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備忘録:「経営者」イデオロギーについて(補足)

 下記を補足する。

補足1)経営者の「主体性」について。市場において利益を最大化しようとするのは経営者の思考=志向のすべてではないが、相当程度を占める。その程度ならびに「それ以外」に何を思考=志向しているかに、様々なヴァリエーションがありうる。が、一定の類型化は不可能ではないと思われる。


補足2)経営者の主体性と受動性。企業内外の情況に対して、何らかの意思決定を行い実行するという意味では主体的である。だが、その主体性は時として認識において捻じれる。


補足3)補足2)の実例。所与の労働環境について先立つ責任があるにもかかわらず、それを労働者からの異議申し立てによって修正しようとする(無視するも含む)場合、先立つ自分の責任の部分が見事に忘れ去られ、ただ「労働者がこう言ってきたから(しょうがない)」という程度で対応することがある。それでも意思決定は主体的であるはずだが、主観としては受動的なものとして認識される。


補足4)補足2)の実例その2。市場の変化に対応する、との大義名分で所与の条件を疑わずに前提としてのみ捉える場合。規制緩和、新自由主義、グローバリズム、TPP……実例はおそらく、数多くある。天下の大勢に従うといえば聞こえはよいが、言葉の正しい意味での覇者の如き世界観と実行を伴わなければ単なる虚勢である。何かを不問に付している。何かを忘れている。何かを「しょうがない」と切り捨てている。そのような疑いはぬぐえない。


補足5)経営者が企業外の条件を所与の前提と考えるのは、相当程度に正しい。異議申し立てを行うよりも、環境の変化にいかに迅速に対応するか、と考えるのは実利的でもあり、また、より「主体的」に見えるものである。異議申し立てに対し、「じゃあどうすりゃいいんだ。今こうするしかないじゃないか」と反論するのはよくある光景である。しかし、その正しさはあくまで相対的なものでしかない。正しくないのではない、相対的である。決算書的な正しさである。


補足6)補足5)が成り立つのであれば、労働者の志向=思考もまた、相対的な正しさを有する。正しくないのではない。その判定をするのには第三者の審判が必要となる。その第三者を、仮に人間の理屈としておいた。参照項は例えば小田実であり、例えば花森安治となる。他にも、まだ、あるはずだ。


補足7)所与の前提を「しょうがない」と認識するか/改変しようとするか。しょうがないとして、どう生き延びていくか。改変しようとするとして、その方法やいかに。様々な問題が、理論的にはシンプルな原理に行き着くように考えること。しかし、その過程には無数のディティールがありうる。社会調査の蓄積に満身の敬意をはらうこと。


補足8)補助線として、価値を生みだすのは結局のところ人間ではないか、ということを念頭に置いてみる。高島善哉『価値論の復位』を読みなおすこと。しかし、その視座を「職場の社会学」にいかに活かすか、考えながら読みなおすこと。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-25 19:33 | 業界 | Comments(0)

備忘録:「経営者」イデオロギーについて

 そのうち考えるかもしれないことのための、備忘録。

1)経営者と労働者の対立は、ある。だが、その境目あるいは閾値はどこにあるのか。

2)「実態」としては労働者にもかかわらず、経営者としての発想を身につけることは多く見られる(実例:所謂ビジネス書と労働問題本との圧倒的な市場規模の差)。その「実態」をどのように把握するか。

3)労働の実態と生活の実態。多くの場合においてその個人が大部分の時間を過ごす職場に即して観察し、考えること。職場の社会学(≠労働社会学)の構築の必要性。

4)権限の範囲、責任の範囲、賃金、業務内容の個別ならびに総合的調査の必要性。「中間管理職」的立場の若年化。特に正社員における業務の「無限」の拡大の及ぼす影響。

5)業務の拡大≒管理責任の拡大。「正社員なんだから……」と自分を納得させつつ、「正社員とはいえ……」と自問する。それを「正社員なんだから……」と納得・説得させるのが管理職の仕事となる。ここに、2)を考えるカギがあるように思われる。

6)5)は、外的内的要因によってその所属する経営組織が選択した結果として生じる。受動的ではなく主体的でありたいと考えた労働者は、経営組織の意思決定に参加しようとするか、さもなくばその意思決定を主体的に受けとめようと努力する。皮肉なことに、形は違えど経営者の思考ににじり寄ることにかわりないように見える。

7)6)をそのまま皮肉として嘲笑してはならない。断じてならない。個人に即してその皮肉の意味を考えること。

8)経営者の思考は端的に、決算書の見方にあらわれる。人件費は経費か投資か。固定費用か変動費用か。数字そのものよりも、その判断にかかっている。それは、数字の向こうに生身の人間を見出せるかどうかにかなりの程度賭けられる。数字の見方はひとつではない。

9)労働者の誰でも、仮に経営者にいきなりなったとした場合、業務内容が変わる以上発想が変化せざるを得ない。もちろん、だからと言って労使対立が無意味なわけでも不要なわけでもない。原理的な意味で、労働組合は労使にとって必要なことは言うまでもない。

10)9)に関連して。同じ人間でもおかれた立場、なすべき業務によって発想が変わるということ。これは当たり前のことのように思える。その中で、変わったからと開き直るか、そうはいっても……、と多少なりとも踏みとどまるか。個人の世界観はここにあらわれる。ひょっとすると、ここ「のみ」なのかもしれない。

11)おかれた立場、なすべき業務が変われば個人の発想が変わる、とするならば。個人固有の思想は消えるとまでは言わずとも相当程度姿を潜め、「物質的基盤」(!)などをその根拠としたイデオロギーが人間に反映しているだけだということになってしまうかもしれない。その手前で立ち止まらなければならないが、立ち止まるべき場所はどこにあるのか、見極めること。

12)労働者と経営者の対立は、ある。その対立は覆い隠してはならない。だが、本当に撃たなければならないのは何なのか。それが経営者個人の場合ももちろんある。しかし、それだけだろうか?

13)3)でいう「職場の社会学」の構築と同時に必要なのは、経営者の類型化。根っからの経営者、労働者から転じた経営者の比較、など。生きた実例として堤清二=辻井喬への興味は尽きぬが、対象を幅広くとること。

14)経営者は経営者の理屈がある。同様に、労働者には労働者の理屈がある。この両者は対立するものであり、たたかいであることは言うまでもない。しかし、どちらも人間ではないのかと考えてみる。人間には人間の理屈がある。人間の理屈の上で、経営者の理屈と労働者の理屈があるのではないのか。どちらが人間の理屈を体現しているか。人間の理屈から離れてしまっているのはどちらの理屈か。

15)14)を考えるには、3)と13)のような実態調査と同時に、「関係の絶対性」(吉本隆明)を手がかりに理論上のモデルを構築することは出来ないか。中期(?)見田宗介の社会理論に学ぶことが出来ないか。

16)批判しているものにいつの間にか取り込まれている。そんな光景は何度も見てきたし、自分自身もそんな光景から逃れられていない。開き直りはいつでも出来る(すでにかなりしているが)。とどまるとしたら、ほんの少しずつでも、考え続けるしか途はない。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-25 14:35 | 業界 | Comments(0)

グスコーブドリ私論(8)

8.ブドリの死を分け合う

 ブドリの死を必然であり、甘美なものとして読む自分自身の中に、意味のある死への欲望を見出すところから出発し、ブドリがなぜ死なねばならなかったのか、その死はほんとうに他者を救い得たか、と思考を進めてきた。

 ブドリの遺言、「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもつともつと何でもできる人が、私よりもつと立派にもつと美しく、仕事をしたり笑つたりして行くのですから」をまっとうに受けとめるなら、犠牲者としてのブドリは再生産されてはならない、ブドリを「最後の一人」にしなければならない、そのように思えてくる。「ブドリのようになりましょう」ではなく、「ブドリの悲劇を繰り返さないようにしよう」でなければ、どうにもおさまりがつかないのだ。

 ブドリの死が、主体的な必然であったかのように見えて、実は追いつめられた必然でもあったとするならば、その情況を問うことなしに生き延びた誰かが、自分を棚に上げて他者に「ブドリになれ」などというのは愚行という他ない。安穏な場所にいて危険な現場にいる人を称揚することにまつわる胡散臭さを、僕たちはこの半年、散々目にしてきたのではなかったか。

 その胡散臭さが、自分自身に跳ね返ってくることも、また。

 意味のある死への欲望を、僕自身が抱いている限り、「ブドリになれ」という呼びかけに対して根本的に抗しえない。この欲望を断ち切らない限り、ブドリを最後の一人にすることは出来ない。

 ここで「意味のある死への欲望と僕は断絶しよう」などと極めてみたいのだが、簡単なことではないと自覚している。四半世紀にわたってそんな読み方をしてきた人間が、そうやすやすと考えを変えられるものではない。変えられると思う方がかえって危険だろう。

 奇妙な感覚が、生じてくる。

 ブドリをよだかの星のごとく孤高の存在として捉え、一人その星を見上げて祈りを捧げる、あるいはその星からの光に一人照らされてわが身を恥じる。この四半世紀の僕のブドリの読み方はこのようなものであった。

 しかし、ペンネン技師を媒介として読むことを通じて、ブドリの存在はより身近なものに感じられるようになってきた。おそらくは建てられるであろうブドリの生まれ育った森の記念碑の前に、「だまつて首を垂れてしま」うほかなかったペンネンとともに僕は居る。ブドリという人について、またその死について、そして生き延びた僕たちのこれからについて、静かに語り合うような。

 そう、ブドリの死は、一人で受け止めてはいけないような気がしてくる。誰かと、分け合っていかねばならないという気がしてくる。ひょっとすると、カンナがケンヂやマフィアたちの「遺言」を受け止め損なったのは、一人であったからではないのか。ケンヂの遺言を聞いた時、カンナ一人が子どもであった。オッチョやユキジ達は、その遺言を分け合うことでプログラムとして自分自身に組み込み得たのではないか。カンナとオッチョ達との決定的な差異はそこにあるのではないか。

 他者とともに、ブドリの死を分け合うこと。意味のある死への欲望を断ち切ることよりはハードルが低いかもしれないが、決してそれも易しいことではない。各自各様のブドリ像があるだろう。そのブドリ像には意識/無意識に関わらず、自分自身の欲望が反映してしまっている。だけれども、いや、だからこそ、ブドリの遺言のプログラム化は共同で進められなくてはならない。
 
 プログラムのたたき台とすべく、ブドリの遺言への応答を示して、この感想文を締めくくろう。

 「私のやうなものは、これから沢山できます」。
――確かにそうかもしれない。だが、その沢山のなかには、ブドリ、君自身もいるのではないか? 君だけが除外されるいわれはないじゃないか。

 「私よりもつともつと何でもできる人が、私よりもつと立派にもつと美しく、仕事をしたり笑つたりして行くのですから」。 
 ――だからといって君自身が立派でないとか美しくないとかいうことではないじゃないか。それにさ、そう言われて残された、僕たちがそうそう簡単に笑うことが出来ると思うかい? 君は忘れられることを望んでいるかもしれないし、実際忘れていく人もたくさん出てくるだろう。けれど、忘れようったってそうそう簡単に忘れられないことだってあるんだよ。

 そして僕たちはこう言わなければならない。これはある時のデモで耳にした言葉。

――ブドリ、いっしょに生きよう。

                                                     〈了〉
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by todoroki-tetsu | 2011-10-21 11:43 | 批評系 | Comments(0)

グスコーブドリ私論(7)

7.『20世紀少年』

 ブドリを犠牲にして生き延びたという事実を、生き延びた人間が受け止めていくのは容易ではない。単なる英雄化はその補償作用である。

 ここで読み方について以前些かの留保をつけておいた、ブドリの事実上の遺言ともとれる言葉に立ち返ろう。

 「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもつともつと何でもできる人が、私よりもつと立派にもつと美しく、仕事をしたり笑つたりして行くのですから」(P.270)


 この言葉を、生き延びた人間はどう受け止めることができるだろうか。

 この言葉通りに「仕事をしたり笑つたりして行く」ことが出来るようになるまでには、相当の時間と苦労が必要に思える。自暴自棄になることもあるだろう。ネリの息子は犠牲者の甥である、そのことの重圧に負けたりはしないだろうか。

 自分の死をそんな風に思わないでほしい、ブドリはそう考えたはずだ。ブドリの思い描いたのはそんな世界ではない。だけれども、生き延びた側には生き延びた側の理屈と感情が、ある。そうそう簡単には「はい判りました」とは言えない何かがある。

______________________________________

 ここで賢治作品とはまったくかけ離れた作品、『20世紀少年』を参照項にしたい。ブドリ死後のイーハトーブの人々を、ネリの息子を想像するにはまったく情況がかけ離れているのかもしれない。けれど、誰かの犠牲によって生き延びた/生き延びてしまった人間のことを考える上で、またとないテキストだと考えられる。

 この作品について粗筋を記そうとするのは野暮だ。省略しよう。今ここで参照したいのは18巻における遠藤カンナの姿である。

 “ともだち”の人類滅亡計画によってばらまかれたウィルス。そのワクチンはある資格を持った限られた人にしか与えられない。このワクチンを巡って壮絶な殺し合いが各地で起きている(その描写は17巻に詳しい)。カンナのところにもワクチンは送られてくるが、自分にはそれを打つ気はない。

 カンナを生き延びさせよう考える、彼女と親しいマフィアたちは一芝居うつ。みんなでワクチンを打つようにすれば彼女もそれにならうだろう。芝居は成功する。カンナは本物のワクチンを、マフィアたちはただのブドウ糖をそれと見せかけて打つ。

 その後マフィアたちは”ともだち”に対して総攻撃をかけるが、おそらくは全滅をする。すべてが終わった後に事実をカンナに知らせたマフィアの大ボスチャイポンは、こう言い遺す。

 「生きるんだ、カンナ……。みんながこう言ってた……。おまえは、希望の星だ……。おまえは私たちの……娘だ……」(P.57)


 マフィアたちはカンナを「希望」として捉え、何としても生かそうとした。

 しかし、カンナはこの事件以来むしろ冷徹になる。「氷の女王」と呼ばれる。自滅ともいえる武装蜂起に全てを賭けようとする。

 マフィアたちはカンナにそんなことを望んでいたのではない。だが、彼らの犠牲によって生き延びたカンナはむしろその事実に食いつぶされていくように思える。カンナはこう絶叫する。

 「みんなは、あたしにワクチンを打たせるために大芝居を……。でも、でもあたしは本当は……打ちたかった……!! あたしは自分一人だけ生きたかったからワクチンを打ったの!!」(p.58-9)


 この過程は極めてリアルだ。誰かの犠牲を受け止めることのむずかしさが明確にえがかれている。

 だが、ここで話は終わらない。武装蜂起を何としても止めようとするオッチョが登場する。

 「命が危ないと思ったら、一目散に逃げろと言った男がいた……。おまえの中でその男は生きているはずだ」(p.59-60)


 こう説得しようとするオッチョも、実は偶然によってワクチンを打たれている。そのワクチンは、オッチョが直接手を下したわけではないのだが、ひょっとすると3歳くらいの女の子の命を奪って得られたものかもしれないのだ。その絶望を、オッチョは背負っている。

 そのオッチョが、そもそもは遠藤ケンヂの発した「命が危ないと思ったら、一目散に逃げろ」という言葉でもってカンナを生かそうとしている。
 
 結果としてはオッチョ単独では説得には成功出来なかった。結局は、ケンヂが生き延びているかもしれない可能性をラジオが受信することによって説得は成功するわけだが、しかしその偶然はオッチョの一連の行動によって引き起こされたものでもある。

 この一連の光景から、引き出せるものがあるように思える。

 整理しよう。

 まず第一に、犠牲になった者が希望を託したとしても、希望を託された側はその犠牲の重さによってむしろ希望とは離れた方向に向かう可能性があるということ(武装蜂起を準備するカンナ)。

 第二に、その可能性を生かすか殺すかは、生き延びた人間どうしの関係にかかっているということ(カンナを説得するオッチョ)。

 そして第三に、生き延びた人間どうしを関係づけているのは、ケンヂの言葉であるということ。ケンヂの言葉を幼いカンナも直接聞いているのだが(第5巻)、カンナはそれを受け止め損なっている。こうした説得の後にも関わらず、再度自分が死ぬことを前提とした暴挙に出てしまうこと(第20巻)からも、その受け止め損ないは深刻だと思われる。が、それは当然あり得るようなものとして読める。

 多少の時系列を無視してしまうが、オッチョもマルオもユキジも、ケンヂの言葉をいわば遺言のように受け止めて――実際ケンヂは生き延びていたわけだが、それが判るのはずいぶん後のことだから「遺言」と表現しておく――、自分自身の中にプログラムのように組み込んで行動している。カンナにも同じ言葉は届いているが、それを組み込めてはいない。

 もちろん、組み込めないのが悪いとか、カンナはいまいち判っていないとか、そういうことではない。生き延びた人間どうしが、ケンヂの遺言というプログラムを巡って関係を作っていること、こここそが重要だ。

______________________________________
 
 ここでようやくブドリに話を戻すことが出来る。今指摘した第一の点と第二の点については、そのままブドリの死後を生き延びる人々にあてはめて考えることが出来るだろう。問題は第三の点だ。オッチョたちがケンヂの遺言をプログラム化したとするならば、生き延びた人々――いや、僕たちは、ブドリの遺言をどのようにプログラムとして組み込むことが出来るだろうか。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-20 20:56 | 批評系 | Comments(0)

グスコーブドリ私論(6)

6.ブドリの死は本当に他者を救い得たか?

 ブドリは、本当に他者を救い得たか?

 これは愚問に等しい。ブドリが冷夏を食い止め、不作とそれに伴って生ずるであろう飢饉を防ぎ、多くの人の命と生活を救ったのは疑いようがないからだ。

 結論を先に述べてしまおう。

 ブドリは他者を救いうる可能性(当面の生存)をつくることは出来た。しかし、その可能性の生殺与奪は、ひとえに生き延びた人間にのみかかっている。

 ブドリが自分自身を救い得たのは間違いない。そのことはまずもって確認しておこう。「あの年のブドリの家族」を見過ごすことはブドリには出来なかった。それを救わんとカルボナード島に一人残った、そのブドリ自身を救うことは出来たと思われる。そして、少なくともその死は他者の当面の生存の条件となった。

 僕が考えたいのはその先だ。ブドリの死=犠牲によって生き延びた側の人々のことだ。
 
 誰かの、何かの、犠牲によって生き延びる……そのことは何も大層なことではなく、日常的な光景だ。そのことを気づかせてくれる批評――大澤信亮「批評と殺生」(『神的批評』所収)――を、すでに僕たちは手にしている。

 生きることは食べることであり、食べることが殺すことであるならば、私たちにどんな希いが許されているだろうか。何も許されていない。この結論は絶対に思えた。そこから目を逸らしたすべての試みが空疎に思えた。今も思っている。


 このような衝撃的な問いかけで始まるこの批評に、今ここで立ち入ることは出来ない。だが、毎日のように経験する食事において何かを殺していること=犠牲にしていることを常に意識し続けることは難しい。いただきます、と手を合わせるとった次元の話ではない(それはそれで大切なことだが)。だからこそこの批評が重い意味を持つのだということだけを記しておくことしか今は出来ない。

 そう、自分が生きている日常において、誰かを、何かを犠牲にしているという感覚を持ち続けることには、根本的な無理がある。だから問わなくてもいいのではない。問わせないようにする力がおのずと働いてしまうと言いたい。

 そのような力が、完全にブドリの犠牲を忘却してしまうように働く場合もあるかもしれない。しかし、もっとも現実的に考えられるのは、ブドリを単に英雄化してしまうことによって、その犠牲の意味から目を逸らしてしまうことだ。

 ブドリは、間違いなく誰からも感謝される。ブドリの行為と、ブドリへの感謝の表明はともに称賛される。それは当然のことだ。その感謝の気持ちを基にした英雄譚も出来上がるだろう。ブドリの命日は、記念日として制定されるかもしれない。ブドリの生まれ育った森には、記念碑がたてられるかもしれない。書店員として言わせてもらえれば、仮に出版が発達していたら、何冊も何冊も新刊が出るだろう。

 そして例えばブドリの妹ネリの息子は、ブドリの素晴らしさを教えられながら育っていくだろう。ブドリおじさんのように立派になりなさい、と。

 自分たちを救ってくれたブドリに感謝の気持ちを形にすること。また、ブドリをある種の理想・目標とすること。それは実に極めて自然な感情の流れだ。誰も反対はすまい。

 だが、この自然な感情の流れに、目を凝らしてみたい。

 ブドリは失政とそれを許容した社会によって死に追いやられたのではないか、と僕は記した。こうした視点なくしてブドリを単に英雄化することは、政治と社会の問題を「ないもの」にしてしまうことになる。ブドリを死に追いやったのはあくまで自然のせいだ、というわけだ。自然なら、どうしようもない。人知を超えているから。

 ここに、罠がある。

 ブドリの単なる英雄化は、第二の、第三のブドリを生みだすだろう。森の中で楽しく暮していた幼少のブドリは無数にいていい。だが、自ら命を投げ出して他者を救わざるを得ないようなブドリは、そう再生産されてよいものだろうか。それでもなお、ブドリの甥っ子は「ブドリのようになりなさい」と育てられているだろう。そのような甥っ子は、何人もいるだろう。

 再び冷害は起きるだろう。その時にもまた食糧の備えを欠いていたならば? その時にも、技師の命を失うことを前提としてしまう火山局の組織と技術しかなかったならば? 

 第二、第三のブドリの準備は、飢饉にそなえる政治の実現よりも技師の死を守ろうとする火山局の姿よりも、容易に想像出来てしまう。ブドリの死を、単に覚悟を決めて自然と対峙した英雄とだけ考えていれば、おのずとそうなる。

 それは、ブドリの望んだことだろうか? ブドリはそんなことを希望して命を投げ出したのだろうか? 

 これを考えるために、まったく別の参照項を導入したい。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-19 21:12 | 批評系 | Comments(0)

グスコーブドリ私論(5)

5.ペンネン技師に寄り添う

 ここで、ブドリが最初にペンネンと出会った時のことを振り返ってみたい。ブドリの主体的な必然=覚悟をより強固にしたのは、ペンネン技師その人であったかもしれないのだ。

 ペンネンは初対面のブドリに対し、自分たちの仕事についてこう語って聞かせる。

 「ここの仕事は、去年はじまつたばかりですが、じつに責任のあるもので、それに半分はいつ噴火するかわからない火山の上で仕事するものなのです。それに火山の癖といふものは、なかなか学問でわかることではないのです。われわれはこれからよほどしつかりやらなければならんのです」(P.254-5)


 ペンネンは「なかなか学問でわかることではない」とはっきり言いきっている。これはいかにも実務家らしい認識で、共感しないわけにはいかない。しかし、つづく言葉が「しつかりやらなければならん」であるということに注意したい。

 いったい、賢治が「しつかりやる」といった時に意味するところは何だろうか。この点は、専門には批評家と研究者の手にゆだねざるをえないだろう。しかし、生半可な賢治読者である僕にも、保坂嘉内あての手紙(文庫版全集9巻、P.231-2)で21回も繰り返される「しっかりやりませう」を連想することは出来る。どうやら何か特別な思いが、賢治の発する「しつかりやる」という言葉には含まれているように思える。

 この激情にみちた手紙よりは、「銀河鉄道の夜」(文庫版全集7巻)における次のくだりのほうが、補助線として適切かもしれない。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになつたねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だつてさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
「けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしつかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。(P.292)


 「しつかりやる」=「ほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」と言ってよいのかまでは判らない。けれど、かなり近似値とみなしてよさそうだ。これをもってペンネン技師がブドリの死を予言したというのはうがち過ぎている。しかし、「しつかりやらなければならん」と口にしたペンネン技師が、ブドリの覚悟に「だまつて首を垂れてしま」うほかなかったことは忘れてはいけない。「しつかりやらなければならん」と口にした人間が、その言葉を身を以て実行せんとする若者と対峙する時、止める手立てがどれほどあるだろう。

 ペンネン技師は決して初対面のブドリに命を投げ出せとまでは思わなかったろう。身の危険のある仕事だが、やりがいがあるし、いっしょに頑張りましょう。そんな程度のことだったかもしれない。しかし、ペンネンの心の奥底にはどこか「僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」に通ずるものがなかったか。

 こうしたことは今でもなお、僕自身の、僕たちの身のまわりにあふれているように思える。

 自らの選び取った必然に裏打ちされた、覚悟した個人が自然=世界と対峙する。その姿は美しく、気高い。なんびとをも寄せ付けぬ気高さ。

 だからこそ注意しよう。その美しさが失政や職場の問題を覆い隠してしまうことに。賢治が企図してかせずかは知らないが、とにもかくにも巧みに隠したこの問題に、目を凝らそう。そして「だまつて首を垂れ」るほかなかったペンネン技師の悲しみに、寄り添おう。

 しかし、今まで記したようなブドリとそのまわりへの目の凝らし方には、至極まっとうな反論がいくつも出てくるだろう。中でも予想されるのは、「政治や社会だのを持ち出しても意味がない。今この場ですぐに冷害を食い止めなければみんなが飢饉で苦しんでしまう。いかに追いやられようが火山局の姿勢がなんであろうが、それを救おうとするブドリは、目の前の現実に精一杯立ち向かったではないか。その意義は誰もが認めざるを得ないはずだ」といったものだろう。何のことはない、この私論の最初のほうで記した僕自身の今までの「甘美」に魅せられた読み方である。
 
 この問いに応えるには、おそらくこう考えるほかに途はない。

 ブドリは、本当に他者を救い得たか?
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by todoroki-tetsu | 2011-10-18 05:05 | 批評系 | Comments(0)

グスコーブドリ私論(4)

4.ブドリとそのまわりに目を凝らす
 
 ブドリは、本当に死ぬ必要があったのだろうか。そう問いを立ててみる。さんざん必然だと言ってきたが、それは本当なのか、疑ってみる。ブドリとそのまわりに目を凝らすとは、そういうことだ。

 そんな風に冷静に(意地悪く)読んでみると、気づくことがいくつかある。

 ひとつは、冷夏による飢饉が問題なのであれば、それは自然科学というか技術の問題なのではなく、むしろ政治の問題なのではないかということ。飢饉を生き延びるだけの蓄えを、政治がしてこなかった(もちろん、政治にさせなかった、という認識も含む)、そう考えてみることが出来そうに思う。事実、ブドリたちが雨や肥料を降らせるのに成功した期間が、5年程度はあったわけだ。ブドリが「あの年のブドリの家族」を思って居ても立ってもならなくなるのは正しい。が、冷夏による不作を乗り切る程度の収穫が蓄えられ、何とかみんなが生き延びることが出来そうなくらいの準備が出来ていたとしたら、何もブドリはあそこまで思いつめる必要はなかった。備えの不足は、明らかに失政によるものではないのか。冷夏が何年も何年も続いた末であればまだブドリの死も判る。だけれど、5年の間は作柄の好調が続いたのだ。5年という月日が蓄えるに十分な月日かどうか知らないが、必ずしも短すぎた期間とは思えない、そうした政治や社会を志向していたならば、だが。

 そうしてみると、ブドリの死は自ら選び取った必然などでは決してなく、失政とそれを許容した社会によって死に追いやられた、強いられた必然と言えるのではあるまいか。いや、賢治がこれを書いた時点において、当然冷夏、不作、そして飢饉はそうした政治なり社会なりを介在させうるような問題ではなかったのかもしれない。僕のこの読み方はあくまで後知恵でしかない。けれど、2011年にこの物語を読むならば、そして今本当にこの物語から何かを得ようとするならば、こうした後知恵は決して無意味ではあるまい。

 ふたつめは、本当にカルボナード島には一人残ることが必要であったのかどうか、ということ。何とかブドリが逃げ得る方策を見つけることが出来なかったのかどうか。少なくとも物語からはブドリが逃げ得る/生き延びる方策を検討した形跡を読みとることが出来ない。ブドリ自身にもクーボーにもペンネンにも、そして火山局にも。時間も差し迫っていたのだろうし、本当に難しいことであっただろう。でも、ブドリは逃げ遅れたのではない。最初から死ぬことが分かっていてカルボナード島に赴いたのだ。逃げることはハナから想定してもされてもいない。火山局は、その技師を仕事のために見殺しにしたのだ。

 もちろん、これもある種の言いがかりなのは判っている。けれど、労働という観点からみるならば、そしてこの物語を読む僕が日々働いている以上、こうしたことはぜひとも考えておかねばならいのではないかという気になってくる。身の危険のある労働はいっぱいあるし、結果として命を落とすこともある、だけれどもそうならないように最大限の努力をするのは使用者の責任ではないか。そういう眼差しを持たないわけにはいかない。これもまた、2011年の今だからこそ、と記しておきたい。

 政治社会という存在・課題の欠落、あるいは火山局の労働安全衛生の不備は、当然のことながらこの物語の瑕疵を意味しない。それどころか、ここでそんなことを言ってしまうと、どうにも元も子もないような気にさせられる。実に巧妙である。

 その巧さは、ひとえにペンネン技師のえがかれ方によると思われる。クライマックス直前、ブドリとペンネンの最後の会話では、ブドリが一人残らざるを得ない状況を、「老技師はだまつて首を垂れてしまいました」の一言に集約した。技術としても大変に一人の犠牲を回避することが難しいこと、また多数を救うために一人が犠牲になるのは致し方ない、あるいはブドリの他者(未来でもあり過去でもある自分)を救おうという決意には抗い得ないこと……それらがすべて首を垂れた老技師の姿で表現される。この姿があまりに巧くえがかれているので、政治社会や火山局の問題からは目が逸らされる。ブドリ個人とペンネン個人の関係に置換されるかのように隠されていく。そして行き着くところはブドリ個人の主体的な必然=覚悟より他はなく、物語は終末へと急いでいく。

 ここでもう少し、ペンネン技師その人に目を凝らしてみよう。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-17 12:49 | 批評系 | Comments(0)

グスコーブドリ私論(3)

3.ブドリを読む自分を見つめてみる

 ブドリに感じる魅力を、仮に必然という言葉で記してみた。では、僕はいかに読んできたのだろうかと振り返ってみる。

 本当に文字通り何度となく繰り返し読んでいるのでその逐一は覚えていないが、少なくとも意識して読み返そうと思った幾度かは、何かに悩んでいる時であったと記憶している。何か問題に直面した時、自分はどのような道を選ぶべきか、そんなことを考えながら読んだことがあった。

 しかし、読後自分の具体的な行動に何か活かした/活かせたかというと、そうした記憶はあまりない。どちらかというと、「ブドリにはなれなぇなぁ」という挫折感のほうが強いのだ。人間、あんな風に生きられるだろうか。ブドリのような生き方=死に方が出来ればいいと思う。あこがれる。けれど、現実の僕はそうは出来ていないし、出来る気がしない。あんまり考えていると挫折感で日常に支障をきたすから考えないでおこう、でもある時ふと思い出したように手にとって、その場だけは目頭を熱くしてみたりなどしてカタルシスを得てみるけれど、結局自分の何も変えようとはしないのだ。ブドリの物語を何度読んでも、ブドリと僕との距離はいっこうに縮まらない。よだかの星のように、遠くて高いところにブドリは在る。

 結局のところ、僕はブドリの物語を都合よく消費しているだけなのではないか? そう思うと、いささか後ろめたい気分になってくる。どうにも失礼だという気がしてくる。

 思考を少し進めてみる。ブドリと、その物語を読む自分との距離が離れていることが問題であるならば、道はふたつしかない。本気で心底ブドリになりたいと目指すか、ブドリと自分とのあいだの距離はいったい何なのかを考えるか。四半世紀の経験から、ブドリにはどうやらなれそうにもない。なので、ブドリと自分とのあいだにあるものについて、考えてみることにする。

 アプローチは二つ。ひとつは、高くて遠いところに在るブドリを見上げている僕自身が、何を見ようとしているかを考え直してみること。ブドリの物語を読んでいると見せかけて実は、自分の見たいもの/読みたいものだけを見、読んでいるだけではないのかと疑ってみることだ。

 もうひとつは、高いところに在るブドリとそのまわりに、もっと目を凝らしてみること。言い方を変えれば、意地悪く読んでみるということだ。読んでいるうちに惹きつけられた必然の甘美な魅力を、断ち切ろうと試みることだ。
 
 第一のアプローチについては、「2.ブドリの必然」で記した僕自身の物語の読み方、力点の置き方でもって既に無意識のうちに答えを出してしまっている。ブドリの死に方に、僕は明らかに心惹かれている。出来るなら、あのような死に方をしてみたい。そう欲望している。

 これはどうせなら誰かの役に立ってみたいものだ、という、わりあいに素朴な感情から欲しているわけではないように思われる。役に立ちたいと願うなら、それだけを欲するなら何も死ぬことはないのだから。生きつづけて他者の役に立つようなことをし続けることが考えられてよい。けれど、生き延びるブドリを考えることはなかなかに出来ない。いや、しようとしていない。

 ブドリの死は必然である、と僕は読んだ。ここには強いられたという意味での必然よりも、自ら選び取った結果としての必然、という意味合いのほうが強い。この必然には、明らかに意味がある。自分と他者を生かすために身を投げ出したブドリの死が無意味であるはずがあろうか。意味のある死を迎えることが出来たのであれば、それはすなわち意味のある生であったということにはなるではないか? そして死んでしまえば、その意味は、たとえ忘れ去られることはあったとしても貶められることは、ない。

 こんな程度のことは、もっと高度で緻密な評論で既に言われていよう。だけれど今大切なのは、他ならぬ僕自身が何をブドリの物語に欲望しているのかを見つめることだ。

 繰り返そう。ブドリの死は必然に裏打ちされた意味のある死であり、その死には意味があり、死に意味があるということは翻ってその生に意味がある――そのように僕は読んでいる。そしてそのようにブドリの物語を読む僕自身は、意味のある死へのあこがれを抱いている。そしてさらに言うならば、意味のある死さえ迎えることが出来れば、たとえそれまでの生が無意味だったとしてもその死に様でチャラにすることが出来るのではないかとすら考えているように思えるのだ。

 意味のある死への欲望を、ブドリを読む自分の中に見出す……これはいったいどういうことなのか。そのことを考える前に、もうひとつのアプローチ、高いところに在るブドリとそのまわりに、もっと目を凝らしてみよう。
 
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by todoroki-tetsu | 2011-10-16 00:08 | 批評系 | Comments(0)

グスコーブドリ私論(2)

2.ブドリの必然


 ブドリは自分の生命を以て冷害を食い止め、多数の人を救った。献身、奉仕、殉死……どのような表現がよいのか判らない。が、ここでは犠牲という言葉を用いたい。

 ブドリは多数の人を救ったが、それは「世のため人のため」とか「他人に親切に」とかいった、一方的に他者へ奉仕するような次元でないことは明らかだ。ブドリは自分のため、自分を生かすために死を選んだ。そう読める。少し丁寧にその生涯を追いなおしてみよう。

 ブドリとその一家は、彼が10歳の時の夏とその次の年にあいついだ冷害で、飢饉に見舞われる。それまでブドリが過ごしていたであろう森の中での幸福な日々の描写がすぐさま切なさを帯びてくる。それから火山局に職を得るおそらく18歳くらいまで――正確な年数推定ではないが、てぐす飼いと赤鬚の山師のもとで働いた期間を計7年程度と考えておく――の間、作柄が並み以上であったと思えるのは山師のところで働いたうちの1年しかない。両親と妹を失った体験も想像するに余りあるが、10代のブドリにとって自然は大いなる脅威として観念されたように思われる。

 山師のもとを離れイーハトーブへ向かう汽車の中で、ブドリは思う。

 「早くイーハトーブの市に着いて、あの親切な本を書いたクーボーといふ人に会ひ、できるなら、働きながら勉強して、みんながあんなにつらひ思ひをしないで沼ばたけを作れるやう、また火山の灰だのひでりだの寒さだのを除く工夫をしたいと思ふと、汽車さへまどろこくつてたまらないくらゐでした」(P.249)


 ブドリはこの念願を果たす。潮汐発電所の建設によって得られたエネルギーで――仕組みがどういうものなのかはさっぱりわからないが――雨や肥料を降らせることが出来るようになったのだ。その達成感はいかなるものであったろう。

 「ブドリはもううれしくつてはね上りたいくらゐでした。この雲の下で昔の赤鬚の主人もとなりの石油がこやしになるかと云つた人も、みんなよろこんで雨の音を聞いてゐる。そしてあすの朝は、見違へるやうに緑いろになつたオリザの株を手で撫でたりするだらう、まるで夢のやうだと思ひながら雲のまつくらになつたり、また美しく輝いたりするのを眺めて居りました」(P.264)


 こうした幸福は5年ほど続いた。そしてブドリが27歳の時、10歳の自分を襲ったのと同じ冷夏の兆候が現れる。

 「ところが6月もはじめになつて、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない樹を見ますと、ブドリはもう居ても立つてもゐられませんでした。このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちやうどあの年のブドリの家族のやうになる人がたくさんできるのです」(P.269)

 
 ブドリはクーボー博士に相談する。カルボナード島を噴火させることが出来れば気温を上げることが出来るかもしれない。しかし、島に残る最後の一人はどうしても逃げられない。その一人となりたいと言うブドリを博士は慰留するが、それに対してはこう応える。

 「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもつともつと何でもできる人が、私よりもつと立派にもつと美しく、仕事をしたり笑つたりして行くのですから」(P.270)


 そこでクーボーはペンネン技師に相談するように促す。ブドリの話を聞いたペンネンは、今年もう63歳になるのだから自分が島に残る、という。しかし、

 「先生、けれどもこの仕事はまだあんまり不確かです。一ぺんうまく爆発しても間もなく瓦斯が雨にとられてしまふかもしれませんし、また何もかも思つた通りいかないかもしれません。先生が今度お出でになつてしまつては、あと何も工夫がつかなくなると存じます」(P.270)


 これを聞いたペンネンは「だまつて首を垂れてしまひました」。

 そして、この物語はこう締めくくられる。

 「すつかり仕度ができると、ブドリはみんなを船で帰してしまつて、じぶんは一人島に残りました。
 そしてその次の日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅(あかがね)いろになつたのを見ました。けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖くなつてきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちやうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといつしょに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。」(P.270-1)


 以上がやや丁寧に追ったブドリの生涯である。この中で僕が必ずと言っていいほど目頭を熱くしてしまうのはこの個所だ。

 「ところが6月もはじめになつて、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない樹を見ますと、ブドリはもう居ても立つてもゐられませんでした。このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちやうどあの年のブドリの家族のやうになる人がたくさんできるのです」


 ブドリは漠然とした他者をイメージしたのではない。極めて具体的に、「あの年のブドリの家族」を思い描いた。だから「居ても立つてもゐられ」なくなったのだ。ブドリは未来=過去の自分を、今、ここで救おうとしたのだ。ここには美しくて非情な「必然」がある。甘美とすらいっていい。このブドリを貶める奴は何人たりとも許すもんか。そんな思いまでしてくる。心の底からブドリを称賛したくなってくる。ブドリは自分と他者を生かすために、身を投げ出したのだ。おそらくこの物語に抗しがたい魅力を僕が感じているのはここである。 

 ほかにも、

 「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもつともつと何でもできる人が、私よりもつと立派にもつと美しく、仕事をしたり笑つたりして行くのですから」(P.270)


 といった部分にもグッときてしまうことがある(「マリヴロンの少女」も好きな賢治作品の一つである)けれども、最近はなぜだか少し警戒をもってこのくだりを読むようになっている。

 さて、先に「必然」という言葉を使った。それはブドリの生い立ちに由来するものとして使ったのだが、ほんの少しだけ別の角度から、必然という言葉を使えるように思う。それは自然との関係においてである。

 ブドリの生涯を強烈に運命づけたのは、10歳の時に経験した冷害である。圧倒的な脅威としての自然。10代のうちのほとんどを自然に翻弄されて暮してきたブドリにとって、「みんながあんなにつらひ思ひをしないで沼ばたけを作れるやう、また火山の灰だのひでりだの寒さだのを除く工夫をしたい」というのは文字通りの悲願だ。そして、それは少なくともひでりや肥料に関わる苦労については取り除くことが出来るところまでには到達した。上記では省略したが、火山の噴火も事前に察知して、少なくとも市街地などに大きな被害を及ぼさない程度には自然の力を調整できる技術レベルに到達しているのだ。

 圧倒的な脅威である自然。でもそれを何とか出来るようになってきた技術の進歩。しかし、冷害だけは今までの技術だけでは不足する。しかし、幸か不幸か、ひとつだけ可能性が、あった。たった一人が最後まで火山島に残れば、冷害を食い止めることが出来るかもしれない。だとしたら、技師ブドリはその可能性に賭けるほかないではないか。これもまた称賛に値しよう。ここに、自然と人間(の技術)が対峙する際に生じるであろう必然を見出すことが出来る。
 
 自分の生い立ちに由来する必然と、自然と対峙する人間の必然。このおそらくは同じだが見る角度によって少し色合いを異にするであろう必然と手を携え、ブドリは27歳の死へと一直線に進んでいく。実に完璧な物語である。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-15 00:03 | 批評系 | Comments(0)

グスコーブドリ私論(1)

1.はじめに


 宮沢賢治の数少ない長篇のひとつ、『グスコーブドリの伝記』は、例えば同じ長篇の範疇に入る『銀河鉄道の夜』などに比べてさほどメジャーとはいえない。もっとも、賢治をある程度読んでいる人には知られているだろうから、何を以てメジャーとするのかはこう記している僕自身あまりよく判っていない。

 この『グスコーブドリの伝記』に僕が最初に出会ったのは小学生の頃だ。以来この四半世紀、ある時には意図して、ある時は無意識に、この作品を引っ張り出しては読み返してきた。

 何度読んでも目頭が熱くなる。自らの生をもって多くの人を救ったブドリ。自分もそうなってみたいものだ、と思う。けれど、そんなことは出来やしない。そんなことの繰り返しの中で、それでもブドリの物語を読むことをやめない。

 それはどういうことなのだろうか? どうしようもなく意識をせざるを得ない2011年の秋というこの現在において、『グスコーブドリの伝記』四半世紀分の感想文を、何日かかけて記してみようと思う。

 文庫本にしてわずか40頁程度の長篇は、その名の通りグスコーブドリという男の27年の生涯の物語だ。ささやかでしあわせな生活を送っていた少年ブドリだが、冷害による飢饉によって家族はバラバラとなる。様々な苦労を重ねて働きながら技術者となり、雨や肥料を人工的に降らせるなどして人々の生活を楽にできるようなところにまでたどり着く。が、幼いころ自分を襲った冷害が再びやってきそうなことを知り、自らの命を賭して火山島を噴火させ、冷害を防ぐ。

 こんな不十分な粗筋紹介よりは、実際に読んでもらったほうが何倍も話は早い。そして、未読の人が一人でも多く読んでみてほしい、そう思う。この物語が、何らかのテクストとしての役割を果たすことを、恐る恐る願っている。


 なお、引用にあたっては筑摩文庫版全集を用いる。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-14 22:31 | 批評系 | Comments(0)