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身体感覚を重ねあわせられていない

 適度に離れている人間に対してはいろんなきれいごとが言える。現に、言った。


 では、自分の身の回りに対してはどうか。具体的には、職場の契約スタッフとの関係性である。


 自分の担当する部署の契約スタッフはこの間の震災の混乱の中、最大限に力を発揮してくれた。そのことには感謝するよりほかないし、なるべくそうしたことが「上」に伝わるようにも努めてはいるつもりだ。願わくば、「ノーワク・ノーペイ」の通達なんざしゃらくさい、と会社が言いだすことを夢見て。が、今そこはどうでもいい。


 「上」に伝える時、契約スタッフが「いかに忠誠心にあふれているか」というような物言いをした。「会社」に「受け」がいいように、多分大して意図せずに。ということはそういうように受け止めたのだろう、僕は。実際そう思わせるような言動は彼らの中に確かにあったのは事実でもある。


 交通機関の混乱もやや収まったころ、仕事の合間にバカ話とも世間話ともつかない話をする時間が少しあった。「震災の直後は本当によくやってもらった、ありがとう」というような話をした。その時、あるスタッフから「いや、働かせてもらえないと実入りがないですから」と返された。


 彼の口調はごく普通のトーンであった。ひょっとすると少しばかりの照れ隠しもあったのかもしれないが、それは大した慰めにはならない。僕は恥入るしかなかった。

 
 結局のところ、何も分かってはいないのだ、自分は。所詮は「正社員」ということか? そうだろう。なんだ手前は何にも分かっちゃあいねぇんだな、と言われてもぐうの音も出ない。分かる/分からないというと頭で考えることをイメージしがちだが、ここ数日の感触では、どうも身体感覚を重ねあわせられていない、そんな気がしている。


 はたして身体感覚を重ねあわせられるのかどうかも分からないが、まず、「自分は一緒に働いている契約スタッフの感覚を共有できていない」ということを、受け止めなければいけない。


 そこから一歩先を踏み出そうと思うのだが、とたんに暗闇に取り囲まれるような気がしてならない。が、手探りでもやってみるしかないのだろう。


 問いを生きる、というのはこういうことなのだろうか。
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by todoroki-tetsu | 2011-03-30 22:15 | Comments(0)

祖父のこと

 僕の祖父はシベリア抑留経験者である。もう亡くなってしまったが、まだ10年にもならない。


 北海道で生まれ育った祖父は、いまでいう高専を出たのち、どの程度の期間を経過してだかよくわからないのだが、若いうちに戦地に出たことは確かだ。どの部隊でどんな地域で何をしていたのか、僕は知らない。聞こうと思えば聞くことも出来たかもしれない。幼いころはもちろんのことだが、学生時代にも年に一回は北海道の祖父母の下で長逗留をするのをならいとしていたから。だけれど、なぜかあまり聞けなかった。


 口数の少ない、辺九なところがあるけれど真面目で実直な人であった。戦争の時の思い出話など実に数少ない。そのうちの一つで覚えているのが、シベリア抑留時代のこと。仲間内でどこからか手に入れた牌でマージャン大会をやったことがあったんだそうだ。対して腕に自信があるほうではなかったそうだが、 運よく優勝したそうだ。タバコか缶詰か何かが賞品だったと言っていたような記憶がある。これを語る祖父はなんだか楽しそうであった。


 いまだに忘れられないことがある。あれはソ連崩壊後のバタバタの頃だったと思うから僕は高校生のはずだ。シベリアで抑留されて亡くなった人たちの名簿だか記録だかが出てきた、というテレビニュースが流れていた。何の気ないぼんやりとした時間を過ごしていたリビングで祖父がぼつりと、「一歩間違えばあそこに名前があったかもしれんね」とつぶやいた。僕は黙ってうつむいた。祖父が結婚したのは戦地から帰ってきてからのことであり、生きて帰ってこなければ、僕の母は存在せず、当然僕もこの世にはいないからだ。


 それから何年もして、ある種の「歴史観」が喧伝される時代がやってきた。それはそれで一理あったのかもしれない。僕は当初非常にイデオロギー的に反発を示していた。次に、祖父はひょっとしたらおいそれと口には出来ないようなことを戦場でしでかしたのかもしれない、と思うようになった。冷静に考えれば、人を殺していないと考える理由はない。当たり前のことだ。


 だとすれば、と考えた。もし僕の祖父がそのようなことをしてしまったのであれば、「戦争だからしょうがない」と考えるだけでは不十分ではないか? 祖父に人を殺させた「戦争」そのものが悪いのではないか? 


 たまたま祖父は生きて帰ってきた。だからこそ、僕がいる。そのことは有り難い。だけれど、祖父につらい目にあわせた――そして祖父がつらいめにあわせてしまった人がおそらくは、いや、確実にいる筈だ――、それはいったい何なのか。


 「何か」がそこにはあるはずなのだ。そんなことを、今更ながら考えている。その場その場では確かにそれ以外にやりようがなかっただろう。でも、しかし……。

 
 失われてよかった命などありはしないのだ、と思うのなら、思考を先に進めねばならない。問いを自らにたたき込みながら。


 
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by todoroki-tetsu | 2011-03-24 21:21 | Comments(0)

渡辺一夫「エラスミスムについて」その二


 また一体チェリー・モーニエがルッターによって守られたと言う「精神の真の特権」とは何であろうか? 動脈硬化に陥った当時のカトリック教会とその神学者とに対する批判と粛正要求とは、旧教側の攻勢にもかかわらず、ルッターによってなされ続けたのであり、チェリー・モーニエは、一九三五年頃擡頭するナチスムやファッシスムの攻勢に対しての批判と人間性合理性の擁護とに、ルッターを結びつけて考えいたのであろう。しかし、「精神の真の特権」とは、ルッターの専売ではない。それのみか、同じ神の名によって殺戮し合い、同じ正義の名の下で果たし合いをする人間に対して、この殺戮もこの果たし合いも愚劣であり非人間的であり、それの解決は他に求めねばならぬと説くこと、またそうした考えを抱き通すことこそ、正に「精神の真の特権」とは言えないだろうか?




 引き続きちくま日本文学全集版「渡辺一夫」より。P.83-4から抜いた。「それのみか」以降の一文は、静かだが、みなぎる思いを感じさせる。


 エラスムスの全てが肯定しきれるわけではない。その例として昔の弟子、フッテンを見捨てたことを挙げる。だが……


  フッテンを拒否した日は、正にエラスムスの生涯中最も暗い日だったのだ。彼の行為は明らかに「福音」の慈悲の教えに背くものと言える。これには、何とも抗弁のしようがない。救いを求める重病の、不幸な、昔の弟子を見殺しにしたのである。たとえフッテンがいかに軽挙妄動する人間であるとしても、エラスムスは、「福音」を守ろうとして「福音」に背いてしまい、人間的たらんとして非人間になるのである。エラスムスも脆弱な人間である。追いつめられて犯したこの種の非人間的行為は、重大なウォルムスやアウグスブルクの会議への欠席と同様に咎められてもいたし方ない。しかし、人間エラスムスが、利己的な平安しか求めないと批判されるのを覚悟の上で、追いつめられて肉体になおも宿し続けたものはあったのである。我々は、それをも咎めるわけにはゆくまい。我々は、エラスムスを咎めることで物足りなかったら、エラスムスにこの醜態を強いた現実をも咎めなければならないのである。



 P.87-8より。今、何を咎めるべきであるのか、見極めなければならない。そう恣意的に読む。


 エラスミスムが黙々として持続した勝利を収められなくなった時に、エラスミスムは無力となり、これを肉体に宿した人々は追いつめられるのであり、その結果、狂信と暴力とが荒れ狂うのである。エラスミスムは、一人でも多くの人々によって護り続けられねばならぬものであり、しかも、争闘の武器ではない。ユマニスムの徒が追いつめられて銃を取ることは、ユマニストの王者エラスムスが非人情的な醜態を犯すこととは異質の悲劇である。こういう悲劇を回避するために努力するのも、ユマニスムの使命であり、エラスミスムの目的であろう。一九三五年に、チェリー・モーニエが、エラスムスのユマニスムを非難した時、既に大きな悲劇は始まっていたのである。


 
 P.89。「既に大きな悲劇は始まっていた」……この言葉を同時代的に恣意的に読んでみる。その言葉を、自分の中に打ち込んでみようとする。


 この随筆のしめくくりに近い部分で、渡辺はモンテーニュの言葉を引いている。孫引きだが、最後に引く。いずれも『エセー』の「三ノ一〇」とある(P.91)。


 「現在この国の混乱渦中にあって、いくら私に利害関係があるからと言っても、私の敵に具っている美質を認めないわけにはゆかなかったし、私の与する人々のうちに咎むべき欠点を認めないわけにもゆかなかった」



 「我々の信念や判断が真理に仕えずに、我々の欲望の企図するところに仕えるようにせよと人々は望む。むしろ自分の欲望とは全く反対な逆な極端に走って間違いを犯すかもしれない。それほどに私は、自分の欲望に駆使されるのが恐ろしい。更にまた、自分が願い求めることを、私はやや敏感に警戒するのだ」



 1948年に記されたこの文章が切実さを増すことを、今は哀しまないでおこう。とにかく、これだけの到達が60年前にはあったのだということ、少なくともここから始めることは出来そうだ、ということに希望をもつことにしよう。


 問題は、この希望を自分の「肉体」に果たして宿せるか、になってくる。大澤信亮さんの言葉が手掛かりになるに違いない。これは別の機会に記す。
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by todoroki-tetsu | 2011-03-24 06:32 | 文学系 | Comments(0)

渡辺一夫「エラスミスムについて」その一


 ……異なった人間観や世界観が、生きた人間たちの肉体に宿る時、そして一ぽうを宿した肉体が他ほうを宿した肉体を屈服せしめ、それが屈服せぬ限りはその生命をも脅そうとする時、そして、この対抗を現世の権力が操る時、思想交流交替という人間のみに与えられた高貴な真理究明の協同作業も、戦乱・殺人・拷問・暗殺の形でしか現れざるを得なかった。このみじめな人間的条件への反省と、その浄化解決とを希うことが、福音の一つと信じていたエラスムスは、新旧両派の血みどろな衝突をあくまでも否定し、いずれかの側に助力を与えれば自らの否定する闘争を肯定することになると考えた以上、いずれにも属さずその態度は曖昧であり、Solus esse vouli (私は一人でいたい)と自らも言い、他人からは、Erasmus est homo pro se(エラスムスは加わらずに、一人きりでいる)と半ば揶揄的な評言さえ与えられるのである。



 渡辺一夫の「エラスミスムについて」(ちくま日本文学全集版、P.76)より。ここまでの覚悟が出来るものだろうか、と途方に暮れてしまう。さらに続く。


 そして、夢中になって斬り合いをしている人々を戒め、その行為を中止させるために有効な方法は、側にいて、こうした行動が愚劣であることを語り続け、聞く耳あらば聞けと願い、再び同じ愚挙が再現せぬように叫び続ける以外に何があろうか? 自らも剣を握って戦う二人の間に入れというのか? エラスムスは剣を握ることができないのである。剣は人間を斬り得るからである。



 同書P.77にある。

 
 痛い。痛すぎる。



 
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by todoroki-tetsu | 2011-03-22 20:45 | 文学系 | Comments(0)

渡辺一夫「ラブレー管見」

 「正気」を保つための作業として。ひきつづきちくま日本文学全集(文庫サイズ)のもので。


 「ラブレー管見」と題する、講演草稿。1953年である。P.54からまず。


 好き嫌いは別として、文化史に名を残している人々に対して、我々が負うところのものは当然たくさんあるわけです。仮に現在の我々が幸福であり利便に恵まれた生活を送っているとするならば、こうした幸福や利便を作り出してくれた人々が永年にわたり苦心し、ある時には途上で倒れたり、迫害されたり、刑死したりしたことも忘れてはならぬのです。


 
 時代をさかのぼって思いをはせようとするならば、同時代にも目を向けなければ嘘だ。同時代に思いをはせるのであれば、時代をさかのぼることもしなければまやかしだ。そんなふうに諭されているような気がしてならない。

 
 続いて、P.58。


 
 我々人間が自分で作ったものの奴隷になり、人間を見失い、人間を忘れかけている時、弱くて滑稽で危険な動物であることを思い出させてくれるための方法として、また妙な歪み方をしている我々に「気をつけよ」と警戒信号を出してくれるものの一つとして、今申しましたような、下品らしく見えて決して下品でないラブレーの笑いの一面があるのです。



 かつて赤木智弘さんが伊集院光さんについて記したエセーをきっかけに考えてみたことがあったことを思い出す。


 
 皆が、自分及び他人の歪みを笑えるだけの心のゆとりと、反省とがありましたら、世のなかは決して一挙にして改良はされますまいが、改良される方向を見いだせるのではないかと思っています。附言しますが、相手を笑うということは、相手を傷附けることではありません。我々の社会を正しく、明るくするために相手に反省を求めることですし、相手を笑い、相手に反省を求める以上、自分自身にも相当の覚悟はあらねばなりません。



 これはP.59。「自分自身にも相当の覚悟」(!)。ここにきて問いが自分自身に還ってくる。
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by todoroki-tetsu | 2011-03-21 19:39 | 文学系 | Comments(0)

若き友人への手紙

親愛なる君へ


 こんな時で申し訳ない。が、こんな時だからこそ伝えられることもあるだろうと思って記してみる。


 なんだ、いつのまにそんなお目出度いことになっていたのか。知らなかった。いや、わざわざ聞くことじゃないし、聞かれることもないんだろうけれど。しかし、こんな時だからあえて言おう。ほんとうにおめでとう。大事にして欲しい。生まれいずる命を、パートナーを、そして君自身を。


 こうなったからにはなりふり構わず身を守ってほしい。後ろめたさなど感じる必要はないさ。いや、僕だって別段被災地にいるわけではないし、なんの支援もしてはいないのだからこんなことを言える資格はないのかもしれないが。しかしそれでも、君の振舞いを嘲笑うような人間がいれば横っ面を張り倒してやろうというくらいの気持ちだけは、まだ残っているつもりだ。


 では、こんなことを記しているお前はどうなんだ、と問われるだろう。甘美なヒロイズムに酔っていないかと言われれば嘘になる。そうとでも思わないとやってられない日々なことは確かなのだ。


 君もご存じのことと思うが、厚生労働省なるものが、計画停電に伴う休業については賃金補償の必要なしなどとぬかしやがっている。役人も悪いんだろうが、そんな程度の政治屋しか我々は生み出せなかったのかとも思う。そしてとうとう、僕の会社もこのお先棒を担いでしまいつつある。時給労働で働いてくれているみんなが、どれだけ無理をして大変な時にかけつけてくれたか。どれだけ力になってくれたか。この頑張りなくしてはこんなにも早く営業を再開できることはなかったろうに。


 さらに腹が立つのは、こうしたことは結局「正社員」にも過度の負担を強いるということなんだ。大変な中で頑張ってくれた時給労働のみんなに、「来てくれ」と言ったのも、「がんばってくれてありがとう」と言ったのも、厚生労働省の役人でも会社の偉い連中でもなく、現場の「正社員」なのだ。明日から僕はいったいどの面さげて一緒に仕事をすればいいのだろう? この感覚は、ひょっとすると君にも共有してもらえるのではないかと思うのだが、どうだろう。いや、無理強いはしないよ。君の職場がどんななのか、僕はリアルには知らないし、そんなことを君とちゃんと話したことはなかったから。ただ、なんとなくそう思っただけ。もちろん、何が出来るかわからないけれど、これから自分が何をなすべきかは考えるつもりだ。


 ……いけないね、自分のことばかり書き連ねてしまった。申し訳ない。君のことを考えねばね。


 この数日、「関係性」ということを考えているんだ。吉本隆明さんの「マチウ書試論」は読まれているのかな? 未読ならこの機会だ、ぜひ読んでほしい。僕は今、会社の関係性しかない、とまでは言わないが、ほとんどが会社を介した関係性で生きている。だからこそ、僕は一週間前の今日、休みだったけれど地震の一時間後には会社にいた。偉いわけでもなんでもないんだ。かといってバカだとも思わない。ただ、たまたまそこには今の僕の関係性があった、それだけのことなんだ。


 これと同じように、今の君には今の君の関係性があるはずなんだ。パートナーとの、そして新しく生まれいずる命との。それを大切にしてほしい。僕は僕の関係性を大切にしたい。ただ、それだけなんだ。本当にそれだけのことなんだよ。後ろめたいなんて考えちゃいけない。僕だってこれから今の会社とは別の関係性を構築するかもしれないし、ね。関係性というのは、そういうもんだと思うから。


 それでもどうしても後ろめたいと思うなら、お願いがある。偉そうに言い放ってみよう(笑)。


 これから正気と狂気の入り混じる場面が、さらに出てくるだろう。すべてを「記憶」して欲しい。誰が何をいったか、どんなに気高かったか、あるいはどんなに愚かだったか。離れているからこそ見えること、聞こえることがきっとあるはずだ。そしてそれを語り伝えてほしい。


 「もし世の中に絶望した時があったならば、子供に語るものを書きなさい」と我らが(!?)上原專祿が言った、といいます(伊東光晴先生『君たちの生きる社会』文庫版あとがき)。絶望に裏打ちされた希望を、君には持ってもらいたいと切に願っている。


 お互いに、自分も他者も大事に出来るようにしようじゃないか。長期戦だ、バテないようにいこうよ、お互いに。


 ゆっくり酒でも飲んでバカ話が出来る日がくることを、楽しみに待っているよ。くれぐれもご自愛を。


                                    馬齢を重ねてしまった一先輩より
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by todoroki-tetsu | 2011-03-18 16:16 | Comments(0)

渡辺一夫「びいどろ学士」「ユマニストのいやしさ」

 「正しさ」と「正しさ」がぶつかり合う時、いったい何が起きるのだろう。何を基準にすればいいのだろう。高島善哉はマルクス=ヴェーバー問題に際し、「射程の広さ」(「長さ」か「深さ」だったかもしれない)を基準にしたと記憶する。ブルカニロ博士を想起してもよいのかもしれない。

 
 さて、引き続いて渡辺一夫である。

 
  
 社会は狂人の言葉に対しては寛大だが、健康人の憂世の言葉はまま痛すぎることがあるから拒否する。実に無欲恬淡なものだな。我が日本国民だってそうなのだよ。いや、特にそうかもしれない。優れた人々が戯作者や半狂人にならねばならないということは、悲しい証拠かもしれないね。



 「びいどろ学士」の一節であった(ちくま日本文学全集版、P.17)。これは1944年6月につづられている。

 
 今、だれが狂人なのか。正気とはいったい何なのだろうか。


 次は、「ユマニストのいやしさ」から。1942年8月に記された文章である。長く引くが、ご容赦願いたい。上記と同じちくま日本文学全集版のP.48-50。


 
 もちろん、この際にパスカルの賭にも似た問題が考えられる。すなわち、何物かを生かすために果たして≪いやしさ≫を甘受すべきであろうか、生かさるべき何物とはなんだろう? 恥を忍んでまで生かさるべき何物かがほんとうにあるのであるか? そして、結局人間は虚無に帰する以上何もそう賢げに振舞い、悲愴な精神的政治家めいた覚悟を立てる必要はないのではあるまいか、とも考えられる。しかし、それとも生かすべきものがほんとうに生き、そして受けつがれるに違いないのではあるまいか? いずれを信ずべきだろう? (中略)
微風の一吹き、蟻一匹のために、個人の心境は容易に変り得る以上、また人間は、いかなる口実でも現実の保全のためには製造できる聡明さを持っている以上、更にまた人間は、焼場の鉄扉の後に肉親を納めた時でも、己の消失死滅の必然を、まだ(幸いにも)真実とは思えぬ無神経さと、事ごとに死を恐怖する過敏さとを奇妙な度合に混淆せしめて、しかも幸福を求めながら生きて行く以上、この≪賭≫も(パスカルの賭と同じく)恐らく現実に意気揚々と生きている人間の心にはかすかな波紋しか立て得ない性質のものかもしれない。考えたところで一文の得にもならず、国策を翼賛するのに役に立つものでもない。しかし、一応は考えられてしかるべきであり、その解決の志は、配給の芋を賞(め)でながらも、心ある人の胸には宿っておらねばならぬものだ。そう信じたい

 ジョルジュ・デュアメルとミゲル・デ・ウナムーノとが絶賛してやまないセナンクゥールの言葉に、「人間は滅び得るものだ。そうかもしれない。しかし、抵抗しながら滅びようではないか? そして、もし虚無が我々のために保留されてあるとしても、それが正しいというようなことにはならないようにしよう」とある。僕は、この言葉を時々思い出す。そして、冷たい、しかも劇(はげ)しい情熱をすら感ずる。



 「何かのために」と思うことの非情さと甘美さをかみしめながら、これを読み、記すお前は何なんだと問いながら、問うているうちは正気が保てるなどと甘い考えを徹底的に排除していこう。





 
 
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by todoroki-tetsu | 2011-03-17 21:02 | 文学系 | Comments(0)

渡辺一夫「月に吠える狼」

 今朝は電車で出勤した。たった二日ぶりのことだが、ずいぶん久しぶりに電車に乗った気がする。

 
 通勤時間で本が読めるな、と思った。宮沢賢治にしようと思ったのだが、その前にふと目に入った『渡辺一夫』(ちくま日本文学全集、品切れ)を思わず懐にしのばせた。


 僕は、仰いでみる明月に、思わず叫びたくなった。誰にも判らぬ、僕自身にも判らぬ。しかし月だけに判る叫びをあげたくなった。征く人々はあの皎々たる明月だ。そして、叫ぶ僕は狼だ。ただ狼は狼でいる間だけは狼の営みを十全にはたすべき以外に道はないのである。専門と定めた題目の肉をくらい骨をしゃぶり尽くしてやらねばならない。しかし、今夕の月は、いかにも皎々としていた。



 冒頭に収められた「月に吠える狼」と題する随想の締めくくりの部分。昭和18年11月12日の日付である。


 だからどうした、と言われればそれまでだ。だが、なぜだか、迫ってくるのだ。自らを「狼」と称さざるをえなかった渡辺一夫の気持ちを理解できるとは思わない。そんな不遜な思いは抱けやしない。それでも、なお。




 
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by todoroki-tetsu | 2011-03-16 21:57 | 文学系 | Comments(0)

理屈では分かっている

 いろんな思いが頭をよぎる。いろんな人のいろんな苦しみや気持ちに、思いを寄せることが出来るとは思っていない。そんなおこがましいことは思わない。


 住まいも勤務先も23区内で、ライフラインにも影響がなく、職場にも徒歩や自転車で通うことが出来る。特段不便はない。普段はJRを使っているが、徒歩でも何とかなると思っているから腹は立たない。

 
 会社の意思決定なんてはっきりしないのは分かり切っている。動くことのできる人間が動くのは当然だと思っている。一定の役職の人間が早々に出勤を断念するのを電話で聞きながら、「いいですよ」と口では言いながら、「どうするつもりだこの野郎」と思うことがあるくらいだ。


 現場に駆けつけたいと思っても駆けつけられない人がいるだろう。理屈では分かっている。でも、あらゆる手段を使って兎に角駆けつけてくれる人がいることも確かだ。


 会社にやって来た人がえらいわけでもなければ、来られなかった人がえらくないわけでもないのだ。理屈では分かっている。


 一番の責任は、明確な意思決定を早期に下さない会社にある。そう考えるのは正しい。理屈では分かっている。全面的に正しい。しかし、そこでいう会社とは何か? 社長か、役員か、それとも……。そこを問う前にこう考える、「今現場で出来ることをやろう」。


 一度そう覚悟を決めてしまうと、すべてが変わって見えてくる。僕は詳しいことが全く分からないくせに原発反対の立場であり、テレビを原則として見ない人間だが、それぞれの現場の皆さんのことを耳目にするにつけ、「すごい」と思うし、それらの努力をいささかでも「批判」するような言説には拒絶反応を示しつつある。

 
 理屈では分かっている。「現場にそんな努力を強いたどっかのえらい奴がいちばん悪い」。そうだろう。そこは否定しない。否定しようもない。絶対的に、正しい。しかし、思考がそこにまで到達しないのだ。


 理屈では分かっている。「現場ががんばってるじゃないか」と思うことで、自分自身を肯定しようとしているからだ。


 さて、僕は本屋に勤めている。わずかな時間でも、限られた売場だけでも、あけることが「社会貢献」だとすら思っている。実際に、そうしている。精一杯でやっているつもりが、「なぜ他の売場はやっていないんだ!」「うちまで届けろ」「勝手に短縮営業すんな」といった怒号を浴びせられることにもなっている。理屈では分かっている。こうした人たちも、不安なんだ、と。偶然地震の前夜、『デビルマン』の復刻版を(講談社コミックス版全五巻)読んでいたのだった。いろんなことがシンクロする。すんでのところで、固めた拳を振り上げずにいる。


 それでも、明日も出来る限りは店をあけようと思う。僕は店長でも何でもない。だけれど、健康に無理がない条件のスタッフが、必要な人数だけ来てくれれば、あけたいと思う。


 こんな時は休ませろ、という人もいるだろう。理屈では分かっている。放射能の影響があるのかないのか分からない。だから、健康に無理がなければ、という条件をつけておこう。


 店をあけようと思うのは、必要な情報や息抜き、娯楽が、本屋にはあると考えているから。そして何より、今自分はこの数日ろくに本など読めていないけれども、「言葉」に飢えているから。何よりもまず、人を励ます言葉を提供したいと思う。土曜夜の宇多丸さんのように、そして、昨晩深夜の伊集院光さんのように。


 では、そんな思いで明日、例えば雨の降る中を徒歩で出勤してみたとしよう。見る人が見れば、正気の沙汰ではないのかもしれない。ほめてほしいなどとは思わない。僕が気にかかるのは、そんな思いでいる人間を、心の底からうちふるわせる言葉は何なのか、ということだ。


 すでに、「僕は詳しいことが全く分からないくせに原発反対の立場であり、テレビを原則として見ない人間だが、それぞれの現場の皆さんのことを耳目にするにつけ、「すごい」と思うし、それらの努力をいささかでも「批判」するような言説には拒絶反応を示しつつある」と述べた。それが自己肯定のためであることも述べた。


 こんな思いを、「社会科学」で批判は出来るだろう。理屈では分かっている。では、「文学」で批判できるか? 「やれるもんならやってみやがれ」とは言わない。きっと、出来る筈だ、という「信」を表明するにとどめよう。同時代の文学者にはそれが出来るはずだ。「逃げろ」と呼びかける言葉の奥底にあるほんとうの善意を全面的に信頼しながら、それでも、そう信じる。もっと先の言葉があるはずだ、と。

 
 そんな言葉を、僕は待ちわびている。そんな言葉を、さらなる他者に届けることが出来るなら……。


 
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by todoroki-tetsu | 2011-03-15 20:23 | Comments(0)