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相対的な存在が持ちうる絶対性

 中島みゆきさんの「泣きたい夜に」を、この数日特に集中して何度も聴いている。歌詞はこちら

 
 飽きもせず「関係」の相対性と絶対性について考えてみる。

 
 みんなが悪い、あるいは自分だけが悪いわけではない、と他者に呼び掛けることは励まし方として実に有効だ。この間の問題意識に引き付けて言えば、何かに悩む他者≒「相対感情に左右されて動く果敢ない存在」(吉本隆明)に対して、「絶対的な奴なんていやしないんだよ、だから気にするな」といって、その相対性を擁護する、という構図になろうか。

 
 問題は、そのとき他者に呼び掛けている「自分」はどうなんだ、というところにある。


 「泣きたい夜に」における「あたし」は、慈母であるかのような包容力があるように思える。そういいたければ「女神」でもよかろう。何か超越した存在であるかのように映る。でもはたして、あらかじめそのような存在であったのだろうか? もちろん、いかようにも解釈が出来るだろう。が、僕はこの「あたし」を、自らの相対性を、自らの悪を、突き詰めていった末にある存在として考えてみたい。

 
 「『同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者』が、『絶対』的な関係を突き付ける場合がある。特段に聖人君主というのでもなく、適度にダメさをお互いに許容し合っている、そういう関係であったとしても、そのような絶対性を突き付けられる時が、ある。相対性が絶対性に転化する瞬間が、ある」と少し前に僕は記した。そのイメージのひとつは、この「あたし」である。「あたし」は問いを発する側というよりも問いに応じる側のように思えるが、しかし、互いに相対的な存在に過ぎぬその関係において、明らかに異なる地平に立っている。俗に言う「上から目線」などではなくて。

 
 でも、「あたし」は特段にすごいことをやれるわけではない。呼びかけて、歌うことが出来るくらいだ。でも、その「くらい」のことをやれること、あるいはやろうとすること、その力は、大きい。「相対的な存在が持ちうる絶対性」といってみたい衝動に駆られる。


 「求道すでに道である」(宮沢賢治)といった言葉が示すものと、この「あたし」の姿は重なってくる。チャップリンの「独裁者」における演説の文脈で目に耳にする、ルカ伝第17章の「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」といった言葉も、思い起こされる。


 しかし。相対的な存在が絶対性を持ち得たとして。それははたして長く続くものであろうか。長く続いた人はやはり「聖人」というにふさわしいと思う。けれど、多くの場合には特定の場合や時期においてのみ絶対性を持ちうるのではないだろうか。それは一瞬のことかもしれない。だとしても、「一瞬よりはいくらか長く続く間」(大江健三郎、『燃えあがる緑の木』)という言葉に希望を託すことは出来る。


 でも、そこに行くまでにもう少しうろうろと足踏みしてみたい。ひとつは、加害者/被害者という問題。もうひとつは固有性の問題である。

 
 「泣きたい夜に」の「あたし」と、呼びかけている他者との関係は、直接の加害/被害の関係ではないように思える。歌詞を手がかりに想像を膨らませるのはよいけれど、自分自身に傷ついた、あるいは「あたし」ではない誰かに傷つけられた他者に対する応答と解釈するのが素直だろう。しかし、現実の人間どうしの関係性においては、直接間接の利害関係が見え隠れする。その時自分は、いや、他ならぬ僕は、どうすればいいのだろうか。


 「暴力性があり、想像力が貧弱で、大きな事件が起きた時にはさも深刻な顔をして考えてみる癖に時が経てば忘れてしまうような、そういう自分をまずはありのままに認識してみたいのだ」とも以前に記し、「他者」との関係性に何らかの可能性を見出そうと僕はした。ではその「他者との関係性」とは具体的にいったいなんなんだ、というのがこの間の相対性だの絶対性だのをうだうだ考えている、ひとつの契機である。「加害」とか「暴力」といったことを、やっぱり見つめなければ先には進めなさそうだ。

 
 もうひとつの「固有性」の問題は少しまた性質の違うことかもしれない。自分も含めてみんなダメなところがある、とか俺も悪いがあいつも(あるいはお前も)悪いとか、そういうことはもちろん、ある。つまり、ある地平なり価値観なりからすれば、みんな同じじゃないか、という考え方。あるいは、他者の中に自分を見出すという認識論なり方法論。これはなかなかに魅力のあるものだけれども、それを突き詰めていった時、一人ひとりの「固有性」というものをどうとらえればよいのか。星野智幸さんの『俺俺』が見せてくれた世界を、どう考えればよいのだろうか、という問題になるのかもしれない。


 ……少しずつ、やっていこう。
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by todoroki-tetsu | 2010-09-11 20:09 | 批評系 | Comments(0)

相対化と笑い

 この数日の会社の行き帰り、ブツブツと「相対的」「絶対的」だのとつぶやきながら歩いている。かなり、あやしい。


 「笑い」にもいろんな笑いがある。けなすための笑いとかせせら笑いとか、「ばっかでぇ」(「バカデー」でも可)というようなものもある。


 落語方面にいってしまうとキリがなくなるし、井上ひさしさんの言っていたことを手がかりにするのも悪くはないが……、と思いながら、ようやくさっき本棚から引っ張り出してきたのが「文學界」の2008年3月号。よかった、まだちゃんと残していた。ここには赤木智弘さんが「がんばらない人間」と題する見開きの短いエセーを寄せておられるのだ(P.200-201)。


 書かれているのは、伊集院光さんについて。僕はこの文章は非常に好きだ。僕も伊集院さんのリスナーだから、というのはもちろん大きな理由だが、伊集院さんのトーク――「深夜のバカ力」と限定したほうがよさそうだけれど――がなぜ面白いのかを、実に端的に評している。

 
 「客観的に見れば、伊集院は勝ち組である」というまっとうな指摘を、赤木さんはもちろん外さない。しかし同時に、「ダメで情けない自身の姿を、リスナーの前にさらし続けてきた」と強調する。リスナーなら共感するところ大であろうこの二つの指摘を、わずかな紙幅で同時にやり遂げているところにこのエセーの大きな魅力がある。


 ほうっておくと伊集院さんの話ばかりになってしまうのでちょっと禁欲して、当面の僕の関心の手がかりになるような一文が、先の「ダメで情けない自身の……」の個所の少し前にあるので引いておきたい。


 お笑いの『毒』というものは、エリートを庶民の力で笑い飛ばすものであり、世の中を相対化する言説として必要とされていた。


 
 ここでいう「相対化」とは何だろう。「オツにすましちゃいるが、手前だって一皮むきゃあこっちと同じ人間じゃねぇか」というようなシーンをイメージする。


 赤木さんもエセーの中でこの類のエピソードを引いておられるのをきっかけに、思い出した尾籠な例を。

 
 伊集院さんのかつて使った表現には、「お前だって体調悪い時にはパンツにクソがべったりついてる時だってあんだろ!」というのがある。最近はあまり話題になっていないような気がするけれど、「年に1回はクソをもらす」話は一定のリスナー歴のある人ならご記憶の方も多いだろう。伊集院さんは「自分はもらさない」という立場ではなくて、「自分はもらす」という立場である。要するに、自分もダメだが、お高くすましたあんただってダメでしょう? という構図なのだ。この「自分もダメ」な部分が明らかでないとそもそも笑いにならないか、たとえ笑えたとしても質はずいぶんと違うだろうと思う。


 赤木さんが「お笑いの『毒』」と表現しておられるのは、笑う自分も笑いの対象とする相手も、ともにダメさ加減というダメージを引き受けることを意味していると思う。自分が毒とは無縁のところにいてはただの悪口に過ぎないが、自分自身もダメさ加減をさらけ出すという毒を浴びることよって相手にも毒を利かせることができ、そこに笑いが生じる。
 

 自分も相対化するが相手も相対化する。笑いをそのようなものとして考えてみる(ひょっとすると枝雀師の「緊張と緩和」の理論が参考になるのかもしれないのだけれど、ここで深追いするのはやめておく)。逆に、相手を相対化しようと思えば自分も相対化しなければならない、という命題は成り立つだろうか。そんな関係性とはどんなものだろうか。


 
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by todoroki-tetsu | 2010-09-10 22:13 | 批評系 | Comments(0)

関係の絶対性と相対性。その二

 引き続き、自分用メモ。

 考えるための一例として。阿久悠さん作詞の「時の過ぎゆくままに」。




 歌詞の全体はこちら


 女も男もなんだかとても疲れていて、なげやりな感じがする。もうどうでもいいや、と思いながら、どことなくだらしなく体の関係は続いていて……、といった光景が思い浮かぶ。


 こういうことは、あるだろうなと思う。この二人は、お互いのダメさとか、なげやりなところとかを、お互いに否定しない。「こうしなきゃ!」「このままじゃダメだ」といった、「べき論」は介在しない。現状肯定だけが、ある。「相対感情に左右されて動く果敢ない存在にすぎない」(吉本隆明、『マチウ書試論』)ことを、認める。

 
 しかし、「相対感情に左右され」ながらも、「ささやかな絶対性」(というのも変な表現だが)がある。この二人が、二人でいること、お互いに関係性を保っていること。いつか別れるかもしれない、いや、もう関係はもう破たんしかかっているのかもしれない。けれど、この時点で少なくともどちらか一方は、特定の「あなた」との関係を否定していないし、条件つきではありながらささやかな希望すら抱いている。


 別段さっさと別れたっていいはずだ。相手に見切りをつけるか自分に見切りをつけるのかはさておくとしても。二人の過去のライフヒストリーの詳細は分からない。何か別れるに別れられない因縁があるのかもしれないし、ぬきさしならぬ状況が取り巻いているのかもしれない。が、特定他者との関係を手放さないという点において、自ら選び取った関係性を見て取ることが出来るのではないか。

 
 ……ん、「絶対性」というよりも「固有性」とでもいったほうがいいのだろうか。「固有性」と考えると「他の誰でもいい」のか「他でもない『あなた』(『自分』)でなければならない」のか、といった問題、『俺俺』と「名前」の問題になっていきそうなのだが。

   
 整理が足りないな、まだ。
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by todoroki-tetsu | 2010-09-10 06:58 | 批評系 | Comments(0)

関係の絶対性と相対性

 問いを整理しなければと思いながらも、まあメモだからいいやなんて無責任に思いながら。


1.
 「関係の絶対性」というのは何だろう? 吉本さんの文脈からは「秩序」とか「権威」とか、そういったものがイメージされる。「何か強固なものに抑圧される状態」といおうか。僕は、必ずしもそうしたものをイメージして「関係の絶対性」という言葉を手がかりにしようとしているのではない。そこを少し落ち着いて考えてみる。


2.
 たとえば、僕は今正社員として会社に属している。そうである以上、原則として業務命令には逆らえない。「上」から言われることなんて納得のいかないことなんて今までもあったし、これからもある。その意味では「絶対」である。しかし、相対化する術も同時にある程度身に付けてはいて、多少のことなら突っぱねる程度の政治力を発揮することは出来るし、少なくとも自分の現場においてはある程度「なし崩す」ことも出来る。程度の差ではあるけれども、「絶対的」におりてきたものを「相対化」することは出来る。所詮は「ガス抜き」に過ぎぬだろうが、会社と職場からはのがれえぬ以上、ガスを抜くことが出来るにこしたことはない。


3.
 ただ、どうしようもなく受け入れなければならない命令というのはやはりあって、それは「絶対」ではある。逆を言えば、そうでない時には「絶対」ではないのだ。「部下は上司を選べない、が、上司への態度は選べる」というのが僕の処世訓である。「態度は選べる」……「自由な意志は撰択するから」と、吉本さんからは一蹴されてしまいそうだが、過度に媚びる必要はない、というほどに考えるとすると、会社員としては少しほっとはするのだ。


4.
 「関係の絶対性」とは、「そうでなければならない、それ以外にはありえない関係性」のことである、と考えてみる。そして「関係の相対性」とは、「それ以外でもありえる関係性」のことである、と考えてみる。会社の例でいえば、僕が適度に政治力を発揮しつつ「上」からの命令をかわせる状態にある場合には、僕と会社の関係性は相対的であるといえる。かわせない状態にあれば、関係は絶対的である。常に相対的なわけでも、常に絶対的なわけでもない。


5.
 相対的な関係と絶対的な関係を分かつものは何だろうか? 自分の意識、それも主体的な覚悟を伴った意識のような気がしてくる。唯我論?……ううむ。分からない。が、「秩序」や「権威」に無自覚であった場合、そもそも関係性という問題意識じたいが発生しないだろうな、という気はする。


6.
 しかし、身近な「秩序」が会社なので――「権威」ではまったくないのがちと情けない(笑)――その例から入ったけれど、僕が考えたいのはそこでもない。会社内においては互いの職位や、他の会社に属している人との場合には互いの会社同士の関係とか、そうした関係なり属性が入り込んでくることは疑う余地がない。けれど、「秩序」とか「権威」とかとモロに対峙するような関係ではなくて、僕一人とあなた一人、そうした関係性において「絶対性」を突き付ける/突き付けられるというのはどういうことなのか。

 
 何か具体例をあげながら考えたほうがよいかもしれない……。
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by todoroki-tetsu | 2010-09-08 20:45 | 批評系 | Comments(0)

『精神現象学』を拾い読む

 『精神現象学』を久々に手に取ったのは、『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』を読了した先月のこと。杉田俊介さんが「第六部(=『ストーンオーシャン』)の構成は『精神現象学』に奇妙に酷似する」と、()付きで触れている文章に気付いたからである(『無能力批評』p.95)。


 といっても再度通読が出来ているわけではない。文字通り「パラパラ」とめくっているだけである。陣野俊史さんが提起するところの、『俺俺』の第六章をどう読むかという課題(「すばる」2010年9月号、「『その後』の戦争小説論」⑮)の手がかりになるかもしれないし、あるいはこれまた「ジョジョ」の『スティール・ボール・ラン』に登場するスタンド、「D4C」(「Dirty Deeds Done Dirt Cheap」=「いともたやすく行われるえげつない行為」)についてのイメージを膨らませることもできそうだ。批評家の仕事を待とう。いや、すでにあるのかもしれないが。


 さて、当面の自分の問題意識にそって、エゴイスティックに引く。作品社の長谷川訳、p.207-209。C.(AA)理性、Ⅴ.理性の確信と真理、A.観察する理性のb.「純粋な状態にある自己意識の観察、および、外界と関係する自己意識の観察」。


 
法則の内容をなす要素として、一方に、個人そのものが位置し、他方に、その一般的な環境――置かれた境遇、場所柄、習慣、道徳、宗教、等々――がくる。そうした一般的環境を出発点として特定の個人がとらえられる。環境には特定の内容も一般的な内容もふくまれ、それが目の前にあって観察の対象ともなるし、他方また、個人の形式のうちにも表現される。
 
 さて、この両面の関係の法則は、そこにある特定の状況が個人に一定の作用と影響を及ぼす、という面をふくまざるをえない。が、個人というものは、一方で、共同体の一員として既成の共同体や道徳や習慣にすんなりと一体化し、共同体に合わせて生きる存在であるとともに、共同体と対立し、道徳や習慣をひっくりかえそうとしたり、個々の場面でそれをまったく無視し、それを受けいれもしなければ、それに働きかけもしないという選択も可能な存在である。したがって、なにが個人に影響をあたえ、それがどんな影響をあたえるかは――二つは結局同じことだが――もっぱら個人の生きかたによってきまってくる。この個人がこういう影響のもとにこういう人間になった、ということは、個人がもともとそういう人間であった、ということである。一方では目の前にあるものとして、他方では特定の個人のうちにあるものとして示される状況、場所柄、道徳、等々は、個人のどうでもよいありようをあいまいに表現するものにすぎない。この状況、この思考法、道徳、時代状況がなかったならば、むろん個人がいまある個人になることはなかっただろう。この時代状況のなかではこの共同体生活が唯一可能な生きかたなのだから。が、時代状況が個人のうちに特殊化されるとき――そしてそのありさまこそがとらえられるべきだが――時代状況はあますところなく特殊化され、そのように特殊化されたものとして個人に働きかけねばならないはずである。そうなってはじめて、時代状況は明確な輪郭をもつ個人の状況になったといえるのだ。外界が、個人のもとにあらわれるそのままのすがたで客観的にも存在するとすれば、個人を外界から理解することもできる。そのとき、わたしたちの前には二重の画廊があって、その一方は他方の反映とされる。一方は、完全に内容と輪郭の定まった外的環境という画廊である、他方はそれが意識のある存在のうちへと投影されてできた画廊である。前者は球面をなし、後者はそれを一点に浮かびあがらせる中心である。

 しかし、球面をなす個人の世界は、そのまま二重の意味を――それ自体で存在する世界であるとともに、個人にとっての境遇(世界)であるという二重の意味を――もっている。そして、それ自体である世界が個人の世界となるには、個人がその世界と一体化し、それをあるがままに受けいれ、それとの対立を形式的なものにとどめるか、さもなければ、既成の世界をひっくりかえすことによって個人の世界にするか、そのいずれかでなければならない。個人がそうした自由をもつゆえに現実が二重の現実としてあらわれる以上、個人の世界は個人からしかとらえられず、それ自体で存在するとされる現実の、個人にたいする影響も、個人が自分に流れこむ現実の流れを容認するか、流れを断ちきってひっくりかえすかによって、まさしく正反対の意味をもってくる。が、そうなると、「心理的必然性」などというのはまったく空虚なことばになってしまうので、しかじかの影響力をもつとされるものについて、そんな影響力などまったくもたない可能性も十二分に考えられる。



 ここからさかのぼって「自己意識」にいくか、「精神」まで突き進むか。ちょっと立ち止まって考えるとして、先に吉本さんを引いた文脈に、わりあい近いところがまずは手がかりになると思った。「外的環境」とか「時代状況」とここで言われていることは、「マチウ書試論」における「秩序」とシンクロする。


 さらにシンクロするのは、浅尾大輔さんの評論「かつて、ぶどう園で起きたこと」なのだが、そのことについては以前サワリだけふれたことがあるので今は措く。


 相対的な存在に過ぎぬ他者――自分も含めていいのかは感覚としては迷うが、理論的には含めなければならんのだろう――が絶対性を獲得するというのはどういうことか。「時代状況が個人のうちに特殊化されるとき」だと考えてみるのは、相当にグッとくる。が、ただ偉い人の言葉をつないだだけで満足してはお話にならない。もう少し練ってみる。

 
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by todoroki-tetsu | 2010-09-07 09:50 | 批評系 | Comments(0)

相対的と絶対的

 一昨日に引き続き、自分の勉強のために『マチウ書試論』をひく。文芸文庫版、P.137-139。

 「偽善な律法学者とパリサイ人にわざわいあれ。なんとなれば諸君は、予言者の墓を建て、正義の人の墓碑を飾りそして言う。もし、われわれが父祖のときに生きていたら、予言者の血を流すために、かれらには加担しはしなかったろうと。諸君は無意識のうちに、自分が予言者を殺したものの子孫であることを立証している。それゆえ、諸君の父祖たちの尺度を捕え。蛇よ、まむしの血族よ。諸君はどうしてゲアンの懲罰を逃れられようか。」

 すべての悲惨と、不合理な立法と支配の味方である現代のキリスト教は、当然この言葉をうけとらなければならない。加担の因果は、秩序というものを支点としてめぐるのである。加担の意味が現実の関係のなかで、社会倫理的にとらえられなければならないのはこのときである。ここで、マチウ書が提出していることから、強いて現代的な意味を描き出してみると、加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、撰択する自由をもっている。撰択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な撰択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。律法学者や、パリサイ派が、もしわれわれが父祖のときに生きていたら予言者の血を流すために、かれらに加担しはしなかったろうと、言うときそれはかれらの自由な撰択の正しさを主張しているのだ。

 だが、人間と人間との関係が強いる絶対的な情況のなかにあってマチウの作者は、「それなのに諸君は予言者であるわたしを迫害しているではないか。」と主張しているのである。これは、意志による人間の自由な撰択というものを、絶対的なものであるかのように誤認している律法学者やパリサイ派には通じない。関係を意識しない思想など幻にすぎないのである。それゆえ、パリサイ派は、「きみは予言者ではない。暴徒であり、破壊者だ。」とこたえればこたえられたのであり、この答えは、人間と人間との関係の絶対性という要素を含まない如何なる立場からも正しいと言うよりほかはないのだ。秩序いたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。

 現代のキリスト教は、貧民と疎外者にたいし、われわれは諸君に同情をよせ、救済をこころざし、且つそれを実践している。われわれは諸君の味方であると称することは自由である。何となれば、かれらは自由な意志によってそれを撰択することが出来るから。しかしかれらの意志にかかわらず、現実における関係の絶対性のなかで、かれらが秩序の擁護者であり、貧民と疎外者の敵に加担していることを、どうすることもできない。加担の意味は、関係の絶対性のなかで、人間の心情から自由に離れ、総体のメカニスムのなかに移されてしまう。

 マチウの作者は、律法学者とパリサイ派への攻撃という形で、現実の秩序のなかで生きねばならない人間が、どんな相対性と絶対性の矛盾のなかで生きつづけているか、について語る。思想などは、決して人間の生の意味づけを保障しやしないと言っているのだ。

 人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は撰択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ。


 
1.
 なんだか真木悠介さんの「~への疎外」とか、そういった話との関連を思い浮かべるようになったのは最近のこと。どういう関連があるのか、あるいはないのかは知らない。余談。

2.
 相対と絶対。「関係の絶対性」を規定するのはなんだろうか? 「上」から、あるいは何かしらの強固な「組織」から押しつけられるものがあるとしたら、それは確かに絶対的な関係であるだろう。あるいは、「自然」――高島善哉の用法にならい、本来の自然・人間的自然・社会的自然といってもいい――が強いる何か、というのもイメージしやすい。しかし、だ。今、僕がこだわりたいのはそこではない。ごく普通の、「同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者」との関係である。

3.
 しかし、「同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者」といっても、ジェンダーの問題や働き方のありようは時として絶対的な関係になりうるだろう。そのことを忘れないこと。

4.
 「同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者」が、「絶対」的な関係を突き付ける場合がある。特段に聖人君主というのでもなく、適度にダメさをお互いに許容し合っている、そういう関係であったとしても、そのような絶対性を突き付けられる時が、ある。相対性が絶対性に転化する瞬間が、ある。

5.
 僕がいる。特定の他者が一人いる。この二人の関係において、絶対性を突き付けられる瞬間があるというのはどういうことか。僕の立ち位置なりライフヒストリーなりと、特定他者のそれとの差異によって不可避的に引き起こされるものがある、ということは出来る。とすると、両者の立ち位置とライフヒストリーを包括しうるのは、たとえば「社会」という概念であるだろう。「自然」なり「神」なりをおいてもいいのかもしれない。僕と特定他者の両者に超越して両者を包括する、あるいは両者の関係を究極において規定する「何か」が、第三項としてある、と考える。この第三項――「媒介」といってもいい――は、僕には「救い」として観念される。

6.
 どういうことか。絶対性を担保・保証するのは「社会」「自然」「神」であるとするならば、その「恩寵」はやがて僕にもやってくるかもしれない、と考えることが出来る。聖道門か浄土門かという話はひとまず措くとしても。しかし、そう考える自分の中に、不遜な考えが宿っているのを認めざるを得ない。それは、絶対性を突き付ける他者に対し、「お前だって『媒介』の中に生きている以上、それらを断ちきってなお成り立つ絶対性を持っているのではないんじゃないのか?」と衝く、ということである。要するに「お前だって相対的な存在じゃないのか」ということになるのだろう。たしかに、嫌味ったらしく「上から目線」で「絶対性」を突き付ける人間には有効だ。だが、「同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者」には有効とは必ずしもいえない。傷つけてはいけない人間を傷つけてしまいかねない。お互いに傷をつけあって、まっとうに成長していく関係が構築できればよいのかもしれないが、そうした関係に成功したためしは僕にはほとんどない。

7.
 「媒介」にいきなり逃げずに、まずは他者の突き付ける絶対性に畏れおののくことから、もういちどやりなおそうと考える。相対性の中で絶対性を獲得した、その瞬間をもっと大事に考えるべきではないか。そして、他者の絶対性に応答する自分自身を、突き詰めて考えること。それらを経てはじめて「媒介」を観念する、そうした回路をもう一度丹念に追いなおすこと。


 ヘーゲルか……。
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by todoroki-tetsu | 2010-09-07 06:38 | 批評系 | Comments(0)

問うことと問われることについてのメモ

 自分の勉強のために。吉本隆明さんの『マチウ書試論』を引く。文芸文庫版のP.132‐134。


 マチウ書二三の二でジェジュは言う。

「学者とパリサイ人はモイズの法壇に坐っている。それ故、かれらが諸君に言うところをあげて行いまもれ。だがかれらの業にならうな。かれらは言うが、行わないから。かれらは重要な荷物をくくって人の肩にのせるが、それを指で動かそうともしない。かれらは行うところことごとく人にみられるためにするのだ。すなわちかれらは大きな護符をみにつけ、衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座を愛する。かれらは公共の場では挨拶されることを、そして人からラビラビと呼ばれることをこのむ。」

 じつにこまかいところまであげて、律法学者とパリサイ派を攻撃しているが、マチウの作者がすでに固定し、定形化した宗教的な秩序を、どんな苦々しい感情でながめているかということが、リアルに生理的に描き出されている。抑圧された思想や人間には、いつもこのように秩序が受感されている。そして既にできあがった秩序の上にあぐらをかいて固定している思想や人間は、形式主義も偽善もへちまもない。ようするにわれわれは勝者であり、諸君は敗北している。諸君もわれわれと同じような方式をとらないかぎり、決して秩序から疎外されることを免れない。すくなくとも人間の構成する秩序は、けっしてこれ以上の型をとらないのだから、と言うだろう。構成された秩序を支点として展開される、思想と思想との対立の型は、どれほど幼稚に見えようとも、これ以外の型をとることはない。キリスト教と言えども、秩序と和解したとき、やはり衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座をあいしたし、人の肩に荷物をくくって、自らは指で動かそうともしなかったのだ。マチウ書の作者が、ここで提出しているほんとうの問題は、現実の秩序のなかで、人間の存在が、どのような相対性のまえにさらされねばならないかという点にある。

 ゆらいこの課題はけっして解かれたことがない。あらゆる思想家がみな見ぬふりをしてきただけであり、すくなくともマチウ書の作者は、幼稚で頑強なこの課題に、はげしくいどみかかったのである。キリスト教は、それ以後、マチウ書のしめした課題にたいして三つの型をとった。第一は、己れもまたそのとおり相対感情に左右されて動く果敢ない存在にすぎないと称して良心のありどころをみせるルッター型であり、第二は、マチウ書の攻撃した律法学者パリサイ派そのままに、教会の第一座だろうが、権力との結合だろうがおかまいなしに秩序を構成してそこに居すわるトマス・アナキス型、第三は、心情のパリサイ派たることを拒絶して、積極的に秩序からの疎外者となるフランシスコ型である。人間の歴史は、その法則にしたがって秩序の構造を変えてゆくが、人間の実存を意味づけるために、ぼくたちが秩序にたいしてとりうる型はこの三つの型のうちのどれかである。


 
1.
 「パルタイ」的なものを想定してみるのもよいだろう。が、そうした文脈としてではなく、ここでいう「秩序」を、たとえば「他者」と置き換えてみることが出来ないか。他者からの問いかけに対し、自分はどう応答するのかという問題として。

2.
 異性愛男性はまさにそのことによって女性を抑圧している、という問いかけが仮にあったとする。問われた異性愛男性は、どう応答しうるだろうか。正社員はまさにそのことによって非正規労働者を抑圧している、という問いかけが仮にあったとする。問われた正社員は、どう応答しうるだろうか。それらを考える手がかりにこの一連の文章はなりうるか?

3.
 問いかける他者と自分との関係性は? 同じ地平に立っているのか、それともどちらかが高くてどちらかが低いのか、それとも価値判断を含みうるような高低差ではなく少し無機質な印象を意図して位相と言い換えてもよいのか。

4.
 他者が他者である以上、他者は自分ではない。差異はある。たとえわずかなものであっても、差異はある。それは問いを発した/発せられた瞬間に発生するのか、それとも潜在化されていたのが顕わになるだけなのか。

5.
 同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者から発せられる問いが、地平を「超越した」問いかけに思える瞬間はあるか? その瞬間を体験するか、いや、気づくかどうかが、「神」という問題意識をもつか否かの分かれ目になるように思える。

6.
 問いかけられているつもりが問いかけていた、ということはないか。質問に質問で返す、といったレベルではなくて。問いかけられた瞬間、すでに自分は他者に何かを問うているのではないか。そこに何か源基的なものがあるかもしれない。その手触りを、後悔とともに何度でも思い起こそう。
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by todoroki-tetsu | 2010-09-05 20:23 | 批評系 | Comments(0)