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書店員イデオロギー論(3)「原発本」を具体例として

 いくつかの具体例をこれからあげていこうと思う。いずれも実際にあったことをベースにするが、いくつかの事例を複合させて述べる場合もある。

 
 現在進行中の事例であるので何とも生々しいのだが、いわゆる原発本をめぐる情況をまず考えてみたい。



1.原発本のラッシュ

 アプローチは様々あるが、広義の原発に関する本が怒涛のごとくこの4月からは出版されてきた。どこの書籍販売サイトでもよいのだが、試みに「原発」とキーワード検索し、出版年月順に並べてみて欲しい。いかに莫大な量の原発本がこの8カ月ほどで出版されたか、よく判るだろう。


 この出版の流れについては思うところがあるけれども、それはひとまずさておき、それでもなお原発本は出版されていく。もうすでに区切りをつけた出版社もあろうが、おそらくは2012年3月まではそれなりの量の新刊が出されるだろう。



2. 物理的な制約

 本屋の棚は有限である。もとよりすべての本を置くわけではないし、あるジャンルに出版が集中するということは一定のニーズ――あくまで出版社が認識したそれ――があるわけで、それに応じて本屋も棚を増減させればよい。だが、それにもおのずと限界がある。あらたに棚を増やしたとして、それは削った他のジャンルの売上をカバーできるものなのか? 原発の問題は確かに重大であるかもしれない。けれど、それ以外のジャンルの本だって大事じゃないか。おそらくこうした時流の問題と棚の有限性の問題を、書店員は意識するとせざるとにかかわらず天秤にかける。先取りして述べておくと、書店員のイデオロギーは棚という空間のいわば「制空権」と、密接に関わっている。

  
 有限の棚に大量の本を並べようとする場合、おのずとそこには取捨選択が生じる。ところてん的に押し出される2週間前の新刊。ある程度のペースで売れる本はそうそう平積みから外さないのが通常だが、その「ある程度のペース」がどんどん上昇していく。具体的にいえば、普段なら週に2冊売れる本は平積みから外さないけれども、その2冊というハードルを5冊に上げるようなこと。かくして原発本の寿命はその扱う課題に比してどんどん短くなっていく。



3.原発本新刊をどう扱うか:配本時に初めて気づいた新刊について

 すでに述べてきた情況において、新刊が出る/出た時に書店員はどのように判断をするか。まずは事前注文をせず、配本されて初めて気づいた新刊のことについて記してみよう。


 配本されて気づいた場合には当然ながら事前の準備はない。一般に、部数が少ないと考えればその時点で追加することもあるが、この間その必要を感じた新刊はあまりない。もちろん、売れ始めたら追加発注するけれども。


 新しい本を陳列するには、何かを減らさなければならない。日々棚を触っていればある程度は次に何をおろすかは頭の中にある。ただ、下ろす=返品ではない。書評に出やすそうな著者や出版社のものは少しストックに寝かせておく。もちろん、スペースの許す限りではあるが。

 
 この時点では売れるか売れないかは全くの未知数である。数週間で何ら動きがなければ下ろす候補になり、ゆくゆくは返品となる。売れていけば継続して発注・陳列していく。全ては棚においてからの顧客の反応待ちというわけだ。


 しかし、実のところ配本時に初めて気づいた本とはいえ、おおよそ自分の店ではどの程度売れそうかどうかという予断がある。その予断には、次元Ⅰ=書店員個人の考えや判断、次元Ⅱ=店(より正確には特定の単独店舗)の考えや判断が色濃く反映している。そのいずれにも「顧客」という他者が入り込んでいるのだが、そのことが集中的に現れるのは出版社の営業さんとのやり取りである。



4.原発本新刊をどう扱うか:出版社営業さんとのやり取り

 出版社営業さんからの提案と、それを受ける書店員の判断において、新刊/既刊の区別は一つの要素にすぎない。が、話を判りやすくするために、ここではこれから出る新刊を、営業さんが案内に来られた、というシチュエーションを想定することとしよう。

 
――すぐさま注釈を入れておかねばならない、しょせんこれは大都市圏、特に首都圏の書店員のことにすぎない、と。僕はもともと地方の店舗から書店員としての仕事をはじめているが、首都圏の店舗に異動した当初は営業さんの訪問の多さにびっくりした。なので、所詮お前の記すことは首都圏の一部の書店のことにすぎないだろう、と言われても仕方がない。その批判は甘受しよう。が、一方で、版元営業さんとの、また、顧客との関係性が、集中して現れていると考えることも可能である。僕のこれから述べる経験や考察が当たり前でも普遍的でもない、そこから何かをつかみだしたいし、つかみだしうると考えている、と記しておくほか今はない――
 
 
 ある新刊のチラシをもって、営業さんがお見えになる。そのチラシを見ながら、お話を伺う。伺いながら、また原発本か、と思う時もあれば、これは売れそうだと思う時もある。その判断根拠は、前述した予断にある。


 自店の棚を触っていれば、少なくとも自分の棚に置いている商品でどのようなものが売れているかいないかは、判る(厳密にいえば、自分の作った原発棚ではおいていない本が他の書店では原発本として置いているというようなケースもあるのだが、これについては今は触れない)。意識するとせざるとにかかわらず、自店の顧客の動向を、書店員は体感している。その体感が、予断の主な要素である。


 しかし、その予断には、こぼれ落ちるものが必ずある。例えば、書店員自身は売りっぱなしでこれはよい、あるいはもう平積みから下ろして棚差しでよいだろうと判断したものの、実は顧客ニーズはまだあって、平積みを継続している他書店ではまだ継続して平積みしてよいペースで売れているというような場合。また、もっと仕事のレベルとしては低いのだが、おざなりでやっていて売りっぱなしでほうっておく、欠本に気づかぬまま時を過ごしてしまうという場合。


 そのこぼれ落ちるものに気づくことが出来るかどうかは、顧客や出版社営業さんといった他者との関係にかかる。けれどもその一方で、どうしても自店客層とは合わないと思われる場合も確かにある。


 その場合には、他の類書との「差別化」がなされているかどうかが判断の要素となる。今まであまりない視点で書かれたようなものであれば、ひょっとしたら試してみる余地はあるかもしれない。そう考える。それでもやはり、あまりに自店客層に合わないと考えた場合には部数は渋くなってくる。

 
 問題は、それで営業さんも書店員も納得できるかどうかである。お互いに「まあ、こんなところかな」というあたりで落ち着かないことがある。こと原発本の新刊に関して言えば、書店員の側がこれだけ欲しいのに出してもらえないということよりも、その逆、書店員の側が5冊程度でよいと考えていてももう一声と粘られることのほうが多いと思われる。


 原発本に限らずこんなことは日常茶飯事なわけで、営業さんの苦労も偲ばれるわけだが、書店員としてもある程度の譲歩は出来るけれども、やはりある程度の一線はある。営業さんがとにかく部数を突っ込もうという意図が透けて見える場合(書店員が誤解している場合も含むけれど)は、相手にするまでもない。置いてみて様子を見ましょう、と切り上げるだけだ。この局面で、「社会的意義」とか言われると非常に困る。書店の棚に置くことに意義がある、などと言われても困る。いや、困るというよりは、厄介だと言ってもよい。


 意義のある本かもしれない。しかし、それは商品である。売れるか売れないかが勝負なのだ。もちろん、ここですぐさま補足するが、売れる/売れないはそのジャンルによって基準が変わるのであって、その基準は相対的なものだし、ある程度の経験を持つ書店員なら複数の基準の切り替えは十二分にできる。さらに言えば、売れない(と思われる)本をいかに売ろうとするかが大切なのであって、だからこそ「売り方」が重要になってくる。ただものを並べて置きゃあいいってもんじゃないし、むやみに「一等地に平積みを」なんてフレーズを使ってみたところで書店員の腑に落ちる筈はない。


 これは、どちらが正しいとは安易に言いうるものではない。結局のところ、審判を下すのは顧客でしかない。しかし、顧客について考えようとする前に、いくつかを記しておいて今回は一段落としよう。



5.こぼれ落ちているいくつかのこと
 
 今まで述べてきた中で、扱っている本の作り手のことはほぼ考慮していていない。あくまでパッケージ化された後の言葉としての本のことしか考えていない。これは書店員としては比較的自然な発想であると思う。ひとりの担当範囲だけでも何十の新刊を実際に触れる立場として、そういちいちには感情移入はしていられない。書店員が感じ取るのは、まず真っ先に感じ取るのは、例えばタイトルであり、例えば装丁であり、そして価格である。このタイトル、この装丁、この価格なら、売れそうかもと感じ、あるいはこれでは厳しいなと感じる。そこには作り手の苦労などに思いをはせることはほとんどない。すべては商品である。


 言葉を商品化するという点については作り手がまずもって起点になるわけだが、流通過程の末端にいる書店員は、その商品の捉え方がおそらく作り手とはだいぶんに異なるだろう。ここはひとつのポイントであり、別に考えたい。

 
 もうひとつ、これは蛇足的な話だが、ゲラや献本を書店員に送付するという販売促進方法が確かに存在する。こちらから望んで頂く場合にはもちろん売り方を考えるためであったり、最終的な部数決定の助けとするためだったりするわけだが、中にはほとんど見ず知らずに近いような関係の人から一方的に送られてくる場合もあって、さて、どうしたものかと思う。試し読み的なコンパクトなものならまだしも、200頁前後のゲラを読もうとする時間と気力が、いつもいつもこちらにあるわけではない。それで販売促進をやった気になってもらうのはご免だという気になる。この認識差は、少し考えてみる価値があるかもしれない。


 最後に。以上の記述は書店員個人(次元Ⅰ)を念頭に置いたものとなってしまったが、実際には店としての判断(次元Ⅱ)も影響してくる。店としてしっかりとスペースをとってやっていきましょう、という判断・方針であればそのように書店員はある程度までは動くし、逆に、店としてはもうある程度見切りをつけましたという場合には書店員の部数判断はもっとシビアになるだろう。


 日を改めて、さらに具体例をあげて考えていきたい。
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by todoroki-tetsu | 2011-12-23 22:21 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(2)構造の骨格

 書店員が何かしらの物事を考えたり仕事を実際にやっていく際に、いくつかの次元があると考えることが出来る。


 まず、一個人としての判断や行動がある。これを次元Ⅰとする。後述するが、書店員はその店の経営方針や職場環境などによってその判断や行動は条件付けられ、より大きな経営体である会社全体からももちろん条件づけられる。だが、局面局面においては個人として主張/行動しうる。圧倒的な力の差はあるとはいえ、しかし、全く主体性がないとも言えない。それに、個人としてはAが正しいと信じるが、会社の方針としてBに従わざるを得ない、ということも日常茶飯事である。そうしたこともひっくるめて、一個人としての判断や行動がある。そういえる次元が確かに存在する。

 
 次いで、その勤務している書店の一員としての判断や行動がある。これを次元Ⅱとしておこう。ここでは店と本社が別にあるような、そういう状況を想定している。単独店舗の上位概念として会社を想定しよう。これを次元Ⅲとする。単独店舗がすなわち会社全体であれば、その場合には次元Ⅱと次元Ⅲとがぴったりと重なり合っている、そのように考えてよい。

 
 要するに、
 

・次元Ⅰ=個人

・次元Ⅱ=店(より正確には特定の単独店舗)

・次元Ⅲ=会社

  
 というわけだ。


 この三つの次元のうち、考察のもっとも要となるのは、次元Ⅱであると思われる。次元Ⅱは書店員として判断・行動する際のもっとも基礎となる単位であり、そこには書店員として働くことにまつわるありとあらゆる喜怒哀楽が凝縮されている。まずは、次元Ⅱを成り立たせる要素を分解してみよう。

 
 第一に、会社の経営方針が具体的に現れる最小単位であるということ。経営方針の不在も顕在も、すべては単独店舗において具体化される。

 
 第二に、働く者にとっての場=職場であるということ。そこには上司もいれば部下もいる。先輩もいれば後輩もいる。正社員もいれば契約社員もいる。そういう場の中で様々な力学をお互いに意図するとせざるとにかかわらず発揮しながら、ある時はつらくもなり、ある時は楽しくもなり……そんな日々を過ごす。


 第三に、第一の裏返しであるのだが、店は顧客との個別具体的な接点であるということ。その前線に立つ書店員は、自分の勤める店舗の顧客の動向の影響を大きく受ける。必ずしもその影響を受け止めきれていないことも多々あるが、それはまた別の角度で考えることになろう。


 この三つの要素が絡み合いながら、書店員の判断や行動に影響を及ぼしていると考えることが出来る。逆に、書店員個人がこれら三つの要素に影響を受けるだけでなく与えることも大いにある。


 それらの絡み合いについて、思考を進めていこう。いくつかの具体例を今、思いだそうとしているところである。
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by todoroki-tetsu | 2011-12-20 22:49 | Comments(0)

書店員イデオロギー論(1)考察の前提

 あくまで個人的な問いを考えるための作業なのだが、実際に僕が大半の物理的時間を過ごし、またメシを食う過程でもある書店員という職業なり書店という職場について、考えないわけにはいかない。


 書店員という言葉で想像されるものは何だろうか。その表象について逐一取り上げるのは面倒なので他人に任せよう。僕個人の経験で言わせてもらえば、出版業界以外の人と何かお話しをする際、だいたいが「よく本を読んでおられるのですね」というような言葉。さらに言えば、そこで言われる本とはほぼ小説であることが多い。小説をほとんど読まない自分にとっては非常にやりづらい局面である。まあ、それなりにお茶を濁すのではあるが。


 書店で扱っている本の種類は、何も小説に限ってはいない。もちろん本屋によって異なるけれども、文庫・雑誌・実用書・コミックの四分野で相当程度を占めるだろう。文芸の単行本新刊なんて、よほどの作品でない限り大きな比重を占めることはなかろう。にも関わらず、書店員であることと結び付けられる本の分野の多くは小説であるというのは――あたりさわりのない会話の糸口に過ぎないとはいえ――、興味深い個人的体験である。

 
 ここでは、自分が好きな分野、実際に担当している分野のことにどうしても比重が大きくなりがちであることを断ったうえで、なるべくどの分野でも共通するような事柄を念頭に置いて考えていきたいと思う。「本といえば文芸書」みたいなことを業界外の人がイメージするのは別段よいのだけれども、業界内での「本といえば文芸書(とかいわゆる「専門書」)」という物言いにはいささか、うんざりしているので。


 以上が分野の話。「よく本を読んでおられるのですね」というような言葉から引き出されることのもう一つは、書店員は本が好き、あるいはよく読んでいるというイメージ。

 
 本は確かに数多く触っている。店の規模や部署にもよるけれども、僕がかつて経験した職場では一日最低でも5,000冊は触っていた。ただ、触るだけだが。そうした量を扱っていることと、実際にそれを読むこととはまったく別である。また、何を以てよく読んでいるとみなすかの基準もあいまいと言わざるを得ない。30分あれば読める文庫もある。1頁に5分くらいかかりそうな本もある。

 
 そもそも、書店員は本が好きなのだろうか。分野や作者によって嗜好が異なるのがほとんどだが、中には活字中毒的なタイプや「本」という体裁そのものが好きというタイプもある。一方で、ただ単に「仕事」として淡々とこなしていく人も少なからずいる。

 
 それらをひっくるめて、書店員として働いている人全部を対象とし得るような考察を構想したい。もちろん、各人各様の書店員像はあってよいし、それらはそれらとして戦わせればそれでよかろう。その前提となる部分というか、土台の部分、そんなあたりを問題にしていきたいと思うのだ。


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 こうして書いてみると、なんだ、個人的なことを考えると言いながらお前は何か普遍的なるものを目指そうとしているのではないかと思われるのかもしれない。が、決してそうではない。僕が書店員としての僕自身を考えようとする際にどうしても考慮しなければならないことなのだ。

 
 本をよく読んでいるかと言われれば、僕などより上を行く人は顧客をはじめいっぱいいるし、書店員の仲間内でも別段そんなに読んでいる方ではない。ましてや単行本の小説などは年に購入するのは一ケタ程度。本が好きか嫌いかと言われればもちろん好きな方ではあるし、何かフェアやキャンペーンなどの特別な仕込みは楽しんで持ち帰り仕事も休日出勤もやるが、それは別段好きでやっているのであって、決してホメられたことではない。イレギュラーなことと自覚している。そんなことを当たり前だと思っていたら、ますますこの業界でメシを食えなくなっていってしまうのではないかという危機感もある(それを述べるのは別の機会になるだろう)。


 要するに、個人的な問いを考えるために、極力前提をフラットなものにしておきたいのだ。書店員が扱っている本の分野は文芸や専門書に限らず多様であり、書店員とは何も本好きだったり沢山本を読んでいる人ばっかりではない。この二つを前提として、少しずつ考えを進めていくことにしよう。
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by todoroki-tetsu | 2011-12-19 22:08 | Comments(0)

「言葉のパッケージ」を商いにするということ――書店員イデオロギー論へのメモ

 入荷して早々に、中島岳志さんの対談集『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』を購入し、昨日には読了した。


 僕にとって大事な言葉、考えなければならないと思う言葉にあふれている。


 しかし、同時に思う。「言葉のパッケージ」である本という商品でメシを食うというのは、どういうことなのか。

 
 言葉を発する人、すなわち著者にとって、それはその人自身の血肉であるだろう。そうでない場合もあるかもしれないが、そのことはとりあえず措く。その血肉をパッケージ=形にしようとする編集者、装丁家、校正者……その他たくさんの人々も、言葉を形にすることに携わっている。


 出版社の営業担当の方々のことをここでどうとらえればよいのかよく判らないので、これもまた失礼してひとまず措かせてもらおう。さて、形になった本が出来あがってからが書店員の本格的な出番となる。


 カウンターでの接客などを除き、棚の管理だけに絞って言えば、書店員の仕事は「発注」「陳列」「返品」の三つしかない。その三つの仕事の際に、パッケージ化された言葉のことを思うこともあれば、思わないこともある。頑張って売ろうと思って並べた本を半年後(あるいはもっと早く)に返品してしまうこともあるし、何の思い入れもない本をガシガシ仕入れることもある。書店員にとってはたぶん、当たり前すぎるくらいの日常だ。ここで取次さんの配本が……などと言い出すとこれまたきりがないのでひとまず措く。

 
 いかにも即席で出したという体の本も、どれだけ時間をかけて書かれた本も、すべては「商品」として等価である。売れるか売れないか、ただ、それだけだ。

  
 だけれども、それだけだとは言い切れない何かを感じる本が、ある。中島さんがこの最新刊の中で吐露しておられるような、ある種の危機感。その危機感の一端に、自分自身も身を置いているように思える。


 ここに書かれている言葉に対峙しうるような、そのような構えで僕はこのパッケージ=本を扱い得ているか?


 そんな思いにさせられることは今までも幾度かあった。 それは例えば『ロスジェネ』であり、杉田俊介さんの『無能力批評』であり、大澤信亮さんの『神的批評』であり、「フリーターズ・フリー」であったり、した。その度ごとに何かを試みたこともあれば、何も出来ずにスルーしてしまったりも、した。


 そろそろ、書店員として自分のやっていることは何なのか、ちゃんと考えないといけない。いよいよもって宿題を片付けなくちゃならない、そんな感覚を覚えはじめている。


 「こちとらただの商売人だい!」と開き直ろうと思えば出来るし、今までもやってきた。これからもやっていくだろう。だって、商売人であることは事実なのだから。「これじゃあ売れない」「これは売れる」という判断は、常に必要なのだから。でも、その開き直りの一歩手前か、開き直った直後の一歩、そこいらのあたりで垣間見える何かを、もう少し自分なりに探っていきたいと思う。

 
 その過程を「書店員イデオロギー論」と仮称しておくが、それは書店員一般論には到底なり得ないし、そうなる必要もなかろう。あくまで僕自身の問いとして考えていきたい。
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by todoroki-tetsu | 2011-12-18 21:44 | Comments(0)

ブレーカー

 家を出る時にはブレーカーを落とすことにしている。

 
 歩いてほんの数分のコンビニに出かけたりする程度ならそのままにするけれど、出勤する時や休みのときで少し出かける時にはブレーカーを落とす。たぶん、3/12か13か、そのあたりからはじめた習慣。


 そもそもは、節電という発想だったと思う。「ヤシマ作戦」という言葉を目にしたな、と今思い出した。そして、東電の電気を使うのはいやだな、となんていうふうに考えたことも今、思い出した。


 でも、何がきっかけでそうするようになったのかといちいち考えるまでもなく、この8カ月程度の間は無意識のうちの習慣となっていた。日常のほんの些細なことでの変化が非常に重要な意味を持つ――そんな風に大澤信亮さんは語っておられたが(恵泉女学園学園祭シンポジウムでのご発言)、僕にとってのそうした些細な変化の一つは、ブレーカーを落とすことだった。

 
 過去形で記さなければならない。僕は今日、ブレーカーを落とし忘れて出勤したのだ。数時間前に帰って来て気がついた。何も変わったつもりはない。変えたつもりもない。この8カ月、「うっかり」忘れたことなんてなかったのに……。


 ブレーカーを一日落とそうが落とすまいが、世の中への影響なんてまずありゃしない。だから、これはあくまで僕一人だけの問題だ。おそろしく瑣末で、些細な問題。でも、僕にとって重要な何か、考えなければならない何かが、どうにもあるように思えてならない。だけど、どう考えればいいのか、まだよく判らないでいる。


 中島岳志さんの対談本、『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』がまもなく出るという。聞いたところによれば、雑誌収録時におさめきれなかった対談内容を相当程度の分量収録しているとのこと。僕の些細な問題は僕自身が向き合うしかないのだけれど、その覚悟をより深めるためにも、自分の問題を深めていくための「手がかり」を得るためにも、入荷したらまず真っ先に読むつもりでいる。
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by todoroki-tetsu | 2011-12-06 22:36 | Comments(0)