はまた違った印象を持って迫ってくる。あるいは、吉本さんの「ちいさな群への挨拶」を連想するのは、読者の勝手に過ぎようか。

 ぼくはでてゆく
 すべての時刻がむこうがわに
 ぼくたちがしはらったものを
 ずっと以前のぶんまでとりかえすために



 浅尾さんの言葉はさらに先に進む。

 
 私がこのような「希望」の型を「資本論幻想」と呼ぶのは、人間という変数の閾値が少しも勘定に入っていないからである。ひるがえって現代ニッポンの「ロスジェネ文学」は――『資本論』に忠実ではあるが、主人公たちが人間の連帯を安易に信じていないという点で、かなり深いリアリズムを獲得している。



 「平等な分配」にむけて、人間どうしが連帯することの困難。本来連帯すべき人間どうしが、何かによって分断されているという認識ではおそらくない。もともと連帯なんて出来ないし、しないじゃないか。前提が逆転する。そう、「黄金律は、天地開びゃくの第一日目から存在しており、私たち人間の目に見えなかっただけである」。


 彼らは、流通過程でふたたび過酷な労働と暴力に出会う。彼らは、それを逆らえない必然として一身に引き受けている。そうして密かに傷つき、悲しみに暮れて、ひとり声を殺して泣いているのだ。



 エドワード・ホッパーの作品から感じ取ることの出来る寂しさをも思わせる。僕はこうした言葉を記す人を、心の底から信頼する。一言一句を盲目的に信頼する、という意味では決してない。書き手と商売人である書店員という関係上、そこにはどうしても「仕事」「カネ」の関係が介在する。あらゆる緊張関係が発生しうる。しかし、それでもなお、この一文を記しうる書き手を、信頼しない理由は何一つありはしない、そう言い切る。こうした文学者と同時代を生きることの幸福が、ここにはある。

 
 とはいえ、この幸福は絶望の中のそれである。

 
 彼/彼女の後ろ姿から伸びているのは、死の影と副詞「あらかじめ」の恐怖である。


 
 この正体を突き止めるには、ヴェイユ―吉本隆明から、書き手と読者がともに学びとることの出来る以下のような着想が必要である。


 ……「ロスジェネ文学」を論じるにあたっては、物語から絶望が引き出され、「神の問題」に直面するはずである。

 しかし唯物論者の私は、いまここでは「神の問題」とは呼ばない。「資本」、あるいは副詞「あらかじめ」という表現に言い改めながら、「溜めのない世代」が抱える苦しみと悲しみを、この身に引き寄せてみたい。

 
 
 唯物論者、という言葉にひっかかる必要はないだろう。「神の問題」すなわち「信仰」にかかわるもんだいを、そうではないアプローチで考えていこうという、それだけのことだ。そのそれだけのこと、が大事なのだが。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-30 14:24 | Comments(0)

7.29脱原発国会大包囲(その二)

 デモの隊列は時に区切られ、時に間延びさせられ、短いコースでもえらい時間がかかった。東電本店前と経産省前にそれぞれ、「ここが東電ですよ」「さっきまで経産省のあの部屋には電気がついていました。中にいる人に声をきかせましょう」といったガイドをしてくれる方々がいるのがおもしろい。

 
 再び日比谷公園にやって来てから、国会方面へと向かう。おまわりさんが「この後は国会に向かって下さい」とアナウンスしてくれているのが面白い。

 
 国会に向かってぞろぞろと人が集まっていく。途中「正門前が一杯ですので官邸前へ」というお巡りさんの誘導があったのだが、少しすると別に何も言われなくなった。いろんな情報や思惑が錯綜しているのだろう。


 ぐるりとまわりを見ることが出来るかな、と思ったが、甘かった。国会正門前に近づいたところでほぼクギづけ。国会正門を背にして右斜めのあたり。もう少し進みたかったが、にっちもさっちもいかない。


 歩道に設置されたバーとコーンが邪魔に感じられてきた時、おばちゃんがさっさと片付け始めたのはさすが、と思った。確かに込み合っちゃあいるけれど、戻ってくる人にはちゃんと道をあけていたし(もちろん困った人もいるかもしれない)。


 ひとつの鉄柵にひとりの割合でお巡りさんがつく。車道をあけろ、という声も聞こえる。再稼働反対のコールと「皆さんの抗議活動は歩道で行うものです」というお巡りさんの絶叫ともあいまって、ああ、これが「るつぼ」というものなのだろうな、と思う。

 
 人の波は車道をはみ出し、車や自転車でグルグルと回る人、路線バスから手を振る人。様々なもみ合いの中で、結局は僕の近くの車道もあけられた。但し、あの大きな警察車両で何台も国会正門前を塞いで。


 鉄柵も、警察車両も、ただのモノである。再稼働反対、原発反対を主張しに来ているのだから、そうしたモノは関係がないといえないこともない。けれど、すごく違和感があった。交通整理の理屈は判る。けれど、それ以上に、おかしなことをおかしいと言いに来た人間を、すごくないがしろにしている気がしたのだ。


 「この鉄柵は皆さんをケガから守るためなんですよ」と説得するおまわりさんに、あるおっちゃんはこう言った、「原発の方がよっぽどあぶねぇんだよ」。


 おまわりさんの言うことも、ある意味で「人間の理屈」ではある。たしかに市民の安全を守るという点では重要だし、高圧的なおまわりさんはいなくはないけど、そんな人ばっかりじゃないというのも、実際に見て判っている。けれど、その次元じゃない。今ここの車道の安全と、原発の問題とは、やっぱり等価とはいえない。どちらに射程の深さがあるか、という問題だ。もちろん、だからといってどちらかが全面的に正しくて、どちらかが悪だなんて単純な問題でもないと思うけれど。


 鉄柵は、警察車両は、何を守っているのか。こうした光景を、ちゃんと目に焼き付けておこう。
 

 20:00を過ぎたあとも、すぐさま帰る気にはならず、少しぶらついてから帰る。スタッフの方々がごみ袋を持って巡回しておられた。こうした人が、ほんとうに信頼できる人なんだろう。「主催者」に対する様々な物言いがあるのは知っているし、僕自身よく判らないことも多い。けれど、何か言うならせめて一緒にゴミ拾いをすることから始めなければならないことぐらいは、自分に課しておこう。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-29 22:58 | Comments(0)

7.29脱原発国会大包囲(その一)

 暑さのせいか、持病のヘルペスを発症してしまった。夏の日中に出歩くのはよくないのだが、行かないわけにはいかなかった。もっとも大事をとって、午睡をしてから出かけたのだけれど。

 
 16:30過ぎに内幸町の駅から地上へ。出発しようとするデモ隊と、その向かい側に陣取って反/脱・原発へものいいをしたいのだろう人々の群れ。

 
 「運動」の場ではどのような立場・主張であれ、ともすると激昂してしまうし、品がないと思える言動をとってしまうことがある。許す/許さないなどと言えるものではない。


 では、どっちもどっちとすましていいのか。ある種の挑発であるから無視を決め込んでもいいんだが、どちらに寄り添うべきか迷った時に、何が判断基準になるだろう、とふと考えてみた。こうしたことは、いわば主義と主義のぶつかり合いで、自分が明らかにどちらの主義かを決めている場合はそれでよい。そうでない場合はどうだろう、と。

 
 そんなことを考えながら公園の中に入ってみる。なかなか出発しないデモを、それはそれとしてのんびりと待ち構えたり、すでに太鼓をたたいて踊り出していたり、とみんなさまざま。でも、みんな暑さには辟易しているけれど、表情が生きている。語弊を恐れずにいえば、みんああかるい顔なのだ。


 こうした顔をしている人が多い方に、信頼を寄せたほうがおそらくは間違いが少ないのだろうと思う。


 しばらく様子を見ていたが、なかなかデモの出発がゆっくりだから、ええい、別に個人で来てるんだ、どこに紛れてもよかろう、と、まさに出発せんとする隊列にもぐりこむ。早々に、例の反/脱・原発へものいいをしたいのだろう人々の群れにぶち当たる。聞くに堪えない罵詈雑言で、支離滅裂なのは別にしょうがない。


 が、ひとつだけ僕が本気で嫌に思ったのは、以下のようなものいいだった。


 「子どもを守れって? どうやって守るんだよ。言ってみろよ」


 
 これを口にした人が、どういう来歴をもつ人なのか、僕は知らない。実際に、例えば福島で子育てをしておられる方だとするならば、ちゃんと聞かなきゃいかんだろうとは思う。だが、そのような経験を現にしておられる方が、こんな挑発的な言い方をするとはちょっと考えにくい。誰か何かご存じだろうか。声からして女性だったように思うのだけれど……。


 どちらが、人間の生活に寄り添おうとしているか。どちらが、命をたいせつにしようとしているか。その具体的な方法は様々あるだろう。けれど、そうした気持ちが果たしてあるのかどうか。つまり、どちらが「人間の都合」(小田実)に近いのか。

 
 あかるい表情と「人間の都合」とは、無縁ではないはずだ。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-29 22:32 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その四

 3:「アメリカ経営哲学による黄金律の発見」の書きだしは、


 「ロスジェネ文学」の主人公は、みんな真面目で、かつナイーブときている。


 との一文である。この主人公像は、「やられたらやり返せ」的な主人公、「等価交換としての復讐」をしでかすような主人公に対置される。


 「泣かない女はいない」の印象的な場面を引いたのちに、浅尾さんは述べる。


 私たちの上の世代――たたかう労働者たちがあみ出した「やられたらやり返す」という哲学は、ここでは跡形もなく消え失せている。

 生産と流通の暴力は、同工異曲なのであろうか?



 「哲学」に下線を勝手に引いた。これがこの章のタイトルにもある「経営哲学」と対比されるものであろう。しかし、経営哲学の話に入る前に、貴重な経験が語られる。「江戸時代の下町で活躍する剣豪小説」を昼休みに読んでいた、そのことで「協調性に欠けるため」と解雇された労働者Aのこと。そのAを除いたすべての同僚が、会社の切り崩しにあい、「休憩中の読書はいたしません」「Aは頑固者なので会社から追い出して下さい」と嘆願書を出したということ。


 おのれの身に引きつけてみて、職場でかかる状況が発生した折、僕は自分で何かを貫くことが出来るか、まったく自信がない。そのことは10年余の正社員生活でいやというほど身にしみている。ほんのちょっとした「物言い」「ロジック」で、いかようにも敵と味方に分けることは出来てしまう……。


 本文に戻ろう。ルポルタージュ『大搾取!』を引きつつ、浅尾さんはアメリカ資本の発見した「黄金律」にたどり着く。


 不況のたびに不死鳥のように蘇る、あの、経営哲学とやらは着実に進化し続けて、ようやく「怯えた労働者はよく働く」という黄金律へとたどり着いた。


 なるほどビル・ゲイツ『思考スピードの経営』(2000)は、企業の情報伝達インフラを人間の神経系統にたとえて、究極のコスト削減をしようと力説した経営指南の書だが、実際、彼の予言通りの世界が築かれつつある。ただし、この大著では「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(「マタイ伝」)という、働くことへの忠誠(モラル)には一行もふれられていない。

 そう、それはひどく時間のかかることだから!



 「スピード」もしくは「時間」について触れる、これがおそらく最初の個所である。「経営(哲学)」が求める、コスト削減としてのスピード化。これは「流通過程における在庫の管理や輸送の経費を限りなくゼロにしたいという自然な欲望」に起因するものだ。この欲望の主語は「(アメリカ)資本」である。そこでは「働くことへの忠誠(モラル)」は「ひどく時間のかかる」ものとして斥けられる。


 黄金律=「怯えた労働者はよく働く」。資本の求めるスピードの達成のためには「働くことへの忠誠(モラル)」は要らない、ということ。


 ここまでは、判る。論旨が判るという意味で、判る。もんだいは、次の記述だ。


 私の考えでは、黄金律は、天地開びゃくの第一日目から存在しており、私たち人間の目に見えなかっただけである。だからイエスは、あらかじめおっしゃられたのだ――「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。



 『大搾取!』で紹介されている実態や、ゲイツのような考え方に対して、かつてあったろう「労働」の、人間らしさとでもいうべきものを対比することは、極めて重要なことであるが、ひょとするとたやすいかもしれない。そもそも「黄金律」なんてはじめからあったじゃないか、と言い切るよりは。

 
 なぜ「黄金律」は覆い隠され、いや覆い隠そうと、してきたのか? 自分の日々の労働とあわせて様々なイメージを膨らませるものであるが、今はすこしその衝動を抑えよう。「スピード」あるいは「時間」について、もう少しだけ考えておきたい。


 資本の求める「スピード」に、「やられたらやり返す」のが「等価交換としての復讐」である。そう考えてみる。確かに、ストライキはそういうものだ。「そっち(資本)の言うことなんて聞かねぇよ」ということだ。これが生産の暴力のイメージだとしよう。

 
 ひるがえって、資本の求める「スピード」に、「耐え忍ぶ」こと。「流通の暴力」。これにさらされた人間が、「やられたらやり返せ」式に立ちあがることは極めて困難だ。ならばスピードに耐え忍ぼう、その先に「何か」があるはずだと。


 「内破」という言葉がふと、頭をよぎる。が、浅尾さんの言葉に立ち返っておくことがたいせつだ。


 「ロスジェネ文学」の主人公は、みんな真面目で、かつナイーブときている。

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by todoroki-tetsu | 2012-07-29 11:25 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その三

 2:「その運命は、『地獄行き』」には、先に引いたテーゼ的な一文がある。が、順を追ってみていこう。


 「ロスジェネ文学」は、モノづくりが出来なくなった国の物語である。難しく言えば、資本の流通過程で働く若者たちのナイーブなファンタジーが恐慌的に崩壊していく物語である。



 この記述は、具体的に挙げられる「ロスジェネ文学」を読んだ上でならば、「ああ、そうか」とまでは思わずとも、「そう言えるかもしれない」とは感じることが出来るだろう。資本の流通過程で働く、という言葉の意味が今一つ判らなくてもいい。かつての工場労働のようなイメージではなさそうだ、ということだけを感じ取ることが出来ればひとまずはよかろう。


 この二頁足らずの中に、カネと暴力という言葉がいくつか出てくる。暴力もさることながら、ここではカネに注意しておきたい。


 しかし思うに、ニッポンの「ロスジェネ文学」の主人公には――否、書き手にすら、共有すべき一人の恩師もいなければ伴侶もいない。

 もはや私たちの文学の「親」は資本――カネと暴力である。



 前半の一文には注釈が添えられている。新人賞という「ふるい」にかけられ、文芸誌という闘牛場で闘う者としての「書き手」。当たり前のことかもしれないが、浅尾さんはカネと暴力の世界を、文学の世界に限定しているのではない。うまく言えないが、書き手である自分自身もそのるつぼの中にあり、カネと暴力とは無縁ではないのだ、そう意図してかせずか、とにかくそう言っている。いや、この時、自分を書き手とすら考えていないかもしれない。そう思って先にも引いた一文を読み返す。下線は等々力による。


 資本の総過程が恐慌を準備するなら、私たちの作家は、労働者の心が壊れていくさま――たとえば狂気、殺人と自殺の物語をますます描くことになるだろう。


 「私たちの作家」! ここには書き手である自分自身が勘定にはいっていない。違う。誰が書き手で誰が読み手で……そんな次元の話じゃあない。「私たちの文学」だけなら、書き手である自分自身も勘定に入ろうが、「私たちの作家」という表現には、そうした垣根など存在しない。

 
 「神」という言葉を口にした意味が、ひょっとすると……。待て。耐えよう。再び空白を、空白のままで維持したまま、次の一文に進む。


 とどのつまり、私たちの文学の運命は、資本――カネと暴力に破れていく人間の終わりを描くのか、それとも、資本に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐くような人間たちの物語をいかに再構築するのかという、もはやそのどちらかの選択しかない。



 この二者択一は、ある論法を知る者には、極めてありふれたものであるだろう。すなわち、「進歩か、反動か」。世のなかそんな風に割り切れるもんかね、と思えるのは今になってからのこと、20歳そこそこの人間が真剣に世界観を考えた時に出会ったならば、それはじつにおおきなことだ。いや、40手前の自分がさも世間を知ったようになっているに言っちまうのもおかしな話だ、これから先に何がどうなるかわかりゃしないのだから。


 しかし、とにもかくにも、これがある種の決断を迫る物言いであることに異論はあるまい。もんだいは、誰が、誰に対して、迫っているのかである。主語はあくまで「私たちの文学」にある。そして、この主語は「私たちの作家」と置き換え得るような用法を含んだものであることに注意しよう。客観的条件? それは形を変えた「神」であろうか。そんな置き換えについて考えを巡らすのはあまり生産的だとは思えない。


 試みに、「文学」という単語を取っ払ってみようではないか。そして、少しばかり文章を整えてみよう。作家に対して失礼であることは重々承知している。申し訳ないが許してほしい。この作業を経ると、例えばこの一文は下記のようになるだろう。


 とどのつまり、私たちの運命は、資本――カネと暴力に破れていくのか、それとも、資本に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐くような私たちをいかに再構築するのかという、もはやそのどちらかの選択しかない。



 浅尾さんが「文学」という時、そこに何を込めているのか、僕にははかり知ることが出来ない。しかし、言えるのは、「文学」という言葉を目にした読者は、「これはつくりものの世界の話だ」と、括弧で括って何かを判った気になってはいけない、ということなのだ。それは他ならぬ、僕自身への警告である。


 そうした読み方では、たどり着けない地平がある。いや、文学とはもともと、そんな風に消費しうるようなものであったのか。書き手浅尾大輔は既に、自らを書き手として狭く自己の周りに壁をつくるような、チンケな真似をしていない。浅尾さんがそうした構えでいる以上、それを読む私たちもまた、垣根を取っ払おう。これは誰かの書いた何ものかで、それを自分の都合のよいように消費することが出来ると思うことを、やめよう。いや、たとえやめることが出来なくても、せめてその時自分が何をやっているのか、そのことだけは自覚するようにしよう。

 
 文学という言葉が、ほんとうに真剣に用いられているのだということ。そのことをまずは感じよう。この言葉には、書き手も読み手も、一切合財すべてがひっくるめられている。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-27 23:08 | 批評系 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その二

 論旨は順に追いつつも、前後しながら、しかし丹念に一行一行を読んでゆく、そうした作業を地道に積み重ねていくほかはない。それにしても今日は、暑い。

 
 1:「ロスジェネ文学」は、ほんの10行余りで終わる。導入といえば導入だが、いきなり難関にぶち当たる。

 「ロスジェネ文学」とは、「溜めのない世代」の物語で、おそらく「神を待ちのぞむ」。すなわち、若者たちの貧しさと不当に損なわれているという心象のスケッチは、この世界が――私たち人間こそが、もっとも信じるに値しない被造物であるという疑念をもたらして、ふたたび「神の問題」と向き合わせる。



 なぜここに「神」が登場するのか。そもそも、ここで言われる「神」とは何ものか。自然なのか絶対者か、それとも、ほんとうに文字通りの神なのか。だとすれば、それは唯一神なのか多神なのか。判らない。ほんとうに判らない。


 神と人間……吉本さん流に言うなら「絶対的存在」と「相対的存在」であろうか。いやまて、「被造物」とある。何ものかが、何ものかを造ったのだ。その関係は、例えば、逆転しうるのかどうか。


 私たち人間こそがもっとも信じるに値しない、というのは、なんとなく判る気がするが、それとて、導入でいきなり判った、といえるほどの材料はない。


 様々な疑問を抱えつつ、次に進むことにしよう。疑問によって生じた空白を、すぐさまに埋めるようなことは出来る限りしないようにしてみよう。


 
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by todoroki-tetsu | 2012-07-26 22:00 | Comments(0)

「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その一

 「何度読んでもわからないものはわからない。わからなくてもいい。何か感じるものがあればそれでいい」……批評家・若松英輔さんはそんなようなことを幾度となく講演の中で述べる(こうして字面だけ再現しようとすると何とも気の抜けたようなものに感じられてしまうのはあくまで僕の筆力のなさによる。若松さんの責任ではない)。

 
 何度読んでも判らない作品というのは確かにある。繰り返し読んでみて気づくことがある、そういう作品もある。判らないけれども、何かある、そう思って読み返すが、やはり判らない。そういう作品も、確かにある。ハナから判らないだけでなく、何も感じないのであればまだあきらめがつく。何かがありそうだという感覚だけは感じ取ることが出来る作品というのは、ずいぶんと始末に悪い。言っちゃあ悪いが、腐れ縁のようなものだ。


 僕にとって、そうした書き手、作品というのはいくつかあるのだが、同時代の作品では間違いなく浅尾大輔さんの書く作品のいくつかは、そうしたものだ。判らない。だが、何かありそうだと感じる。けれど、それはいったい何であるのか。読む度に「謎」は深まる。


 そうした作品の典型としての評論、「かつて、ぶどう園で起きたこと」(「モンキービジネス VOL.10」、2010)について、何日間かかけて考えてみたいと思う。


 この評論については、発表されたちょうど2年前に、ほんの少しだけコメントを記しておいた。この評論のキモが、この時に引いたこの個所であることは間違いないだろう。

 
 資本の総過程が恐慌を準備するなら、私たちの作家は、労働者の心が壊れていくさま――たとえば狂気、殺人と自殺の物語をますます描くことになるだろう。あるいは労働力の再生産過程――職場・学校、家族から排除された「フリーター」「ひきこもり」「障がい者」、もしかしたら「自分はブスだから生きる価値なんてない」と思い悩む小学生を主人公にすえた物語と向き合っていくかもしれない。

 とどのつまり、私たちの文学の運命は、資本――カネと暴力に破れていく人間の終わりを描くのか、それとも、資本に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐くような人間たちの物語をいかに再構築するのかという、もはやそのどちらかの選択しかない。


 
 しかし、この言葉の意味はなんだろう。ここで書かれている言葉の意味をほんとうに「判った」といえるのは、はたしてどういうことだろうか。そう考える時、僕は愕然とするほかはない。あちこちにちりばめられた「神」「資本」「カネ」「あらかじめ」「嘘」「スピード」……様々な言葉は大いに手がかりになりそうで、実はそのキーワードこそがつまずきの石ではないのか。


 そう、これは評論の形を借りた「詩」なのだ。浅尾さん自身がいみじくも記す「心象のスケッチ」(1.「ロスジェネ文学」)という表現。そこに手がかりは既にあったのだ。理路整然と丹念に論旨を追っていく、そうした読み方(だけ)では、おそらく感じ取る「何か」にたどり着くことは出来ない。


 「心象」に、迫らなければならない。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-25 22:08 | 批評系 | Comments(0)

脱原発10万人集会にて

 どうにも体調が芳しくないこの数日。いくつかの、どうあっても避けることのできなさそうな問題が連発し、しかもまだ何の解決も見いだせていないことが影響している……と思っているのだが、ただの暑気あたりかもしれない。

 
 というわけで、今日も出遅れてしまった。しばしばデモだの集会だのに向かう前に覚えるだるさとも似ている。身体がどこかで拒んでいるのかもしれない。が、電車に乗ってしまえばどうということはなくなるのだから不思議だ。

 
 原宿駅がえらいこと混雑している12:30、まあ、急ぐこたあねぇやと人の流れに身を任す。炎天下というにふさわしい。色んな団体やら車やらで歌だのアピールだのがさかん。


 別段あてはハナからないが、出来ることなら武藤類子さんのお話は伺いたいと思っていた。代々木公園でやられたイベントに参加したことなんてあっただろうか、と思うくらい記憶のかなた――国民大集会といったか、あれはたしかここだったような気もする。20年近く前だからもう覚えていない――。なので、人数がどうだとか比較は出来ない。えらいこと人がいることだけは判る。


 メイン会場らしきところにようやくたどりつくと、ちょうど大江健三郎さんのスピーチが始まるところであった。相変わらずの朴訥とした口調。しかし、その中には力がみなぎる。

 
 再稼働が決まって落ち込んだ、という大江さんは、中野重治の作品「春さきの風」を想起したという。簡単に粗筋を紹介したのち、大江さんはこの作品の末尾、


 「わたしらは侮辱のなかに生きています。」


 との一節を引いたのだった。
 

 昨年、「わたしたちをばかにするな」と語った武藤さんの姿がすぐさま思い起こされた。これらの言葉を、今生きている人間をしていわしめる何かがあるような気がしてならないでいる。


 それから後、幾人かのスピーチが続く。兎に角暑いのでそれとなく木陰らしいところに移動したりしながらとこちらも忙しい。ペットボトルに詰めてきた水はすぐさま空になってしまった。

 
 いよいよ武藤さんのスピーチ、という段になって、乱入してきた人がいた。舞台が見えないので声と音でしか判断できないのだが、明らかにハプニングのようであった。きっとどうしても言いたいということがあったのだろう。思いつめてもいたのかもしれない。が、間もなくマイクを切られ、おそらくは舞台の外へと連れ出されたようだ。

 
 経産省前であったり、官邸前であったり、東電前であったり、そうしたところで絶叫としかいいようのない声をあげている人を見てきた。聞くに堪えない罵倒も中にはあった。そんな言い方じゃ伝わらない、というのは圧倒的に正しいけれども、簡単だ。そう表現するほかないところまで追いつめられたことを想像すると、僕にはもう何も言えなくなってしまう。それはそうした言動を支持する/しないという以前の問題としてある。


 しかし、今回の乱入者は残念であった。他ならぬ武藤さんのお話を邪魔するような格好になってしまったのだから。やり方を「間違っていた」という資格は僕にはないが、少なくとも「まずかった」ことは確かだろう。


 ややあって、武藤さんが登場した。武藤さんのお話を直接に伺ったのは、数十人程度の集まりの一回だけだったように記憶している。この方のすごいところのひとつは、そうした数十人程度の集まりでのお話しぶりと、10万人を超す場所でのお話しぶりとが、ほぼ変わらないことだ。後者の方がどうしても多少は演説・スピーチめいたものにはなるけれども、ひとりひとりに語りかけるような、そういう口ぶりは変わることがない。

 
 ほんの数時間前のことなのに、もはや話の細部は自力で思い出すことが出来ない。しかし、お話をおおぜいの人と一緒に、直接に「聞いた」という体験だけは、強く、深く、頭の中に、あるいはこういってよければ「魂」の中に、残っている。


 武藤さんはおそらく、自分が何かを語るというお気持ちでおられるのではない。誰かに、何かに、陰に陽に突き動かされ、あるいは守られながら、言葉を発している。そのようにご自身で自覚されているのではないだろうか。それは武藤さんを通じて、聞き手、いや、同じ時代を生きる僕たちひとりひとりに響いてくる。

 
 かつて武藤さんの言葉について考えた時、僕はこのように記したことがある。


 武藤さんを絶対的存在として称揚してはならない。同時に、貶めてもならない。当たり前のことだが、どちらも失礼だ。確かにすごい人だと思うけれど、そのすごさは自分も生活し、働いている同じ社会・同じ時間と地続きであるというべきだ。自分とは無関係の地平にある存在なのではない。このことは何度でも思い出す価値がある。そして、そうした人が発した言葉が突き付ける絶対性が、確かにあるということを記憶にとどめよう、出来る限り。



 今は少し手触りが違ってきている。例えば、こうした文章に接した時の感覚に、近い。様々な違いを捨象しても、なお。


 何をなすか、ではなく、何を受け継ごうかと考え、世界をみるとき、私たちははじめて自身に準備されている「遺物」の豊かさに気がつくのではないか。別な見方をすれば、生きるとは、自己の願望を成就することではなく、先人の生に、いかに受け継ぐべきものを見出すか、ということになる。
                                 若松英輔、『内村鑑三をよむ』、P.48


 
 相対的存在に宿る絶対性、というのが僕がこの数年ぼんやりと考えてきたテーマであったが、どうやら少しは問いを進めることが出来そうな手触りが、ある。それは、数多くある問いや課題を、貫くことのできる「棒のごときもの」となるものかもしれない。

 
 武藤さんのスピーチのもたらしてくれた「体験」を、今一度かみしめることにしよう。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-16 17:47 | Comments(0)

金曜日から日曜日へ(その二)

 うかうかしていると、すでにもう一度金曜日も日曜日もめぐって来ていて、さて、僕が記そうと思うのは2週ほど前のことなのだけれども、そのように日々を連続したものとして考えてよいものかとふと迷う。先週あったことは今週もあり、来週もまた……。そのように繰り返す、といつの間にか見なすことで何かを手放してはいないか。


1.
 6/29(金)のあと、こんなことを考えていた。

 「知識人とよばれる者、言葉を発せよ。懐手で眺めているくらいなら、動け。われわれに力を与えよ。寄り添え!」

 ガタガタ抜かすなら現場に来やがれ、というわけだ。情に駆られてそんなことを思ったわけなのだが、一方で、そういう「勢い」の中で冷徹に事態を見据えてくれる人間もいないと困る。では、どんな言葉なら僕は納得できるのだろう。


2.
 そもそも、インテリゲンツィアが「大衆」に力を与えうるなどと考えるのがおかしいのかもしれない。が、やはり知識人には知識人にしか出来ない仕事があるはずではある。どちらが偉くてどちらが卑しいというわけではない。じゃあ、書店員である僕は何を、どう出来るのか。

 7/1(日)、そぼ降る雨の中、バラバラと集まってくる人の中で、ぼんやりとそんなことを考えていた新宿中央公園。再稼働されるかどうか、瀬戸際だと思っていた。


3.
 出発はずいぶんと押したような気がする。予想の範囲なのか、何か事情があったのかは判らない。お巡りさんも結構な数が出動している。どこをどう歩いたのか、あまり覚えていない。御苑界隈でずいぶんと足止めをくらったのだが、人数のせいなのか、単に交通量の問題なのか。

 こんなことをして何になるのだろう、とは思わない。ただ、何かしないとまずい。そう思う気持ちは金曜日と変わらない。人数は8千とか1万とか、そんな発表だったと思う。それも大した数なのだけれども、この規模が決して大きくは見えない、というところが変化といえば変化かもしれない。


4.
 デモの列は急に流れ解散となるが、アルタ前へ、との声が聞こえる。お巡りさんはかなり居丈高に解散を命ずる。「回りの歩行者・車は諸君を待ってくれている。ただちに解散せよ」みたいな感じ。

 確かに、待ってくれている。確かに、いささか申し訳ないという気にはなる。けれど、待ってくれている人と、デモの隊列は、そうお巡りさんが言うほどに分断されているものだろうか。

 同じだとは言わない。けれど、まったくもって違うものではない。

 この境界線を、僕は見据えたい。それはおそらく、僕個人の気質もあろうけれども、それ以上に、他者の言葉を他者に届ける書店員という仕事からくる、欲望である。


5.
 官邸前の帰りや、渋谷でのデモの帰りにはまったくそんなことは思わないのだけれど、今回のデモに限っては、終ったあとに一杯やりたくなってしまった。まあ、ベルクが近いからというのもあるのだが。アルタ前にデカい車がついているのを尻目に、まずは兎に角ハーフを一杯ひっかける。

 アルタ前の広場は思いのほか人が少ない。いや、それでも結構な数がいるのだが、お巡りさんががっちり固めてくれてもいるので、飛び入り的には入り込みにくい。

 街宣車のアピールを今更聞いてもな、と思い、少し離れたガードに腰掛ける。すぐ横ではドラム隊の皆さんが、これまた一服しておられる。ちょっとしたまったりムードだ。デモに参加していたのか途中から飛び込んできたのか判らないおっちゃんが、スタッフらしき人と議論を戦わせている。

 あんまり僕は「場」を強調する言説にはさほど思い入れがないのだが、こうした「場」は確かに必要だよな、と政治家だか学者だかのスピーチを耳にしながら、ぼんやり。
 

6.
 空気は悪霊さんの登場で一変する。彼のマイク一本で、集まっている人の体が動き出す。どんなコールだったか、まったく記憶にない。けれど、言霊というものがあるとすれば、これは間違いなくそうしたものだろう。

 それに呼応するかのように、一服モードだったドラム隊の皆さんが動き出す。街宣車からは植え込みを挟んでいるからいわば死角になるはずなんだが、音は視界など気にせず突き刺さる。ある時は悪霊さんと呼応し、ある時は独自に、何度でも何度でも刻まれるリズム。いったんやんだかと思うとまた別の人が叩きだす。コールが起こる。踊り出す。叫ぶ。幾度となく、途切れることなく。

 僕も思わず身体を動かしていた。実に心地よく。


7.
 狂気だ。傍から見ればなんのお祭り騒ぎだと思われるだろう。真面目にやれ。そう思われるかもしれない。けれど、狂ったようにドラムをたたき、羽根飾りをつけて踊り、叫ぶ、その言葉は「NO NUKE」であり、「再稼働反対」であり「原発いらない」なのだ。

 狂気をまとってしか現れ得ない正気が、ここにはある。あるいは、正気であるためには狂わざるを得ないのだということ。

 ここに希望だけを見出すわけにはいかない。

 こんな絶望が他にあるだろうか。

 ふだんの生活や仕事の中では、覆い隠さなければならない正気。

 ほんのわずか数時間の間しか、あらわにしえないような正気。

 僕たちの日々はそんなにまで抑圧され、苦しいものなのか。

 ここを見据えなければ、かすかな希望すらつかみ損ねてしまいはしないか。

 上原專祿を読みながら思い浮かんだ言葉、「絶望に裏打ちされた希望」の意味を、僕は再び問い直さなくてはならない。


8.
 21:00を過ぎて、あれは松本さんだったろうか、大飯が再稼働されたとアナウンスがある。こんなことはふざけている、といったようなことが言われていたように思う。同感。

 「やってもダメだった」と思う人もいるかもしれない。さらに何とかしなきゃ、と思う人もいるかもしれない。 

 さて、自分はどうだろう。
 
 考えることだけは、やめるな。誰かが言っていることでも、全部自分の頭で考え直せ。

 今言えるのは、それだけだ。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-09 22:33 | Comments(0)