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三田誠広『実存と構造』

 『実存と構造』……なんともはや時代がかったタイトルのように思える。が、故あって「実存」という言葉が今気になっているので購入した。わりあいに出足も好調の様子。

 
 こういういい方はよくないかもしれないが、さっと読める。思考のツールとして使うためのとっかかりとしてはなかなかによいのではないかと思う。例えば、実存の「起源」についての記述。


 ……宇宙と対決し、宇宙の偉大さと人間の無力を認識しながら、それでも人間の方が高貴だと宣言するパスカルは、この瞬間、神に対して、一対一で向き合っている。
 神と差しで勝負する。
 それこそが「考える葦」の勇気であり、心意気であり、神にも負けない高貴さである。
 実存としての人間はまさにこの瞬間から始まったといっていい。

                                                 (P.29)



 構造のほうはレヴィ=ストロースの話から神話、そして文学へという流れで語られていくのだが、関心を持ったのは以下のような記述。

 
 神話の体系や歴史的な視野の中に個人を置いてみると、当人にとっては困難な状況であり、やりきれない苦悩をかかえているようでも、神話や歴史の長大な体系中では何度も繰り返された「よくある話」にすぎないということになる。大げさに悩んでみせることが恥ずかしくなるような、平凡な状況なのかもしれないのだ。
                                               (P.107-8)


 
 最後の二章は大江健三郎論・中上健次論にあてられる。僕のような文学音痴には非常にありがたいガイドである。


 実存と構造はコインの裏表、と著者三田誠広さんは強調しておられる。なるほど、そうかもしれない。それを認めた上で、その両者のあいだには何があるのか、と考えてみる。


 ここで立ち現われるのが、「関係(性)」の問題ではないだろうか。
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by todoroki-tetsu | 2011-09-26 07:17 | 批評系 | Comments(0)

9.24脱原発デモ@渋谷・原宿

 なんだかデモ日記のような様相を呈しつつあるが、都合と体調と気の向いた時しか歩いていない。今日は昼寝で寝過して、20分遅れぐらいで合流。宮下公園を出発するこのルートのデモは今日で3回目。


 このデモはtwitterでの呼びかけから始まった有志のものであること、政治とは関係ありません、原発はいやだと思う方はぜひ一緒に歩きましょう……おおよそこういった趣旨の呼びかけがなされながら、またシュプレヒコールもされながら、隊列は進んでいく。


 ここでいわれている「政治」はいわゆる「政党」とか「団体」とか、そういうことなんだろうと思う。そうしたものとは無関係です、という物言いはこうした運動の場ではしばしばなされることだろう。ふと、先日会場にだけ行ってさっさと帰って来てしまった9/19の明治公園のことを思い起こす。

 
 団体での行動が決して悪いわけではない。動員が云々なんていわれようがあるけれど、動員して実際に人が動くんなら大したもんだ。人間なんて誰かから言われたから、というだけのことで動くようなもんじゃあない。じゃあ、せっかくだから自分で足を運んで見ようかねぇ、なんて気持ちにでもならなきゃそうそう動くもんではないのだから。いまどき上意下達で動く組織なんてそうそうあるもんかね、と思うのだ。


 ただ一方で、僕のように一人でぽーんと行く様な人間にとっては、なんとなく所在のなさを感じたのは事実ではあった。別にそれはそれでいい。場はいろんなところにある、ということを知っているから、何もここでなんとなく落ち着かないまんま参加しなくてもいいだろうと思った。それだけのことだった。

 
 さて、話を今日に戻そう。他者に行動を呼びかける時、それに応じるか否かは呼びかける側と呼びかけられる側の双方の関係で決まる。一般に、呼びかけられた側が行動に参加するには、呼びかけを受けた時点もしくはそれまでに既に、「自分は何かをしなければならない」というある種の義務感か、「自分は何かをなし得る」というある種の自信を有しているか、そのどちらかであるだろう。が、これはいささか理屈にすぎていて、実際のところは「知り合いに声かけられたから」とか「何となく面白そうだと思って」くらいのことだって大いにあり得る。きっかけは無数かつ多様にありうる。その無数さ、多様さを引きだすものとして、「政治とは関係ありません」といった言葉が機能していればそれでよい、と思う。


 「原発」という単語のアクセントが「原」におかれていたメガホン演説を、僕ははじめて聞いた。「東電」がいつの間にか放送で「東」にアクセントがおかれていたように、ちょっと違和感を覚えた。シュプレヒコールであれば独特のアクセントになっても気にならないのだが……。「要求」の「要」にアクセントがおかれるのと同じことだろうか、とどうでもいいことを一人考えていた。

 
 覚えず周りを見回すと、デモスタッフの方だろう(いつもお疲れ様です)、ゴミ袋をもって路上で目に付くゴミを拾っておられた。こういうことは、大切なことだと思う。


 宮益坂に入る少し手前から、えらくノリのいいシュプレヒコールが繰り出される。個人の言語能力によるところが大きいなあ、でもそれも周りに人がいるからだろう、などと思うと相変わらず何にもせずにただ歩いているだけの自分にも、少しは意味があるのだろうかと考える。

 
 シュプレヒコールの中で印象に残ったのは、「いっしょに生きよう」という言葉。別段そうたくさんのデモに参加したことがあるわけではないが、この言葉は初めて耳にしたように思う。考えた末のことなのかその場のノリなのか分からないけれど、とてもいい言葉だ。

 
 原発は確かにいらないし、放射能もいやだ。国にはもっと出来ることがあるはずだと思う。責任追及が大事でないというのでは決してなくて、でも「いっしょに生きよう」という言葉は、何のために原発はいらないと考えているのか、その原点を端的に表現しているだけでなく、様々な可能性や思いに対して「開かれ」ている。


 尖鋭化してもいけない。一歩引いて考えよ。尖鋭化させてもいけない。一歩進んで考えよ。孤立してはならない。孤立させてはならない……そんなことを少し前にtwitterで記した。強固な「点」も大事だが、ゆるくても幅のある「戦線」を、と考えている。


 ここには商売人としての実利的な判断――もうすでに「原発本」を買う顧客は「限定」されつつある――と、個人もしくは一市民としての考えるべき倫理の問題がないまぜになっている。どちらも今しっかりと記すことはまだ出来ないが、後者について先取りして粗っぽく記すならば「他人様の運営して下さっているデモにちょっとばかり参加したからといって何かした気になってんじゃねえぞ、俺」ということであり、少し言葉を改めれば「免罪符としてのデモ参加」とでもいおうか。もちろんこれは不真面目な参加者である僕の問題であって、デモに参加している他の皆さんや運営の方々に何かどうこうというわけでは決してない。

 
 8・27脱原発デモを終えた後に杉田俊介さんの言葉をひっぱり出してもみたのだが、その延長線上にある問題として、考えている。
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by todoroki-tetsu | 2011-09-24 21:36 | Comments(0)

「『非正規雇用の増加』が背景に」

 今朝9/17(土)の「毎日」、「気軽な書き込み 『炎上』呼ぶ恐れも ツイッター、ブログ注意必要」の記事。自分の勤める店でも細々とツイッターをやっていたりするので他人事ではない。

 
 そう思って眺めていて、弁護士岡村久道さんのコメントに目がとまる。「『非正規雇用の増加』が背景に」とタイトルにある。コメントの一部を引こう。

 
 こうした騒動(従業員が勤務先やホテルに「有名人が来た」などと投稿すること)が目立つようになったのは、飲食店やホテルなどに非正規雇用が増えている現状と「合わせ鏡」と言えるのではないか。



 ここに、何か手がかりを感じる。岡村さんがどこまでをお考えの上でこうした発言をされたのか、これ以上コメントの中から探ろうとするのは難しいと思う。以下はあくまでこれをきっかけにした僕の考え。

 
 それは、「こうした騒動」をおこす人=「非正規雇用」とは捉えないようにしようということ。「非正規雇用」が増えている職場の「情況」がかかる騒動を生みだす、そう考えようとすること。

 
 しばしば僕の職場でもクレームやトラブルが起きる。契約スタッフが引き起こしたものだとあたかも「契約スタッフだから悪い」みたいな物言いがなされる。偉い人からもそうだし、場合によっては現場の一部もそうだ。しかし、冷静に考えてみれば、所謂正社員をバカスカ削り、その分を契約スタッフで補っている以上、顧客と第一に接するそのほとんどが契約スタッフなのであって、接する機会が多ければ多いほど、クレームは発生しうる。それは正社員であるか契約スタッフであるかにかかわらず、単純に、接客数の問題が根底にある。

 
 そして、かかるクレームやトラブルが起きた時、やれ教育だの管理だのと言われるわけだが、それは具体的に誰が実行することになるのか? 現場の正社員に他ならない。かくして正社員が負うべき仕事は増える。ただ仕事が増えるだけならまだよいのだが、暗黙のうちに責任だけが増えていく、えらい人からも契約スタッフからも。


 そうなると正社員がとるべき道は限られる。大きくいって、二つしか道はない。ひとつめは居直りとでもいうべきだろうか、「自分は正社員であって契約スタッフとは違う」というもの。俺はあいつらとは違うんだ、というわけだ。ふたつめは、「何とかえらい人とも契約スタッフともうまくやっていこう。それは自分の仕事だ」というもの。そのどちらもストレスがたまる。精神的にシビアな状態になっていく正社員が減る気配は感じない。

 
 1年ごとに契約更新のあるスタッフのストレスも相当にあるだろう――これは僕にはただもう想像するよりほかないことだ――、だから「正社員だって苦しいんだ」とだけ言うつもりはない。正社員でもあり、またささやかながら役職に伴う権限を有する自分が口にするのは甘いと言われるかもしれないが、このままいくと正社員も「もたない」んじゃないか、とは思う。だから正社員を守れ、などとは言わない。みんなにとってよりましな情況を作り出すことは出来ないのか、と思うのだ。


 では、どうするか、と考える前に、もう少し自分の立ち位置を見直してみたい。それは例えば、小林美希さんの『ルポ“正社員”の若者たち―就職氷河期世代を追う』(岩波書店)を読みながら「自分の職場はここであげられているほどひどくはない」と、共感よりも違いを見つけ出すことで安堵を得ようとする心性であったりする。


 ごまかしがきかない領域に、踏み込んでいかねばならないだろう。耐えられずにすぐさま逃げ出しそうな気もするが、しかし。
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by todoroki-tetsu | 2011-09-17 08:07 | 業界 | Comments(0)