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「言葉」と関係性

 昨日のうだるような暑さの中、涼を求めて近所の和菓子屋兼氷屋に出向く。夕方というには少し手前、つけっぱなしにされているテレビから、秋葉原の事件の公判についての報道が流れる。


 テレビによれば、事件の原因は三つある、と被告は語ったという。氷をつつきながら、「ん?」と思った。もし、「三つある」などという表現をしたのであれば、かなりの程度自己相対化がされているように思われる。これは相当に自分自身で考えたか、あるいは誰かのサジェストがあったか……。確かめるすべは今の僕にはないが、今朝の「朝日」「東京」の記事などを見ると、比較的理路整然と語っていたのであろうという印象を持つ。なぜちょっとした違和感を覚えた(ている)のか、自分でもよく分からない。


 「言いたいことを言葉にできず行動で示してしまった。それが自分のパターンだった」(「毎日」)とか、掲示板で「本音で厳しい意見を書き込んだら(掲示板の仲間と)仲が悪くなり、サイトに行きづらくなった」(「東京」)などとある。


 ここだけ取り出すと、「言葉」が問題のように思えてくる。職業的関心から言えば、彼はどんなものを読んでいたのだろう、というのは気にかかる。


 言いたいことを言葉にする「スキル」、あるいは「本音」をうまく表現する「スキル」……こうしたことは様々な関係性の中で多かれ少なかれ経験し、少しずつ身につけるものであって――「しつけ」だの「学校教育」もひとつの位置を占めるかもしれないが、すべてではない――、傷ついたり傷つけられたりしながら身につけるものだと思う。人との関係性によって身につける、といおうか。


 とすれば、被告をめぐる関係性やいかに、という問題になるだろう。その関係性は彼にとってどのようなものであり、また僕のような遠く離れた者とまったくもって無縁なのか否か。


 最後に。息子さんを亡くした男性のコメントが紹介されている。「自殺を試みたという加藤被告の話に『不謹慎だが、自殺していれば一人の命で済んだのにとも思った』とやりきれない胸の内を明かした」(「東京」)。

 
 自分自身に向かう暴力・殺意と不特定の他者に向かう暴力・殺意。特定の他者には必ずしも向かわないのが不思議なのだが、仮にこの二種の暴力・殺意が極めて親和性の高いものだとしたらどうだろう?  
 

 ずいぶん前に永山則夫さんの「鯨」をめぐる散文(詩)について記したことがある。手掛かりになりそうな、ならなさそうな……。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-28 07:24 | Comments(0)

上田耕一郎「現代の生活における貧困の克服」を再読する

 「座右の書」といってもいい。今までに何度となく読み直している論文である。湯浅誠さんの「社会運動と政権」(「世界」2010年6月号)を読んで、いわゆる社会運動とはなんぞやみたいな気持ちになって、また読み返した。twitterでのタグは #uedhnkn とした。


 この論文については、お亡くなりになった時にも記したことがある。この時記した感想は今回の再読においてもさして変わらない。


 その上で、いくつかを記しておきたい。


 ひとつめ。「綱領的要求」という用語をめぐって。要するにアメリカ帝国主義と日本独占資本を敵とする考え方だと言ってよかろう。たぶん、大まかには間違っていないだろうとは思う。


 何かの問題で具体的に困っていたり苦しんでいたり、そういう中で「敵は○○だ!」と宣言してくれる人がいるのは心強いことかもしれない。それによって解放されることは十分ありうるだろう。しかし、そうはどうしても思えない、という場合もある。一度は誰かが名指ししてくれたことを信じられたものの、何かのきっかけで離れることもあるだろう。


 宣言する人も、その「正しさ」だけを信じるようになってしまい、「本当に正しいのか」という検証をいつの間にか忘れることがあるかもしれない。


 あるいは、「敵」に気づいている人が「高次」にいて、気づいていない人が「低次」……そんな風に捉えられることがあるかもしれない。こうなると性質の悪い「信仰」だ。


 様々なブレやゆらぎやためらいが、ある。労働にも、認識にも、運動にも。それらをすべてひっくるめて「こみ」にしたものとして、「小宇宙」としての「生活」がある。


 そんなことを思いながら読むと、「綱領的要求」から再び「生活」に戻ってくる回路が見えてくるように思える。


このような全人民的連帯の統一した政治的・思想的自覚だけが、連帯の内部における部分的な利害対立を揚棄し、対立をかえって統一を強化する契機に転化し、困難を前進の原動力に転化することができ、結局は個々の要求をも最短距離で実現する全人民的運動を組織する道を見出すことができるのである(P.211)
 



 好意的に過ぎる解釈かもしれないが、しかし、単線ではない認識の、少なくとも手がかりはあるように思えてくる。「還相」?


 ふたつめ。時代のせいもあるだろうし、読んでいる僕の先入観でもあるのだろうが、イメージとしては工場労働者なのだ、書かれているのは。もちろん、それだけを上田さんは念頭に置いているわけではない。けれど、どうも、僕の中では工場労働者なのだ。寅さんが「職工」と呼びかける朝日印刷所の労働者であり、博であり、タコ社長である。


 何が言いたいか。


 こまっしゃくれた言い方をすれば「生産過程」のイメージと言えようか。もっとも、僕のイメージそのものが貧弱であるからえらそうなことは言えない。柄谷さんにかぶれたがごとく「流通過程」だの「交換」が云々などと持ち出すのは場違いでもあるだろう。ただ、現在の労働と生活のありようを深く捉える試みを重ねていかねばこの論文を今に活かしたことにはならないし、今の自分の日常を重ね合わせて読み変えていくこともある程度許されているのだろうとも思う。


 とはいえ、


 
長時間にわたる残業、乳幼児をあずけた夫婦共かせぎ、きわめて安い家庭内職などによってはじめて保たれている「高度」で「近代的」な消費生活の『ゆたかさ』について、われわれは何を語るべきであろうか(P.181)



 といった記述が到底1963年に記されたものと思えない今の状況ではある。が、上田さんは予言者ではないし、そう読んではならない。今の時代に読みなおす人間が「更新」していかねばならない。


 ここで生活調査などを丹念に読み込んでいれば格好がよいのだが(笑)、なかなかそうはうまくはいかないもので、最近読んだり読みはじめたりしているもので、何かしら「更新」の手がかりになりそうだなと思っているものを羅列してみる。


1.星野智幸さんの『俺俺
 
 昨日の「朝日」における中島岳志さんの書評にずいぶんとそそられて、読み始めたところなのでまだ何とも言えないが、えらいこと期待している。


2.タカさんの『ブルーカラー・ブルース
 
 タカさんが描くような現場は直接には知らないし、10年も正社員の椅子に座っているような僕がどうこう言うのも失礼な気もする。が、なんかこう、ざわっとくるものを感じる。


3.浅尾大輔さんの「かつて、ぶどう園で起きたこと」(『モンキービジネス』VOL.10所収)

 多くは記さない、というよりも、まだ記せない。浅尾さんの評論は、口調の柔らかさにいい意味でつられてしまうのだけれども、「渾身の一撃」に向けて全てを集中している。その姿は――ほめ言葉として僕は言いたいのだが――、レーニンを思わせる。その集中に見合うような読み方が出来ているか、自信がない。が、ここだけはどうしても引いておきたい。

 
 資本の総過程が恐慌を準備するなら、私たちの作家は、労働者の心が壊れていくさま――たとえば狂気、殺人と自殺の物語をますます描くことになるだろう。あるいは労働力の再生産過程――職場・学校、家族から排除された「フリーター」「ひきこもり」「障がい者」、もしかしたら「自分はブスだから生きる価値なんてない」と思い悩む小学生を主人公にすえた物語と向き合っていくかもしれない。
 とどのつまり、私たちの文学の運命は、資本――カネと暴力に破れていく人間の終わりを描くのか、それとも、資本に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐くような人間たちの物語をいかに再構築するのかという、もはやそのどちらかの選択しかない。(P.280)


 リアリズム、とはこういう認識のことを言うのだろう。


 こうした豊富な同時代の手がかりを過去の到達と縄をなうがごとく束ねていくのは、「読者」に他ならぬ。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-20 00:29 | 業界 | Comments(2)

秋葉原の事件に寄せるでもなく――その八

 一昨日は完全オフ。昼飯をたらふく食い、昼寝。チャイムの音で起こされる。出ようかと思ったけれど、やめた。面倒くさいので無視。勧誘かセールスか、あるいは放りっぱなしにしている交番のアンケートみたいなやつか。いずれにせよ、どうでもいい。どうして誰にも邪魔されない筈の時間と空間に闖入してこようというんだろう。腹が立つ……もう少しさらっと受け流してもいいんじゃないかという気もするのだけれど。
 
 一日働いた後で言葉を連ねることが何か意味を持つのかもしれないと思いこんだせいか、ただ単に気がのらなかったせいか、ブログを更新しなかったのが一昨日。昨日は酒を飲んだので更新しなかった。酔った頭では言葉が出てこないか、空回りするだけだから。

 今日は朝早くから働いた。その分早く帰って来たのだが、朝早くからまだ仕事をしている人はまだ、いる。しかし、もはや眠い。


________________


1.
 おおよそのことはグダグダと書き連ねているうちに書いてしまった気がする。もとからまとまらぬまま長い文章を書く癖がある僕だが、こういう書き方はあまりしてこなかったようにも思う。何かが変わったというよりも、何かを変えようとしたいのだろう。


2.
 35年近く生きていればある程度の(悪)知恵というものはあって、何か物事を考える際の技巧みたいなものは多少なりとも出来てくる。「社会」という一見分かったような術語で何かを言った気になることについてはすでに記してみた。もちろん、それは不要なことではない。が、そこに自分の存在をゆるぎなく打ちこんでいなければ免罪符に過ぎぬ。


3.
 「社会」みたいな言葉を使わなくても、例えば「高度」や「距離」といった概念を使ってみても、もちろん、それが手掛かりになることはあるだろうが、結局は一緒のことだ。自分がどこにいるのかを明確にしていなければ。ごく近しいところで起きたことでもない限り、いや、たとえごく近しいところであったとしても、同じ高度――地平といってもいい――や同じ距離――地点といってもいい――で考えることはたやすいことではない。結果として近づけることはあるかもしれないし、それによって何かがよい方向に変わることもあるだろう。けれど、その前に、自分はどの地平にいるのか、どの地点に立っているのか、そこにこだわらなければ結局のところ敗戦と同義であるところの「転戦」でしかない。


4.
 「時間軸」についても同じようなことが言える。今は分からないかもしれないが、いつかは分かるかもしれない。今の自分は想像力や理解力が不足しているかもしれないが、いつかは……そんな風に考えて断続的にでも努力してみようとすること。しかし、すでに記したように「困難は、ともするとこういう考え方によって現状肯定の免罪符を得たように思いこんでしまうことだ。こうなると、課題の後回しを過程と言い換えたに過ぎなくなる」。この困難は根元的なものなのか、それとも技術あるいは修練で克服できるものなのか。


5.
 僕のこの数日の文章は、自己否定というか、自己批判というか、そういったものを繰り返しているように思われるかもしれない。が、そういう意識はあまりない。暴力性があり、想像力が貧弱で、大きな事件が起きた時にはさも深刻な顔をして考えてみる癖に時が経てば忘れてしまうような、そういう自分をまずはありのままに認識してみたいのだ。いや、そういう自分を一度は中途半端ではなく心底肯定してみたいのかもしれない。そこから、まっとうな「批判」――「批評」?――が生まれてくるだろう、と。


6.
 しかし、「批判」を為さしめるのは一体なんなのか。いや、そもそも自己認識が意識的に必要だというのはどういうことなのか……。ここまで考えてみて、ようやく「他者」という問題を、誰かの書いた言葉に納得するだけでなく、自分自身の感覚として引きつけることが出来そうに思える。まだ、「出来る」とはいえない。今ここに深入りするのは措いておく。


7.
 暴力性、想像力の貧困、忘却(注意あるいは集中力のなさ?)を認識するということは、すくなくとも自覚的であるということである。自覚は他者からもたらされる。そういう感覚が、生じてくる。開き直りも自覚の一種であり、これはいわば他者からの問いを拒絶する一形態であろう。だが一方で、必ずしも開き直りとはいえないような認識が、僕には生じたように思われる。なるほど僕は秋葉原の事件を忘却した。けれども、忘却していたことに気づかせてくれたのは具体的な他者であり、そこには他者の問いに応答しようとする自分がいる。この関係性にはある程度の確からしさが、ある。たとえ僕の一方的な思い込みに過ぎなかったとしても、また時が経てば忘れてしまうかもしれないものであったとしても、何度でもこの地点からはじめてみたいと思う。


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 ほんとうに「寄せるでもなく」という文章の断片になってしまった。結局他人の不幸をダシにして自分語りをしたかっただけなのではないのか、というような批判は甘受しよう。少なくとも直接的に見知った人が関係しているわけではない事件を、「社会の問題」という言葉を発する手前で、あるいは「関係ない」という言葉を発する手前で、自分自身を入れ込んで考えてみようとした。試みる価値は自分にとってはあったなと思う。


 その上で、ある種の方法論というか技術論、もしくは認識論なのかもしれないが、そうしたものの漠然としたイメージも途中にはあった。頓挫している「原爆批評」について、あらためて考えてみたいと思っている。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-15 22:01 | Comments(0)

秋葉原の事件に寄せるでもなく――その七

 今日は12時間を少し切るくらいの労働時間だった。比較的気分がいいのは、久しぶりに明日が休みだからだ。しかし、自分の部署でも他の部署でも色々と大変で、朝早くから遅くまで頑張っている人もいる。申し訳ない気持ちともう限界だという気持ちが極端にブレる。
 

________________


1.
 肉体的な疲労のあるなしというのは、ひょっとすると問いへの応じ方、あるいは最初の接触の仕方に関係があるのかもしれない。


2.
 同じようなことを言われたりしても、物腰柔らかに受け止められる時と、「じゃあ俺にどうしろっていうんだよ!」と思う時とがある。相手によっても変わる。単に人間が出来ていないだけのことだろうか。


3.
 精神的にも身体的にも、他者の問いに応じられる条件というのがあるように思う。具体的な問いを発せられた時に限らず、「気づく」とか「おもんぱかる」とか、そういう次元もある。他者から自分へ、自分から他者へ、一方的に突きつけるような「問い」ではなく、お互いに共有しうるような「問い」としていくのにはどうしたらよいのか?


4.
 問いをめぐる関係性において、「技術」は案外バカにならない。語り方にも聞き方にも、それなりにこうしたほうがうまくいきやすいというのはあるだろう。程度の問題かもしれないが。しかし、「技術」は習得するものだ。その習得の「条件」がなかったらどうだろう。それはその人自身のせいだろうか。あるいは、「親の育て方」みたいなことなのか。そういうこともないとはいえないだろうが、それがすべてではない。同様に、「条件」がすべてでもない。


5.
 秋葉原の事件は、自分から他者への問いが、また他者からの自分へ問われることが、最悪の形となって現れた、といえるのだろうか。生田武志さんが〈野宿者襲撃〉を若者とホームレスの「最悪の出会い」とし、「別の出会い」として夜回りや授業の実践について語っておられたのを今、思い出している。正確な言葉は、忘れたけれども。


6.
 車をぶつけ/ぶつけられたり、ナイフを刺し/刺されたり、そんな形でしか問いは発せられなかった。そのディティールを、僕は知らない。事件を丹念に追っている人はきっといるだろう。そういう人たちの仕事に期待する、とあえて言ってみようと思う。仕事の場で(僕にとっては一日の大半ということを意味する)他者と問い/問われる関係がけっしてうまくはいっていないような人間を押し黙らせるような何かが、そこにはあるかもしれない。


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by todoroki-tetsu | 2010-07-12 21:53 | Comments(0)

秋葉原の事件に寄せるでもなく――その六

 肉体労働でヘタっている。が、部下(!)の契約スタッフのみんなが今日もよくやってくれた。ありがたい……こんな言葉はマネジャーとしてはさほど間違ってはいないセリフだが、しかし、そもそもの椅子取りゲームで椅子をとった側だという不均衡が、変わることはない。8:00から21:00まで、働いた。ひざが微妙に痛い。


 昨日は何か予定を入れていたようだが、忘れた。今日の選挙、どうでもいいとは言わないが、速報を見る気はしない。選挙というのは自分で何か積極的に動くのとそうでないのとで見方が変わる。昔は選挙活動めいたこともしたことがあったのだが……。期日前投票をやるクセだけが、残った。



________________


1.
 「問い」と「応答」について。自分自身への問い、特定他者への問い、誰でもよい第三者への問い……そんな風に分けられるのかは知らない。が、問う側/問われる側のどちらから考えるかでも変わってくるし、どのように問う/問われるか、によっても変わってくるということは言えそうだ。マトリックスが描けるのかもしれないが、例によってあまりそこまで考える気力はない。


2.
 秋葉原の事件は、被害者も加害者もまったく僕には関係がない。いろいろとたどっていくとニアミスがあるかもしれないけれども、今のところそこまでは分からない。無関係な他者どうしの間に起こったこと、といえばそうでもある。「世代は違えど同じ時代に起きた事件、ということであれば、責任とまではいえないにせよ、何らかのかかわりはあるようにも思える」と記した。同じ社会にいる、という意味で無関係ではない、という言い方も出来るだろう。


3.
 この「同じ時代」とか「同じ社会」とかいう言葉には、それなりの正しさはあるし、媒介としてもそれなりに意味を持つ。けれども、そこに行くまでに、あるいはそこに行った後にもう一度、無関係な他者を特定の他者として考えようとする困難と可能性について考えてもよさそうな気がする。時代や社会を持ちだしただけでは何も言ったことにはならない。


4.
 自分の発した問いが平和的な手段で相手にそれなりに理解されるのは幸福なことであり、理想である。これが成り立つのは、問われる側に応じるだけの条件がある場合である。相互批判もこの条件がなければ始まらない。では逆に、自分が問いを受け止める側であった場合を考えてみよう。他者の問いに応じるなんてことが、普段の生活や仕事の中でどこまで出来るだろうか? 僕は、出来ない。自分が発した問いには応じてほしいが、他者からの問いには応じきれる範囲でだけ応じよう――多分これが本音である。


5.
 自分なりに段取りも付け、部下にも無理を呑んでもらい、一緒にバタバタとやっている最中に限って、あれこれ頼まれたりする。「やってられっかよ!」と思う。対応も粗くなる。イライラする。僕は人一倍テンパりやすい性格で感情の起伏も激しい。だが、一応それは自覚してはいて、だからこそそれなりに自分なりに仕事を組みたてようとしているのだが、それはほとんどの場合崩される。うまくいかない。仕事なんて、いや、人生なんてそんなものだ、とも思う。ビジネス書的に「技術」で何とかしたいとも思う。でも、そんなことでは、きっとないのだ。


6.
 「悪いのは全部自分だ」なんて言ったところで反省したことにはならない。「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」(宮澤賢治)の何と難しいこと! 現に、最近は秋葉原の事件だって、別段気にしていたわけではないのだ。


7.
 絶望は希望の不在を意味しない、そう考えてみる。希望の未達成こそが絶望だと考えてみる。過程として捉えてみる。これはなかなかに魅力のある考え方だ。今は「ヨクミキキ」も出来ず、「ワカリ」もせず、「ワスレ」るけれども、いつかは……と。しかし困難は、ともするとこういう考え方によって現状肯定の免罪符を得たように思いこんでしまうことだ。こうなると、課題の後回しを過程と言い換えたに過ぎなくなる。


________________


 結局のところ、自分はどうしたいのだろう? どうなれば満足なんだろう? そんな思いが言葉をだらだら連ねる中で強まってきた。なにか、ものの見方というか、立ち位置というか、そんなものの「型」なり「基礎」なりを、つかまえてみたいのかもしれない。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-11 23:48 | Comments(0)

秋葉原の事件に寄せるでもなく――その五

 昨日は――といっても日付としては一昨日だが――比較的調子がよかった。だらだらと記す言葉を訂正する余力があった。朝8:00から19:00すぎまでの労働。今日は――といっても日付としては昨日だが――朝8:30から21:00まで働いた。12時間を超すと疲労の質が変わってくる。この1時間の差は大きいようだ。7連勤目でもある。でも、こんな程度のことは別になんでもないだろう。夜勤があるわけでもないし、節制していればどうにかなる。が、連勤していようが何しようが自分で日程を組める立場にあるからでもあり、また、自分が思い込んでいるだけかもしれないが、一応職場に居場所なりある程度は気軽な人間関係は、ある。


 今日などは帰りがけ、勢いでアルバイトさんを誘ってアイスを食べた。別に下心があるわけではない。ちょっとした気晴らしである。ささいなことだが、こうした条件が、僕にはある。自分の日程が振り回され、職場に人間関係もなかったら、もっとストレスはたまるだろう、とはなんとなく思う。自分の努力なんてあまりない、僕は社交性に乏しい人間だから。正社員であること、いや、厳密にいえば正社員であり続けていること、が大きい気がする。


________________


1.
 「責任」という言葉が口をついて出そうになったのは昨日のこと。他者に責任を追求、あるいは転嫁する場合もあれば、自分が取るべき責任や自己責任について考える場合もある。責任と「~すべき」という物言いは密な繋がりがあると思うのだが、いつの頃からか、極端に「べき」論を嫌うようになった。意識的に他者を攻撃する場合にたまに使うが、それ以外の場では極力避けている。これもまた、日和見主義のあらわれであろうか。


2.
 秋葉原の事件に限らないが、何か大きな事件があった時、原因を探したくなるような気持ちになることはよくあることだろう、第三者であっても。わかりやすい物語が提示されれば好都合。自分の考え方の範疇に引きこめればなおさらよい。悪者が誰かいて、悪くない誰かがいる。自分が悪くないのが一番だが、自分が悪くてもいい。自分が悪いのなら、懺悔すればそれで済む。要するに、自分の立ち位置を決めたいわけだ。無関係な他者としてであれば、立ち位置さえ決めてしまえば被害者の側に立とうが加害者の側に立とうが大した問題ではない。


3.
 「無関係な他者としてであれば」、と述べた。ここは強調しておこう。どちらの側につくか、あるいはそのどちらでもないとしても、自分自身のこととして受け止めて何らかの支援をしていたりすれば、それは「無関係な他者」とはいえまい。ここで考えたいのは、僕のように、事件当時は少しは考えた気もするが、時が経てば忘れているような、そういう人間のことだ。


4.
 時が経てば忘れるのも当然なことだ。それを否定しない。無関心はいかんのかもしれないが、すべてに関心を持ち続けるのは無理なことだ。ましてや「責任」だなんて……。


5.
 しかし、一方で、世代は違えど同じ時代に起きた事件、ということであれば、責任とまではいえないにせよ、何らかのかかわりはあるようにも思える。今日の冒頭で記したように、僕は職場で多少の居場所があるが、それは別に自分の努力とはあまり関係がない。だとすれば、何かのきっかけで居場所は失われるかもしれない。いや、そもそも居場所を得られなかった可能性もある。椅子取りゲームの構造が変わっていないのだとすれば、僕もまた何がどうなっていたか、どうなっていくかは分からない。暴力や殺意と無縁な人間ではないことはすでに記した通りである。


6.
 あるいは、僕が居場所だと感じている職場が、他のスタッフにとっては居心地が悪いということは十分ありうる。その居心地の悪さは、ひょっとすると僕のせいかもしれない。そんな風に考えると、やっぱり忘れてしまっていたことは開きなおってはい、おしまいというわけにもいかない気もしてくる。


7.
 当然、いちいち考えてられるかよ、という気持ちもある。応答の責任だか可能性だかについて誰かと誰かが論争していたっけか。参考になるのかもしれないが、読み返す気力はおろか、思い出そうとする気力も今はない。


8.
 そもそも、この数日秋葉原の事件に関連してあれこれだらだら書いているのは、直接には、他者からの具体的な問いかけがあったからだ。最近はあの事件についてどう考えているのか、と。別に詰問されたわけではないし、そもそもが酒の席ではあった。酒の入った頭が回転するはずもなく、グダグダになってしまったのだが、しかし、ハッとさせられる何かはあった。


9.
 グダグダはもやもやとしたものとなり、今もくすぶっている。結局具体的な問いかけをした他者に対して何か恰好をつけたいだけかもしれない。うまく言葉が出ず、イライラする時もある。なんでこんなことを考えなければならんのだろう? と。そもそもこんな事件が起きなければすべては平穏無事だったんではないか、とも。しかし、グダグダやもやもややイライラの中で少しずつ考えてみると、自分にとっても重要な何かが、ひょっとするとあるのかもしれないという気になってくる。


10.
 ここまで考えてみて、「自らを問わせるものだけが『他者』なのだ」(大澤信亮「批評と殺生――北大路魯山人」、「新潮」2010年4月号)という言葉のポテンシャルを思う。もとよりたやすく理解できる言葉ではない。分かった、とはまだ言えない。何かがありそうだ、ということしかやはり言えない。


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by todoroki-tetsu | 2010-07-11 01:32 | Comments(0)

秋葉原の事件に寄せるでもなく――その四

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1.
 「『文学と政治』という問いのたて方、あるいは言葉を届けるということ」が秋葉原の事件をめぐる言説から影響をうけた事柄だ、というようなことを記した。今日はここからもう少し考えてみる。「文学と政治」という問題は学者の言葉から、言葉を届けるということについては批評家の言葉から、それぞれなるほどと思った記憶がある。あるいは、複数の人の言葉のやりとりの中でだったかもしれない。


2.
 「文学と政治」問題。中途半端な社会科学畑であること、文学に疎いことなどからこうした問いのたて方は新鮮に思えた。不勉強なだけだったのかもしれない。文学だか物語だかしらないが、そういうものに触れたくなる時というのが今までに何度かあって、振り返ってみると社会科学的な問いのたて方では解消されない何かというのは確かにあるのだろうな、と思った。


3.
 「文学と政治」問題は、事件加害者がある歌の歌詞を記したことへの注目と、密接なかかわりがあるように思えた。これはある種の「物語」であろう。最初に言い出したのが誰なのかは知らない。もはや周知のことなのかもしれない。実に興味深いけれど、語る人に力がないと、実に通俗的な「意匠」に陥ってしまうような気が最近している。これは余談。


4.
 同じ頃におそらく耳にしたであろう「承認」という用語は見事に忘れていた。自分の中で「文学と政治」問題と同じ箱に入れただけなのかもしれない。とはいえ、「文学と政治」という問いは、ある種お勉強的な側面、すなわち、単に知らないことを知ることが出来た、というだけに過ぎぬのかもしれない。より継続し、またより身近に感じているのは「言葉を届けるということ」についてだ。


5.
 自分が本屋勤めであるということが多分に影響しているだろう。自分の仕事に思考が大きく規定されるのは当然のこと。「市民」なる言葉がしっくりくる時とこない時がある。何をやってメシを食っているのか、がはっきりしない文脈での「市民」という言葉に違和感を覚えることがある。今の会社と仕事で僕はメシを食っている。一日の大半は職場で過ごす。だから思考が狭まる、ということは当然起こりうるだろうし、現にそうだと思う。そうであればなおさら、自分の思考の何が会社や仕事に規定されているのかを考えることは必要に思えてくる。


6.
 さて、「言葉を届ける」問題。言葉の流通形態のひとつとして本というものを考えてみる。縮小の一途をたどる書店業界に僕は身を置いているわけだが、売上は下がる一方。売上=客単価×客数、とすれば、客単価をあげるか客数をあげるか、どちらかしか道はない(両方追求する、という道もあるが)。客単価をあげるとは、例えば、高額商品(別に不当な高額というわけではない、中にはそういうものもあるかもしれないがそれはここでは関係ない)を適切な演出と接客によって販売するということ。あるいは、あともう1冊多く買ってもらえるような工夫をする、ということ。客数をあげるとは、例えば今まで本屋に足を運ばなかったような人に足を運ぶ気になってもらい、1冊を買ってもらえるようにすること。


7.
 いまどき言葉はネット環境が少しでもあれば色んなものがあふれている。紙の本を特権化する気はない。が、一方でなんだかんだいっても金銭面で「モト」をとることを考えると、まだ紙の本の地位はそれなりにはあるんだろう、とも思う。もし、届けるべき人に言葉を届けることが出来なかった、と考えている人が、それを本という形で流通させていたのだとしたら、自分にも何かしらの関わりがあるのかもしれない、そんな風にも思う。


8.
 今、「自分にも何かしらの『責任』があるのかもしれない」と記しかけて、やめた。「責任」というのは重い気がするし、それは少し現実的ではない気もしたからだ。気負うのは勝手だが、そんなものは自己陶酔に過ぎぬだろう。


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 「責任」……怖い言葉だ。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-09 21:53 | Comments(0)

秋葉原の事件に寄せるでもなく――その三


 だるい。精神的にも肉体的にも疲れている。たぶん、忙しいせいだろう。断続的ないらつきと集中力の短さ。「意味分かんねぇよ」「てめぇでやれよ」「サクサク動けよ」などとぶつぶつほざきながら仕事をしている。別段こうやってキーボードを叩いていることがストレス発散にもなりはしない。だるい。面倒くさい。だるさの中で記す言葉にも意味があるかもしれないが、それを考える気力は今はない。


________________


1.
 自分や自分の身の回りのことについて掘り下げることで、何らかの原理なり構造なりに気づくという方法がある。他者について想像力を巡らすことで何らかの原理なり構造なりに気づくという方法がある。方法とは別に、差異を強調しようとする志向と、共通点を強調しようとする志向が考えられる。マトリックス? 四つに切り分けきれはしないだろうけれど、そんな図面の上で時間をかけてせめぎ合うのだろう。


2.
 「殺される側/殺す側、があるとして。殺す側の自分を想像する場合のほうが多い気がどうもする」。そう書いた。「多い気がする」ということは、そうでないこともあるということだ。八王子の書店で殺人事件が起きた時、僕は犯人に対して怒りを覚えた。秋葉原の事件ではどうだったろうか。僕は秋葉原には今まで数えるほどしか足を運んだことがない。10回もないだろう。会社は違えど書店は自分の業界である。こうしたことは、自分の感じ方に影響している気がする。


3.
 要するに、自分の感じ方、想像力は非常に貧弱だということだ。身近な人なり感情移入しやすい人が不幸な被害にあってしまった場合には被害者の側に寄っていくだろうし、そうでなければ何となく「社会のせい」みたいなイメージで、加害者にも何か事情があったのではないかと口にしてみたりする。こういう自分のような輩が一番タチが悪いのではないか? 「自覚的な日和見主義者」と自分で書いていた。その通りだ。


4.
 この想像力の貧弱さを確認すること。いや、常に確認しなおし続けること。「求道すでに道である」(宮澤賢治)と高らかに宣するのは威勢がいいが、気恥ずかしい。よせやい、とも思う。ボチボチと進めるしかない。ただ、自分の想像力の貧弱なることを自覚させるような言葉を――意識的にか無意識的にか知らないが――欲してはいるようだ。

5.
 秋葉原の事件について、なるほどと思わせられる言葉はいくつかあった。いちいちをあげるのはやめにする。「文学と政治」という問いのたて方、あるいは言葉を届けるということについて――こんなことが、自分なりに事件を巡る言葉から得られ、またそれなりに継続して考えてもいる問題であろうか。事件の自分自身にとっての影響といえば、そんなところだろう。

________________


 おおよそのことは吐きだした気もするし、もう少し何かがありそうな気がする。今日の気力は、尽きた。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-09 00:31 | Comments(0)

秋葉原の事件に寄せるでもなく――その二

 殺意と暴力、殺す側/殺される側、仕事と暴力……といったところがテーマとして浮かび上がりつつある気がする。今日は手近なところ、仕事と殺意について考えてみる。


________________


1.
 1975年に生まれ、1999年に就職した。就職協定が無くなって2年目。正社員としての採用。学生時代アルバイトをしたこともあったが、そう長いものではないので、労働経験としてはほぼ今いるこの会社のみ。生田武志さんの表現を一部お借りすれば、椅子取りゲームの、椅子に座ったほうであることに間違いはない。


2.
 自分が椅子をとったことで座れなくなった誰かがいたかもしれない。が、目に見える範囲でそう感じ取れるわけでは必ずしもない。複数の内定をとった上で断ったのならひょっとするとより具体的なイメージがわき起こったかもしれない。が、この会社しか決まらなかった。ちなみに、大学もいわゆる「滑り止め」にはすべて落ちた。高校は、滑り止め二校に受かったけれども。


3.
 誰かの何かを奪ったかもしれない、という意識が少しは具体的に芽生えたように思えるのは、ほぼ同世代の「論客」が書いたものを読んでからのような気がする。この数年のことだ。でも、何かを奪ったかもしれない誰かに対して、具体的な何ごとかをしたことはない。欺瞞や偽善が潜んでいるだろう。そういったところで何ともなるわけもなく、かえって人を不愉快にさせてしまうだけだ。かといって開き直ることもできない。自覚的な日和見主義者ではある。


4.
 誰かの書いたものを手掛かりにうだうだ考えることは、それでも考えることをやめればとりあえずは逃れられる。自分と同い年か、あるいはそれ以上の年齢の、男性の契約スタッフと一緒に仕事をしていると、「問い」は否応なしにやってくる。


5.
 自分と同い年、あるいはそれ以上の年齢の女性契約スタッフとも仕事をした経験はある。その時にはあまり想像力は起動しなかった。ジェンダー的な問題系に無関心なほうではないつもりだったが、所詮はこんなものだったのだろう。自分へのどうしようもない絶望が、ここにはある。


6.
 毎月の身入りの差だけでなく、1年ごとに契約を更新するということの持つ意味を想像することの難しさ。会社への文句は山ほどあるが、それでも何かを我慢するなり無理をするなりすれば、一応継続して会社にいることは出来る。倒産しちまえば別だし、斜陽産業の本屋業界、何が起きるか分からないけれど、しかし、一応はそういうことになっている。10年後、20年後を何かしらの形で想像することは出来る。1年ごとの契約だった場合に、今自分なりに想像しているような10年後、20年後の姿を思い浮かべることは出来ないだろう、ということだけは理解できる。


7.
 結果思い通りにいくことなんてそうそうない。だとしても、それなりに食いぶちを稼ぎ続けられそうかどうか、という予感をさせるほどの「保障」があるかどうかは大きなことだ。僕にはその「保障」が――たとえ嘘だとしても――感じられるが、そうしたものを感じ取る条件のないスタッフと一緒に、より具体的にはそうしたスタッフに「指示」をしながら、仕事をやっている。僕もいわゆる労働者ではあるのだろうが、いやな言い方をすれば、最下層ではない労働者になるわけだ。


8.
 人を使うのも苦労する、というのはひとつの真理だろうが、そういったところでせいぜいよきマネジャーたれ、という程度のこと。それはそれで実に難しいし、必要なことでもある。だけど、指の隙間から砂がこぼれるがごとく、そうしたビジネス書的発想だけではすくいとれない問題群が、ある。


9.
 メンヘル的な困難を抱えていて雑用程度しか出来ない正社員と、人並みに仕事の出来る契約スタッフとの給料差は倍以上の差がある。どちらも自分の部下だ。何らかの選択をしなければならない。前者の仕事のしやすい環境と後者のそれとが一致する場合はよいが、そうはうまくいかない。なるべくそうしたいと思う。でも、うまくいかない。直接僕が突き上げをくらうときもあるし、間接的な場合もある。部下同士にぶつけあいをさせることも、ある。僕自身が引き受けるしかない時も、もちろん、ある。どちらの場合にも、僕の中の暴力は駆動する。直接拳を振り上げることはないが、言葉は明らかに暴力的になる。他者に対しても、自分に対しても。こういうことを仕事を終っても引きずっている時に、帰りがけの新宿駅で殺意に近い妄想を抱いている気がする。


10.
 僕にとって職場が、仕事が、労働が、暴力を駆動させる大きな要因であることは確からしい。もちろん、それなりの喜びがある場合もあるわけだが。賃労働だか労働力商品だかに不可避的に付随するものとして暴力があるのかどうかは、よく分からない。ただ、仕事にまつわる暴力に、カネと「身分」がつきまとうことは間違いない。人間関係や組織の一般論に解消できない問題が、確実に存在しているように思える。


11.
 仕事なり職場以外の何かしらの人間関係があることは重要だが、それは複数の場があればそのそれぞれで気がまぎれたりするというだけであって――それはそれですごく大事なことだと繰り返し強調しておこう――、人間が複数あつまれば何かしらの齟齬は必ずある。社会運動にだって「親しみやすい人格」(湯浅誠「社会運動と政権」。「世界」2010年6月号)が求められる局面があるではないか! というのはうがちすぎか。


12.
 カネと「身分」がつきまとう暴力。同一価値労働同一賃金が実現していない状況下における暴力、と言い換えられるのだろうか。あるいは、ある程度自分の生活の将来を思い描ける程度の保障が不均衡にしか存在していない状況下における暴力、と言えるのだろうか。よく分からない。


13.
 そもそも椅子取りゲームで椅子に座ったことが、暴力の始源なのだろうか? 椅子取りゲームそのものが問題だ、ということは出来るし、それは多分正しくないことではない。でも……。免罪符はどこにも売っていないことだけは忘れないようにしたい。


________________



 自分自身が経験したこともない期間工や契約スタッフ、派遣社員その他もろもろの働き方のことを云々するより、自分の仕事や職場のことを通じてしか考えることは出来ないように思える。その先に何かが見えるのか、まだ見当もつかない。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-07 22:04 | Comments(0)

秋葉原の事件に寄せるでもなく

 2年ほど前に起きた秋葉原の事件、公判が進んでいるという。


 忘れてしまったというほどでもないが、別段常時気にしていたわけでもない。失礼な話かもしれないが、まあ、そういうもんだろう。


 直接被害にあった方やその身近な人はもちろんのこと、そうでなくともずっと気にかけている人もいるのだろう。そういう人たちがいる中で、ことさらに何か言葉を記すのはおこがましいような気もする。


 誰かがかつて言ったことでなるほどと思ったこともあった。怒りを感じたこともあったかもしれない。この機会に読み返してみようと思ったけれど、やめた。「一夜漬け」のようで気が引ける。丹念に、そして真摯に追い続け考え続けている人に基本的にはゆだねよう。


 それでも、なにかもやもやした気持ちが残る。なぜだかは分からない。分からないことがそう簡単に分かるはずもない。頓挫、いや破綻ははじめっから明らかだとしても、しかしちょっと努力をしてみたい。


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1.
 新宿駅を朝な夕なに使っている。一日の仕事を終えた帰りがけ、地下に降りて東口改札を通りホームに向かうまでの間、無性にいらつく時がある。酔いどれ、女性と見れば声をかける野郎ども、喧嘩しているんだかじゃれ合っているんだか分からない連中、奇声をあげる集団、目がいっちまってる男や女……誰かれかまわず痛めつけてやろう、と。


2.
 ちょっとでも絡まれたりしたらこれ幸い。接近戦に持ち込もう。まずは腹に数発、野郎なら股ぐらを握りつぶす。頭突きで顔面を撃ち、さらに腹に数回膝ケリをいれる。相手の力を多少弱めた段階で右手の親指と中指で渾身の力を込めてこめかみをつぶすように握りこむ。本屋だから握力だけはある。つっころばしてうつぶせにし、腕をねじり上げて折ってしまう寸前までもっていくのもいい。ひじのあたりのツボと手首を折り曲げるように固めれば当面腕一本程度使いものにならないくらいに痛めつけることは出来るだろう。抵抗の気力を無くしたらとどめをさすようにさらに脇腹にケリをいれてみよう。顔面は見た目にダメージが大きいので激しい攻撃は避けたいが、いきおいでやってしまうかもしれない。手加減をしなければ、素手でもひとりくらいは殺せるだろう。そんなことを数十秒の間に考える。知らぬうちに右手はアイアンクローの形で力をみなぎらせている。握力が途切れた時に妄想は終る。気づくと顎が少しばかりしびれていたりもする。


3.
 手を出したことは今のところない。絡まれかけたことはある。が、ここで我慢するほうが大人(!)、と避けた。自分の狂暴さを怖がってというのではない気がする。単に、臆病なだけだろう。


4.
 こういう想像をする時には、決まって自分が加害者だ。自分が例えばちょっとしたことで絡まれたり、あるいは前触れなく殴りかかられたりするということは想像しない。不思議なことではある。


5.
 暴力と殺意は同じなのか違うのか。難問かもしれない。が、殺意は暴力の延長線でしか今の自分には想像できない。


6.
 いつの時期からか、何かのきっかけさえあれば自分は誰かを平気で殺すことができるだろう、と考えている。それはひとつの自分なりの抑止力にもなっているのだが、果たして、本当に、心の底から人を殺そうと思って実行しかけたことがあったのか、と振り返ってみる。

 
7.
 本当に生身の人間一人を殺そうと、念じるだけではなくて手をかけようとしたことはあったか? 一度だけ、ある。自分自身に対してだ。


8.
 殺意はなぜ他者に向かわなかったのか? と考えなおしてみるのは意味のあることかもしれないが、少々しゃらくさい。未遂にすらたどりつけなかった自分をそれなりに肯定してもいるし、生きていくことは大事なことだし、ある種のユマニズムに敬意を抱いてもいるけれども、暴力とは決して無縁な自分ではない以上、えらそうなことは言えたものではない。でも、口先だけは立派なことをたまには言ってみたりもする。


9.
 殺される側/殺す側、があるとして。殺す側の自分を想像する場合のほうが多い気がどうもする。社会とか世間とか国家とか制度とか考え出せば、どうも殺される側のほうにいるかもしれないと思う時もある。「客観的には」そっちのほうが正しいのかもしれない。でも、生身でぶつかりあうような時、自分にとって現実味があるのは殺す側の自分のようなのだ。


10.
 「一日の仕事を終えた帰りがけ」に、殺意につながるものと思えるようないらつきを覚える、と。ここからはじめた。朝も同じ場所を通るのだが、そのようないらつきを覚えることはない。だるさはよく感じるが、暴力的ではない。時間帯のせいだけではどうもないように思える。仕事と暴力の関係が、自分のなかでは非常に近い気がする。

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 まずはこんな風に考えてみる。自分自身の暴力性というか殺意というか、そうしたものからはじめてみたいと思った。


 ……続けられれば続けたい。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-06 23:51 | Comments(0)