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座談会「秋葉原事件と時代の感性」(毎日新聞)

 8/20(水)21(木)の二日間にわたって「毎日」夕刊で掲載された、大澤真幸さん、東浩紀さん、大澤信亮さんの鼎談。

 すくなくとも新書1冊にはなるだろう、というくらいの議論の積み重ねが背景にあるように思う。読み応えがあって、一度や二度読んだだけではもったいない。

 今、店頭では『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』が継続して売れており、これはその論者の多彩さにおいて現時点でかなり「決定版」だと思ったのだが、この三者の座談会は、議論の深さと広がりの可能性の提示という点において、極めて重要なものだと思う。

 評論として全体的に統制というか均衡がとれているのが大澤真幸さん、色々な異論を全部わかった上できっぱりと言い切ろうとしているのが東浩紀さん、なんとか手探りをしようとしているのが大澤信亮さん……そんな印象を受けた。

 一番印象に残ったのは、「資本主義の横に、愛やケアがあればいいのでは」という東さんの発言を受けた、大澤信亮さんの一言。

 「資本制や民主制自体の中に、それらを乗り越える道を探すことはできませんか?」(21日の「下」にて)

 という言葉である。

 このあとでベーシック・インカムなどの話になるので、この提起はその後の議論に受け止められているともいえるのだが、どうも、あまり掘り下げられていない気がする。

 もちろん、それをこの座談会で求めるのは無理な話なので別によいのだが、要するに、もっとも原理的な問題に、直接ぶつかっていこうとしているのが大澤信亮さんなのではないか、という印象を持ったのだ。
 
 単著が切望される論客、との思いを強くした。
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by todoroki-tetsu | 2008-08-22 20:06 | 業界 | Comments(0)

吉本隆明『詩とはなにか』

 ずいぶん久しぶりの更新となってしまった。仕事が猛烈に立て込んだせいでもあるが、気軽に手にとってはみたものの無茶苦茶にかみごたえのある、この『詩とはなにか』を前にうなっていたせいもある。

 新書サイズであり、論文や講演(の要旨?)をまとめたものであるから、重厚長大なのではない。が、詩人・吉本隆明と評論家・吉本隆明の、根源的な部分がカタマリとして剥き出しにされたような、ゴツゴツとした、骨太な感じがする。もちろん、扱っている題材は具体的に例示された詩の数々をはじめ極めて繊細なのだが、それを扱う吉本さんの思いの強さに圧倒されてしまった。

 「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである」(「詩とはなにか」、P.13)

 という至言のおさめられた「詩とはなにか」、結びの近くにはこうある。

 「古代人はかれらがかれら以外のものでありうることを妄想したとき、それが何であるかをさぐり当てるところに詩的な喩を発生させた。わたしたちは、いま、わたしたちがわたしたちであり得る方法を、わたしたちがわたしたちでない現実社会のなかで妄想するときに、詩的な喩の全価値にたどりつく」(同、P.58-59。下線は本文では傍点)

 もちろん、この文章に至るまでに「記紀」が取り上げられ、現代詩が例に引かれたりするのだが、文意は十分には追えない。個々の記述については何となく分かるといえそうな部分もあるが、全体として、よく分からない。が、おそろしく大切なことが述べられている気がする。それはたぶん、

・「わたしたちがわたしたちであり得る方法」についての関心を、僕自身が持っているし、おそらくは今を生きる多くの人が持っているだろうということと、

・「わたしたちがわたしたちでない現実社会のなかで妄想するとき」という情況が、これまた僕自身にも、また、おそらくは今を生きる人の多くの人にとって身近なものである、と言いうるからだと思う。

 でも、肝心の「詩的な喩の全価値」は、分からない。

 この分からなさは、嫌いではない。


 「なぜ書くか」という小論も、味わい深く、また、重い。

 「かれの〈書く〉ものは、かれにとって如何にして〈書かない〉ものの世界に拮抗する重量と契機を獲取しているか? そして、わたしの〈書く〉ものは、わたしにとって如何にして〈書かない〉ものの世界に拮抗する重量と契機を獲取しているか?」(「なぜ書くか」、P.105)

 吉本さんは自身のこと、また文学の世界に身を置くものとしてこの一文を書かれている。が、社会に何らかのかかわりを持って生きようとする際の、自分自身の立ち位置を反省する言葉として、ある程度普遍性をもったメッセージが含まれているような気がする。

 が、やっぱりそれが何なのかは、よく分からない。

 おっかしいなあ、吉本さんの講演を聞いてみると何となく少しは分かったような気になるのだが……。ひょっとして何一つ分かっちゃいねぇのかもしれません。

 自分が少しは慣れ親しんでいる人のことなら、と、次は『宮沢賢治』に挑戦してみようと思います。
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by todoroki-tetsu | 2008-08-19 00:10 | 文学系 | Comments(0)

トークセッション:道場親信×渋谷望『希望の同時代史のために―軍事化とネオリベラリズムに抗する思想―』

 以前読後感を少し記した道場親信さんと、渋谷望さんとのトークセッション@ジュンク堂池袋さん。仕事の都合がギリギリでなんとかついて参加できた。

 渋谷さんが現在の格差社会論批判、ネオリベ批判において、その前史たる冷戦や、高度成長期がどうであったのか、という議論が抜け落ちていないか? と提起した上で道場さんの仕事を位置づけていった点、なるほどとしょっぱなから唸る。

 このあたり、7/30の毎日新聞夕刊の「雑誌を読む」で、武田徹さんが佐藤優さんと雨宮処凛さんの「対談 秋葉原事件を生んだ時代」を取り上げつつ、雨宮さんはなぜ鎌田慧さんを参照しなかったのか、と問うておられるのが想起された。

 雨宮さんがどういう事情で鎌田さんにふれなかったのかは、当然知る由もない。が、僕も、実は「地下大学東京」において、鎌田さんのお話を聞いているにもかかわらず、まったく意識から抜け落ちていたのだ。ほんのついこの間のことだというのに。もっと考えなくては。

 また、「冷戦崩壊後のわずかな間、日米安保も軍隊もいらない、というような議論があったではないか。それが湾岸戦争からカンボジアPKOに至る中でかき消されていったのを覚えている人もいるのではないか?」と道場さんが問われたのにもハッとさせられた。自分の中学から高校の時代(1988-1994)の記憶がまざまざと蘇る。さらに道場さんはたたみかけた、「今二十代の人には想像もつかないでしょう」。

 そうか、世代の、いや記憶の、といったほうがいいのか、そうした断絶は、自らの忘却も含めてすごく身近なところにあるんだな、と思い知る。

 質疑の中で興味深かったのは、「権力」と「対抗」を名詞同士でぶつけても意味がない、とおっしゃったいたこと。こうしたことはあくまで個別具体的に考えるしかない、と。「例えば、岩国での基地反対が成功したとして、それは権力の奪取ではないでしょう。今までの生活が続く、というだけです」。

 社会運動史の研究を積み重ねてこられた重みを感じた。ますます道場ファンになってしまった。



 
 
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by todoroki-tetsu | 2008-08-02 22:33 | 業界 | Comments(0)

穂村弘『短歌の友人』、読了

 文学というものが相変わらずよくわからず、その上批評と評論の違いは何だろう? などと考えて余計わからなくなり、文学好きのスタッフにあれこれ質問をする。

 そんな中で紹介されたのが穂村弘さんの『短歌の友人』であった。

 穂村さんの名前は知ってはいたけれども、作品も何も読んだことはない。こんなきっかけがなかったらまず手にしなかったかもしれない。

 一気読みした。短歌ってこんな風に読む/読めるんだ、という新鮮な驚きがある。この歌はどんな時代状況の中で何を読もうとしているのか、そんな文脈を開示し、また「読みどころ」を手ほどきしてくれる。

 たとえば、「酸欠世界」と題する小評論では、今の世界は昔と比べて愛や優しさや思いやりの心が失われたのか? いや、そうではない、と説く。

 現在の酸欠世界においては、愛や優しさや思いやりの心が、迷子になったり、変形したりして、そこここに虚しく溢れかえっている(p.106)


 と宣言し、「迷子」になった、あるいは「変形」したりした「心」を具体例をあげながら探っていく。

 他にも「『今』を生き延びるための武装解除」(p.65、「棒立ちの歌」より)、「生の一回性の現実」(P.94、「『ダ』と『ガ』の間」より)をめぐる考察、など、味わい深く、かつじっくり考えたい言葉がいっぱい詰まっている。

 が、まずもって考えてみたいのは、「〈リアル〉であるために」と題する評論における下記の一文である。

 
すべての人間にインプットされている「生き延びる」という目的とそれに向かう意識(等々力注:人間の生存を支える合目的的な意識)こそが、我々を詩のリアリティから遠ざけているのではないだろうか。 
 ……我々の言葉が〈リアル〉であるための第一義的な条件としては、「生き延びる」ことを忘れて「生きる」、という絶対的な矛盾を引き受けることが要求されるはずである。詩を為すことは必ず死への接近を伴うという、しばしば語られるテーゼの本質がこれであろう(P.91)
  

 さて、吉本隆明さんは、浅尾さんとの対談(「論座」9月号)で、こんな風に語っている。

 僕は文学も芸術分野も、終わるということはあり得ないと思っています。つまり、高村光太郎流に言えば無価値を追求することを、人間がやめることはあり得ないと。


 何か、似たような地平にあるのではないだろうか? もっと考えてみたいと今、吉本さんの『詩とは何か』を手に取ったところである。
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by todoroki-tetsu | 2008-08-02 00:45 | 文学系 | Comments(0)

吉本隆明×浅尾大輔(「論座」9月号)

 もうそろそろ終刊か、と思いつつ真っ赤な表紙の「吉本隆明」の文字に目がとまる。浅尾大輔さんをぶつけようというところにどんな意図があったのか? 大変興味あるところ、と思いつつ読む。

 これはインタビューというよりも、対談だと思う。「世界の見方」を考え続けてきた詩人・批評家と、若き活動家作家。

 ひと昔前、ふた昔前だったら、こんな対談は実現しないか、実現したとしても「もの別れ」みたいな感じで終わったんじゃないかと想像する――『吉本隆明の声と言葉。』特典の第二弾、「日本経済を考える」には、いわゆる社共を批判している箇所がいくつかある。特に質疑応答の中で出てくるそれは、感情的というわけではないが、やはり熱くなっている印象を受ける。そこからのあくまで「想像」――。

 浅尾さんのあとがきのような「私の、精いっぱいの応答(レスポンス)」には、吉本さんをこう評した個所がある。

 その人(等々力注:吉本さんのこと)は、労働者の弱さと悲しみと、強さと底抜けの明るさを肌身で知っている「詩人」だ。彼が難解な言葉で語ってきたことは、労働者が連帯してたたかうということは、あんたが考えているほど甘くはないぜ、という単純なテーゼにすぎない。(P.41)

 
 この末尾の「すぎない」は、吉本さんの思索を誹謗するような「すぎない」ではなく、膨大で時として極めて難解な吉本さんの思索を凝縮した「すぎない」である。屈指の吉本評だと僕は思う。

 ぜひ対談の最初から読んでみてほしい。分量は決して多くないが、発見すること、考えさせられることの非常に多い、味わい深い対談である。

 なお、余談だが、「私の、精いっぱいの応答(レスポンス)」というド直球のタイトルをつけ、またそれが本当に真摯に伝わってくるのが浅尾さんのすごいところだと思う。言葉の力に対する敬意というか、言葉をすごく大事にする人なんだろうな、と思う。対談の冒頭にも「現場の言葉が強いので、それを乗り越える言葉が小説として、物語として出てこないんです」とおっしゃっておられる。この状況の中で、浅尾さんはどんな言葉を紡ぎだしていくのだろうか。作家・浅尾大輔の新しい小説を読める日を、気長に待とうと思う。
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by todoroki-tetsu | 2008-08-01 14:58 | 業界 | Comments(2)