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「祈り」をめぐって――原爆批評メモその3

 正直なところ大苦戦をしているけれど、読書メモ的に少しだけ。
 
 「被害者であることも加害者であることも拒否する」、という大江さんの言葉を先に引いたのだが、この間小田実さんを読んでみて、それを引き受けるようにも読めるな、と思ったのが、『「難死」の思想』に収められた、「『殺すな』から」の中の一節。

 「『殺すな』が『殺せ』と行為の現場でせめぎあわない限り、それは『殺すな』ではすでにないことだ。そこにあるのは、もはや、『殺せ』に対する『非暴力抵抗』でもなければ、『非暴力行動』でもない。あり得るのは、ただの『非暴力抵抗』であり、『非暴力行動』だろう。戦後の三十年間における私たちの『殺すな』の歴史のなかであきらかに認められるのはこうしたことのありようだが、このありようは『平和』と『反戦』がただの祈りの対象となりはててしまったことと無関係ではないし、祈りはあきらめをひきずって歩く。」
(「『殺すな』から」、初出1976、『「難死」の思想』、岩波現代文庫、P.286 下線部は本文では傍点)

 30年前にはすでに、「平和」と「反戦」が「祈りの対象となりはててしまっ」ていた! もちろん今に比べて「運動」はさかんであったろう。しかし、その時点ですでに小田さんはかかる警鐘を鳴らしていた。これは新鮮な驚きである。

――時代がぐっと下るが、93年~95年にかけて発表された大江さんの『燃え上がる緑の木』との関わりなどについて、考える必要があるように思える。お二人の考え方の違いがここには色濃く反映されているだろうし、それはある種の「理念型」なのかもしれない――

 この時、「原爆」が小田さんの中でどのように扱われていたかについては丹念に追っていかねばなるまいが、反核運動だけが反戦・平和と切り離されているとは考えにくいようにも思う。大いに示唆に富む。

 話は少し変わるが、原爆に対する態度と戦争に対するそれは、重なり合う部分とそうでない部分がある、と思う。「被爆者」を、戦争被害者の中でももっとも後遺症(肉体的にも精神的にも)に悩まされる存在、と考えれば重なり合う部分は極めて大きい。当然、戦争状態になければ原爆が使われることもないだろうから。だが、政治の継続たる戦争として考えた場合、原爆は戦争のオプションのひとつにすぎない、とも言いうる。原爆というオプションを使わないようにする、という問題と、そもそも戦争はやめましょう、という問題は、連続はしているかもしれないが、自明に等号で結べるものではない。

 この問題に立ち入ることは僕には難しい。「『殺すな』が『殺せ』と行為の現場でせめぎあ」う、という言葉を手掛かりに、過去の蓄積を引きつける作業をもう少し重ねてみようと思う。
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by todoroki-tetsu | 2009-11-30 21:27 | 批評系 | Comments(0)

「怒り」をめぐって

 「原爆批評」の続きがなかなか書けずにうろうろしている。つながるようでいて、つながらないような、そんなことを考えたので少し。

 雨宮処凛さんと小森陽一さんの対談『生きさせる思想』を、興味深く読んだ。

 日常を戦場と捉える雨宮さんの言葉は常に共感するのだが、この中でそうした文脈とは別に首肯したのは、「無条件の生存の肯定」(「生きさせろ!」)に触れた後に続く、

 「おそらくまず自分を肯定できないと怒れないと思います。自分はダメな人間だと思っていると、何をされてもしかたないって諦めると思うんですけど、自分を肯定できると、自分にされたことは不当だと思えるわけですよね。否定され続けている人に、怒れといっても無理な話で、肯定されて初めて怒れるようになる」(P.163)


 という雨宮さんの言葉である。
 
 「何らかの異議申し立てをするのが当然」→「なぜ他人は何も言わないのか?」と思ってしまう人にとっては極めて重要な指摘。もう一方で杉田俊介さんの「ロスジェネ芸術論(1) 生まれてこなかったことを夢見る」(「すばる」2008年8月号)と何かつなげてみたいのだけれども、今はひとまず措いておこう。

 僕自身は思うところがあれば異議申し立てをすべきだと思うけれども、それはそれで自分自身にとってもしんどいことでもあるので、自分も他人も追い詰めない程度にやるのがいいだろう、と思う。

1.タテ軸
 うまいこと言っているな、と思うのはやはり小田実さんであった。

 『世直しの倫理と論理 上』に、「くらしと『人間の都合』」というセクションがある。このおわりのほうで、小田さんはある消費者運動を提起する。

 今までの消費者運動が、カラー・テレビは十万円もして高すぎるから不買運動をする、というスタイルであったとすれば、これからは、カラー・テレビにさけるカネは二万円しかない、だから二万円でカラー・テレビを作れ、と要求していくのはどうか、と小田さんは言う。そして、こう続ける。

 「それはムチャや、と企業――全企業が言うでしょう。言うにきまっている。そんな勝手な値段をつけて。その悲鳴には、次のように答えてやればよろしい。何がムチャや。おまえのほうかて、これまで(ボクらに何の相談もしないで)勝手に十万円という値段をつけて来たやないか。(中略)おたくの都合は企業の都合や。ボクらのは、『人間の都合』や」(p.151 下線部は本文では傍点)


 「人間の都合」から「生きさせろ!」へ……カラー・テレビと、本当に今日と明日をしのぐための衣食住との話の落差に愕然とするが、仮に「人間の都合」を申し立てることが大きなものであったならば、今はどうなっていただろうか、とも思う。「自己肯定」と「怒り」の問題は、極めてスリリングである。

 2.ヨコ軸

 話を今に戻そう。とはいえ、「怒り」を抱くのはしんどいことでもある。一緒に怒れる仲間がいればいいだろうが――雨宮さんは「同志」という言葉を使っておられる――、それを見つけるのも結構難しいものだし、そもそも怒ってすらいない、という場合が少なくないように思える。

 浅尾大輔さんが雑誌「住民と自治」に記されていたエッセイの最終回(2009年6月号)は、極めて示唆に富む。

 派遣仲間に対して「私たち、もっと怒らなきゃ!」と言ったら、そんな風に言えるのはあなたに「余裕」があるからだ、と返された和子さん(仮名)の印象深いエピソードを引きながら、浅尾さんはこう続ける。

 「私は、支える側の一人として、ドアを叩く前の彼女たちの暮らしを、哲学を、交友関係を知らないということ、そして彼女がどんなふうに働いていたのかを見たことがないということ、そのことを忘れないでいたい」(P.41)


 これは、倫理なのか知恵なのか、思想なのか覚悟なのか、なんと表現してよいのやら分からないのだけれども、「知らないこと」「見たことがないということ」を「忘れないでいたい」……この言葉に、僕は衝撃を受ける。

 自己責任は言うに及ばず、社会がどうだ政治がどうだ、なんていう前にまずもって生身の人間として接する際にまずもって大事なのは、きっと、こういう慎ましさなのだろう。誤解を恐れず言えば、「正しい答え」を用意するのが第一義ではない場合がある、ということなのだろう。ちなみに、この最終回のエッセイのタイトルは「『怒り』の手前にあるものを探して」である。

 では、「怒り」の手前にあるもの、とはいったい何なのか? 小川朋さん編著の『派遣村、その後』は、「手前にあるもの」を、当事者に即して捉えるべく格闘しているように思える。

 真山さんという、派遣村の元「村民」を追った箇所(P.62-9)。どうにも要約出来ないのでぜひお読み頂きたいのだが、ネットカフェ暮らしで「人生の望みを九九パーセント達成した」と言う彼女を追ったルポの最後は、こう締めくくられる。

 「満足できる人生に欠けている、あと一パーセントのなかには何があるのか。しばらく考えたあと、真山は『それはわからないなあ』と答えた」(P.69)


 そう、「わからない」のだ。「わからない」ことをそれとして受けとめる、否、受けとめ続けることが必要なのだろう。仮に一パーセントがわかったとしても、それで何がどうなるわけでもないのかもしれないし、ひょっとするとその一パーセントが、雨宮さんのいう「自己肯定」だったり、和子さんが仲間に言われたところの「余裕」になりうるかもしれないが、それすらも、「わからない」。
 
 「怒り」――社会的な、と添えておこうか――が、「自己肯定」や「余裕」を担保にせざるを得ないとしたら? という問いを立てられるのかもしれない。それほど、社会的な「怒り」をめぐる情況は深刻だと思う。同時代の文学者、ライター、批評家、実践家、研究者、そして当事者の言葉を、注意深く追っていきたい。

 
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by todoroki-tetsu | 2009-11-12 04:44 | 業界 | Comments(0)

浅尾大輔『ブルーシート』読了

 小説は普段読むことがない。一時期は伊坂幸太郎さんが好きで、別に今も嫌いなわけではないのだけれども、なぜかここ最近の新刊は買ってもそのまんまになっていたりする。

 だが、なぜか浅尾大輔さんの『ブルーシート』は買って早々に一気に――といっても通勤時間や休み時間だけれど――読み終えた。「ロスジェネ」などで浅尾さんが繰り出される言葉には好感も持ち、また信頼もしているのだけれど、小説となるとどうだか自分にはよく分からない、というのが読前感。まあ、どんなもんだか読んでみようか、という軽い気持ち。

 書店員的な感想を言えば、「こ、このカバーは!?」であろうか。まだお手にとって無い方はぜひ手に取ってみてください。これは非常に好きな意匠。

 「ブルーシート」だけは雑誌掲載時にさっと読んでいたが、やはり雑誌で小説を読むことに僕は慣れていないらしく、ほとんど別の作品を読むような感覚で読み始めた。他に収録されている「ソウル」「永遠の明日の国」「家畜の朝」はいずれも未読。

 「戦艦ポチョムキン」を何となく連想したのはなぜだろう? モンタージュだなんだというのは僕にはよく分からないし、そもそも「ポチョムキン」だってそう何度も観たわけでもない。本当に、何となく。

 いろいろな人物、その状況、思いが時間を前後するようにしながらぶつ切りになっているようでいてどことなくつながっていく。カチッとパズルのようにすべてがはまるわけではない(ように思える。本当はすべてがはまっているのかもしれないけれど)。それがまた何だか独特の読中感と読後感を引き起こす。

 小説を繰り返しよみたいと思うことはそうそうないのだが、通読し終えた今、さっそく再読したい気持ちになっている。

 「貧困文学」というのがどうやらキャッチコピーのようだ。それは当たっているのかもしれないが、「リアリズム文学」といったような表現のほうがよりしっくりくるように思えた。別に声高に「反貧困」を叫んでいるわけではないし(そうしたことが悪いわけでは決してない。作品として成り立っていればそれでいいのだ)、かといって「この人はどうやってメシを食ってるんだろう?」と思ってしまうような意味での「浮世離れ」した人物が出てくるわけでもない。何かこう、ザラついた生々しさ――それをリアルといってよいのであれば、まさに「リアリズム小説」である。

 どれも面白いと思ったけれども、一番は「ソウル」。言葉の強さを特に感じた作品だった。小林多喜二の「東倶知安行」をちらと思い浮かべたのは、さあ、見当違いか存外当たっているのか……どうだろう? 初出は「民主文学」だそうだ。「なかなかやる雑誌なんだな」(失礼!)と思ったりも、した。

 まだ不思議な読後感に包まれているのでなんだか変な気分なままだけれども、えっらいこと重厚長大な長編を読んでみたいな、とも思った(今ふとイメージするのは野上弥生子さんの『迷路』)。何年先になるか分からないが、待とう。
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by todoroki-tetsu | 2009-11-07 01:03 | 文学系 | Comments(1)