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「現代の生活における貧困の克服」によせて(上田耕一郎さんを追悼す)

 上田耕一郎さんが昨日亡くなった。81歳。お若いとは決して言えない年齢だとは思うが、吉本隆明さんが84歳の今も現役であることを考えると、まだもうしばらくはいて欲しかった、と思う。

 学生時代に何度か上田さんの話を聞く機会があった。えらく元気な人だなあ、というのが最初の印象。当時はまだ参院議員であったと思うが、どうも上田さんのお話は他の共産党政治家/活動家とちょっと違う気がした。どこがどうとは言えないが、それがいわゆる「上田節」だったのだろう。

 大衆社会論争における上田さんの位置というか役割については、正直なところよく分からない。後藤道夫さんの力作『戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想』でも言及されているが、時代状況がいまひとつ感覚として掴めないでいる。が、戦後日本政治史なんかをやっている先輩などからは「上田耕一郎という人は切れ者だ」というような話を聞いたこともあり、へぇーと思ったものである。

 「現代の生活における貧困の克服」(初出は1963年、岩波講座「現代」第一巻「現代の問題性」。その後大月書店『先進国革命の理論』に収録)や、さらに遡って『マルクス主義と現代イデオロギー』、『戦後革命論争史』などを読んだのはずっと後のことであった。

 いずれも時代状況を想像するのに四苦八苦した記憶がある。が、『戦後革命論争史』からは、とにかく今ある条件や可能性を最大限に生かしていこう、という上田さんの覚悟というか意気込みが感じられた。連帯というか共闘というか、そういったものへの執着。

 僕がもっとも感銘し、今でも繰り返し読み返すのは「現代の生活における貧困の克服」。その書き出しはこうである。

 「『生活』という使いなれた言葉から、私たちはまず何を思い浮かべるだろうか。それは第一に、いっさいの人間的諸活動を個人の場で切り取ったもの、すなわち、一人ひとりの人間にとっての一個の小宇宙を意味している。人間の尊厳も栄光も、その創造性も未来もすべて生活の中にはらまれ、はぐくまれる」(大月書店版、P.153)


 ここだけだとただの「良いこと」あるいは「当たり前のこと」を言っているにすぎない。しかし、運動の観点から捉えた時、この認識が冒頭に来ている意味の重さが分かる。

 
「私たちの生活意識における、歴史的変革の担い手としての自覚こそが、社会的変革の内容の、小さくはあるが決定的な一分子となる。その自覚の形成はあくまで個性的である。いっさいの画一的な紋切型を排して、個性的な自覚の過程を歴史的主体の形成の本質的、根源的な要素として尊重すること、生活上の要求を追求するすべての運動は、このことをなによりもまず重視しなければなるまい」(同、P.161)

 共産党きっての理論家が、かかる認識を示していたこと。実態として実現されていたのかどうかは分からない。なかなかうまくいかないことが多分にあったのではないか、と想像する。が、少なくともこうした認識があったということは知っておいてよいだろう。今、漠然と「運動が盛り上がっている」的な雰囲気がある中で、これは当たり前と言えば当たり前だが、極めて今日的な問題と言いうる。

 上田さんは文中で「綱領的要求」という表現を用いている。当時の状況なり上田さんの立場からすれば、これは一定の説得力を持ち得たのかもしれない。が、今はそうではないだろう。別冊「ロスジェネ」所収のシンポジウムが示しているように――ということは現時点での批評の到達点でもある――、そう簡単に希望は語れないし、こうすりゃみんなが幸せに、なんて処方箋もそうそう書けない。

 しかし、だからこそ、思考なり議論なり運動なりの作法というか倫理が必要なのであって、それをやろうとしているのが「ロスジェネ」であり「フリーターズフリー」(もうじき第2号が出るそうだ)なんだと思う。

 読み違えているのかもしれないが、上田さんはどうも「綱領(≒結論)先にありき」というような態度――その世代の、あるいは共産党の理論家/活動家の中では、という限定つきだが――をとらなかったタイプではなかったか、という気がしている。ある問題があり、それを個別具体的に解きほぐそうとする中で綱領に到達する、というような態度に徹していたのではないだろうか、少なくともいわゆる「大衆運動」においては。
 
 上田さんは共産党の幹部で長くありながらちょっとはみ出たところというか、型にはまらないところがあった人だと思う。上田さんのやってきたことから学びうること、学ぶべきことは――もちろん批判も含めて――少なくない。

 まっとうな上田耕一郎評価/批評が出てくること。これが現在の運動を考える上でも大いに手がかりになると思う。
 
 ご冥福をお祈りいたします。

【追記】
 遅く起きた今朝、新聞で訃報を知り、即机に向かって記したのだけれども、先ほど、浅尾大輔さんが「日本共産党の認識論――上田耕一郎氏へのオマージュ」という記事をすでに昨日記されていることを知った。

 浅尾さんが「現代の生活における貧困の克服」を深く受け止めていらっしゃること、我が意を得たりというのは不遜にすぎるだろうが、心強いことだ、とは言っておきたい。「ロスジェネ」と結びつけた連想は、あながち間違いではなかったか。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-31 12:56 | 業界 | Comments(0)

大澤信亮「柄谷行人論」(「新潮」2008年11月号)

 またずいぶんと間が空いてしまった。仕事がたてこんだせいもあるが、大澤さんの「柄谷行人論」(」(「新潮」2008年11月号)について、どう記そうかと逡巡していたせいでもある。

 雑誌掲載論文をこう繰り返し読んだことは、たぶん初めてである。恥をさらすが、柄谷行人さんはもちろん、大澤さんが随所で触れられるデリダもカントもろくに読んではいない。
 
 「なんだかよく分からないところがいっぱいあるが、大事なことを言っていて、たぶんそれは実感できるものだろう」というのが最初に通読したときの感想。二度目、三度目と読み返すにつれ、それは確信に変わった。

 柄谷さんを読んでいる人がどう受け止めるか、僕には分からない。が、柄谷さんを論じている大澤さんの眼差しは、当然程度の低い個人攻撃とは一切無縁であり、いかに今を私たちが生き抜くか、その一点に全身全霊を込めているように思われた。

 「いたずらに難解な言い回しを使うのは論外だが、『わかりやすいこと』と『明晰であること』は必ずしも一致しない。むしろ往々にして後者は前者を退ける。しかし、それは、『わかりにくい』現実とそれに翻弄され続ける『他者』に向き合うとき、誰もが強いられる思考の条件なのだ」(P.287)

 他者、あるいはわからなさをテーマとしたブックフェアもあったようだが、最近こういったキーワードに注目が集まっているのだろうか。本屋として非常に気にかかり、また注目したいところである。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-30 22:54 | 批評系 | Comments(0)

中村義一「仕事のはなし」(「週刊文春」10/23号)

 今週の「週刊文春」の「仕事の話」(木村俊介さんが聞き手)、中村義一さんのお話を興味深く読んだ。

 『魂の仕事人』でも中村さんのお話は面白かった。やはり「職人」の話は肝がすわった感じがして好きだ。

 特に今回グッときたのは下記。

 
「職人は工夫で生きていくものだ。だから新入社員に何をしたらいいですかと質問されると腹が立ってね。俺だってわからねぇんだ。与えられた仕事をやるなら機械に敵わないんだ。わからねぇでいいからやれ、と無理に仕事をさせたらこちらに反応の余地も出てくる」

 
 そうか、「俺だってわからねぇんだ」って言っていいんだ! 先にいた人間も新入社員もその意味では同じなのだ。もちろん、だからこそ、結果を出した人間が偉いわけであって、年功序列など意味はない、ということなのだが。

 さらに、こんなことまで。

 
「高校生が幼稚園児に石をぶつけられても笑ってものを教えられるでしょう。教えられるって、バカにされてるってことなんだ。だから若い人は同世代の友人と、本気でぶつからなきゃ」


 強烈だが、そういえば自分も同期の連中には負けたくない一心でやっていた時があったし、それは今もどこかしらに残っているな、と思う。

 そうした条件が今の自分の新入社員にあるかどうかは分からないが、うまく方向付けていければと思う。
 
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by todoroki-tetsu | 2008-10-17 23:09 | 運動系 | Comments(0)

雨宮処凛×中西新太郎「生きづらさと1995年」

 『1995年』から、雨宮さんと中西さんの対談について。

 当時フリーターだった雨宮さんの体験談は生々しく、「時代の証言」的な要素が強い。相手が中西さんであることで、個別具体的な経験がより広い文脈が位置づけなおされているように読めた。

 後半に、中島岳志さんと栗田隆子さんが少しだけ参加されている。このあたりはさらにエンジンがフル回転していて面白い。『終わりなき日常を生きろ』について述べている箇所(P.69-74)は、唸る。

 結論的に言ってしまうと、この『1995年』全体が、ひとつの宮台真司さん批判として読めると思う。未着手だが、時期をほぼ同じくして上梓された鈴木謙介さんの『サブカル・ニッポンの新自由主義』とあわせて考えてみたい。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-17 14:21 | 業界 | Comments(0)

中西新太郎「1995年から始まる」(『1995年』)

 『1995年』の序論、中西新太郎さんの「1995年から始まる」について。

 中西さんの論考はいろんな要素をぎっちりと圧縮したような印象を受けるのだが、この序論も解凍するととてつもなく大きく――通時的にも共時的にも――なりそうなものである。

 もちろん年長であることも大いに影響はしているのかもしれないが、「1995年」に至る流れを簡潔に整理した上で、では、何が問題なのか? を指し示す。この序論がその後に続くどの対談にも基調となっており、個別具体的な話題ともシンクロして絶妙な読後感を生み出す。

 
「95年を捉える各論者の視角は、それぞれの違いが当然あるとはいえ、文化的個体化作用を、ともすれば、単純に解放的契機とみなしてきた前時代のエートスとはいずれも無縁のように思える。『ロスト・ジェネレーション』の旗手と言ってよい語り手たちのそうした姿勢には、新自由主義政治と消費社会の抑圧作用とが結びついたポスト95年の歴史状況が正確に映されている。『ロスト・ジェネレーション』が効果的就労対策を怠った政策による一過性の犠牲者ではないように、ポスト95年の歴史状況もそれ以前の歴史軌道からの一時的逸脱ではない。『自分さがし』の時代から『生きづらさ』の時代への転換こそが本質的であり、転換への着目ぬきに両者を無自覚につないだまま『生きづらさ』をあげつらうと誤読に陥る。ロスト・ジェネレーションが尖端に位置してぶつかっている困難と問題群とは、歴史の隘路に迷い込んだ結果遭遇するそれではなく、新たな歴史ステージの『正面』に立ち塞がる問題である」(P.29)


 「ロスト・ジェネレーション」といってもいろいろいるわけで、そうひとくくりにすることは出来ないのは当然なのだが――しかし、それは例えば杉田俊介さんの「自立と倫理」(『無能力批評』)、大澤信亮さんの「柄谷行人論」(「新潮」2008年11月号)といった試み、すなわち、「他者」と向き合うことについての極めて根源的な思考を通じて、ひょっとすると乗り越えられるかもしれない(もちろん、道は恐ろしく険しいに違いない)、と思わせるものでもある。この点は別の機会に少し触れてみたい――、問題設定を明確に示している点で捨てがたい記述である。雨宮処凛さんと萱野稔人さんの『「生きづらさ」について』の第四章「『超不安定』時代を生き抜く」にも通じるものであろう。

 中西さんらしく様々な作品への言及があるのだけれども、それらを評しつつ、「ただ現実を写すことも夢見ることも許さない身動きのとれなさ」(P.35)を描き出した上で、こう締めくくる。

 「過去と同じように夢は見ないが、そのようにして夢見る新たな試みをやめないこと、そうした仕方で『95年から始まる』現実に向き合うこと、つまり、『95年から始める』こと――それが、構造改革時代を生きる普通人ordinary personに課せられた歴史的責任ではないだろうか」(P.36)


 「夢」という言葉を、正面から受け止めつつ、続く対談についても思うところを触れていければ、と思う。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-16 00:41 | 業界 | Comments(0)

吉越浩一郎『ムダな仕事はもう、やめよう!』~ビジネス書×労働の視座について

 珍しくビジネス書系を続ける。しかも吉越さんがらみで。

 『ムダな仕事はもう、やめよう!』、率直なところ、『デッドライン仕事術』、『残業ゼロの仕事術』などを越えるほどの大きなインパクトがあるかといえば、そうでもない。が、「第1章 仕事で幸せになる考え方」「第5章 『仕事の常識』を疑う人が成長する」「第6章 工夫しだいで、仕事力は誰でも高められる」などは前著でも触れられていたこととはいえ、より詳しく展開されているように思われた。

 サブタイトルには「残業するほどヒマじゃない。」とある。こっちをメインタイトルにしてもよかったのではないか、と思うくらいグッとくる。

 そうなのだ。残業=がんばってるなんて時代はとうに終わっている。密度の濃い仕事をして、定時であがり、疲れをその日のうちにとってリフレッシュする。そんな当たり前のことができるようになれば、ずいぶんと職場もスタッフもかわるはずなのだが。

 オフィス仕事を前提にしているので当然書店のような現場で即応用できることは限られる。が、工夫次第でいろいろと真似できることはあるはず。もっと自分の一日の仕事の組み方を見直さなきゃ。まずはそこから、と。

 ところで、こうしたビジネス書と、いわゆる労働問題とをうまく重ね合わせられるような視座はないのだろうか? 業務の効率化はほぼ必然的に人件費削減(≠人員削減、のはずだが、実質は同義か)に結びつく。こうしたことと、雇用のありようの問題とはどう関わってくるのだろうか。

 例えば、僕が職場で何かしらの工夫というか仕事の仕組みを作って、それなりに効率化出来ることが生まれたとする。学生さんのアルバイト=学校を卒業するまで、というスタッフが大多数なので、アルバイトさんについては辞めたら補充採用はしませんよ、というような形にはなり得るだろう。学生さんには申し訳ないが。

 この論法で、正社員や契約社員についても、辞めたら補充採用なし、ということは十分にありうる。こうしたことが積み重なっていった場合、「非正規雇用を正規雇用に」という問題はどうなるのだろうか?

 層というか次元というかレイヤーというか、整理すべきことを整理できずに思いついたままに記してしまっているのだけれども、要するに、なんかこう、例えばこうしたビジネス書を読んでいる時の自分の脳と、例えば「POSSE」を読んでいる時のそれとは、どっか違うような気がするのですね。

 それがいいことなのか悪いことなのかもよく分からず……。

 
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by todoroki-tetsu | 2008-10-13 22:43 | 運動系 | Comments(0)

アブラショフ『即戦力の人心術』

 あーあ、土井英司さんが読売で紹介される前にはもう読み終えていたのになぁ。面白いと思って、いや、もうちょっと様子を見ようかな、と思っていたのがまずかった。すぐに動くべきだったのだよな……と自分の目利きの弱さを嘆く。いや、相変わらず品切れ状態の続く『即戦力の人心術』のこと。

 土井さんの簡潔にして的を射たコメントに付け加えることは何もない。自分の実感だけを少し。

 アブラショフさんがやってきたことをどれかひとつでも実践できれば、自分の職場は少しでも改善できるに違いない、と、ちょっとでも実行に移せることはないか、と考えている。もっとスタッフをほめなきゃいけないな、とまず思ったし、今少しづつではあるが努力している。いやあ、難しいなあ、褒めるって。でも、何からなりと手をつけないことにはよりよい職場には出来ないと思うので、頑張る。

 こまごましたことでいろいろとTTP(徹底的にパクる:吉越さんの造語)出来そうなことは山ほどあるのだが、その中でより本質的で、かつ重要だなと思ったのは、自分の職場=チームをどう描いていくか、ということ。本文にはこんな箇所がある。

 
「ベンフォルドを海軍で最もすぐれた艦にしようと決意した私は、そのことを部下たちに繰り返し言った。すると、ついには彼ら自身もそう願うようになったのだ。私は部下たちに、艦を訪れるすべての人に対して、その人物と目を合わせ、握手をし、微笑み、『海軍で最もすぐれた艦へようこそ』と言って迎えるようにしてほしいと伝えた」(P.58)


 一歩間違えると傲慢極まりないのだけれども、謙虚さを持ち合わせつつ十分に根拠ある自信(自負? 矜持?)を持ったチームでありたい、と思う。どんなスローガンがいいのか、まだよく分からないのだが、自分たちを誇りに思えるような、そんなチームを目指したい、と思う。
 
 吉越浩一郎さんが訳されているが、おそらく、吉越さんの実感も訳に反映しているんじゃないだろうか、と思う。いわゆる学術書だとまた事情が違ってくるのだろうが、こうした本は経営現場で実践を積んだ人が訳に携わってくれると実に読みやすい。これは平易ということではなくて、彼我のビジネス環境の違いを肌身で分かっているから、おのずとそうした点を考慮して日本の読者に伝えようとするからではないか、と。まったくもって憶測だが。

 来週というか今週末にはたぶん重版が上がるはず。ガッツリ売るぞ!
 
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by todoroki-tetsu | 2008-10-13 00:05 | 運動系 | Comments(0)

木村俊介「漫画評論ではわからないもの」(「小説トリッパー」2008年秋号)

 普段雑誌は読まないのだけれども、職業柄表紙を眺める程度のことはやる。あ、雨宮処凛さんが評論を書いているな、と思って購入したのが、 「小説トリッパー」2008年秋号

 「ベルク」でハーフ&ハーフを片手にページをめくる。ふと目に入る、「年表『ドラゴンボール』の終わった年」の文字。これはまさに1995年ではないか! と、この巧みに作られた年表と、同じ著者の手による「漫画評論ではわからないもの――『ワンピース』はどう消費されているのか」を読む。

 「ミもフタもないことを言えば、漫画の評論はつまらない」という一文から始まるこの評論。吉本さんの「転向論」について考えていたせいもあるだろうが、すごくストンと腑に落ちた。

 『ワンピース』も読んでいないし、実は『ドラゴンボール』も読んでいない。だが、「(来週は)どうなるんだ、という緊張感を持つ普通の読者」の姿を、「2ちゃんねる」や著者インタビューからきっちりと描いた上で、そうした読者にとって「読みたい評論」がもっと出てきて欲しい、と説く木村さんの主張は、極めて筋が通っている、と思う。

 この評論の終盤に、こんな一節がある。

 「ちなみに、往々にして『わかる』を前提にした評論はつまらなくなりがちだ。時代や社会についての個人の理解は不十分にならざるをえないのに『不変の正解』を押しつけることになりがちからだ」(P.44)


 「転向論」で吉本さんが指摘した「日本的モデルニスムス」とそっくりじゃないだろうか。いや、ちゃあんとよくつっこんで考えると違うのかもしれないが……。

 こういう評論は、面白い。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-12 00:46 | 批評系 | Comments(0)

吉本隆明「転向論」

 吉本隆明さんの『マチウ書試論 転向論』。しばらく前に読み終えていたのだが、読後感をどう言葉にできるか、と考えていた。

 この中でやっぱり面白かったのは、「マチウ書試論」と「転向論」。ひとまず「転向論」の印象を記しておきたい。

 これが約50年前に提出された当時の情況を僕はよく知らないが、極めてまっとうなことを指摘している、というように感じた。要するに、現実なり大衆なりというものに、ほんとうに向き合って闘い切れたのか? ということを言っているのだろう、と。

 「日本のインテリゲンチャがたどる思考の変換の経路は、典型的に二つある」(P.300)と吉本さんは言う。

 「第一は、知識を身につけ、論理的な思考法をいくらかでも手に入れてくるにつれて、日本の社会が、理にあわないつまらぬものに視えてくる。そのため、思想の対象として、日本の社会の実体は、まないたにのぼらなくなってくるのである。こういう理にあわないようにみえる日本の社会の劣悪な条件を、思考の上で離脱して、それが、インターナショナリズムと接合する所以であると錯誤するのである」(P.300)

 「理にあわぬ、つまらない現実としかみえない日本の社会の実体のひとつひとつにくりかえしたたきつけて検証されなかった思想が、ひとたび日本的現実のそれなりに自足した優性におぼれたときこそ無惨であった」(P.301-302)


 では、もうひとつの典型はどうだろうか。

 「……第二の典型的な思考過程は、広い意味での近代主義(モデルニスムス)である。日本的モデルニスムスの特徴は、思考自体が、けっして、社会の現実構造と対応させられずに、論理自体のオートマチスムスによって自己完結することである」(P.303)

 「日本的モデルニスムスにとっては、自己の論理を保つに都合のよい生活条件さえあれば、はじめから、転向する必要はない。なぜならば、自分は、原則に固執すればよいのであって、天動説のように転向するのは、現実社会の方だからである」(P.304)
 
 
 さらに吉本さんは続ける。

 「何れをよしとするか、という問いはそれ自体、無意味なのだ。そこに共通しているのは、日本の社会構造の総体によって対応づけられない思想の悲劇である」(P.307)


 あえて具体的な人名を省いて引用してみたのだけれども、どちらも、目を凝らすと今でも見られるようなことではないか、と思う。

 じゃあ、第三の典型はないのか? 吉本さんによれば、それは中野重治に見いだされる。

 
「……中野は転向によって、はじめて具体的なヴィジョンを目の前にすえることができたその錯綜した封建的土壌と対峙することを、ふたたびこころに決めたのである」(P.313)


 いわば、敗北と向き合う、といったイメージだろうか。

 ある種の「運動」の盛り上がりみたいなことがいろんな文脈で語られる現在において、さまざまな言説をどう見極めるか、の手がかりになり得る評論だと思う。
 
 
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by todoroki-tetsu | 2008-10-11 01:14 | 業界 | Comments(0)

『1995年』(大月書店)によせて

 ド直球の本でありながら、その故にか自分なりの考えというか、スタンスを定めるのに恐ろしく時間がかかってしまった。『1995年 未了の問題圏』である。

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 この1~2年の間で、いわゆる若手の論客といった皆さんに注目が集まり、それが多少の波はありつつも継続しているように感じている。

 雨宮処凛さんの『生きさせろ!』を起点にするのが妥当なのかは分からない。が、この出版当初(2007年3月)ではなく、日本ジャーナリスト会議賞受賞(2007年7月)のころから、「なんだか熱くなってきたな」というのが店頭での実感としては、ある。

 その間の5月には、本田由紀さんたちによる名論文集『若者の労働と生活世界』があった。これは、少なくとも10年後もなお、参照項として生命力を失わないだろう。同時代を併走しながら、かつ、問題提起の幅広さにおいてさまざまな議論の起点をなすだろう――それは、岩波の講座「現代」第一巻、『現代の問題性』(1963年発行)所収の論文群(例えば、上原專祿「現代認識の問題性」、上田耕一郎「現代の生活における貧困の克服」)がもつ生命力、あるいは藤田勇さんの編による『権威的秩序と国家』に結集したそうそうたる論者のその後の活躍(渡辺治さんや後藤道夫さんといった「講座現代日本」に連なる方々など)などを、想起させるものである――。

 そして、2007年の秋には赤木智弘さんの『若者を見殺しにする国』。今年に入ってからは「ロスジェネ」。

 若い論者、ということで言えば、鈴木謙介さんもこの間で急速に、「売れる」著者となった。『ウェブ社会の思想』は切らしちゃ恥ずかしい定番書である。本屋の実感として言えば、文化系トークラジオLifeは着実に現在の主に10代後半~20代前半の人間が何かを考える際の参照項となった、と思う。批判ももちろんあるだろうけれども、1975年生まれの僕の世代が、好き嫌いに関係なく、どこかしら宮台真司さんや小林よしのりさんといった年長の論者の言説に影響を受けたのと同じような位置として、ということ。標準でも基準でもないかもしれないけれども、「手がかり」というようなもの――もちろん、ラジオというメディアの特性と言おうか、「場」という性格が強いため並列には考えられないかもしれないが――。こうしたことも、この1年弱ぐらいのことであろう。

 『思想地図』へと至る流れ、また『ゼロ年代の想像力』、『お前が若者を語るな!』なども、本屋としては動きに注目したいし、またすべきところであるだろう、と思う。もちろん、秋葉原の事件も考えないわけにはいかない。まだ自分なりのイメージがあんまり出来ていないのだが。

 つまり、あらっぽく言うと、いわゆる70年代(の特に後半の)生まれというか、現在の30歳前後くらいの論客(当事者も研究者も批評家も含む)がドッと出てきて、ある程度その位置を確立してきたのがこの1年くらいのこととしてあって、本屋の実感として、「若い論者」「若い当事者」みたいな打ち出し――POPの売り文句、とイメージしてみてください――で売ることが出来たし、また、それが分かりやすい打ち出しとして顧客にウケた、という側面があった。それは同世代に対しても有効にアピールしたであろうし、団塊世代までを含む年長の顧客にも「最近の若い人は何を考えているんだろう?」みたいな感覚で手にとってくれるような印象も少なくなかった。

 でも、もう「若い論者」みたいな打ち出しは通用しない。より主張というか、内容に即した打ち出しをやっていかなくてはならない。ある意味でより本質的な売り出し・打ち出しができるということでもあり、だからこそ、どう手に取ってもらえるか、を一層考えなくてはならなくなった、ということなのだ。

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 前置きが長くなった。そういう状況の中で上梓された、『1995年』である。これが1年前なら、湯浅誠さんはちょっと違うとして、「団塊世代」の中西新太郎さん×「団塊ジュニア世代」の雨宮処凛さん・中島岳志さん・栗田隆子さん・杉田俊介さん、みたいな打ち出しができたし、それが妥当であったと思う。

 しかし、上述の通り、そうしたアプローチは、さして有効ではない。きっと編者としても湯浅誠さんを交えたところに、いわゆる「若者本」ではない、といった思いがあったのではないかとも推測する。

 要するに、売り手の力量がものすごく試される本なのだ。そう思って、あれこれPOPだの並べ方だのを考える一方で、とにもかくにも手にとって見てほしい、そうすれば、ひきこまれる何かが絶対にあるはずだ、とも思う。

 例えば、冒頭の雨宮処凛さんの前書エッセイ、「ようこそ! 『バブル崩壊後の焼け野原』へ」。僕は雨宮さんとは学年は違えど年は同じなので、ある種の懐かしさを抱きながら読みはじめたのだけれども、最後のパラグラフでグッときた。

 「世界」2007年11月号で発表された、「ロストジェネレーションの仕組まれた生きづらさ」の加筆版とのこと。改めて「世界」を読み返したが、断然、『1995年』所収版の方が、いい。あたかも掌編小説のごとき余韻。素晴らしい。

 このエッセイのわずか1ページほどのしめくくりが、「1995年」――「未了の問題圏」というサブタイトルがまた秀逸だ――というテーマを、単なる回顧でもなく、歴史を「後知恵」でみるのでもなく、普遍性をもって問題化する、そうした手がかりを指し示しているように思う。単なる団塊ジュニア世代の「同窓会」などでは決してなく、より若い世代にも、より年長の世代にも共通する普遍的な問題として剔出される「同時代」として。

 「1995年という年に何の特権性も感じません」という大澤信亮さんの言葉(「オルタ」9-10月号での湯浅誠さんとの対談から。p.15)と合わせて、じっくり考えてみたい。


****************
 このテーマをどう見せることができるか。どうやって読者に届けるか。しんどいが、やりがいのあることである。 
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by todoroki-tetsu | 2008-10-10 17:08 | 業界 | Comments(0)