<   2011年 07月 ( 9 )   > この月の画像一覧

7・23脱原発デモ@渋谷・原宿

 「まとも」にデモの隊列に加わったのは相当久しぶり。しかも途中参加、しかも手ぶら。やる気あんのか? と問われると、「ううん……」とつまってしまいそうだ。

 
 今日は複数の脱(反?)原発デモが行われる日らしい。この間にも色々なデモがあったのだが、行けなかったり行かなかったりした。今日は、体調と精神の双方がわりあいに落ち着いていたのだろう。

 
 渋谷のスクランブル交差点から最後尾あたりにもぐりこんだ。いろんなものを持っている人もいたし、僕のように手ぶらの人もいた。

 
 ハナからおとなしく参加しよう、と思っていた。一人じゃ出来ないことをみんなでやる、というのはすごく大事なことだが、一人でもそれはやれることなのか? と問うてみて、是と答えられることをまずはやろうと思ったのだった。歩くだけなら、一人でも、出来る。

 
 しかし、それはそれで面倒なもので、隊列に加わってしばらく……国連大学のあたりくらいまでは、何となく落ち着かないというか、引け目というか、そんなものを感じたりもした。デモが初めてというわけではないのだから自分でも不思議ではあるのだが、沿道からの視線(の有無)と隊列からの視線(の有無)の差異に戸惑ったのだろう。


 子どもの手を引いている人もいた。その母親に対し、「子どもにはマスクさせないと」とたしなめている人もいた。言われた母親の表情は、判らなかった。言った人も言われた人も、歩き続けた。


 だんだん感覚が慣れてきた頃、僕は沿道のほうをなるべく見るようにしていた。見たからといってどういうわけではない。学生時代にこうしたデモに参加した時にはビラまき部隊もいたものだが、外在的な要因で出来ないのか、内在的な要因で出来ないのか。運営の皆さんも少数で奮闘されているようだった(本当にお疲れ様です)。


 ふと気付くと、沿道の建物の窓からのぞいている人などにさかんに手を振っている女性がいた。二人組だったろうか。常に外側に視線を向けているように見受けられる。ひょっとすると著名な方ではないかとも思ったが、判らない。沿道を歩く意味が、そこにはあるように思えた。

  
 隊列は随分と警察からせかされた。極めて威圧的な警官も見える範囲で一人だけ見かけたが、おおむね粛々と仕事をしているように見えた(あくまで僕の目線に入った限りである)。こうした「交通整理」はもちろん必要なことであるだろう。同時に、警察が抑えられない規模となったらどうだろう、と想像してもいた。それだけ数が膨らんで、なおかつ規律正しく一人ひとりが動いたとしたら?


 「数は力」という言葉が頭をよぎる。もちろん、数が増えただけではしょうがないし、数を一人ひとりの顔を思い浮かべずに単なる「頭数」として数えるような発想では力になるような数にもならないだろうが。しかし、「数」として自分が役にたつようなことがあるのかもしれない、と思ってもいた。


 シュプレヒコールは「原発いらない」「原発反対」「いのちを守れ」「子どもを守れ」といったシンプルなものだった。だが、デモ後半、単なる言い間違いかもしれないのだけれど、「いのちを守ろう」「子どもを守ろう」に変ったことがあった。最後の最後ではまた元に戻ったようだ。これは失礼な表現かもしれないが、面白いことだと思う。命令・要求が根幹にあって然るべきだが(これは「力関係」からかなりの程度正当化されると考える)、同時に、自分たち自身の行動目標にも言及したようで、よいことだと思った。

 
 デモの参加は、僕にとっては非日常である。非日常であれば、ある程度ハメを外してもよいのかもしれない。が、「一人でもそれはやれることなのか? と問うてみて、是と答えられること」にもう少しこだわってみたい。


 上原專祿を頼りに述べるとすれば、職場の自分とデモの自分がまったくの別人格であるというようなことは、出来る限りない方がよい。職場にも、自分が関わるべき問題や僕には見えていない問題があるのだから、こうしたデモに参加して見たこと感じたことを職場の自分に持ち帰らなければ駄目だと思う。それは何も職場で脱・反原発の署名活動をやるとか、そういうことでは必ずしも、ないだろう。

  
 同じ道でも、歩く場所によって見えるものが違うということ。その溝を、例えば手を振ることで乗り越えようとするような、そんな努力ややり方が存在しているのだということ。今日目の当たりにしたことの中でも、このふたつのことは、職場における自分のありようの見直しにつなげられるような気がしている。


 明日からまた、仕事だ。




 
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-07-23 18:00 | Comments(1)

日記その7

12.帰路
 今朝16日は5:00に目を覚ました。普段とあまり変わらない。福島行きのバスは6:05発。バス停はすぐそこだから十分に間に合う。

 身支度をして、コンビニで珈琲と新聞でも買ってバスを待とうと思ったら、誤算であった。コンビニは7:00からの営業だった。いかん、自分は良くも悪くも自分の日常を基準にここまで持ち込んでいるぞ。そう思いながら駅前には自販機があったかもしれない、と歩いていったが、そこも販売中止であった。水は昨晩のうちに買っておいたのだが、何かこう、甘っちょろいところがやっぱりあるなと反省しながらバスを待つ。

 バスの始発は南相馬市役所前で、既に10人くらいが乗っていた。駅前からは僕とあと一人だけ。途中相馬で数人乗り込んできた程度。

 早くに福島まで戻ってきたのは、郡山まで各駅で行くため。帰りのルートを全く決めていなかったのだが、福島からせめて郡山くらいまでは各駅停車に乗ってみようと思っていた。学生時代は何度か東北本線を各駅停車で往復しているが、以来各駅停車はその地域の生活がモロに形になっているような気がしてどうにも好きなのだ。聴こえてくる何気ない会話なども面白い。

 実際に1時間弱の道中では寝入ってしまったりもしたのだが、「髪を自分で染めている最中に地震にあった先輩の話」で盛り上がる中学生男子を、見るとはなしに見ていた。福島駅で買ってリュックに放り込んでいたままの「福島民報」をひろげ、双葉町元町長の岩本忠夫さんの訃報を知る。『津波と原発』でも『「フクシマ」論』でも言及されていた人だ。

 駅に着き、せっかくなので降りてみようと思った。帰りは新幹線ですぐだ。昨日ホテルで一休みしている最中つけていたテレビで、線量に注意しながら生活を送る家庭のことが報じられていたのをふと思い出したせいもある。もとより注意深く見ていたテレビでもなかったし、手元の地図は南相馬と東北方面とはいえ海側ばかりをクローズアップしたものばかりで、報じられていたのがどこだかはさっぱり判らない。まあ、それでもいいだろう。

 駅前の広場ではなにやらイベントの準備が進んでいる。昨日と変わらず、暑い。再び腕がヒリヒリしてくる。喫茶店で涼もうかと思ったが、ナショナルチェーンばかりで躊躇する。結局足を運んだのはうすい百貨店のジュンク堂であった。本屋という商売柄、当然と言えば当然ではあるが……。思わず数冊買ってしまう。

 だいぶ疲労もたまってきた。昨日はおそらく15キロくらいは歩いているのではなかろうか。早めに帰って明日に備えよう、と11:00ごろに郡山を出る新幹線で帰路についた。朝6:00には南相馬にいたんだな、と思うと遠いようで近いような感覚を覚えたりもする。

 買った本を新幹線の中でパラパラとめくる。買いそびれていた『ドキュメント 雨宮☆革命』と、発売間もない『銀の匙』だ。「必ず誰かが犠牲になる社会は嫌だ」という雨宮さんの言葉。荒川さんが描く、淘汰された鶏を腹におさめるということ。このふたつは、同時に考えなければならないように思えた。

 
13.結び
 結局のところ、僕は何をしに行き、何をなし/なさずに、帰ってきたのか。

 自死を選んだ女性のことは判らない。けれど、自分が見えない/気づかない光景や事柄で苦しい思いをする人が確実にいるのだ、ということを、出来る限り忘れないでいたいと思う。

 自分が情けない人間であることは、身にしみてよく判った。
 
 歩き回ったことで、少しは身体に見たもの、聞いたこと、感じたことを覚えさせることが出来た。ただ字面で何かを知るよりは、忘れにくいと思う。

 今言えるのは、こんな程度だろうか。しかし、何も今日明日で全てがどうこうなるわけじゃない。そう短期にケリがつけば苦労はしない。では、どうするか。

 少なくとも自分がまっとうに生きて行く程度(=大言壮語を徹底的に廃した次元)に必要なことを考えていかなければならない。津波のこと、地震のこと、原発「事故」のこと、原発のこと……それらを時には個別に、時には関連させて考えよう。出来ることなら自分が生き延びることが誰かの何かを奪わずに済むように。

 そして何より、自分の卑小さから、逃げないこと。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-07-16 19:40 | Comments(0)

日記その6

11.テレビと地震
 食事をしてホテルに戻ってもまだ19:00前。沈む夕日はきれいだが、落ちてしまえばそれまでのこと。普段テレビは全く見ないが、何の気なしにNHKをつける。

 NHK新潟が作成したという、新潟の避難所で生活する(あるいは仮設住宅に帰る)南相馬市の住民を追った番組が期せずして放映されていた。玄侑宗久さんがゲストとして登場している。地図を引っ張り出しながら、この人はこのあたりに住んでいて今避難所にいるんだな、と確認してみる。自分が直接歩いた場所ではないけれど、あの道をもっと行った先なんだな、と想像してみる。それにどんな意味があるのかは判らない。

 南相馬市は仮設住宅の建設が進まない地域だそうだが、番組では物理的な制約が強調されていた。山間部は線量が高いと考えられ、平野部は津波の被害にあっており、市の南側の多くは福島第一原発の20キロ圏内にある。そんな中で土地提供を申し入れる職員と、懸念を示す地権者とのことが少しふれられていた。

 地権者いわく、「(市側は2年というが)2年で本当に住むのかどうか。ここに大量の人が流れ込んでくるのも心配」と。それはそうだろう、と思う。

 昼間に見た東北電力の仮設電柱のことも思いだされ、土地、特に私有地というのは随分とデリケートなものなのだな、と思う。では、土地収用とは何なのか。例えば沖縄では何が行われてきたのか、考えなければと連想がとんでいった。

 続いての寺田寅彦を基調にした番組も興味深かった。NHK仙台の製作。今回の津波は過去にも起きた規模のことであり、それが忘れ去られていったことについて追求していた。忘れることが多い、と世間一般のこととしてなどではなく自分自身のこととして自覚しようとしている旅先であり、妙に符合するものだな、と思った。

 福島大学の副学長に二人の学者が就任したこと、セシウムの検出された稲わらの出荷側と畜産農家のそれぞれのコメントが報じられていた。確かに80キロ離れていれば……という気になる。そう思うのが正しいのかどうかは判らない。

 全国版の番組に切り替わって間もなく、さあ寝るかと思った矢先に、揺れた。福島での震度が実際のところどうだったのかは知らないが、東京23区で震度4と出たのは少しびっくりした。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-07-16 18:36 | Comments(0)

日記その5

9.海へ
 海を見ようと思ったのは、津波のことを少し知っておきたいと思ったから。『東日本大震災復興支援地図』は――池澤夏樹さんが指摘していて初めて知ったのだが――、どこまで津波が押し寄せたかが色分けされている。これを手がかりに歩いてみようと思った。

 警察署を過ぎ、海へ海へと向かう。日差しはますますもって強くなる。ヒリヒリする右腕にタオルを巻きつける。いろんな工場が並ぶ道を通り過ぎ、角を曲がって少しすると、柱と屋根だけが残された格好となっている家々が目に入ってくる。こうした家はわずかであって、あとは海側に向かってまばらに建物が残るほかは一面何もない。あるのは雑草と電柱だけである。左手の方の高台は、おそらく原町の火力発電所であろう。当たり前だが、この火力発電所は東北電力である。

 海の方面から何台も大きなトラックが向かってくる。何かを運んでいるのだろう。どのトラックも運転席には「災害なんとか」という紙がおいてある。たぶん作業用車両であることの表示。

 海までは一本道だが、随分とある。ここまでで道の駅から3キロくらいにはなるだろうか。ここでも見かけるのは車ばかりであったが、途中、雑草に覆われた場所でがれきを整理している年配の夫婦と思しき姿があった。今見ると、跡形もないところだが、ひょっとするとそこに住んでいた人なのかもしれない。何かを探しているのか、それとも片づけているのか。

 パトカーが通り過ぎる。職務質問されるかと思ったが、何もなかった。そういえば、ここに来る途中にも自衛隊のジープを見かけた。ガス会社の車も。警備というか巡回というか、そういうことなんだろう。

 老夫婦らしき姿を見かけてからまだ少しと思って歩いてみたが、あまりの暑さと先の見えなさで、海岸にたどり着くのは断念した。雑草の広がる地帯をもう一度眺めてから、振り返ってもと来た道を戻る。もともと何があったところなのか、判らない。ところどころにテレビやゴミなどが固められていて、このあたりは住宅だったのだろうか、とも思う。

 ふと電信柱に目をやると、掲示がある。そこには、これは仮設電柱であること、地権者の許可なく建ててしまっていること、その対応窓口の電話番号が記してあった。

 誰かの許可を得なければならない場所……ということは、誰かがそこで生活をしていた場所であるかもしれない(そうでないかもしれない。僕がそこまで調べていないだけである)。そこはただ、雑草が生い茂っているだけのように見える。

 「僕から見れば何のことはないけれども、見る人が見ればそこには絶望しか見いだせない、そんな光景が存在している」。田んぼを眺めた時のことについて、僕はこのように記した。この雑草の生い茂る中で立つ電柱も、そんな光景の一つなのかもしれない。


10.町へ戻る
 海方面から道の駅まで引き返して来て、駅近くには6号線を経由した少し違った道で戻ることにした。来る途中のバスから見ていて、パッ見でいくつかいかにも郊外型の店舗を見かけたからだ。

 古本屋といくつかのチェーン店系飲食が営業していた。飲食店の方は「営業再開」という文字が躍っていて、どうやら再オープンは比較的最近になってからのようだと見てとれる。駅の東側には大きな店構えの中華料理店が営業していて、店の外まで出て顧客を丁寧に見送っていた。

 時間は15:00を少し回ったところ。予定より少し早いが、ホテルにチェックイン。兎に角歩きづめでクタクタだったので、ひとっ風呂浴びて少し横になる。

 17:00ごろ、もう少し町中を見てみようと再び出かける。なんとなく市役所方面を目指してみる。途中スーパーと即売所の中間のような店に立ち寄る。特に何を買うあてもないのだが。

 産直の野菜やちょっとした物産などを扱っているようで、ちょうどいい、野菜が不足していたと南相馬のだれだれさんのトマトを買う。レジの女性に「ボランティアの方ですか?」と聞かれ、「いえ……」ともごもごと愛想笑いをして逃げるように去る。2個で198円のトマトは大ぶりで、美味かった。

 やっている飲食店はないわけではないが、どうもさっき声をかけられたのが気になって、スタッフとの距離が離れていそうなところがいいなあ、と考える。夕方、やはり人を見かけない。いないわけではないのだが、少ない。車の量は増えた気がする。

 市役所あたりまで来て、引き返す道すがらでようやく、気がついた。子どもの姿をほとんど見かけないのだ。道の駅あたりで小さな子がお母さんに連れられてきているのは少し見かけたが、それ以外は年配の人ばかり。日中は時間帯のせいでもあるのだろうと思ったのだけれど、夕方17:00すぎなら、小学生はともかく中学生くらいならいてもおかしくなさそうだ。

 外出を控えているのか、それとも……と考えながら歩いていると、小学校の建物が見えた。近寄って見ると、「どこにいても心はひとつ。○○っ子」といった文言が書かれた横長の看板がある。「○○っ子」というのはその小学校の愛称みたいなものなのだろう。

 そうか。そういうことか。

 「子どもは何にでもなれる」みたいなことを言ったのは花井拳骨だったか。そんなことふと思う。可能性の塊として子どもがあるとするならば、その子どもが離れざるを得ない状況とはどういうことなのだろう。離れるのが悪いわけでは、当たり前だが決してない。そんな「状況」が、問題なのではないか。

 そう考えてみたのはいいが、やはり腹が減ってきてしまう。昼間見かけた中華屋まで行こうと足を運んでいる途中、何人かの中学生と、コンビニでたむろ(あるいはバスの待ち合わせ)をする高校生の一群を見かけた。なんだか少し、安心したのはなぜだろう。

 
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-07-16 18:09 | Comments(0)

日記その4

6.徒歩と休息、そして徒歩
 時計は11:00を回ろうとしていた。2時間ほぼ歩きづめである。日はカンカンに照ってきた。
 
 ここから直接海側に回ろうと思っていたのだが、地図で距離を確認すると6キロ以上はゆうにある。これはヤバい、ともと来た道を引き返す。再び野馬追祭の場所のあたりまできて、木陰で一服。一面に広がる馬場をぼんやりと眺める。時間にして30分ほどであったろうか。相変わらず車は見かけるが、人の姿は見かけない。一人だけ、おじいさんが馬場を横切るのを見ただけだ。

 少し気を落ち着けたところで、再び歩き始める。道の駅南相馬を次の目的地にした。ここで昼食をとってさらに海側に行こうという算段。今度は住宅地を通ったせいか比較的人の姿を見かける。スーパーの看板を見かけたので涼んでいこうと思ったら、休業中。流通上の問題なのか、顧客の問題なのかは判らない。あ、喫茶店の看板がある、涼んでいこうと思ったらここもやはり休業中。これも震災が理由なのかそうでないのか、判らない。

 原ノ町駅近くの踏切にまでようやく戻ってくる。だいぶバテてきたが、もうひと踏ん張りと思って歩き続ける。運休しているのが判り切っているのに、踏切で車が一様に一旦停車をしているのが不思議だった。まあ、悪いことではないよな、と思いながら踏切を渡る。ふと目をやったレールを見て、思わず立ち止まる。レールが全て、赤茶けてサビているのだ。普通レールの横はさびていても表面がサビることはない。どれだけの期間列車が通っていないか、という証拠だろう。駅構内には特急列車と普通列車が止まっている。いつからなのだろう。

 踏切を渡って少しすると書店の看板が見えてくる。どうやら閉鎖中のようだが、どうにも気になるので近づいてみた。ガラス窓から店内をのぞくと、什器の中は空っぽで、レジの機械がそのままに残されていた。

 この書店の隣にはハローワークがあった。駐車場には20台くらいの車が止まっている。ちょうどよい、お手洗いを借りようと中に入る。用を済ませ出ようとすると、入口近くに急募の求人が色々と貼り出されていた。コンビニのパートからはじまって裁縫業など色々あったが、一番多かったのは運送関係であった。Jヴィレッジでの仕事もあって、放射線管理手帳の所有と2年以上の実務経験が必須となっていた。放射線検査の補助とか、そういった名目の業務であったと記憶している。月収は18万程度。

 掲示の中で一番月収が高かったのは廃棄物プラント処理の仕事で、30万を越していた。ボイラー技士2級と2年以上の実務経験が必須となっていて、備考欄のところに「業務内容の質問は全てハローワーク経由で。直接の問い合わせには答えません」という趣旨の注意書きがされていたのが目を引いた。一般的にこういうことはあることなのか、判らない。線量に関する報道でよく上げられる地名が勤め先のようではあったのだが。

 道の駅まではもうすぐである。


7.情けない自分
 ハローワークから出てまもなく、中学校があった。そういえば、と福島駅のバス停で「ボランティアで車中泊・テント泊をされる方へ」という貼り紙があったな、と思い出した。中学校の施設を開放していますよ、泊まれますよ、という内容であった。ここのことか、と横を通り過ぎる。おそらくここで避難生活も送られているのだろう、と思われる雰囲気だった。

 ようやく道の駅南相馬につく。12:00を少し回ったくらいか。建物に入らずとも風があるせいか日陰のベンチに腰掛けているだけでも随分と涼しい。ちょうど昼時で食堂が混んでいるようだったから、まずは一休みと思ってぼんやりしていると、右腕が猛烈にヒリヒリしているのに気がついた。

 ただの日焼けである。が、その時に一瞬、「放射線の影響か?」と思ってしまったのだ。バカな話である。確かにヒリヒリするほどの日焼けを一気にしたのは久しぶりだったし、暑さで少し意識がもうろうとしてもいた。しかし、そんなことは言い訳にはならない。どこかで線量のことを、へんな風に意識していたのだろう。そんなわけはない、と即座にもう一人の自分が打ち消したのだが、それでも気になって再び「福島民報」を取り出して線量を確認したりもしたのだった。

 もとより、自分は大した人間ではないことは自覚しているつもりだ。たぶん、付和雷同して平気で人を傷つけることが出来てしまうタイプの卑小さ。それは、まったく矯正できていないのだ。地元の人が多いように思われたにぎわいのある日陰のベンチで、一人で勝手に自分を情けなく思っていた。

 当初僕は今回の南相馬行きについて、自分なりにある程度吟味し、寝かせてから言葉にしようと考えていた。が、こういう自分のいやな、ダメな部分は自戒のためにも早く吐き出しておく必要があると思った。情けないのは今更しょうがないかもしれないが、しかし、ワクチンをつくる努力は自分でしなければならない。恥は恥としてさらけ出さなければならない。隠しだてはなるべくやめておきたい。


8.腹は減る
 いくら情けなくても、腹は減る。とにかく食おう、と食堂へ向かう。太っちょやきそばなるものを食し、隣接する物産コーナーでよつわりパン(生クリームいりアンパン、とでもいおうか)と凍天(凍み餅をドーナツ生地っぽいものにくるんであげたもの)をデザート代わりに食べる。ひたすら炭水化物。ここでしか食べられそうにないものを選んでみたのだが、それはそれでどっかしら観光気分があるのだろうという証拠でもある。いいのか悪いのかは、判らない。

 腹ごしらえをして一服し、再び歩き始める。今度は海の方面へ。13:00少し過ぎである。日差しはますます強くなる。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-07-16 17:15 | Comments(0)

日記その3

5.田んぼを見る
 最初目的としたのは、市の中心より少し南に行ったところ。ほとんどあてずっぽうだが、ある程度田んぼがありそうな地域を目指し、そこが今どうなっているのかを見ようと思ったのだ。鹿島で見かけた光景のことも頭のどこかにあったのだろう。

 地図で見るとバス停はあるが、実際にバス停の時刻表を見てみると案の定、バスは1日に数回であった。初めから歩く覚悟はしていた。時計は9:00をやや回ったところ。

 昔ながらの書店が一軒あいている。雑誌とコミックでほとんど埋められたその書棚の奥に、何か作業をしている年配の女性が一人。

 町中を歩き、郊外へと伸びる一本道へ差しかかる。進んで行くたびに人家もまばらになっていく。さきほどの書店以外にもいくつかの商店や理髪店などはあいているが、とにかく町を歩いている人をほとんど見かけない。たまに年配の人を見かける。車はよく通るのだが。震災の影響かどうかは知らない。
 
 何の変哲もない、といえば色々な意味で失礼かもしれない。が、決して悪い意味で言うのではない。小さい時分に遊びまわった田舎の光景のことがどことなく思い起こされ、どんどん強くなってくる日差しと蝉の声で、小学生の夏休みにちょっとタイムスリップしたような感じがした。

 野馬追祭が近づいているらしい。そうか、ここが会場になるのか、と横目で眺めながらまだ進んでいく。コンビニとガソリンスタンドが構える十字路を越えて、さらに小高い丘のようなところを登って少し降りると、一面に田んぼらしき光景が広がっている。

 が、道沿いの田んぼを見て行くと、田植えがされているのではなかった。生えているのは雑草である。地肌がモロになっているところもあった。遠く離れたところで、芝刈り機の音が聞こえる。「野菜直売所」と書かれた小屋状のところには何もなかった。時間は10:30を過ぎている。持っていた水を飲みきってしまったので自販機で何か買おうと思ったのだが、機械は動いていなかった。

 視界に入った範囲だけのことであるし、当然農業の知識などまったく持ち合わせていないので、何がどうなっているのかは判らない。でも、もし、仮に例年は水を入れ稲を植えていた場所であったならば……。

 一見牧歌的に見える、ありふれた田舎。何の縁もゆかりもないよそ者が、パッと見る限りは何の変哲もないこれらの景色。彼女がこの光景を目にしていたのかは知らない。僕から見れば何のことはないけれども、見る人が見ればそこには絶望しか見いだせない、そんな光景が存在している。まず、そのことを出来る限り覚えておこう。そしてたぶんそれは、自分の職場でも在り得ることだ。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-07-16 16:11 | Comments(0)

日記その2

4.なんのために
 喫茶店で聞き耳を立てる一方で、地図を広げてさあどうしようかと考えている。行こうと思っているところはいくつかあって、どの順番で回ろうかと思案していたのだ。

 そもそもなんのために南相馬市に来たのか。結論的に言ってしまえば、自分でも判らないし、行って帰ってきた今もよく判らないでいる。たぶん、こういうことだろうと考えていることを記してみる。

1)忘れないようにするにはどうすればよいか?
 僕は忘れっぽい人間である。例えば、この間しばしば参照される東海村の臨界事故。その時僕はちゃんと報道を目にしていた筈なのだが、そんなことがあったことすら忘れていた(それでいて政治的立場としてはアンチ原発だと自覚しているのだから始末が悪いのだが、それはまた別の話)。また、秋葉原事件のことも、すっかり忘れていて、忘れていたことに気づいてあわてるように裁判傍聴に出かけていったような次第だ。

 『「フクシマ」論』の補章「福島からフクシマへ」は、「『忘却』への抗い」という節から書き起こされている。機会を改めて取り組むつもりだが、しかし、確かに忘却を繰り返してきた自分――さらには書店員としてもその消費を悪い意味で利用してきたのではないかとも思える――のことが思い返され、どうにも暗澹たる気持ちになったのである。

 そこで自分の経験をあれこれ考えてみて、比較的忘れていないことがあることに気がついた。例えば、阪神・淡路大震災。この時は1995年3月に、先輩二人と当初ボランティアに行こうとして、しかしボランティアセンターが一杯で、では見るだけでも見てこようと長田区を中心に3人で丸1日歩いたのだった。あの時の光景は今でも覚えているし、その記憶を頼りに2000年にもう一度自分一人で当時のルートを思い出しながら歩いたりもしたのだった。そして5年たってもまだ仮設住宅があったことに衝撃を受けたのだった。「国」とは、あるいは「政治」とは、と考える時に思い起こす光景として、忘れずにいる。

 もうひとつ、ある。諫早湾の干拓事業問題。正確な時期は忘れたけれども、漁師のおっちゃんたちが坐りこみをやっているところを実際に見にいったことがある。中断していた工事を再開する/しないが問題となった時期だから2001年頃だと思う。現場からほど近い喫茶店では、おっちゃんたちが合間合間でパチンコをやっていることを冗談めかして話題にする地元のおじさんがいた。「反対したってどうなるもんでもないのに」といった受け答えをしていた喫茶店のおばちゃん。そういうもんかもしれないな、と思って喫茶店を出た時、見事な「天使の階段」が堤防を照らしていたのをよく覚えている。そのせいか、この間の訴訟を巡る動きも、そう丹念に追っているわけではないけれども、どことなく他のニュースよりは少し違った距離感で見ている。

 どうやら、自分で直接出かけていって見たりしたことなら、比較的忘却は免れるらしい。では、足を運ぼう。

2)どこに行くか
 いわゆる被災地といっても、広範である。学生の時に長田区に行き先を定めたのは、先輩がよく複数の新聞記事を集めていて、その結果として相談しながら決めたからであった。今回、しばらく僕は新聞をちゃんと読んで/読めていなかった。佐野眞一さんの『津波と原発』をあわてて読んだりもした。『「フクシマ」論』も迷いに迷ったが結局手に取ったのは自分が見るべきものを探そうとしていたからだ。

 そうこうしていうちに、「お墓にひなんします」との遺書を残して自死した南相馬市の93歳の女性の記事を目にした。1週間前の7/9(土)の「毎日」である。ひとりひとり固有の、かけがえのない物語がある。しかし、なぜかこの記事には特にひかれた。なぜだかは自分でもわからない。偶然どこに行こうかと思っていた矢先だったから、ただそれだけかもしれない。行き先はこれで決まった。

3)何をするでもなく
 どんな光景をこの女性は見ていたのか。別に僕は報道機関の人間でもなんでもないから、取材めいたことはするつもりもないし、実際のところ彼女がどこでどう暮らしていたのかなんてことは判らない。南相馬市の原町区と言ったって範囲は広いのだ。でも、近づくことは出来る。無礼のないように、ただ、町を歩いてみよう。

 時間が十分に取れないことを言い訳に、ボランティアはやらないことに決めていた。物見遊山と言われればそれまでだ、と開き直った。

 だが、開き直ってはみたものの、町中に貼られている下記のようなポスターを見るたび、忍びなくなってきたのでもあった。

    自衛隊・警察・ボランティアの皆さん
        ありがとうございます
       御身体大切にしてください


 どれにも当てはまらない。くだらない「自分探し」と、やっていることは変わりないんじゃないのか? そんな思いもしたのだった。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-07-16 15:36 | Comments(0)

日記その1

1.早朝の掃除

 予定通りにバスは6:00にたどり着く。福島駅東口。次のバスは6:30。勝手がわからないのとあんまり時間があるわけでもないので、目に付いたコンビニで缶コーヒーと「福島民報」を買ってまたバス停に戻る。

 人はまばらだ。バス停のすぐ後ろに控えるショッピングセンターへ、商品を搬入するトラックがちらほらと見かけられる。その近くには熱心に清掃をしている一団の姿がある。二種類の違った作業着を着た人たちに交じって、珍しくワイシャツ姿をした一人は、掃除の様子をカメラにおさめている。僕の腰かけているバス停近くの植え込みからは距離にして5、6メーターだろう。どうやらただの清掃ではないようだ。

 見るとはなしにみていると、掃除は一段落ついたらしい。清掃業者風の作業着とはまた違ったように見える制服を着た人が、今度は地面に何か機械を近づけている。「ピピッ」だか「ピーピー」だかの音がかすかに聞こえてくる。「さっきと比べて半分くらいにはなりましたね。でも中の方が……」ととぎれとぎれに会話が耳に入る。

 除染作業だったのだろうか。そこから数メートル離れたバス停のベンチでは、老夫婦がバスを待っていた。


2.バスに乗る
 
 南相馬行きのバスがやってきた。僕を入れて、7~8人というところ。ほとんどが中高年。途中、市役所前から高校生が二人ほど乗り込んできたのが珍しい。

 行き先は相馬・南相馬である。山道をえんえんと通って1時間半ほどで相馬市内に入る。高校生は相馬市役所でおり、相馬営業所では何か仕事をもっている風な中年男性二人がおりた。

 相馬市からバスは6号線をずっと南下していく。郊外型のスーパーがあり、電気屋があり、ドライブイン風のものがあり、ガソリンスタンドや運送会社があり……何の変哲もない道路沿いの風景だ。父が車を運転するのが好きだったので家族旅行は車での移動が多かった。そのせいか、どこか懐かしい気すらする。

 が、そんな牧歌的な思いは鹿島駅あたりを過ぎたところで打ち砕かれる。さかさまになった漁船の姿が目に入ってきたからだ。一艘や二艘ではない。中には今バスの走る道路のすぐ近くまで流されていたものもある。

 漁船がある、その下はどうやら田んぼのようだ。雑草が茂っていてよく判らないが、少なくとも津波以前には誰かが何かをやっていた土地のように見えた。


3.原ノ町駅前に着く

 予定通り8:30、バスは南相馬市原ノ町駅前に着く。駅前といっても、原ノ町駅そのものは常磐線が運休中で、亘理とのあいだにはJRの代行バスが走っているらしい。

 とにかく一息つこうと少し歩いてみると、喫茶店が開いていた。常連のじいちゃんばあちゃんたちが5~6人入口近くの、おそらくそこが指定席であろうところに陣取っている。よくある光景だ。

 遠慮がちに、でもあんまり彼女/彼らと離れすぎないところに陣取り、モーニングを頼む。珈琲とパンを交互に口に運びながら、彼女/彼らがどんなことを話しているのか、聞き耳を立てる。

・「補償金は10万くらいか」「20万って話もある」「いや30万の場合もあるらしい」

・「ユニクロは便利だ。安いし」というじいちゃんに「いや、しまむらのほうがいい」と強く主張するばあちゃん。

・「線量計買ったよ」「いくらの?」「14万。4~5万くらいの安いのじゃだめなんだよ」「10万はしないとだめらしいね」

 ごく普通の世間話なのだろう。何がなんだとは言えないけれど、そういうことなんだろうな、と思った。

 そういえば、バスの中で読んでいた「福島民報」にも県内13地点の線量測定値が記事となっていた。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-07-16 14:15 | Comments(0)

上原專祿『増補改訂版 世界史における現代のアジア』

 ずっと懸案であったことのひとつだった。上原專祿の『増補改訂版 世界史における現代のアジア』(「著作集」13巻、評論社)をtwitterで何とか読み終えた。ハッシュタグは #uehara_asia とした。


 前々から上原を一度はやってみようとは思っていた。でも畏れ多いような気もして敬遠していた。たいがい僕はねっ転がって本を読むことが多いのだが、上原の本だけはきちっと机に向かって読む。なぜだか自分でもわからない。


 いっとう最初にはじめたのは今年の1/15。どうやら当時の時事問題の何かに思うところがあったらしい。おぼえていない。たぶん、独立とは何か、みたいなことを考えていたような気がする。少しだけ進めて、長らく中断。ちゃんとやり直さなければ、と思ったのは中島岳志さんの『秋葉原事件』を読み進めていた時。自分の中で、何かの問題に接した時の態度なり方法論なりといったものを、鍛え直す必要があると感じたから。

 
 というわけで実際に読み進めていた最近では、もっぱら上原の方法論・認識論に重点を置いた読み方となった。典型的にそのあたりが現れたツイートを編集の上再掲する。

 「私たちは日本の全体を動かす力がないのであろうか」(P.237)と問いかける。世界や日本を動かしているのは超越的存在ではなく、人間ではないか、と上原は訴える。当然ここは上原が受けている日蓮の影響を無視できない。重要な部分。


 「世界の動きや日本の動きに自分だけが圏外に立って、偉い人がやってくれるだろうという気持ちであるならば、それは政治の実際の動き方を知らないことになる」(P.239)。卑下もせずうぬぼれもせず、「淡々とした人間の一人、日本人の一人」という意識が欲しい、と。


 「その意識に立つと、自分の生活や仕事に関心を持つのと、少なくとも同じ度合いで、日本の動きや世界の動きを問題にせざるを得ない気持ちになるであろう」(P.239)。そうは出来ていない自分のことはとりあえず棚に上げておくとして(忘れはしない)、ひとまず頷く。


「自分の生活というものは、家庭や職場を中心とする場合でも、いつでも世界や日本の問題が集約されたかたちでそこに問題になって来ているのであって、世界や日本の動きと関係のない自分だけの生活や仕事というものは絶対にあり得ない」(P.239)。全面的に賛成。


 「極端にいえば、自分の仕事や、自分の生活というものは、世界ならびに日本の問題の非常に具体的なかたまりなのだ」(P.239)。頭に叩き込んでおこう。ここで上田耕一郎ではなく、あえて浅尾大輔さんの言葉をメモ的に記しておきたい。「働く人の根は、家族や家庭にはなく、職場にあるのです」と今は閉じられたご自身のブログのコメント欄に浅尾さんは記しておられる。ずっと気になっている。上原の文脈とは少しずれようが、手放せない言葉。


 「世界と日本と自己を一緒につかみ、同時に認識し、統一的に生きていこうとすると、そこに生活の重量感といううものをだれでも感じるであろう。気楽に生きるためには、職場の全体、仕事の全体がどうなっていようと、自分に与えられた仕事をどうするかということだけを考えてほかのことは考えない方がよい。いわんや日本の社会の全体や人類の未来などについては一切考えない方がよい。ところで、こうした考え方だと、気楽に生きていくことは出来るが、一人の人間がそのような生き方をすると、その当人の分まで背負い込んで心配しなければならない別の個人が必要になってくる。(略)こういうことに気がつくと、重くてもやはり世界、日本のことを考えてみる必要が起こってくる。それは一種の道義的責任みたいな問題ではないかと思う」(P.240-1)

 この部分は難しい。世界と日本の問題の「具体的なかたまり」として自分の仕事や生活を認識するか、という問題と、誰がそれを担うのかという問題。確かに「道義」だろう。では、その「道義」が通用しない/させない場合ははたして? 難しい。だが、「荷物は好きでも嫌いでも存在する。これを一緒になってになっていける仕組と雰囲気と各個人の考え方が出て来れば、楽にやれる。同じ方向に皆が協力して担って行けば重くあっても快い」(P.241)というのは理解できる。


 「自分の仕事や自分の生活を考えるのと、最少限同じ度合で世界の動きと日本の動きについて考えてみると、両者の間には内的連関があるだけではなく、それ以上に同じ問題の両側面にほかならないものであり、同時に自分自身の問題であることがわかるのである」(P.241)


 
 「具体的なかたまり」として自分の仕事や生活を認識する。このことの重要性は判る。ここは全面的に賛成でもあり、実践すべく心がけたい。だが、それは「道義」だろうか? 話の通用する奴には通用するかもしれないが、通用しない奴には通用しないのではないのか? 

 
 日蓮か親鸞か? とどっちもよく知らないくせに、そんな思いを抱きながら読み進めていたのでもあった。自ら悟りを啓かんがごとく己自身と日本と世界を統一的に把握しようとする試みを、まっとうに検証するにはその対極の親鸞をぶつけて考えてみるしかないのではないか、と。今到底出来ることではないし、見当違いかもしれないが、じっくりと考えてみたい。

 
 さて、「具体的なかたまり」として自分の仕事や生活を認識するというのは、はたしてどういうことか。「具体的なかたまり」はまさに具体的なのであって、そこからは多種多様なものを引き出すことが出来るだろう。上原はそこに世界史認識と、主体性とでもいうべきものを常に打ち込んでいる。その両者なくしては上原のような認識は成り立ち得まい。そこをもっと突き詰めたいという気持ちと、方法論を借りてもう少し別のアプローチができないものか、という思いとが錯綜する。上原の他の著作もこのように進めていきたいと思うものの、社会科学のモロの古典にまでさかのぼろうと考えてもいる。そろそろ助走に取り掛かる。


 方法論にばかりこだわっているが、実際そうでもあり、またそこに逃げているのだという気もしている。お前は何をやるつもりなのだ? という問いに具体的に応えていかねばならないのだろう。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-07-02 22:28 | 業界 | Comments(0)