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3・11に向けて、あるいは子どものメッセージの商品化について

 案の定、というと言葉が悪すぎるだろうか。数ヵ月後に迫る3・11に向けての新刊のご案内を目にすることが増えた。


 今年に入ってから目にするものは、これまでに出された広義の震災・原発本とはどことなく違っているように思える。「起きてしまったこと」「今起きていること」を――後追いでもさかのぼるでも同時進行でもかまわない――対象に据えてきたのが今までの流れだったとすれば、これから出されるものは「来る3・11とその先に向けて」というものにより重点が置かれているように思われる。


 もちろん、これは厳密に言えば不正確であって、今までもこれからも、過去を振り返ること、今を見据えること、これからを展望することのみっつは常にあり続ける。「過去、現在、未来――/この言葉はおもしろい/どのように並べかえても/その意味合いは/少しもかわることがないのだ」(山上たつひこ、『光る風』の冒頭)。


 具体例は逐一あげないが、被災地の子どもからのメッセージを集めた、といった企画の本が目立つ。既に数種類チラシを見ている。たぶん、もう少し増えるだろう。これは『宮城県気仙沼発!ファイト新聞』の流れをくむもの、と書店員としての僕は考える。つまり過去の類書は何で、元棚に落とし込む時には何の隣に差せばよいのか、という発想。


 嘘か本当か知らないが、ネタに困ったら子どもかペットみたいな言葉がどこかの業界であるらしい。そういう目で見てはいけないのだろう。特にこれから先へと連なる子どもの問題というのは如何なる意味でも重要だ。けれど、そうした本に注文部数を入れている自分を俯瞰してみている自分は自分にこう突っ込む……「お前、子どもを食い物にしちゃあいねぇか?」。


 このような発想は大変に礼を失している。被災地、といってもひとくくりにはできないはずだがそこはさておき、大変な目にあってきたし今もまた大変な思いをしながら、生き抜いている子どもたちの発する言葉・メッセージは切実で、大事なものであるだろう。それを本にすることにはおそらくぐうの音も出ないくらいの正当な「社会的意義」が、ある。けれど、いや、だからこそなのか、それを「売れる/売れない」で判断する際に、ほんの少し、躊躇はある。


 しかし、そんなことは子どもに関する本に限ったことではないのだ。多分別にちゃんと記さなければならないが、どんな人の言葉であれ、それがパッケージ化されて本という商品になるや否や、売れるか売れないかだけが重要になる。もちろん、本によってその売れる/売れないの基準は変動するが、しかし、どんなに「いい本」であれ、一冊も売れなければ商品としても社会的意義としても意味はない。さらにいえば、僕は書店員として働いてメシを食っているが、そのメシの元をたどれば、例えば団体のまとめ買いによる売上であったり、一過性のタレント写真集であったり、ダイエット本だったりもするわけである。お客さんの買ってくれそうなものを用意するのが書店員の仕事であって、個人の思想信条なんて関係ない。それは当り前のこと。ここが同じ「出版業界」であっても出版社――特に所謂「社会・人文系」のそれ――とは大いにイデオロギー形成過程が異なるところであるだろう。

 
 こんなことを言ってしまうと身もフタもないのかもしれない。が、同時に言葉が商品であるということの可能性もあると思っているのであって、「売れない」ものをいかに売れるようにするかが仕事であると思ってもいる。成功したためしはほとんどないのだが……(しかし多分そう思わないとやっていられないのだろう。その点は書店員イデオロギー論として考えていく)。

 
 話を戻そう。子どもの発するメッセージを何らかの形でまとめて本にするのは意義があるし、露悪的に言えば商品価値がある。しかし、あまりに似たような企画が重なると、お互いにお互いを食いあって商品寿命を縮めてしまう。書店の棚は有限なのだ。特定のコーナーを拡げようにも限度がある。棚から溢れてしまえば返品するしかない。この間の原発本でいやというほど見てきた光景が、また繰り返されるような気がして暗澹たる気持ちになっている。


 原発本の洪水は、それはそれである種の社会的関心のあらわれであるから全否定するつもりは毛頭ない。今後に残っていくだろう本もあるだろうし、一過性で終わるかもしれないけれどもその時期には一定の役割を持った、そんな本もあるだろう。「社会的意義」を強調されることの違和感などは以前のエントリで記しておいた。


 今考えているのは、確かに商品として売り買いされるけれども、触れた者の心に沈潜し、やがては喰い破るような、言葉。この言葉を発する者は何者か、その言葉をその者に言わしめる力は何なのか、そしてその言葉に触れたお前はどうするのか、と突き付けるような、言葉。読む者に単なる「反省」や「感動」を引き起こして感情を消費させるようなものではない、言葉。そうした可能性はあり得るのではないか、と武藤類子さんの『福島からあなたへ』を読みながら考えている。


 それは「これを言いたい」「これを伝えたい」という思いだけでは、成り立たない。そういう思いはもちろんすべての出発点であって、大切にしなければならないものだ。けれど、そういう思いが、いかに他者に伝えるかを考慮された上で発せられた言葉になり得るかどうかはまた別の話である。


 そんな可能性が見出せるような商品に、僕は力を注いでみたいと思う。それがささやかな自己満足、ある種のつぐないのような感覚であったとしても。それで何かをやった気にならないように自戒しながら。

 
 蛇足をひとつだけ。もちろん、子どものメッセージをまとめていく本の場合、子どもの言葉や絵を改変することは難しいだろうし、すべきではない。けれど、それらを活かして作りこんでいくことは出来る筈だ。『「僕のお父さんは東電の社員です」』はその好例といってよい。
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by todoroki-tetsu | 2012-01-25 21:13 | Comments(0)

しかし、自分の問いは成長させることが出来る

 昨日は、他者の問いを生きることは出来ないということ。自分の問いは何なのかと考えてみてまだつかめてはいないけれども、問いは他者とのかかわりが不可欠であるということ。その他者とのかかわり――出会い直しの場を、職場に求めようと考えているということ。そんなことを記したのだった。


 自分としてはまったく後向きなつもりはない。絶望に裏打ちされた希望は、かすかではあるが持ち合わせている。それは、自分の問いは成長させることが出来る(はずだ)、という発想である。


 唐突な補助線だが、その人にとっての問いというのは、『ジョジョの奇妙な冒険』におけるスタンドのようなものだと考えてみる。スタンドは一人にひとつ(一能力)であり、スタンドが傷つけば自分も傷つく。スタンドはスタンド使いにしか見ることが出来ない……スタンドの特性がこれらに尽きるものではないが、これらは問い(を生きる)とは何か、を考える上でヒントを与えてくれる。


 問いは一人が複数持つことは出来ない。自分の持つ問いが行き詰ったり、他者との関わりや議論の中でその弱点を突かれたりした時には自分自身の肉体的な苦痛を伴う。そして、他者の問いは自分も何かしらの問いを持っている場合にしか感じ取ることが出来ない、逆もまた然り。

 
 そして、全てのスタンドがそう描かれているとは思われないが、広瀬康一の「エコーズ」(『ジョジョ』第4部)のように、成長していくスタンドがある。最初矢に貫かれてから、困難な局面に立ち向かうごとに成長を遂げていくスタンド。このイメージは重要だ。


 最初のきっかけはそれこそ不慮の事故のように突然で、一方的なものだ。けれど、それをきっかけに問いを得、またその問いを深化・成長させていくことが出来るのではあるまいか。


 他者の問いを生きることは出来ない。しかし、自分の問いは成長させることが出来る。それは違った問いを持った他者とのたたかい――それは共闘も含むだろう――を通じて、である。

 
 この可能性は、文字通り万人に開かれているはずだ。というよりも、自分自身で無理だと思いこむこと以外に、可能性は、可能性だけは、開かれていないと考える理由が存在しない。もちろん、それは達成が容易であること、成功を約束するものでは断じてない。困難であることと不可能であることは違うのだ。

 
 しかし、こう考えてみると、問いを生きるということは言葉を生きるということではないのか、というようにだんだんと思えてくる。この感覚を確かめるために、もう一度『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』を読み返すことにしよう。


  

 
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by todoroki-tetsu | 2012-01-16 23:59 | Comments(0)

他者の問いを生きることは出来ない

 論理も何もあるもんか、という気持ちになっている。自棄ではないが、自棄かもしれない。ただ、文章なり考えなりを巧いことまとめようというよりは、破綻していようが何だろうが、自分にとって大切だと思うことを記しておかねばという、そういう気持ちである。


 だったら何もブログなんぞに書かずとも手前一人でノートかなんかに書き殴っとけばそれでよさそうなもんだが、そう思うといつまでたっても筆が進まない。どうにも妙なものだ。この期に及んで助平根性がまだあるようだ。なら、それはそれで致し方ない。

 
 大澤信亮さんの『神的批評』が出て間もない頃に記したエントリの、大して進歩していない続きである。


1.共生と問い

 古い話からはじめる。学生時代の終わりごろだ。ある教育社会学者の記した一文を目にする機会があった。それはゼミ生の卒論の梗概をまとめたような冊子で、先生はその冒頭に少しばかりのエッセイのようなものを寄せておられた。確か98年頃のことだと思う。


 当時、いや厳密にはその少し前からであろう、「共生」という言葉がしばしば用いられた。それは目指すべきもの、望ましいものとして語られていたように記憶している。先生は、その風潮に異を唱えられていた。共生、とは一体何を意味するのか、それを十分に吟味しているか、と。そして言う、「共に生きるとは、問いを共有することでなければならない」と。


 僕は事あるごとにこの言葉を思い出そうとし、また実行しようと努めてきた。しかし、学校を出てからもうじき15年、途はますます遠のいていくばかりのように思える。



2.忘却し、すれ違う

 秋葉原の事件についても、また身近な職場の事柄ひとつも、僕は忘却し、身体感覚を重ねあわせられていない。その度に自分に絶望しながら、しかしそこから何かが得られはしないかともがいてきた。

 
 だが、考えているうちに、ふと不穏な考えが頭をかすめるようになってきた。そしてそれはいつのまにやら僕の頭の片隅にしっかりと居すわり、どうやら、日に日に活気づいているようなのだ。


 ――他者の問いを生きることは出来ない。



3.虚無には陥らず、しかし

 どうせ自分以外は赤の他人なのだから判りあえることなどない、というほど虚無的にはならない。そこまで行きつけるほど自分は強くない。せいぜいのところ控えめな虚無主義、いや、日和見的虚無主義? 今日大千秋楽を迎えた第三舞台の「深呼吸する惑星」に倣って言えば、絶望はするけれどあきらめはしない、というところだろうか。


 人と人とはどこかできっと判りあえる瞬間がある。何か大切なことに向かって思いを重ねあわせることが出来る、そんな瞬間はきっとあるはずだ。それを信じる程度の気持ちはある。けれど、それはほんとうに、ほんとうに難しいことだ。


 その難しさを考えるにつけ、「問いを共にすることは出来る筈だ」と前提するよりもむしろ、「問いを共にすることは出来ない」と前提したほうが、どうやらしっくりくるような気がしてきたのだった。



4.無数の問い、そして敗走

 昨日、ほんのわずかな時間だけ、脱原発世界会議の会場に足を運んだ。実に様々な問題があり、その人なりのアピールがあり、それは固有の問題でもあり、構造の問題でもあるような――そういう何かがひしめいていた。

 
 一筆の署名すらせず、逃げるように会場を去った。昔なら勢いで署名くらい(!)ならとバンバンやったものだけれど。


 多分、僕は気圧されたのだ。この場に集まった方々の、それぞれの現場でやってこられた地道で切実な運動の積み重ねに。例えば古びたライティングボードにはさまれた用紙に署名をすることで、例えばいささか無造作に積み重ねられたチラシを受け取ることで、例えば催しの呼びかけにうなずくことで、そんなことで何かをやった気になってしまいそうな自分を、無意識のうちに想像したのである。


 それは、一般に運動に携わっていない人間が携わっている人に対して感じるコンプレックスであるだけではない。それなら、言葉は悪いがどこでもよい、どこか特定の運動なり集まりなりを自分の居場所と定め、そこで頑張ればよい。僕が感じている手触りはそういうものではない。

 
 何枚もの用紙に署名することは出来る。だが、署名している自分は何なのか。原発に関する問題でもこれだけ数多くある。それは即時廃止か順次廃止かといった方針の違いも含むだろう。何かに具体的に携わった瞬間、何かを取りこぼしてはいないか。いや、取りこぼすだけならまだいい。その問いを、本当に自分のものとして生きていけるのか。

 
 つまるところ、行き着くところはここになる。

 
 ――僕は、何を問うて生きているのか?



5.出会い直す場はどこか

 原発に関するだけでも無数の地域、無数の人々の問いがある。そして、原発以外にも、様々な問題に世の中は溢れている。それらはひょっとすると、一生かかっても解決や追求しきれないことなのかもしれない。


 だからみんなで手を取り合って、というのは悪くない考えだ。連帯という言葉はいかに泥臭く、古めかしく聞こえたとしても、気高い。でも、人と人は意見が食い違うこともあるし、仲間割れもするし、くじけるし、疲れもする。それはいわば当然の成り行きというものだろう。「朝日のような夕日をつれて」冒頭の群唱がすぐさま思い浮かんでくるようだ。


 他者の問いを生きることは出来ない。原理的に無理だというだけでなく、それは倫理であるかもしれない。自分に出来ることは、自分の問いを見定め、生きていくことにしかないのではないか。


 それは利己主義を意味しない。自分が他者との関わりの中で生きていくしかない以上、他者の問いにはむしろ日常的に触れているというべきだ。僕は昨日ものの見事に敗走したわけだが、そこには極めて判りやすい形で数多くの他者が、問いが、あった。しかし、「困難は目の前にいる他者との出会い直しにこそある」(大澤信亮)とするならば、僕が普段日常と感じ、問いのことなど意識していない瞬間にこそ、敗走せんばかりの問いを見出さなければならないはずだ。


 その出会い直しを、僕は自分の職場で試みたいと思う。何をどう問えるかはまだ判らない。けれど、自分が時間の大半を過ごし、食う手立てでもあり、人間関係のほとんどを負っている職場を抜きにしては、あらゆる問題は考えられない。


 少なくとも今の自分の、フィールドだけは定められた。
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by todoroki-tetsu | 2012-01-15 20:42 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(7)「社会問題/運動」と単行本

 社会運動としての出版、という考え方はあり得る。それには相当程度賛成する。書き手、編集者、営業さん、出版社としては、十二分に成り立つ考え方であろう。書店員においては、部分的に成立する考え方であると考えておいた方がよさそうだ。そんなことについて今日は。


1.基礎イメージ
 
 まず、社会運動とは何ぞやという問題なのだが、その手前(?)の社会問題から考えてみよう。この定義をどこかで誰かがやっているのか、僕は知らない。例えば水俣病、例えば原発の問題、例えば小沢さんのおカネの問題、例えば消費税の問題……具体的に挙げていけばおそらくキリがない。ひょっとすると、あらゆる問題は社会問題だと言いうるのかもしれない。が、混乱を避けるために、ここではひとまず、吉本隆明さんの「三人の世界」という定義を借りておこう。講演「宗教と自立」より。
 
 
 かんたんにモデルでいえば、ひとりの世界というモデル、それから二人の世界というモデル、それから三人の世界というモデルをつくれば、人間の観念の世界は全部了解することができるでしょう。多数の世界において起る問題の原型は、三人の共同性の世界で起る問題を徹底的につきつめることによって理解することができます。

                          吉本隆明、『<信>の構造 2』、春秋社、P.220



 これは「観念の世界」について言われていることだけれども、概念整理には非常に役立つ。要するに、個人的な問題とか、二人だけの問題ではなさそうな問題を、ざっくりと社会問題であると認識しておこう。その程度のことである。

   
 さて、これらの問題に、何らかの行動・言動をもってアプローチしていこうとすることをひとまず社会運動としておこう。問題ごとに組織が創られるかもしれない。予めある組織が何かを行うのかもしれない。組織といってもいろいろあるだろう。一人で起つのも運動ではあり得るが、他者への働きかけをそれは前提とする。


 余談だが、一人で何かすることで、運動と言いうるかもしれない、と思えることで自分がやったことは、学生時代に何度かやった個人署名入りの立て看板づくりとか、数年前に手製のプラカードを持って国会前(議員会館前)に突っ立っていたとか、そんな程度のことしかない。誰かに伝えたいという思いはあるが、その行動は一人で責任を負う/負える範囲でやろう、という発想であろうか。比較的最近ではしばしばデモの隊列にひっそりと加わらせてもらっているが、これで「運動」をやっている気になってはいけないと自戒している。企画・運営・実行する皆さんが非常に大変だろうことを思うと、おのずと自戒のモードに入っていくのである。



2.社会問題/運動を単行本にするということ

 様々な社会問題、またそれに対する働きかけとしてのいわゆる社会運動を活字化・報道することは、ブログなども含めるとかなりよく行われていることだろう。もちろん、大手の新聞・雑誌が云々といった問題はあるだろうけれど。

 
 新聞で報道されること(特集のようなものも含む)、週刊誌や月刊誌でそれらが記事なること、これらは非常に意義もあり、ニーズにも一定応え得ると思う。しかし、それらを単行本にするとなると、話は変わってくる。ここが僕の認識の中心だ。


 新聞・雑誌であれば、定期刊行物という性格からくるひとつの枠組み・パッケージの形式がある。その中の構成の一部を為す、という次元においては社会運動についての記事や論説は大いに許容されるであろうし、また、されねばなるまい(実際はなかなかそうではないだろうことはもちろん重々承知しているつもりである)。


 ここで、ふたつのパターンを想定する。いきなりその社会運動・問題の単行本を作ってしまう場合と、何らかの媒体での連載をベースに単行本にする場合。

 
 どちらも様々な成り行きでそうなるわけだろうが、いきなり単行本にする場合、ともすると陥りがちなのは、運動当事者もしくは運動に既に参加している人を励ます意味合いが強くなりがちなことだ。そういう本はもちろんあっていい。だが、高度に専門的ではない書店の場合に、僕はあまり積極的に陳列する意味を感じない(置かない、という意味ではない。誤解なきよう念のため)。

 
 例えば、「声を上げないのは賛成しているのと同じ」という言い方があったとする。その言葉そのものは、おそらく間違っていない。その言い方は、運動を頑張っている人、参加し始めた人を励ますかもしれない。しかし同時に、運動に現時点で携わっていない人に対してはある種の「拒絶」と受け取られることもあるだろう。

 
 もちろん、どんな物言いも100%万人に伝わるなんてことはあり得ない。今挙げた例でいえば、「そうか、だから自分も黙っていてはいけないんだ」と思う人もきっといるだろう。しかし、単行本全体としての方向性として、どんな人を想定しているのか、そこは書店員として意識せざるを得ない。特定の層を狙うのならそれでいい。運動の場で売ってくれればいいのだから。「社会問題に関心のある人」なんてあいまいな客層想定しか出来ないようなら、少なくとも書店で売ることは難しいと一度は、一度だけでも良いから、考え直してみてほしい。

 
 ところで、新聞や雑誌連載の単行本化の場合には、反響に基づき、想定される客層もある程度は事前に予測出来るだろうとは思っている。レイアウトや注釈、また必要に応じたまえがきなどの配慮は必要であるけれども。それがない、もしくは不十分なものがあるのは非常に残念だ。



3.モデルの整理

 以上を三人のモデルをベースに整理してみる。


 Aさん、Bさん、Cさんの三人がいる。この三人が意識している/いないに関わらず、さらされている問題を仮に社会問題だとしておく。


 さて、Aさんはこれは問題だと思い、その改善のための運動をしようと考える。Bさんはそれに賛同する。Cさんは「興味がない」といって賛同しない。


 ここでAさん、もしくはAさんとBさんを、主たる読者と想定する本には、僕はあまり積極的に陳列する意味を感じない。AさんやBさんは確かに買ってくれるかもしれないが、わざわざ本屋に来ずとも運動現場の手売りなどで購入しているかもしれない。来てくれても、AさんとBさんの最大2冊までだ。

 
 ここでCさんにいかに手に取ってもらおうか、と考えて作った本は、積極的に陳列したい。ひょっとすると、AさんやBさんにとってはわざわざ買うまでもない本かもしれないという可能性もある。けれど、「興味がない」といったCさんが買ってくれるような本であれば、Cさん――それは無数に連なるCさんだ――への販売可能性があるというものではないか。またそんな本であるならば、AさんやBさんも、Cさんを説得するための材料として買ってくれるかもしれない。3冊以上売れる可能性がようやく出てくるわけだ。

 
 着実に2冊売れる本を別段切り捨てるつもりはないが、必要以上に積極的に陳列するつもりがないのは以上のような意味である。無数のCさんへの販売可能性がある本があれば、積極的になってみようというものである。



4.「つくり」の問題

 とはいえ、Cさんに向けて本を作ろうとするのは難しい。結果としてなかなかうまくいかないことの方が多い。けれど、努力を放棄したらそこでおしまいだと思う。


 以上のようなことをもっとかいつまんだりデフォルメしたりして営業さんや編集者に伝えると、「それでも社会的意義が……」とか「本のレベルを落としたくない」などと言われたりする。何もCさんに向けることが別段社会的意義を貶めるとか本のレベルを下げるとか、そういうことではない。もちろん、何度でも繰り返すが、Aさん・Bさんにだけ向けて作る本はあっていいし、それはそれでありだが、それらを必要以上に積極的に陳列するつもりはない。Aさん・Bさんのことしか想定していないような本を「幅広い読者の方に……」なんて言われても別に注文部数を増やすつもりはありません。ただ、それだけのことだ。


 結果としてそれなりに堅調なセールスをあげている本もあれば、やはりなかなか結果には結びついていかないな、と思う本もあるけれども、内容を維持しながらちゃんとCさんのことも考えているな、と思う「つくり」を実現した本を3点あげて、今回のエントリの締めとする。


・雨宮処凛、『14歳からの原発問題』、河出書房新社

 雨宮さんの語り口に帰するところが少なからずあるが、かゆいところに手が届く注釈とよみやすいレイアウトが素晴らしい。


・園良太、『ボクが東電前に立ったわけ』、三一書房
 
 上記のモデルで言えば、かなりAさん・Bさんよりにはなっているけれども、これも注釈やコラム、また時系列の記述などで「読みやすさ」を確保している。編集者の力を感じさせる。


・中島岳志、『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』、金曜日

 まえがきならびに雑誌連載未収録分の対談を大幅に付加し、単行本ならではの付加価値化に成功した好例。強いて言うならもう少し注釈を増やしてもよかったかもしれないが、しかし初読者への配慮は十二分に感じさせる。また、書店店頭においては非常に重要なことだが、カバーの装丁(色遣いと写真)が控えめでありながら存在感をアピールするに十分。


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 明日、明後日で脱原発関係の大きな催しが行われるようだ。それをベースに何かしらの単行本の企画が生まれるかもしれない。本来は個人的な問いに沈潜すべきところを放棄し、あえて今日記してみた所以である。
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by todoroki-tetsu | 2012-01-13 14:20 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(6)「内容」か「背」か

 「著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である」と以前のエントリで記したけれども、書店員が扱うのは言葉であってなおかつ、商品でもあるものだ。

 
 前回『言語にとって美とはなにか』を引いた。今回は別のところを前置きとして参照しておきたい。概念図も掲出されているが、ここでは本文のみを引く。


 ……言語表現を『経哲手稿』のマルクスのように「人間の本質力の対象化された富」といってみれば、この対象化された表現をbの経路(等々力注:自己表出から指示表出へ)でかんがえるとき言語表現の価値を問うているのであり、aの経路(同注:指示表出から自己表出へ)でかんがえるときその意味を問うているのだ。そして、そのうえでさまざまの効果のさくそうした状態を具体的にもんだいにすべきだということになる。

                           『言語にとって美とはなにか Ⅰ』、P.103



1.書店員の二つのタイプ

 極論する。書店員には二つのタイプがある、と言ってしまおう。内容派と背派と仮にここでは名付けておく。なお、背派という言葉は小倉金榮堂のご主人、柴田良平さんの言葉による。興味ある方は、『吉本隆明 五十度の講演』の「【11】〈アジア的〉ということ」の冒頭をお聞き頂きたい。些か高くつくけれども、損はない買い物である。
 

 さて、内容派は、自分で読んでみてよいと思ったものを力を入れて売っていきたい、と考えるタイプ。背派は、自分では本を読まないが、今何が売れているかをベースに、装丁の雰囲気やタイトル、書評などから売れそうなものを売っていく、というタイプ。そのように分けて考える。


 実際に書店員がやっているのはこのタイプを適度に混合したものである。内容派といっても全てが全てゲラなり自分で購入したりした本を読んでからでないと売れないわけではないし、背派といっても目次などからおおよそ何が書かれているかというのはチェックするものである。考察においてはある種極端なタイプを想定してからはじめたほうが都合がよいのでそうしておく。


 タイプという用語を用いたが、これは実はその書店員がどういう世界観を持っているかという問題である、と大げさに言おうと思えば言える。書店員は内容を知った上で売るべきだと考えているか。それとも、この本はどんな顧客に向けたら売れるだろうとさえ考えればよいと思うか。

 
 繰り返すが、この両者は実際には複合する。どちらか一方だけ、というのは考えにくい。しかし、その書店員がこのいずれを理想と考えているか、突き詰めて考えていくとこのどちらかの問題になる。内容=「意味」か、背=「価値」か。言葉に寄り添うか、商品として突き放すか。良し悪しの問題ではこれはない。どちらが正しいということではない。



2.内容派と背派の実際――個人的経験から

 僕自身はどちらかというと内容派である。いや、あった、という方が近いかもしれない。具体的に記そう。


 例えば家電では、新しい機種について、そのメリットやメーカーごとの違いなどを説明してくれる店員さんがいるだろう。それと同じように本来は書店員も、扱っている本についてちゃんと知っているべきだ。しかし、高度の専門書(例:医学書)については難しいだろうし、担当する分野が広いと全てが全て読むというわけにはいかない。だから、全部読むというのは到底無理だが、少しでも読んでおくのが書店員としての理想である。なかなか難しいかもしれないが、努力しよう――いつ頃からは覚えていないが、だいたい、書店員として勤め始めて1~2年程度の段階(約10年前)ではこうした考え方をしていたように思う。


 この考え方は今でも否定すべきものだとは思っていない。が、突き詰めて考えるとあくまで努力目標にとどまるものでしかない。それはそれで大事なことだけれど。

 
 最初にこうした内容派的な考え方をするようになったのは、個人的な性向にもよるだろうが、振り返ってみると地方店にいたことが大きかったのかもしれない、と思う。地方店には地方店なりの忙しさがあるが、例えて言えば、全国紙の書評が出たからといってその日曜や月曜のうちに何十冊も売れるような、そういうような反応はなかった。その意味では相対的に内容について考える余裕があったし、また焦りもあったのかもしれないと思う。


 その後いくつかの場所を経たが、現在勤務しているのは比較的顧客の反応の早いところである。新刊の物量も多いし、版元営業さんもよくお見えになる。情報量は格段に多い。落ち着く時間がなくなっていく。それでも新刊は入ってくる。粘るものと見切りをつけるものを見分けよ。判断のスピードを上げよ。読んでいる暇はない。タイトルと著者でだいたいの見当をつける。困ったら目次だけざっと眺め、置くべき場所を決め、部数の過不足を予測する。装丁から受ける印象で、これはいけそうだ、と思うこともある。そこそこに当てた勘もある。外した勘は無数にある。
 
 
 かくして、内容派はいつの間にか背派にシフトする。大量の本を触ることで、あるいは顧客動向をよく観察したり、新聞やテレビをよく読んだり見たりすることで「この本はここに置いた方が売れそうだ」「こういう本が出ると売れるのではないか」という感覚を磨いていく。そうなると、本を読むのはあまり重要ではなくなってくる。顧客の関心がどこにあるのか、その関心にマッチングさせるためにはこの本をどこに置けばよいのか、徹底的に考えていく。誤解を恐れず言えば、本を読んでいる暇などなくなってくるのだ。


 しかし。顧客は確かに誰かが紹介していたから買うのかもしれない。が、その紹介に何か自分が思うところがあったから買おうと思うのであって、それはやはり内容とはまったく無関係であるとは言い切れない。となると、やはり内容も……。


 たぶん、勤務する店なり部署が変わればまた考え方は変化していくだろう。書店員は顧客によって応じて変化するものだから。なので良し悪しではないし、正しいとか正しくないという問題でもないのだ。


 以上、長々と自分の経験を振り返ってみた。書店員一人ひとりの経験は個別具体的であるが、そこには何かしら共通項として原理的に抽出しうる要素が含まれているだろう。自分の経験を一般化するつもりはないが、部分部分では他の書店員にも多少は共通する要素があるだろう、と記すにここではとどめておく。



3.本という商品の「無理」

 どんな商品でも――食品であれ家電であれ車であれ――、作り手が渾身の思い入れを以て作り上げたものがある。もちろん、それなりにそこそこに、というものもある。それはそれでよい。すべては顧客ニーズとのマッチングで決まる。作り手は思い入れがあるけれども、やっぱり売れなかったというものもあるだろうし、逆に、思い入れが通じたかのごとく売れていく商品もある。どちらもありふれた光景だ。


 本という商品でも、それは同じことだと思う。商品として流通させる/する以上、売れるか売れないか、しかないはずだけれども、それだけでは割り切れないものがある。でも、本、すなわち言葉をパッケージ化したこの商品は、割り切れないものの比重が相対的に高いのではないかという気がどうにもしてくる。実際、今回取り上げた事例で言えば、背派とはいえやはり内容を無視するわけにはいかない。


 僕が当事者でもあるからだろうか、どうやら本という商品、言葉をパッケージ化した商品は、時として過剰な思い入れがつきまとうように思われる。言葉を広くあまねく流通させるには、本という形で商品化するのが有効な手段の一つであることは間違いない。商品としての流通を突き抜けて何らかの生命力をもつような、そんな言葉もあるかもしれない。しかし、商品化するにそぐわない言葉も、ひょっとしたらあるのではないか。


 鳴り物入りで創刊される「言論誌」や、自信満々に売り込んでくる自費出版物を見るたびに「そんなにあなたが思っているほど売れはしませんぜ」と思う。内輪で地道にやれば如何、と思う。同時に、ごく普通に流通していて、地味な本ではあるけれども、読者としての僕には実に大切で手放せないと思うような本も、少なからずある。


 そもそも、言葉を商品化することは可能なのだろうか。ふと思い起こすのが、下記。

 
 人間の労働力が自然に働きかけて物を生産し、その物によって労働力を再生産するといういわゆる自然と人間との間の物質代謝の過程が――それはあらゆる社会において行われている過程であるが――資本主義社会では商品形態を通して資本の生産過程として行われているのであって、そこに資本主義に特有な形態的な無理がある。資本は、その形態として当然に要請せられる無限の蓄積を続けようとしても、この点で続け得なくなる

                             宇野弘蔵、『恐慌論』、岩波文庫、P.125


 
 商品化した/された言葉とは何か。他者が商品化した言葉を売ってメシを食う自分は、何なのか。
 

 他者の言葉を、何らかの理由から売りたいと考える。POPのひとつでも書いてみようと思う。1枚や2枚は書ける。しかし、枚数を重ねていくごとに、同じような言い回しを何度も使っていたことに、気づく(例:「気鋭」)。あるいは、無意識のうちに作り上げたパターンをなぞっているだけのことに、気づく。内容派であれ背派であれ、そんな経験をしたことはないか。他者の言葉を自分の言葉で表現する矛盾を、他者の言葉の一部をクローズアップして伝えようとすることの空虚さを、無意識のうちに感じ取ってはいないか。

 
 ……割り切ってしまうのは大切なことだ。深く考えない方が精神衛生上よろしい。「無理」は、資本主義社会における様々な問題と同様、無視しようと思えば案外簡単にできる。あるいは、「無理」をなんとか乗り越えようと試みてみることも出来る。店や会社の枠を超えて書店員同士で集まろうとすることも出来るし、著者と接点を持とうとあがいてみることも出来るし、版元さんと関係を密にしていくことも出来る。きっとどれもそれなりに根拠があって、それなりに重要なことなのだ。


 その先にあるのははたして何だろう。それを考えるために、僕は「自分を問う」(大澤信亮)という作業をしなければならない。そのためにこの書店員イデオロギー論を書き散らしているのだが、どうもやはり、より個人的な問題を見つめなおす作業が必要になってくるようだ。それは、他者の問いを共有することは可能か、というテーマとして、漠然と、しかし確実に、僕の身の上に覆いかぶさっている。


 
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by todoroki-tetsu | 2012-01-08 21:19 | Comments(0)

著者と編集者との葛藤を想像する

 松浦玲氏の『勝海舟と西郷隆盛』を読了する。


 「あとがき」が面白い。書き手と編集者との「葛藤」が、ほんのわずかではあるが垣間見ることが出来る。当初松浦氏は『海舟と南洲――西郷隆盛を追悼する勝安芳』という書名を考えていたそうだ。しかし、編集者は「それでは編集会議を通らない」と言う(P.195)。


 詳しくは本文に譲る。このやり取りは非常に興味深い。松浦氏の本を読むのはおそらくこれが初めてなのだが、多分ご存じのことや書きたいことがたくさんおありになるのだろう。全編を拝読してそう思う。それをパッケージとしてまとめる編集者さんもなかなかに大変だったのではあるまいかと想像する。もっとも、その苦労はどんな本でも同じかもしれないが。

 
 さらに言えば、岩波新書読者を想定するのであれば、松浦氏の当初の案でもまったく差しつかえはないように思える。「南洲」では誰のことか判らない、というのが駄目出しの理由だったと記されているけれども、『人生の王道―西郷南洲の教えに学ぶ』などというようなタイトルの本もあるわけで、岩波新書が今どのような読者をターゲットにしようとしているのかと考える上で非常に興味深い。

 
 もっと言おう。松浦氏はさらに上記の南洲云々に続く記述で、大久保利通には「甲東」という表現を用いていた、「しかし『甲東』は『南洲』以上に無理で本書の商品価値を下落させるのだと悟らざるをえなかった」と記しておられる(P.198)。そりゃあそうだろうな、と無学の自分は思う。しかし真の問題は人物の表記ではなく、随所に漂う著者の物知り振りにあるのではなかったのか、と推察する。


 僕にとってはあまりしっくりくる本ではなく、身銭を切った本でもあるのでその範囲で好き勝手を記しているが――献本を嫌う理由は別途まとめて記してみるつもりであるけれども、その理由の一つはこういうところにもある――、著者の口調や披露している知見を参考とされる読者も多いのだろうから、個人的な感想以上のことをとやかく言うつもりはない。実際、初速は好調である。

 
 が、書き手とそれを形にする編集者(その背景には営業さんの意見もあったのかもしれない)の葛藤を考えるに貴重な事例であるようにも思えたので、書店員イデオロギー論の備忘録として記しておこうと思ったのだった。
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by todoroki-tetsu | 2012-01-07 23:00 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(5)「自己表出」「指示表出」を手がかりに

 当たり前のことだが、書店員はパッケージ化された言葉を売る/買って頂くのが仕事であって、書くことが仕事ではない。仕事と切り離して個人的に何かを書くのはもちろんあり得るだろう。その是非を云々したいわけではない。しかし、書店員が書店員として仕事をする、その局面を考える場合において、理論的第一義的には、書き手の思いを忖度するよりも、顧客が買ってくれるかどうかを考えることが先であるということを確認しておきたい。書店員風情がその立場と力量以上に何かを出来るなどと思ってしまう不遜を予め警戒しよう。

 
 もっとシンプルにいえば、著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である。他者と他者とを仲立ちするというわけだ。

 
 それを前提とした上で、「売りたい」と思う本が売れたり売れなかったりするということ、別段売れると思っていないかった/あんまり売りたくないなと思っていた本が思いのほか売れたりやっぱり売れなかったりするということについて、考えてみたい。主に書店員個人=次元Ⅰを想定する。



1.言葉がパッケージ化される過程から
 
 前言と矛盾するようだが、言葉がパッケージ化される過程、より直接には著者に近いところから考え始める。それがやはり起源であるということと、そうすることで参照項を拡げたいと思うからだ。参照項は、吉本隆明さんの『言語にとって美とはなにか』。二か所ほど引いておこう。


引用A 
 芸術の内容形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまな生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる。その意味では、もちろんこのあいだに、橋を架けることができる。この橋こそは不可視の<かささぎのわたせる橋>(自己表出)であり、芸術の起源につながっている特質だというべきだ。         
                                    『Ⅱ』(角川文庫、P.240)



引用B 
 ……自己表出の極限で言語は、沈黙とおなじように表現することがじぶんの意識にだけ反響するじぶんの外へのおしだしであり、指示表出の極限で言語はたんなる記号だと想定することができる。そして人間の言語はどんな場面でつかわれても、このふたつの極限のすがたがかさなって存在している。

                                    『Ⅱ』(角川文庫、P.279)

 
 
 吉本さんの自己表出/指示表出の概念を、ちゃんと理解している自信はまったくない。考えるヒントにはなるししたいな、と思う程度である。


 著者が書きたいと思うことをそのまま書き、それが比較的スムーズにパッケージ化され、かつ売れた場合には、著者の自己表出がそのまま顧客ニーズを体現していたということになる。売れなかった場合には、その自己表出は顧客ニーズにはあわなかったということになる。


 ところで、著者の自己表出は純然たる自分の中から出たものなのか、それとも実のところ指示表出をそうとう意識したものなのか、その切り分けは難しい。「人間の言語はどんな場面でつかわれても、このふたつの極限のすがたがかさなって存在している」(引用B)からだ。しかし、「誰が何と言おうとこれを書きたいのだ」という思いのほうが相対的に強い場合と、「とにかく広く読んでほしい(買ってほしい)」という思いが相対的に強い場合とは、たしかにあるように思える。前者は時としてわがままに映り、後者は時としてあざとく見える。どちらも大事なことなのだが。


 「誰が何と言おうとこれを書きたいのだ」が、編集者・営業・書店員のいずれもが「あ、それはいいですね。売れそうです」と思ってパッケージ化され、受け取ることが出来れば、そしてその結果として他者=顧客がカネをはらってくれるのであれば、その場合著者の自己表出は、「不可視の<かささぎのわたせる橋>」を、着実に架けていることになる。


 が、大概の場合においては、前回記したように様々な葛藤を経てパッケージ化される。そこでは常に自己表出と指示表出のせめぎ合いがあるということが出来る。



2.書店員が個人として「売りたい」と思うというのはどういうことか

 「著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である」と冒頭に記した。経験の蓄積などからくる顧客ニーズ認識を基に発注し、陳列することが主な仕事であるわけだが、中には「売れないかもしれないけれども、試してみたい」と思うことはやはり、ある。
 
 
 その時、書店員個人の問題意識を他者の言葉である本に託すというような場合もあれば、「ちょっと目先を変えてみるか」という比較的軽い気持ちの場合もある。これは、良し悪しの問題ではない。前者は、書店員個人がその問題意識を自己表出として他者の言葉に託していると考えてみることができるだろう。後者を指示表出の仮託と言いうるかは判らないが。


 さて、書店員個人の問題意識があるがゆえに、自制する場合もある。前回のエントリでちらと社会運動系の本について記しておいたけれども、もっと言ってしまえば、デモに行く書店員がデモの本を力を入れて売るとは限らない。かえって「これはこれ。それはそれ」と区別してしまうことだってある。まあ、これは僕のことなのだが。この場合、デモの現場での盛り上がりが書店に反映するわけではないことを経験則上知っているからであり、また結果を出そうとすれば相当の工夫が必要と自覚しているから二の足を踏むのである。この二の足が間違っているかどうかは、やはり顧客の審判を待つほかはない。


 書店員個人が何らかの問題意識をもって「売れないかもしれないけれども、試してみたい」と思った場合、それは書店員個人が優れて顧客ニーズの動向を観察しているか、あるいは書店員個人が実は顧客自身としてニーズを認識していたか、そのいずれかであろう。どちらの場合もあり得るし、たぶん複合している。前者は商売人としての徹底化の結果であり、後者は個人の問題意識でありながら実は顧客ニーズそのものであった、すなわち顧客との同一化である。「芸術の内容も形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまな生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる」(引用A)を、商売人として表現すれば前者になるし、広く社会的な文脈に引き付けるならば、後者の表現となるだろう。

 
 さらに言えばそれが結果に結びついた時、意識的な場合もあるだろうし、無意識な場合もある。顧客が「ここに並んでいたのでつい買ってしまった」という時、それは無意識の顧客ニーズが商品との出会いによって顕在化したのだということが出来る。


 ここで考える必要がさらに出てきたのは、言葉のパッケージの商品としての旬・寿命・生命力という問題だ。今までは主に新刊を想定してきたが、新刊の中にも10年後に残っていくものもあるだろうし、三ヶ月で売り切っておしまいというものもある。ほとんどはその莫大な中間地帯に在るだろう。時系列の考察が必要となる。


 書けば書くほど考えることが増えていく。よいだろう。あせらずにやっていこう。
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by todoroki-tetsu | 2012-01-02 11:10 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(4)顧客のニーズ認識について

 「何を言ってるんだ。いいか、必要があって、商品が生まれるんじゃない。そんなのは二十世紀のビジネスだ。二十一世紀は、まず商品があって、必要を作り出すんだ」



 『朝日のような夕日をつれて '91』(弓立社、P.15)のセリフである。このセリフのあとに続くやり取りも実に興味深いのだが、それは戯曲なりDVDなりをご覧いただくことにしよう。



1.書店に本が来るまでのことを想像する
 
 さて、本を書く/出版するということはどういうことだろうか。詳しくは知らないので想像してみる。一般的に言って、


・「著者」―「編集者⇔営業」―「取次」―「書店」


 という流れで間違いはないと思われる。印刷所さんなどを省いてしまっているし、書店流通を前提としているけれども、そこは勘弁してもらおう。


 とにもかくにも著者が起点となる。著者が何かを書こうとするというのはどういうことか。自らこれを書きたい、と思って書いたものもあるだろうし、編集者が「書かせた」ような場合もあるかもしれない。このいずれも、


α:例えば「著者としての自分が書きたい」「編集者としての自分が読みたい」というような、自分が起点となる場合と、


β:「他人から言われたから/他人が面白いと思ってくれそうだから、書く」「他人が面白そうだと言っているから/他人が買ってくれそうだから、書いてもらう」というような、他者が起点となる場合と、


 この二つの場合が考えられる。もちろん、このαの場合もβのそれも簡単に切り分け出来るものではない。現実には融合しているだろうし、認識にも時を経た変化があり得る。


 しかし、ここで確認したいのは、自分が書きたいことを書いた結果として他者がその価値を認めたり認めなかったりする場合と、初めから他者のニーズを想定して書いた結果として他者がその価値を認めたり認めなかったりする場合と、どちらもあるでしょうということなのだ。そして、まがりなりにも「商品」として出版する以上は、ある程度の部数は他者にカネを払って買ってもらわなきゃいけない。だとすると、様々な葛藤が各局面であるはずなのだ。


 著者の原稿そのまんまではその真意が伝わらないので直しをお願いする編集者、価格はここまでにしておかないと厳しいと編集者に伝える営業さん……、おそらく版元さんはこの手のネタに事欠かないのではあるまいか。


 そうした葛藤を経て、言葉は本という商品としてパッケージされ、書店にやってくる。たまにこの葛藤の段階で口をさしはさむことがあるけれども、そうしたことは全体のごくわずかであるのでここでは無視して、次に進もう。



2.新刊がやってきた時の書店員の反応

 新刊がやってきた時の書店員の反応については、前回のエントリである程度具体的に記しておいた。「予断」という言葉で、書店員の経験値による自店客層のニーズ認識などを表現してみた。

 
 さて、ここで「編集者⇔営業」(=出版社)が認識している顧客ニーズ(A)と、書店員が認識している顧客ニーズ(B)との関係を考えてみたい。著者や取次も想定すべきだろうが、言葉を商品化した段階である程度著者もその成り立ちには納得しているだろうとひとまず考え(実際のところは知らないが)、また、取次についても仕入の段階と配本パターンの問題など検討したいこともあるけれども、ここでは捨象する。


ケース1)B∈A(BがAに属する/含まれる)
  「編集者⇔営業」が認識している顧客ニーズが、書店員の予断(=書店員が認識している自店客層のニーズ)を含む場合には、比較的良好な関係が生まれるだろう。普通だったら1面分7冊配本されればいいやと思うところを、これはいけそうだと早速10冊追加してみる、というような具合。


ケース2)B∉A(BがAに属さない/含まれない)
 「編集者⇔営業」が認識している顧客ニーズが、書店員の予断(=書店員が認識している自店客層のニーズ)を全く含まない場合には、悲惨である。7冊配本されても1~2冊差して残りは少しだけ寝かせておいて返品するか、そもそも1冊も出さずに即返品するか、そんなところだろう。


――ケース2)は表現としては極端なものだ。しかし、専門書や高額商品でなくてもこうしたことは起こり得る。例えば、いわゆる社会運動系の本。デモやイベントなどで盛り上がっていて、それなりにマスコミ露出もあったり研究者で注目している人もいて、というような事例を本にするとしよう。確かにデモやイベントに参加すると盛り上がるだろうし、そうした現場では、手売りで確実に売れるだろう。しかし、それが必ずしも街の本屋の顧客にまで広がるか。あるいは、街の本屋の顧客はそうした現場に足を運んでいるか。その逆もしかり。――


 しかし、書店員の判断は以上二つにとどまるものではない。例えば、


ケース3)B∈A(BがAに属する/含まれる)けれども、個人的に関心があまりなかったり(次元Ⅰ=書店員個人)、店として力を入れている分野ではない(次元Ⅱ=店)ので特に力を入れない


ケース4)B∉A(BがAに属さない/含まれない)けれども、個人的に関心があったり(次元Ⅰ=書店員個人)、店として力を入れようとしている分野なので(次元Ⅱ=店)、特に力を入れていきたい


 というようなケースも、十二分にあり得る。


 言葉をパッケージ化する段階で、様々な葛藤があっただろう。それと同じように、本が書店にやってきてからも、葛藤は継続する。その葛藤を断ち切るのは、すなわち何が顧客ニーズに合致しているのかどうかの審判は、結局のところ顧客以外には下しようがない。

 
 発注や陳列といった仕事は書店員にとっては日常茶飯事すぎることなのだけれども、それを意識的に言語化してみようとするならば、例えばこんなことになるのだろうと思う。

 
 そしてもし、ケース4)で挙げたようなこと、すなわち自店客層のニーズにはあっていないだろうと認識していたものを試し、それなりの売上結果を上げることが出来たとすれば、認識も市場も拡大出来たことになる。こうしたことが非常に重要なのだが、なかなかこれを追求していくことは難しい。これは、書店員と版元さんとの想像しうる理想的な関係は何か、という問題として、あるいは書店員がメシを食っていける職業であるのかどうかという問題として、別途考えていく。





 
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by todoroki-tetsu | 2012-01-01 22:49 | Comments(0)