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加藤周一さんを追悼す

 大変失礼かもしれないが、万が一お亡くなりになることがあったら何かやらなきゃいけないな、と何年も前から思っていた。

 しかし、いざ、という時になってみると、POPが書けない。加藤さんから学んだこと、加藤さんがおっしゃっていたことがどれだけ自分の励みになったか、と思うと、言葉にしようにもどうにも寂しさがつきまとい、どうにも言葉が出なかった。それでもかろうじて書くだけは書いたのだけれども。

 高校時代、論文対策の大義名分で何度も読み返した「夕陽妄語」。さっぱり分からないが、とんでもなく博識な人というのはいるものだなあ、と思っていた。ちゃんと読んだのはたぶん学生時代の『羊の歌』が最初。精神の気高さ、とでもいうようなものを感じたのと同時に、さて、自分はどうだろう、と自信を無くした(?)覚えがある。

 強烈に印象に残ったのは、『「戦争と知識人」を読む』。この年1999年、国旗国歌法その他いろいろなことがあった年だったせいもあって、何を手掛かりにして考えればよいのか、そんな思いとあいまって、繰り返し読んだ。

 そこからさらに遡って『日本文学史序説』に進んでさらに衝撃を受ける。もし未読の方は『「日本文学史序説」補講』から入るとよいかもしれない。加藤さんの明晰な問題意識と方法論に圧倒された。

 同時に、いわゆる「左翼」というか、リベラルに属する方だったと思うのだけれども、加藤さんのの日本の古典・伝統に対する造詣の深さは、自分自身の右翼/左翼観の狭さを見事に打ち砕いてくれた。「万葉集」をろくに読まないで日本の伝統を――肯定にせよ否定にせよ――語るような人を信用しなくなったし、もちろん自分も読まなきゃと思って読んだ。加藤さんに出会わなかったら、日本の古典に対するある種のアレルギーを今なお払拭出来ていなかったかもしれない。
 
 他にもいっぱいあるのだが、加藤さんのようなタイプの知識人はもう出ないのだろうか、と思うと、本当にさびしい。うまく言えないのだけれども、加藤周一さんを通じて、僕は日本を好きになれたと思うし、加藤さんと同じ時代の空気を吸えたことを幸福に思う。
 
 ご冥福を心よりお祈りいたします。
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by todoroki-tetsu | 2008-12-14 00:47 | 批評系 | Comments(0)

大澤信亮「柄谷行人論」(「新潮」2008年11月号)

 またずいぶんと間が空いてしまった。仕事がたてこんだせいもあるが、大澤さんの「柄谷行人論」(」(「新潮」2008年11月号)について、どう記そうかと逡巡していたせいでもある。

 雑誌掲載論文をこう繰り返し読んだことは、たぶん初めてである。恥をさらすが、柄谷行人さんはもちろん、大澤さんが随所で触れられるデリダもカントもろくに読んではいない。
 
 「なんだかよく分からないところがいっぱいあるが、大事なことを言っていて、たぶんそれは実感できるものだろう」というのが最初に通読したときの感想。二度目、三度目と読み返すにつれ、それは確信に変わった。

 柄谷さんを読んでいる人がどう受け止めるか、僕には分からない。が、柄谷さんを論じている大澤さんの眼差しは、当然程度の低い個人攻撃とは一切無縁であり、いかに今を私たちが生き抜くか、その一点に全身全霊を込めているように思われた。

 「いたずらに難解な言い回しを使うのは論外だが、『わかりやすいこと』と『明晰であること』は必ずしも一致しない。むしろ往々にして後者は前者を退ける。しかし、それは、『わかりにくい』現実とそれに翻弄され続ける『他者』に向き合うとき、誰もが強いられる思考の条件なのだ」(P.287)

 他者、あるいはわからなさをテーマとしたブックフェアもあったようだが、最近こういったキーワードに注目が集まっているのだろうか。本屋として非常に気にかかり、また注目したいところである。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-30 22:54 | 批評系 | Comments(0)

木村俊介「漫画評論ではわからないもの」(「小説トリッパー」2008年秋号)

 普段雑誌は読まないのだけれども、職業柄表紙を眺める程度のことはやる。あ、雨宮処凛さんが評論を書いているな、と思って購入したのが、 「小説トリッパー」2008年秋号

 「ベルク」でハーフ&ハーフを片手にページをめくる。ふと目に入る、「年表『ドラゴンボール』の終わった年」の文字。これはまさに1995年ではないか! と、この巧みに作られた年表と、同じ著者の手による「漫画評論ではわからないもの――『ワンピース』はどう消費されているのか」を読む。

 「ミもフタもないことを言えば、漫画の評論はつまらない」という一文から始まるこの評論。吉本さんの「転向論」について考えていたせいもあるだろうが、すごくストンと腑に落ちた。

 『ワンピース』も読んでいないし、実は『ドラゴンボール』も読んでいない。だが、「(来週は)どうなるんだ、という緊張感を持つ普通の読者」の姿を、「2ちゃんねる」や著者インタビューからきっちりと描いた上で、そうした読者にとって「読みたい評論」がもっと出てきて欲しい、と説く木村さんの主張は、極めて筋が通っている、と思う。

 この評論の終盤に、こんな一節がある。

 「ちなみに、往々にして『わかる』を前提にした評論はつまらなくなりがちだ。時代や社会についての個人の理解は不十分にならざるをえないのに『不変の正解』を押しつけることになりがちからだ」(P.44)


 「転向論」で吉本さんが指摘した「日本的モデルニスムス」とそっくりじゃないだろうか。いや、ちゃあんとよくつっこんで考えると違うのかもしれないが……。

 こういう評論は、面白い。
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by todoroki-tetsu | 2008-10-12 00:46 | 批評系 | Comments(0)