カテゴリ:業界( 88 )

座談会「秋葉原事件と時代の感性」(毎日新聞)

 8/20(水)21(木)の二日間にわたって「毎日」夕刊で掲載された、大澤真幸さん、東浩紀さん、大澤信亮さんの鼎談。

 すくなくとも新書1冊にはなるだろう、というくらいの議論の積み重ねが背景にあるように思う。読み応えがあって、一度や二度読んだだけではもったいない。

 今、店頭では『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』が継続して売れており、これはその論者の多彩さにおいて現時点でかなり「決定版」だと思ったのだが、この三者の座談会は、議論の深さと広がりの可能性の提示という点において、極めて重要なものだと思う。

 評論として全体的に統制というか均衡がとれているのが大澤真幸さん、色々な異論を全部わかった上できっぱりと言い切ろうとしているのが東浩紀さん、なんとか手探りをしようとしているのが大澤信亮さん……そんな印象を受けた。

 一番印象に残ったのは、「資本主義の横に、愛やケアがあればいいのでは」という東さんの発言を受けた、大澤信亮さんの一言。

 「資本制や民主制自体の中に、それらを乗り越える道を探すことはできませんか?」(21日の「下」にて)

 という言葉である。

 このあとでベーシック・インカムなどの話になるので、この提起はその後の議論に受け止められているともいえるのだが、どうも、あまり掘り下げられていない気がする。

 もちろん、それをこの座談会で求めるのは無理な話なので別によいのだが、要するに、もっとも原理的な問題に、直接ぶつかっていこうとしているのが大澤信亮さんなのではないか、という印象を持ったのだ。
 
 単著が切望される論客、との思いを強くした。
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by todoroki-tetsu | 2008-08-22 20:06 | 業界 | Comments(0)

トークセッション:道場親信×渋谷望『希望の同時代史のために―軍事化とネオリベラリズムに抗する思想―』

 以前読後感を少し記した道場親信さんと、渋谷望さんとのトークセッション@ジュンク堂池袋さん。仕事の都合がギリギリでなんとかついて参加できた。

 渋谷さんが現在の格差社会論批判、ネオリベ批判において、その前史たる冷戦や、高度成長期がどうであったのか、という議論が抜け落ちていないか? と提起した上で道場さんの仕事を位置づけていった点、なるほどとしょっぱなから唸る。

 このあたり、7/30の毎日新聞夕刊の「雑誌を読む」で、武田徹さんが佐藤優さんと雨宮処凛さんの「対談 秋葉原事件を生んだ時代」を取り上げつつ、雨宮さんはなぜ鎌田慧さんを参照しなかったのか、と問うておられるのが想起された。

 雨宮さんがどういう事情で鎌田さんにふれなかったのかは、当然知る由もない。が、僕も、実は「地下大学東京」において、鎌田さんのお話を聞いているにもかかわらず、まったく意識から抜け落ちていたのだ。ほんのついこの間のことだというのに。もっと考えなくては。

 また、「冷戦崩壊後のわずかな間、日米安保も軍隊もいらない、というような議論があったではないか。それが湾岸戦争からカンボジアPKOに至る中でかき消されていったのを覚えている人もいるのではないか?」と道場さんが問われたのにもハッとさせられた。自分の中学から高校の時代(1988-1994)の記憶がまざまざと蘇る。さらに道場さんはたたみかけた、「今二十代の人には想像もつかないでしょう」。

 そうか、世代の、いや記憶の、といったほうがいいのか、そうした断絶は、自らの忘却も含めてすごく身近なところにあるんだな、と思い知る。

 質疑の中で興味深かったのは、「権力」と「対抗」を名詞同士でぶつけても意味がない、とおっしゃったいたこと。こうしたことはあくまで個別具体的に考えるしかない、と。「例えば、岩国での基地反対が成功したとして、それは権力の奪取ではないでしょう。今までの生活が続く、というだけです」。

 社会運動史の研究を積み重ねてこられた重みを感じた。ますます道場ファンになってしまった。



 
 
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by todoroki-tetsu | 2008-08-02 22:33 | 業界 | Comments(0)

吉本隆明×浅尾大輔(「論座」9月号)

 もうそろそろ終刊か、と思いつつ真っ赤な表紙の「吉本隆明」の文字に目がとまる。浅尾大輔さんをぶつけようというところにどんな意図があったのか? 大変興味あるところ、と思いつつ読む。

 これはインタビューというよりも、対談だと思う。「世界の見方」を考え続けてきた詩人・批評家と、若き活動家作家。

 ひと昔前、ふた昔前だったら、こんな対談は実現しないか、実現したとしても「もの別れ」みたいな感じで終わったんじゃないかと想像する――『吉本隆明の声と言葉。』特典の第二弾、「日本経済を考える」には、いわゆる社共を批判している箇所がいくつかある。特に質疑応答の中で出てくるそれは、感情的というわけではないが、やはり熱くなっている印象を受ける。そこからのあくまで「想像」――。

 浅尾さんのあとがきのような「私の、精いっぱいの応答(レスポンス)」には、吉本さんをこう評した個所がある。

 その人(等々力注:吉本さんのこと)は、労働者の弱さと悲しみと、強さと底抜けの明るさを肌身で知っている「詩人」だ。彼が難解な言葉で語ってきたことは、労働者が連帯してたたかうということは、あんたが考えているほど甘くはないぜ、という単純なテーゼにすぎない。(P.41)

 
 この末尾の「すぎない」は、吉本さんの思索を誹謗するような「すぎない」ではなく、膨大で時として極めて難解な吉本さんの思索を凝縮した「すぎない」である。屈指の吉本評だと僕は思う。

 ぜひ対談の最初から読んでみてほしい。分量は決して多くないが、発見すること、考えさせられることの非常に多い、味わい深い対談である。

 なお、余談だが、「私の、精いっぱいの応答(レスポンス)」というド直球のタイトルをつけ、またそれが本当に真摯に伝わってくるのが浅尾さんのすごいところだと思う。言葉の力に対する敬意というか、言葉をすごく大事にする人なんだろうな、と思う。対談の冒頭にも「現場の言葉が強いので、それを乗り越える言葉が小説として、物語として出てこないんです」とおっしゃっておられる。この状況の中で、浅尾さんはどんな言葉を紡ぎだしていくのだろうか。作家・浅尾大輔の新しい小説を読める日を、気長に待とうと思う。
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by todoroki-tetsu | 2008-08-01 14:58 | 業界 | Comments(2)

崎山政毅・酒井隆史『反グローバリズムと労働―資本の支配を生き抜くために―』

 今日ジュンク堂新宿店さんで開催されたトークセッション、「反グローバリズムと労働―資本の支配を生き抜くために―」に行ってきた。何度かここでも記したことのある、『ディオニュソスの労働』の出版記念なのだそうだ。

 冒頭、崎山さんが『ディオニュソスの労働』を持っている人は? と問うた折に手を挙げた人はどれくらいいたろうか。思いのほか少なかった印象があってびっくりした。

 この本が書かれた背景だとか、当時の時代状況、また、どういう読み方をすべきなのか、など、大変面白いお話を伺うことが出来た。お話を聞きながらパラパラとめくり返してみるとまた新たな発見がある。「労働」と「法」が大事なんだ、と繰り返し強調されていた。

 一番興味深かったのは、崎山さんが原広司さんの『集落の教え100』を引きながら、ネグリを読む際の注意とでもいうようなものを挙げられていたこと。具体的には次の二つである。

[11]大きな構想
 大きな仕掛けは、大きな構想を支える。
 大きな仕掛けは、小さな部分によって支えられる。
 大きな構想が、そのまま現実されれば、退屈な集落となる。(P.29)

 ネグリの話だけだととてつもなく大きく、それだけで終わってしまう。そこに「小さな部分」を補って読んでいくのが大事なんだ、と。
[16]共有するもの
 人間が意識の諸部分を共有するように、諸部分がそれより小さな諸部分を共有するようにして、集落や建築をつくれ。
 この方法が幻想的な世界の基礎である。
 みんなでつくらねばならない。みんなでつくってはならない。(P.38)

 みんなが同じことをやる必要はない。違っているからこそ共鳴が生まれるんだ、と。

 自分でただ『ディオニュソスの労働』と格闘しているだけでは絶対に原広司さんにはたどり着かなかっただろう。早速買ってしまった。また新しい世界を知ることが出来そうで楽しみだ。

 こうした思いを、日常的に自分の棚でお客さまに感じてもらえればよいのだが……。まだまだ工夫を凝らさねば。



 
 
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by todoroki-tetsu | 2008-07-28 23:41 | 業界 | Comments(0)

吉本隆明の講演「日本経済を考える」を聞く

 『吉本隆明の声と言葉。』特典の第二弾、「日本経済を考える」を聞く。

 「経済学は支配者、もしくは指導者の学である」という話(この部分は『声と言葉。』にも収録されている)から、講演のあった1988年当時の「円高・ドル安」や農業自由化の問題などが語られる。時代背景はもちろん今と違うし、吉本さんの話の各論については、正直、よくわからない。

 が、庶民の立場でどう考えるか、という語り口は面白く感じた。たぶん、字面で読むと反発もしくは違和感を覚えたかもしれない。話で聞くと比較的すんなりと入る。要するに、自分の実感から出発しましょう、ということを言っているんだと思う。こういう姿勢というか立ち位置というか、やはりこの人は詩人というか文学者なんだな、と。

 質疑応答が収録されていて、これがまた非常に面白い。質問者の意図を探りながら、言葉を選んで答えようとするうちに気持ちが乗ってくるのがわかる。

 「五十度の講演」の収録内容がアップされていた。

 「苦難を超える──『ヨブ記』をめぐって」に惹かれる。大澤信亮さんの小説「左翼はなぜ間違っているのか」(「ロスジェネ」所収)を読んで以来旧約聖書が気になっていて、パラパラと気になったところを読み返している最中なので。

 「苦難」とはどういうもので、それにどう対峙(対処?)していくのか、ということ。「今」とひきつけすぎるのは間違っているのかもしれないし、結局のところ自分で考えるしかない。だが、批評家/評論家の言葉は、自分なりの考えを積み重ねていく上での大きな手掛かりになるはずだ、と信じている。
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by todoroki-tetsu | 2008-07-25 19:55 | 業界 | Comments(0)

『吉本隆明の声と言葉。』を読み聞き終える

  『吉本隆明の声と言葉。』を読みつつ聞き終える。

 断片をつなげているだけか? と思っていたらこれが不思議とよく耳に入る。こんなたどたどしい話し方をする人なのか、と思いながらも引き込まれていく。吉本さんへの印象が随分身近になった。博識なのは間違いないし、激しい人なんだろうなとも思うが、基本的には横丁のご隠居な感じだな、と。昔のことは知らない。このCDを聞きながら冒頭の糸井さんとの対談を読むと、そんな印象。

 僕がこのCDBOOKで特にいいな、と思ったのは、2箇所。

 ひとつは、CDのトラック17、1979年講演の「シモーヌ・ヴェーユの意味」から抜粋された一節。この部分は他のトラックに比べておっそろしく迫力がある。僕がヴェイユ好きであるからかもしれないが、ヴェイユのここを抜き出してこう語ったのか! という新鮮な驚き。字面でおっていけばそりゃそうだよな、とも思うのだけれども、これが語られる迫力といったらない。これはぜひ全編を聞いてみたい。

 もうひとつは、冒頭に収められた対談の一部分。P.44-45に、吉本さんが聞かれて答えられなかった問いについて語っている箇所。吉本さんの声を聞いた後でこの部分を読むと、その息遣いまで感じられて、胸に迫るものがある。こういうことを考えている人が少しでも増えれば、世の中少しは違ってくるかもな、と思う。引用はしない。ぜひ実際に読んでいただければと思う。

 それにしても、糸井重里さんのこの編集・構成力。たぶんこんなことを出来る人は後にも先にもこの方だけでしょうね。吉本さんがあとがきに「何だか世界じゅう総崩れみたいに思える現在の情況を重くもなく、軽くもない足どりで歩いている人がここにいるという感じだろうか。」と糸井さんを評しておられる。

 このお二人の関係性が垣間見られる、微笑ましい評と感じた。
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by todoroki-tetsu | 2008-07-19 22:53 | 業界 | Comments(0)

明日発売、『吉本隆明の声と言葉』

 「ほぼ日」さんから、『吉本隆明の声と言葉』が出る。書店店頭では明日7/18の一斉発売だそうだ。

 糸井重里さんが吉本隆明さんの膨大な量の講演からちょっとずつ抜き出して1枚のCDにまとめたそうだ。講演そのものをしっかりと収録したものは『吉本隆明 五十度の講演』として8月に販売されるという。

 これは、出版界のちょっとした事件である、と思う。「ほぼ日」らしいポップなつくりで吉本さんの商品が出るなんて、今の書店・出版業界ではなかなか予想がつかない事態だと思う。

 好き嫌いが非常に分かれる思想家/批評家であるだろうし、特に若い人にとっては「名前は知っているけれども、読んだことはない」という論客の代表格(?)になってしまっている感もある。
僕自身、ほとんど吉本さんを読んだことはない。この機会に、まずは吉本さんが何を言っているのか、聞いてみたい。今に引き継ぐべき議論/論争/課題を見つけられれば、と思っている。

 僕は不勉強ながら、糸井さんがこれほどまで吉本ファンだとは知らなかった。そういえば、『悪人正機』があったなあ、と思うくらい。どんな商品になっているのかは明日を待つことにしよう。
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by todoroki-tetsu | 2008-07-17 07:25 | 業界 | Comments(0)

道場親信『抵抗の同時代史』読了

 道場親信さんの新刊、『抵抗の同時代史』が入ってきた。あちゃー、なんで事前の情報を見落としていたんだろう。初回入荷がこんな数じゃやばい! あわてて追加した。恥ずかしいったらありゃしない。

 「週刊文春」以外定期的に雑誌を読む習慣がないため、というわけではないが、道場さんはずっと気になっていて、気づいた雑誌は買い求めてはいたけれど、当然見落としているもののほうが多く、こうしてまとまるのはありがたい。

 まず、表紙の写真が素晴らしい。田村順玄さん撮影の「国の仕打ちに怒りの1万人集会in錦帯橋」(2007/12/1)とある。砂川の時代でも安保の時代でも三里塚の時代でもない。まだ1年も経っていない、日本での光景であるということに大きな衝撃を受ける。

 「ポピュリズムの中の『市民』」を、特に興味深く読んだ。この論文の冒頭で道場さんは、「社会運動しに関わる認識の問題点」として、二つを挙げておられる。
 
第一に、近年の社会運動研究においては、奇妙な「段階論」的歴史記述がじわじわ拡がり始めている。ここでいう「段階論」的歴史記述とは、「○○から△△へ」といった語り方で、同時並列的に存在する現実を歴史的発展段階に位置づけ、そうすることで特定の人間の活動を「時代遅れ」のものとして価値剥奪したり、反対に特権化するものをいう(P.204)

  こうした「段階論」がしばしば「想像力の決定的な切り縮めへとつながってしまう」と指摘した上で、
 (問題点の)第二は、運動史や社会史の流れをとらえる歴史意識が陥没してしまっていることである。 先述の「段階論」的記述により、「古い運動」「新しい運動」というカテゴリーが作り出され、具体的な運動を価値づけ、選別するということが起こる。「古い運動」なるものはネガテイブに価値づけられ、具体的経験もそこでなされた議論も一緒くたに捨てられてしまう。かくして、抵抗の経験と記憶はあっさりと「新しい運動」の自己意識のイケニエとなってしまう(P.205)


 まったく時代背景もスタンスも異なるものの、『戦後革命論争史』における上田耕一郎氏を髣髴とさせる問題意識の鋭さと幅広い目配り。

 上田さんは実践家であるからとりあえずおいておくとして、同時代で道場さんのような指摘を受け止めることは重要だと思う。社会諸科学における歴史研究の意義がこうしたところにあるのであって、うまく他の議論とつなげていけないか、と「仕掛け心」(?)がくすぐられる。

 書き下ろしの終章「希望の同時代史のために」の中にこんな一節がある。

 弱く卑怯な人間たちが、どうやって恐怖や管理によることなく連帯性を育てていくことができるか、そのことを「歴史」とりわけ人々の経験の中から汲み出していくこと。人々の「つながり」の力に対するリテラシーを高めていくことが大切であると思う(p.285)


 「弱く卑怯な人間たち」と言い切るところに思わずグッときた。圧巻である。
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by todoroki-tetsu | 2008-07-11 13:27 | 業界 | Comments(0)

考えたい異見その2

 今日はどうしても仕事の都合がつかず、「ロスジェネ」のイベントにいけなかった。きっと前のイベントの時よりも人数が少ない分、濃く話が聞けるのではと思っていたのだが……。「勤め人の辛いところよ」と寅さんを気取ってみる。

 行けたとしても、小心者の内弁慶なので質問なんてする気はさらさらないのだが、あらためて最近気にかかっていることがある。自己責任と仕事が出来る/出来ないという問題。

 中村うさぎさんが、読売新聞の書評サイトで、知人のニートの就職の世話をしたのに、遅刻やサボりで辞めてしまったことを書いておられる。「『自己責任』主義の私にとって、彼の無責任さは信じ難いものであった」と中村さんは記す。

 そりゃそうだろうな、と思う。事情を全く知らないで想像するのもおかしいことかもしれないけれども、何万歩かくらい譲って考えて、世話してもらった側は、例えば職場で仕事の内容とか人間関係とかがなかなか上手くいかなかったとか、例えばメンタルの面で大変だっただとか、そういったことがあったとしても、少なくとも世話をしてくれた人に対してはちゃんと事情を説明すべきだと思う。それすらも出来なかったのか、しなかったのか、ももちろん分からないけれども。
 
 関連して。6/22の「文化系トークラジオLife」で、編集者の柳瀬博一さんが、「左翼は仕事をできなくなってしまった人間の責任を取れるのか?」と問うておられる。
 
 一方、と言っていいのか分からないのだけれども、萱野稔人さんは、「なぜ私はサヨクなのか」(「ロスジェネ」所収)で、こんなことを記しておられる。

 (前略)左翼は人間の意識とか精神といったものから問題をたてない、ということだ。社会というのは人間の意識を中心とくみたてられているのではない。逆に、人間の意識のあり方もそれによって左右されてしまうような外的な要因によって社会は条件づけられている(p.61)


 (前略)あくまでも左翼は人びとの社会的生活を条件づけるものに介入するだけで、それぞれの人の生き方や実存の問題にはけっして介入しない(p.62)
 

 こうした主張と、中村さんや柳瀬さんの主張とはかみ合わせることが出来るだろうか?

 多分、一般論で語ることは、出来ない。ゆくゆくは出来るのかもしれないが、少なくとも今は。個別の職場なり何なりのケースを蓄積・分析していくしかない、と思う。

 僕の職場でも、色んな立場に色んな難しさ、個別の困難がある。ひょっとすると、自分もその困難を助長しているのかもしれない。

 補助線として。杉田俊介さんが『フリーター論争2.0』の中で、鬱病の人と一緒に働いていた経験を記しておられる。率直に、「へヴィだった」と。その上で、こんな風に続けている。

 
だからその人を不当解雇していい、という意味ではまったくありません。でも、過剰な労働で燃え尽きていく人のリアリティと、生きづらくて働くのも難しい人のリアリティが、すり合わせられない限りは、難しい感じがしますね。(p.102)


 「リアリティ」。批評の立場からはこうした言葉が出た。これに対応するものとしては、例えば湯浅誠さんの「五重の排除」(『若者の労働と生活世界』所収の論文や『反貧困』を参照されたい)、本田由紀さんの「若年労働市場における二重の排除」(『軋む社会』所収)であろうか。

 さらにないだろうか? と思って今、『ルポ“正社員”の若者たち』を読み進めている。



 
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by todoroki-tetsu | 2008-07-05 22:39 | 業界 | Comments(0)

考えたい異見

 色んな意見がいっぱいあるのは本屋としてはありがたいことで、建設的な論争は活発にあったほうが本は売れる(ような気がする)。この10年、出版市場がずっと落ち込んでいるのって、「商品」としての本をめぐる環境が変化しただけではなくて、言論というか論壇の変化みたいなことの表れだったりもするんじゃないだろうか? いわゆる「大きな物語」と本の売れ行き、ビジネス書/社会科学書分野はすごく密接に関わっている(ような気がする)。

 今、出せば売れる、という著者はビジネス書/社会科学書ではあんまり思いつかない。そこそこに売れる人は結構それなりにいるけれども、バカ売れはあんまりない。出せば売れる、という人で強いてあげればいなくはないが、さて、1年後はどうでしょう? とも思う。

 なので、本屋としても著者頼みじゃなくて、ちゃんと議論の流れというか、まあ、流行といってしまえばそれまでだけれども、ある程度トピックとして意識しておきたいと思っている。そうやって棚を作ったり提案していくことで、少しでも幅が広がっていかないかな、と。

 かといってマッチポンプのようなことは嫌なので、慎重に考えなければならない。

 そんな中、ここ数日で急に目に留まったのが、『蟹工船』ブームへの「異見」。

 その一。今週の「週刊文春」(7/3号)の宮崎哲哉さんの「仏頂面日記」は、「うっかり『蟹工船』を読んでしまった君に勧める『次の』映画および小説」という一文から始まっており、実に面白かった。詳細はぜひ手にとって見ていただきたいのだが、そうか、笠井潔さんの『バイバイ、エンジェル』を並べてみようか、と仕掛け欲が刺激される。
 
 その二。6/27の「毎日」夕刊での澤地久枝さんのインタビューの中には、『蟹工船』を今共感して読むことへの違和感が率直に表明されている。今がそれだけ貴重な時代なのだ、ということが主旨だと思うけれども、宮崎さんの指摘とはまた違った観点での異見でこれも興味深く読んだ。

 こうした異見を踏まえつつ、『蟹工船』を今提案する意味をちゃんと考えなければと思っている。どうするか、どう出来るかはまだ分からないが。

 
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by todoroki-tetsu | 2008-06-29 22:30 | 業界 | Comments(0)